このブログは以下の4カテゴリーで構成されています(2013年8月~、構成を変更しました)。
【1 交人録】私以外の、私が接した人たちとの間で起きたことや感じたことを綴ります。知らない間にあなたが登場しているかも(笑)。
【2 言葉のちから】人は言葉によって、励まされたり傷ついたりします。つまり言葉は、人生や仕事に大きな影響を与えます。皆さんが元気になるような言葉を紹介します。
【3 話題あれこれ】TV・ラジオ・新聞はもちろん、私の身の回りで起きたちょっと話題になるような内容を記しています。
【4 感謝の言葉】私が生まれてから今日まで、お世話になってきた人に感謝のコメントを記します。少し照れくさいですけど。
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★ポッカの後輩 赤澤さんへの感謝の言葉 その3

テーマ:4 感謝の言葉
 すっかり更新が遅くなってしまいました。スミマセン。さて赤澤さんとの一番の思い出についてです。2002年の秋頃だったと記憶していますが、この時期はいろいろと大変で、肉体的にも精神的にも結構キツかったんですね、元気者の堀場には珍しく(笑)。
 そんな時、たまたま赤澤さんを含むポッカの名古屋地区の現役社員の方5~6人くらいと飲む機会がありました。飲み会は大好きな堀場ですが、前述した様にキツイ時期だったので、きっと口数も少なく会の途中で眠ってしまったんだと思います。
 後になって、確か山内さんから「赤澤が怒っていた」と聞かされました。「えっ?何故?」と思って山内さん尋ねましたが、「まあ、それは赤澤本人に訊いた方がいいんじゃないか」と言われました。
 早速、赤澤さんに電話してその真意を尋ねました。つまりは飲み会でのその疲れ切っていた様子が「自分(赤澤さん)が知っている堀場さんとは全く違う」「堀場さんらしくない」と映り、怒りがこみ上げてきた、というのです。怒りは自宅に帰っても続き、奥様に「今日、堀場さんと飲んだけど、今日の堀場さんは全くいつもの堀場さんじゃなかった!」と話したそうです。奥様は「まぁ、堀場さんだって人間なんだから、そういう時もあるわよ」と返したそうですが、「そりゃわかってるけど、今日の堀場さんには失望した」と堂々巡りの会話だったそうです。
 この内容を聞いて堀場は2つのことを感じました。1つは、こんな堀場でも他人からの期待値みたいなものがあって、その期待値は赤澤さんからみれば「いつも元気に前向きに生きていること」なんだろうな、ということ。もう1つは、その期待値を裏切ることは失望どころか怒りをも生んでしまうのか。勿論、奥様の言われる様に、堀場も人間だからいつもいつも元気ではありませんが、でもやはり他人の前では極力、その期待値を裏切らないようにしなければいけない、ということです。
 これは当時の堀場にとっては結構、新鮮な発見でした。それを気づかせてくれた赤澤さんには本当に感謝しています。
 赤澤さんとはちょうど6月17日(土)に東京駅近くで、久しぶりに2人で飲みました。赤澤さんも仕事はかなり忙しいようですが、充実感があるようでいろいろとイキイキと話をしてくれました。きっと今後、更に人間力をアップされると思います。応援していますよ。

★ポッカの後輩 赤澤さんへの感謝の言葉 その2

テーマ:4 感謝の言葉
 赤澤さんへの感謝の言葉の2回目です。
 以前も書きましたが、私自身はポッカ本社の経験が2年間(平成元年4月~3年3月)だけです。なので赤澤さんとも本当に一緒の職場で働いたのは2年間だけです。
 しかしそれ以後も、私が研修や全国会議などで時々本社出張があると、どちらからともなく飲みに誘って宿泊ホテルの近くで飲むことが多かったですね~。2人が共通に親しくしている社員も交えて飲むこともありましたが、大体は2人だけで飲んで硬派な内容(お互いの部署が全く違い、共通する仕事内容が殆ど無かったのでどうしても話題は「生き方」とか「それぞれの価値観」とか「自己啓発」とか)が多かったですね。飲んでいると、当然ながら気分は高揚してくるし声も大きくなるし、語りが「熱く」なりますね。堀場もよく「熱い」と言われますが、その堀場からみても対等若しくはそれ以上に「熱い」と思える人間の一人です。なので、資格の取得なども含めて自分の価値を上げようという貪欲な姿勢には大いに刺激を受けました。
 だから結構、赤澤さんに本音を語っていたんでしょうね。私が2002年の3月末のポッカの希望退職に応じる、と決めた時に赤澤さんにもメールで伝えました。するとすかさず「了解しました。全く予想していなかったわけではないですが、正直、ショックでした」という返信メールが届きました。「え~っ、少しは予想出来ていたんだ」とこちらがビックリしましたねぇ。ちなみにこのメールは今も大事に取ってあり、堀場の横にありますよ。
 そして、赤澤さんとの間で最も印象に残っている出来事が、この2002年の秋に起きます。
 ※この続きは次回の更新時に。

 

★ポッカの後輩 赤澤さんへの感謝の言葉 その1

テーマ:4 感謝の言葉
 今回から2~3回にわたり、ポッカの後輩社員だった赤澤秀樹さんへの感謝の言葉を綴ります。
赤澤さんは昭和45年2月生まれの現在47歳、私よりも10歳年下のポッカサッポロの現役社員。高校時代は野球部に所属していました。
 その赤澤さんと初めて会ったのは、平成元年4月。私がポッカ本社に転勤になり、当時、名古屋市名東区にあったポッカ社員の独身寮に引っ越した日でした。開口一番「赤澤秀樹です。堀場さんですか?お噂はかねがね、植羅さんから聞いておりました。以後、宜しくお願い致します」と、それはまあ丁寧な挨拶でした。ホント、野球部出身やなぁ、ってな感じでしたよ。それに対して私が「堀場です。こちらこそよろしくね。植羅から何を聞いていたの?どうせろくな噂じゃないだろう(笑)」と返すと、また赤澤さんは「いえいえ。すごい人だと聞いております」とのことでした。ただ、後日、本人から聞いたのですが、私に対して、もっともっとごつくていかついイメージを持っていたようで、ちょっと拍子抜けしたらしいですが。
 寮は同じでしたが、部署は全く違い、フロアも違ったので仕事中に話すことは殆どありませんでした。それではどこで親しくなったのか。一つは勿論、夜(お酒の場)です。当時の寮は平日は朝と夜ご飯を寮母さんが作ってくれていましたが、土日祝日はそれがありませんでしたので、夜に近くの居酒屋等に食事に行くことになります。ま、そこで植羅さん等も交えてコミュニケーションを深めましたねぇ。
 余談ですが、当時の寮には独身社員が15人くらいいたのですが、寮母さん(当時でもう60歳くらいだったのかな?)の一番のお気に入りは赤澤さんでしたね。当時唯一の10代だったので最も可愛がられるのも当然ですが、何と言っても寮母さんの作るご飯を「おいしい。おいしい。寮母さんの作るご飯は最高じゃぁ(←バリバリの岡山弁で)」と言いながら、むしゃむしゃ食べていたのも気に入られる要素だったんでしょうね(笑)。赤澤さんには他人に好かれる要素が沢山あります。
 もう一つ、赤澤さんと親しくなったキッカケは野球です。当時はポッカ本社に野球部があり、前述した様に赤澤さんは高校時代野球部でしたから、当然、入部していました。私も勿論入部し、何故か直ぐにキャプテンを任され、練習も真面目にやりましたからねぇ。
 これも余談ですが、赤澤さんは守備はセンターとかレフト。打順は3番とか4番を打ってもらった記憶があります。堀場はエラーが多いのに、口だけは達者のサード。打順は6番とか7番だったかな。ま、野球の技術は赤澤さんの方が若い分だけ、「ちょっとだけ」上だったかな(笑)(冗談です。全然、赤澤さんの方が上手かったです)。
 次回以降で、更に具体的な赤澤さんとの思い出話や感謝の気持ちを書きます。
 

★昭和55(1980)年にそっくりや・・・

テーマ:3 話題あれこれ
 ・・・ホントに今年も弱いなぁ、ドラゴンズ。昔の堀場なら「怒る」「悲しむ」「落ち込む」状況だろうけど、何度も書くように今は全盛期の半分も熱くないですからねぇ、ドラゴンズに。一応、勝敗だけは把握するようにしていますが。
 ところで、タイトルの「昭和55(1980)年のドラゴンズ」を記憶している人はいますか?今年のドラゴンズと共通点が一杯あります。①先ず開幕から連敗スタート(55年は6、今年は5)②広島に弱い(55年の広島との最終対戦成績は4勝20敗2分、今年は現時点で0勝5敗1分)③明るい光(好成績)が1人だけ(55年は谷沢健一、今年は大島洋平)④外国人選手全く機能せず(55年はギャレットとジョーンズ、今年はビシエドとゲレーロ)⑤2桁勝利投手が出ない?(55年は三沢淳の8勝が最高、今年は・・・?) 確か応援団が応援をボイコットしたのもこの年だったんじゃないかなぁ。
 私はこの年は大学2年生。沢山のことが記憶が残っていますが、特に②は強烈でした。とにかく広島に勝てない。一番から、6高橋慶、4山崎、5衣笠、8山本浩、9ライトル、3水谷、7デュプリー、2水沼と続く打線には打たれ放題、走られ放題。当時の正捕手木俣が盗塁を刺したのを見たことが無い。控え選手だった三村、木下、内田にもよう打たれとったなぁ。投手も山根、池谷、金田、福士、北別府、高橋里そして抑えは勿論、江夏。皆、ドラゴンズを完全に見下して投げてました。格好の貯金カードだったんですねぇ。あ、こんなこともありました。木俣がライト前ヒットを打ったんですが、強肩ライトルがレーザービームでライトゴロにしてしまった。テレビ中継で観ていて呆れました。
 ドラゴンズのチーム内は分裂。当時の中監督が「選手は負けるためにわざとミスしているんじゃないか」と言ってしまって、星野投手を初めとする選手が大激怒。その星野投手も自身の登板時に拙守を続けたギャレット3塁手に「お前、どんな練習しとんじゃ!」とベンチのなかで胸ぐらを掴んであわや乱闘。
 まあこんな思い出話ばかり書いていても悲しいですが、下手したらこの年に記録した球団最低勝率.372(45勝76敗9分)も更新してしまう?(5月4日終了時点の勝率.346(9勝17敗3分))でも、どうせ更新するなら、もう今後は外国人とか使わず、野手は高橋周、福田、亀沢、堂上等々。投手も小笠原や柳、鈴木、福谷等々。若手にバンバン、チャンスを与えて経験させた方が今後に繋がりますよね。どんな世界も習うより慣れろ!なんだから。

★ポッカの後輩 植羅(うえら)さんへの感謝の言葉 その3

テーマ:4 感謝の言葉
 植羅さんへの感謝の言葉の最終回です。植羅さんが札幌営業所を最後にポッカを辞めたのは1995年7月。その時私は未だポッカ千葉支店に在籍し、千葉県市川市に住んでいましたので、東京でも飲んだし、植羅さんの横浜の自宅にも遊びに行きました。その後、私は長崎⇒福岡と転勤になり、その福岡でポッカを辞め、2002年4月から名古屋に住んでいます。名古屋に住み始めてからは植羅さんが出張で名古屋に来るたびにお誘いがあり、何回も飲んでいます。勿論、私が東京に出張の時は私が誘って、後々に登場する赤澤さんなんかも交えてよく飲んでいますねぇ。また昨年は東京OB会にも来てくれました。
 まあお互い今は会社も業界も全く違うので、共通の話題はあまりないんです。で、最も共通の話題はやはり、今も愛着がある(未練はないけど(笑))、ポッカサッポロさんのことですね。厳密には2人ともポッカコーポレーションしか経験していないので、当時の思い出話が多いですね。他愛も無い話ですけどね。
 それとことあるごとに植羅さんはいろいろと相談事を持ち掛けてくる。人間(特に男)って、あまり他人に頼っちゃいけないし、基本的には自分自身で解決しなければならないことが多いんだけど、まあ少なくとも堀場は頼られて悪い気はしませんよ。「人間は他人の役に立つうちが華」だと思っていますから。
 なので、私自身もいろいろと気持ちが限界点に達するギリギリのところで、いろんな人に話を聞いてもらっています。相手に「ちょっと迷惑をかけているかな?」と思う時もありますが、うまく甘えるようになったと思っています。この気持ちは植羅さんから学ばせてもらいましたよ。
 最後に2つお願いです。1つはお互いに現役のビジネスマン生活もほぼほぼゴールが見えてきたよね。ゴールした後もお付き合いいただければ幸いです。もう1つあります。勿論、ゴールしてからで良いのですが、ポッカ東京OB会が存続していれば、山内会長を補佐するいろいろな実務を、今の堀場に成り代わって行ってください。よろしくね。

★困ったこと(?)が・・・

テーマ:3 話題あれこれ
 フェイスブックでは本日午前中に行ったソフトボールチームの練習の話題に触れましたが、ここでは野球に関する娘のちょっと困ったこと(?)を書きます。
 娘は今春、高校を卒業しました。何故かわからないけど、WBCあたりからやたらプロ野球に興味を持ちだしました。WBCの試合は私よりも真剣に観ていました。そして筒香や中田翔や坂本などをやたらカッコいいと持ち上げていました。なかでも巨人の捕手小林誠司を特にお気に入り。「イケメン」だとか「かっこ良過ぎる」とか今も言い続けています。確かに小林のイケメンぶりは入団当初から話題でしたからねぇ。仕方がないですが。
 したがって、私の手前、ドラゴンズの勝敗も気にはしていますが、チームも読売ファンになりそうな感じ。ヤバイ(笑)。確かに今、ドラゴンズには華になる選手がいないので仕方がない気もしますが、でもよりによって読売とは・・・。これだけは断固、阻止せんといかんですね。 

★ポッカの後輩 植羅(うえら)さんへの感謝の言葉 その2

テーマ:4 感謝の言葉
 こんにちは。植羅さんへの感謝の言葉の2回目です。植羅さんと出会って実質的な1年目が終わろうとしていた昭和63年の2月頃、植羅さんに転勤の内示が出ました。同年の4月から入社3年目を迎える植羅さんには全くの「青天の霹靂」だったと思います。それも転勤先は営業ではなく「本社 お客様相談室」だったので、植羅さんにとっては余計だったと思います。別にお客様相談室が悪いという意味ではありませんが、入社2年間ずっと営業をやってきて成果も出していた植羅さんにとっては、想像のその字もしていなかった部署だったはずです。
 当然ながら「転勤を受け入れる」か「拒否する=ポッカを辞める」か、という選択を迫られ相当悩んだようで、よく私のところにも相談にきました。私も植羅さんの気持ちは痛い程わかったので、軽はずみに「受け入れろ」とは言えなかったのですが、たった一回の予想外の転勤でせっかくの逸材がポッカから消えてしまうのはポッカにとっても良くない、と思いました。なので植羅さんにはこう言いました。
 「まあ受け入れるか、辞めるかは当然、最後は植羅さんが決めることだけど、俺は受け入れた方が良いと思う。実際にお客様相談室へ行って初めてわかることもあると思うし、何より自分のためになるか否かは行ってみなければわからないじゃん。行ってみてどうしても合わない、或いは学ぶべきものが無い、と判断した時点で辞めても遅くないじゃん。俺ならとりあえず行くけどな」と。
 植羅さんも一時は少し自暴自棄気味になっていましたが、何とか気を取り直して受け入れる決断をしてくれました。今もこの時のことはよく話題になります。人間って他人に話すことで自分も改めて強く認識することがあると思います。この時の堀場が正にそれでした。「とにかく始めてみなければ始まらない」自分もその後、何回もこの言葉を使う場面に遭遇しますが、この時植羅さんからこの考え方を教わった、と言っても過言ではありません。その意味でも植羅さんには感謝しています。
 そして3月終わり頃、以前登場した朝倉さんと共に中野に住んでいたメンバーでの送別会を行い、その時に朝倉さんと植羅さんから「まあきっと来年の今頃は堀場さんも本社に来るよ」なんて冗談を言われたのですが、これがホントになってしまうんですわ(笑)。
 平成元年の4月。今度は自分も本社に転勤になりました。本社での部署は全く違ったし(堀場は食品部)、席もかなり離れていたので仕事中に会話する機会は殆どありませんでしたが、名古屋市名東区にあったポッカの独身寮で植羅さん等と一緒に住むことになったので、寮ではよく話したり近くの居酒屋に飲みに行ったりしました。ホント、実質出会って1年目の昭和62年にプレイバックした感じでした(笑)。
 その後、私は本社勤務を2年で終わり、平成3年の4月に東京東営業所に転勤になりました。植羅さんはお客様相談室の後は第一飲料部や名古屋支店に部署異動し、結婚もしました。勿論、結婚式にも招かれスピーチもさせてもらいました。そして更にその後、今度は植羅さんに札幌営業所への転勤の内示が出ました。札幌営業所への転勤を先ずは受け入れた後に、しばらくして今後の人生設計も考えたのでしょう。全く別の業界で、基本的には転勤のない会社に転職されました。しかしこの後もまだまだ植羅さんとの交友は続きます。続きはまた次回に。

★ポッカの後輩 植羅(うえら)さんへの感謝の言葉 その1

テーマ:4 感謝の言葉
 こんにちは。今までの感謝の言葉は殆どが自分と同年か年上の方を対象に書いていましたが、自分よりも年下の方にも大変にお世話になっています。その一人が(株)ポッカコーポレーション時代の3年下の植羅さんです。名字がちょっと変わっているので、ポッカに入社時は「ウエラ化粧品」の関係者?と思われたこともあったらしいです(笑)。
 最初に会ったのは、植羅さんが入社一年目に当時の私の担当得意先(松下鈴木多摩支店←懐かしい名前でしょう)の同行販売応援で立川営業所に来た時(昭和61年6月頃だったと思います)です。私が植羅さんに「今日は売れなくても良いけど、必ず、カリクラ(←これも知る人ぞ知る懐かしい商品名でしょう。当時はこの商品の拡販指令が出ていたのです)がお店に並んでいたか否かだけはチェックして、後に報告するように」と指示をしたのですが、これが植羅さんにとっては驚きで印象深かったようです。つまりいきなり「今日は売れなくても良い」なんて指示を出した先輩は初めてだったからです。まあ自分としては本音を言っただけなんですけどね。
 その後は特に会うこともなかったのですが、翌昭和62年に私が東京支店に転勤になった時に★私の席と植羅さんの席が近かったこと★当時の私の部下だったM君や植羅さんの上司だったW課長がお互いの共通の話題になったこと★そして何より同じ中野区上高田のポッカ借り上げのマンションに住んだこと(確か堀場は2階、植羅さんは3階だったと記憶していますが) で一気に距離が縮まりました。勿論、お互いに独身だったので、住んでいたマンションの近くの新井薬師駅界隈によく一緒に夕食を食べに行き、愚痴も語り合いました。何故か妙にウマがあったんですね~。
 また植羅さんは当時の大洋ホエールズ(今の横浜DeNaベイスターズ)のファンだったんですが、この大洋が弱かったんですわ。一方、私が愛するドラゴンズは星野さんの監督1年目。熱い戦いでマスコミの注目を集め、成績も上位につけていましたので、私にとっては植羅さんは格好の餌食。「よくあんな弱くて、負けても悔しがらないようなチーム(大洋のこと)を応援しているなぁ。悪いことは言わんから早くドラゴンズファンに変われば」等とイジメまくっていました(笑)。それに対して植羅さんは結構、ムキになって反論してくるから、こちらとしては余計に面白い。まあ十分に楽しませてもらいましたよ(笑)。
 仕事面では植羅さんは当時、ポッカの新ジャンルであったお酒を売る部署(酒販課)に属していました。新ジャンル故にいろいろと苦労もあったようですが、持ち前の負けん気と粘り強さで本当に頑張っていた印象があります。
 そんなこんなで楽しい時間だったのですが、転機は翌昭和63年の春に訪れます。この続きは次回に。
 

★「永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット」その功と罪

テーマ:3 話題あれこれ
 「PL学園」この名前を知らない人はいないですよね。甲子園では96勝し、春夏の全国制覇が7回。今までに桑田、清原、立浪、前田健太などプロ野球選手を81人も送り込んだ名門校です。野球以外にもゴルフ部も剣道部もバトントワリング部も強烈に強い。
 ご存知の様にこのPL学園野球部が、昨年夏の大阪府予選で敗退した時点で実質「廃部」となりました。この「永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット」という本は、PL学園の創設から野球部の創部→上昇期→全盛期→衰退期→廃部 を本当に細かい取材をもとに書き上げています。約250ページの本ですが、私はたった3日間で読み終えてしまいました。それくらい私としては引き込まれる内容でした。
 以前も書きましたが、このPL学園は宗教団体を母体とする学校で、それなりにお金もあったのでしょう。プロ野球並みの施設や大阪以外の地からの越境入学で強くなっていったので、私はあまり良い印象を持っていませんでした。
 しかし★常人ではとても考えられないような寮生活での鉄の掟★PL学園故に簡単には負けられないという強烈なプレッシャーに打ち勝たなければいけない など「逆転のPL」と言われた神がかり的な強さには表面上だけではわからないちゃんとした理由があり、それを身に付けた選手はやはり強烈な強い精神力を持ち合わせている、ということを知ってからガラッとイメージが変わりました。勿論、良い方向にです。
 特に「寮生活」。これはPL学園野球部のOB全てが「どれだけお金をもらっても、あの時代には戻りたくない」というほど、凄まじいものだったようです。「3年生 神様、2年生 平民、1年生 奴隷」よく言われる言葉ではありますが、この奴隷ぶりがスゴイ(笑)。ただ「この寮生活、特に1年生の一年間を乗り切ったら、世の中に不遇と思えるものは他にはない。自分自身を最も鍛え上げられた一年間」という意見が殆ど。またPL教はが単的に言えば「(他人が嫌がることこそ積極的に行うという意味の)徳を積む」「全てのことに感謝する」「最後の最後までしきる(信じて祈る)」ことで勝利の女神を導ける、という純粋かつ素晴らしい教えだと思うので、そういう意味では「功」なんでしょう。
 が、野球部を創部した当時の教祖が他界してしまったことや強くなり過ぎた野球部が野球偏重になり、肝心のPLの教えがキチンと伝わらない様になってしまったこと。それに厳しすぎる上下関係や度重なる暴力事件が学校のイメージを悪くし、野球部への応募者数を減らし、更には信者数も激減。結局、野球部を維持していくだけの金も人材もいなくなった、ということ。
 野球部の監督にしても、最後は野球経験の全くない校長先生が就任。PLのファンやOBから湧き上がっている桑田真澄監督待望論も簡単に決められるわけではなく、現在の教祖様の許可が必要。実際に桑田氏が野球部存続のために現教祖様への面会を申し込んだが、結局は拒否されたとのこと。
 このままではもしかしたら、野球部だけではなくゴルフ部や剣道部も、そしてもっと言えば学校そのものも継続の危機に陥る可能性もある、とのこと。PL学園の茨の道はまだまだ続きそうです。

★ポッカOB 朝倉さんへの感謝の言葉 その2

テーマ:4 感謝の言葉
 朝倉さんへの感謝の言葉の2回目です。朝倉さんも私も2002年の3月末にポッカを希望退職で辞めました。朝倉さんはポッカ関連の会社へ移りました。私は以前も書いたように、当時住んでいた福岡から名古屋へ引っ越しました。
 朝倉さんは愛知県岩倉市にある会社に移られたので時々お邪魔して、お茶を飲んだり飲みに行ったりしていました。ちょうど私が人材派遣会社に勤務していた頃、朝倉さんはその会社の社長に就任されました。何と言っても社長ですので、日々売上と利益を上げるためにどうするかを考えておられ、時々意見を求められたりもしました。
 そんなある時、今私が勤務しているメリタジャパン(株)からちょっと相談を持ち掛けられました。詳しい内容は書けませんが、到底私の力だけではその相談に応えられるようなことではありませんでした。「さて、どうしようか・・・?」と考えあぐねていた時に、ふと朝倉さんの顔が浮かびました。「朝倉さんの会社ならその相談に応えられるかも知れないし、売上増に貢献出来るかも知れない」と思い、早速、朝倉さんにお電話してみました。すると「是非、話を聞きたい」との即答を得られ、話はそこからとんとん拍子に進み、一挙に相談内容が解決の方向に進んだのでした。
 その途中段階で朝倉社長と私は、北は新潟。西は広島や香川や鹿児島。南は沖縄まで。延べ一か月間殆ど毎日一緒に出向きました。移動手段は全て車だったので、途中で運転も交代したりちょっと寄り道して観光したりもしました。そして勿論宿泊は同じホテル(さすがに部屋は別々(笑))。ということは当然ながらこの期間中は毎日の様に飲みに行きました。
 その後もポッカOB会でご挨拶をいただいたり、朝倉さんが主催する通称「おやじの会」にもお招きいただき、年末には沢山のOBの人と楽しく飲み会やっています。
 とにかく朝倉さんは、体は大きくて心優しき方です。部下や後輩に対する面倒見も大変によい方だと思います。今は仕事上のご縁は無くなりましたが、これからも変らぬお付き合いを宜しくお願い致します。
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