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清風 2017年10月

テーマ:清風 【住職】

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本堂におまいりする時は、
胸の前で静かに手を合わせ
「なむあみだぶつ」と称えます。
「なむあみだぶつ」は、
私のいのちの名前、
私を私たらしめている全ての
ハタラキの名前(総称)です。
あなたにまで至り届いた
いのちの名前から、いのちの本当の
願いを聞き開き、生まれた意義と
生きる喜びを見出し、
あなたを生き切って下さい。


守綱寺本堂の正面外側、上部に掲げてある言葉です。
ここには「本堂におまいりする時は…」と書いてありますが、家のお内仏(仏壇)でおまいりする時も同様です。

<参照>
 蓮如上人500回御遠忌法要(1998年勤修)テーマ
バラバラでいっしょ
差異(ちがい)をみとめる世界の発見
帰ろう もとのいのちへ

宗祖親鸞聖人750回御遠忌(2011年勤修)テーマ
今、いのちがあなたを生きている

 

中央アジア シルクロードの旅
文明の十字路・ウズベキスタンに仏教伝来の道を訪ねて
(8月18日~8月26日まで)

ウズベキスタンはアフガニスタンの北に国境を接していて、8月で日差しはかなりきつかったのですが、湿気が少なく、日陰ならまぁなんとか過ごせるところでした。
現在の所、シルクロードの一番西の仏教遺跡の残る地域と言われています。
面積は日本よりやや広く、人口は日本が3倍ほどです。
中央アジアの砂漠地帯にあり、それでありながら、国の北部と南部に渇水期にも枯れない川があり、砂漠でも水の湧いているオアシスが点在し、牛やラクダなどのえさになる植物が点々と茂っており、砂漠でありながら放牧が出来る環境が整っている所でした。
砂漠の中に、人の住む所が点在していて、刺繍が民衆芸術として今も手織りでほとんどの町や村で行われているとの事でした。
いたる所にきれいな青色のモスクが存在し、宗教はイスラム教であり、スンニ派が優勢とのことでした。
さて、仏教の遺跡は、南部のアフガニスタンとの国境に近い砂漠地帯に点在し、今も発掘されており、軍の駐屯地域内にあり、兵士の付き添いで遺跡参拝も許可になり、遺跡内で正信偈のお勤め、そして感話もさせてもらってきました。
また、首都のタシケントには日本人墓地があり、そこでも正信偈のお勤めをしてきました。
ここに葬られている日本人は87名で、1945年日本の敗戦により、満州に派遣されていた兵士がソビエトに抑留されたのですが、その中から技術を持っている兵士(建築・道路の整備・農業など)は、ウズベキスタンに再度派遣されたのだということでした。
小生もそのような経緯は全く知らなかったので、ウズベキスタンに何故日本人の、それも墓地があるのかを報告させていただく次第です。
その墓は今も現地の人たちの奉仕できれいに整備されていて、その墓を整備された方の孫さんが清掃をされていると聞きました。
タシケントの中心部にナポイ劇場があるのですが、この建物はその兵士たちが現地の人を指揮して作ったのだそうで、建設後の地震の時にもかなりの建物が倒壊したなかにあって無事だったということで、大変人々から感謝されているという事を、現地の添乗員さんから聞かせてもらいました。
それに比べて、我が国は今でも近隣のアジアの国々からは、靖国・慰安婦・徴用工問題に代表されているように、ぎくしゃくした関係がなかなか解消できないでいます。
戦争で日本はこうしたアジアの国々で何をしてきたのか、またどうして、もう戦後70年経つのに、友好的関係が結べていないのか、改めてアジアにおける日本人の戦後の立ち位置がこれら周辺国に理解されない状況を考えさせられたことでした。
ともかく、70年間戦争してこなかった日本を未来へ受け継ごう、という気持ちを強く確かめたことでした。

お庫裡から 2017年10月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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私は大相撲が大好きです。
6年生の時(昭和33年)、田舎の我家にテレビが入り、大相撲の中継を観て、若の花の大ファンになりました。
栃錦と若の花の千秋楽横綱全勝決戦の時は、「ああ、若の花が勝って良かった。もし負けていたら、尚子がどうなっていたかわからん」と親に言わせる程に、その頃の私は若の花に夢中になっていました。
一瞬で勝負が決まったり、土俵際で勝負がひっくり返ったり、取り組み毎に勝負の色合いが違うところが面白く、何より、勝負の結果が早く、わかり易いのが、単純な私に合っていたのでしょう。
若の花の弟子の隆の里が鳴戸親方となって部屋を起こし、夏場所の宿舎の借用を申し出られた時は、不思議なご縁を感じたものです。
その親方も今は亡く、弟子だった稀勢の里は横綱にまで登り詰めましたが、今場所は休場で、大相撲への関心が薄れてしまいました。
そんな中で、たまたまつけた相撲中継で、35歳の関脇・嘉風が「私の相撲人生は、この先、そう長くはない。
だから横に飛んで勝ちにいくような相撲は取りたくない。
勝ち負けに関係なく、一番一番自分に納得のいく、自分に満足できる、そういう相撲を取っていきたい」というないようを語っていることを知り、すっかり嘉風のファンになってしまいました。
私は今、70歳。
私の人生の時間は、そう長くはない。
日々出遇う人、事、物から教えられ続けていく毎日。
一日一日、ありがとう、ありがとう。
そう言って、私は生きたい。

今月の掲示板 2017年10月

テーマ:今月の掲示板

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  何ものにも
  頼らなくていいいのちを
  もう すでに、
  私は、いただいている。
  そのいのちを
  あなたは
  どう生きてくれますか。

  自分が自分に文句がある。
  これが、苦しみの元でしょう。
  自分が自分を頂けない。
  それは、現に在る
  ということが
  成り立たないからなのです。  児玉暁洋

  毎日、毎日が
  真っさらな一日。
  初体験の今日。

  南無阿弥陀仏を英語訳すると
  I take refugee(おまかせ)
  Amida Nyorai.

  私たちが生まれ
  生きている人生は
  人に出遇い
  ものに出遇うための
  人生だと思います。
  出遇うことで
  私が作られている。  松田章一

  お前さんの
  畢竟依(最後に到達する依り処)は
  何だ?

  煩悩というものは、
  人間をつかう。
  起こした人間をつかう。

  わが世寿を
  無量寿と仏ののたまうを
  死すとて人の悩む愚かさ  松下真一

  六字の名号(南無阿弥陀仏)は、
   南無せよ
   お前は違っておるぞ
   自分のまちごうた姿に
   目覚めよ
   わが間違い、罪の深いことに
   頭を下げよ
  との呼びかけ

  一息が仏の息と知らされて
  三世十方
  闇 晴れにけり  藤原正遠

  本当がわかってから後で
  間違いが知れるのではなしに、
  間違っていたと気づいた時に
  本当の世界が、私に受け取れる

本堂に座って 2017年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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キングコング西野亮廣さんの『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』から続けて紹介してきましたが、最後に「おわりに」の文章です。
仏法のお話の中にも、「人生には何ひとつ無駄なものはない」「過去の辛い・嫌な出来事も、振り返ってみれば大事なものだったと言える」と話されることがありますが、ここには同じ様なお話が書かれています。

僕らは今、この瞬間に未来を変えることはできないけれど、
過去を変えることはできる。
過去の変え方は様々。
たとえば、貧乏したことや、
女の子にフラれたこと、
起業に失敗したこと。
そういったネガティブな過去を、人前に晒してネタにすると、目の前にいる人達が笑ってくれて、その瞬間、ネガティブな過去が輝きはじめる。
「貧乏して良かった」と思える。
「女の子にフラれて良かった」と思える。
「起業に失敗して良かった」と思える。
一歩踏み出せば、価値観を変えてくれるような景色に出会えることもあるだろう。
一生の友に出会えることもあるだろう。

一方で、失敗もあるだろう。
挫折もするだろう。
痛みを知るだろう。
涙する夜もあるだろう。
ただ、そんなものは大した問題じゃない。恐れる必要はない。
失敗も、挫折も、痛みも、涙した夜も、
いつかは必ず過去になる。
そして、そのとき僕らは、その過去を変えることができる。

失敗したところで終わるから「失敗」が存在するわけだ。
何度失敗しようが、
その度に工夫し、
ネガティブな過去をポジティブなものへと転換し、
成功するまで続ければ、
それらの失敗は全て、成功のために必要な部品となる。
失敗なんて存在しない。
失敗を存在させているのは、いつだって自分自身だ。
たしかに、どうにもならないコトが世の中にはあるけれど、大丈夫。
大体のコトはどうにかなる。
あなたが何かに挑戦し、結果が出ずにジタバタしているとき、外野にいる連中は、「迷走してるの?」と、あなたのことを笑うだろう。
そんなときは、こう返してやればいい。
「うん、迷走してるよ。キミみたいに、誰かが舗装してくれた道を歩いていないからね」
大丈夫。きっと上手くいくよ。
コケたら起きればいい。
踏み出そう。
(『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』西野亮廣 著より引用しました。)

「失敗したところで終わるから、「失敗」が存在する」。「失敗」を振り返り、受けとめ、活かすことで、次の一歩を踏み出すことができるのでしょう。
「失敗」をどう受けとめ、どう活かすか…そのヒントは仏さまの教えの中に説かれています。

今日も快晴!?2017年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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友人が、12月23日に「風は生きよという」というドキュメンタリー映画の上映会を企画しています。
この映画は、脊髄性筋委縮症II型という重度の障害で、移動には車椅子を使い、人工呼吸器を日常的に使用している海老原宏美さんの日常を追った作品です。
彼女の相模原事件後のインタビュー記事を読み、頭をがつんと殴られたようなショックを受けました。
これは是非、映画の上映会にも足を運びたいと思います。
『あの事件を受けて、可哀想だね、価値のない命なんてないのに、なんであんなことをするんだろうねって、みんな口う々に言うけれども、じゃあ「なんで重度障害者の命に価値があると思うんですか」と逆に聞くと、ちゃんと答えられる人はいないんですよ。
…私は、重度障害者として生きてきた中で、ずっと差別をされてきました。
差別というとすごく強い言葉ですが、排除ですね。障害を持っていると常に社会から排除されながら生きていくことになるんです。
…そういう境遇の中でずっと、「でも私は地域にいたいんです」ということで生きてきました。
でもやはり障害者が身近にいると面倒くさいし、コミュニケーションも取れないし、どうしたらよいかわからない。
いないほうがよいと思っている人が実はたくさんいるんですね。
…なぜその命が大事なのか。
命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですね。
そんなものは一緒に生きていく中で感じとることだけれども、共に生きる環境がないから感じ取れないし、誰も教えてくれない。
その中で起きた事件なので、背景には複雑な環境があるのだろうけど、起こるべくして起きた事件なのかなと私は思っています。
…こういう社会運動を障害当事者が始めた最初のきっかけは、1970年代に「青い芝の会」という団体が障害児殺しに対して起こした運動なんです。
障害を持った子供の将来を悲観して、自分も介護がすごく大変だということもあって、親が障害を持った子供を殺したんです。
その殺したことに対して近所の人たちが、どうかあのお母さんを刑罰に処さないでほしい、だって大変だったもの、すごく苦労していたのはわかっていたから、だから許してあげてということで、減刑嘆願運動が起きたんです。
それを受けて障害者たちが、自分たちは殺されてもいい存在なのか、ということで起こした運動が最初なんですね。
私はそれをすごく思い出したんです。
障害者って殺されても仕方がない存在なのかなということが、今回の事件とリンクして、頭の中に浮かんできたんです。
…当事者として生きていて思うのは、周りが思っているほど私は大変じゃないんですよ。
大変なことも多いですけど、結構面白いんですね。
目の前に障害が治る薬があったら飲みますかと言われたら、私は多分飲まないと思うんです。
障害と生きるって大変なことがありすぎて面白いんです。
別に強がりではなくて、障害があることで、健常者にはない喜びを得られる機会がもの凄くたくさんあって、色んな人に出会えたり、指が動く、手が動くことを凄く幸せに感じられたりだとか、世の中の一個一個の現象に対してすごく敏感になるんです。
私は進行性の障害なので、いつどう死んでいくかわからない、いつまで生きられるか、いつまで体が動くかわからないという状態に置かれている。
死ぬことが身近にあるんですね。
だから逆にいまやれることやらなくちゃとか、生に対する、生きるということに対する意識が健常者に比べると日常的に自分の中に湧き上がる機会も多い。
1日1日を面白く楽しく生きていこうという思いが凄くあって、障害者として生きるってすごく面白いなと思うんですね。』

清風 2017年9月

テーマ:清風 【住職】

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現代社会に生きる人間は、欲望する存在ということです。欲望する存在とは、他人に対して優越し見栄をはろうと欲望することです。
人間関係がすべて虚栄心から生まれる。そこに現代社会の実相があります。

「現代社会と人間の問題」(『南御堂』紙 2004年4月号11面)
今村仁司(1942~2007) 専門:社会哲学・思想史
著書『親鸞と学的精神』『清沢満之と哲学』(岩波書店)その他多数。


親鸞聖人が法然上人から聞かれた言葉に、人間には「勝他・名聞・利養」という煩悩があるのだと記されています(『口伝抄』)。
「勝他」とは、まさに「他人に対して優越しよう、見栄をはろう」とすることでしょう。
「名聞」とは「有名になりたい」ということ、そして「利養」とは有名になって「いい目に会いたい」ということだといわれています。
昨年の7月のことになりますが、相模原市の障害者施設で重度の障害者を狙い、19人が殺害された事件が起こりました。
その事件を起こしたのは、その施設で介護職をしていた元職員でした。
その後の取り調べで、この元職員は前もって決行について次のように記していたとされています。
「障害者は不幸を作ることしかできません。」「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。」など、と。
この元職員が記している「全人類が心の隅に隠した想い」をもって今回の決行の決意とするという文面は、私たちもそのような想いを「隠した想い」として、それこそ一度胸に手を当てて考えてみなければ…と思った方もおられるのではないでしょうか。
「障害者は不幸を作ることしかできない」のであって、その存在は認められない、ということでしょう。
それは何故か?障害者は、社会の発展に間に合わない、厄介なものだというのでしょう。
現代社会ではG7 ―G7はGNP(国民総生産高)上位7位の略ですが― 先進7ヶ国と言われ、G7以外は発展途上国などと通称されるように、現代では総生産高がその国をはかるモノサシとなっています。
つまり、物の生産です。
どれだけ貨幣を稼ぐかというのが、すべてに先立つ評価の基準になっているということでしょう。
新聞報道によれば、愛知県は名古屋港近くにカジノ(賭博場)を作る計画を立てたと報道されています。
貨幣を稼ぐためなら賭博場も作ろう、というわけです。
早い話が、障害者は稼がない者、だから社会の厄介者という断定に立って、この事件は起こされたわけです。
そしてその加害者の主張は、「全人類・日本人ならすべての人が、表立っては言わないかも知れないが、心の隅に隠した想い」である、と。
その「隠した想い」とは、上に紹介した文章からいえば、「他人に対して優越しよう、見栄をはろう」とする、虚栄心のことでしょう。
この欲望は「虚栄」だから限界がない。
かなえば「もっと、もっと」と際限がない。
つまり私どもの日常の言葉にすれば「当たり前」。要するに、「虚栄」であるということは「飢餓的」であって際限がないということです。
「真の満足が得られない」ということでしょう。
「真の満足」がほしい、これが先進7ヶ国の住民の、偽りのない事実でしょう。
「障害者は不幸しか作れない」という人がどれだけ幸せであったか、はなはだ疑問だと思うのですが。

さてここで原点に返って、人間(私)について考えたいと思います。
人は、人間 ― 人の間と書きます。
人という字も「人」と「人」から出来ているように、支え合っているということを表現しています。
人間はその字を見てもわかるように、人と人の間に生きて初めて人と成れる生き物であるようです。
障害者に出会って、障害者から問いを受けた、それが人間であることの意味というわけです。
「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております」と元職員(加害者)は述べています。
障害者から健常者(と言ったらいいのでしょうか?)は問われているのでしょう。
「障害者は生きる意味はないのですか?」「人にとって、生きるとはどういうことですか?」と。
いわゆる付加価値(学歴・健康・若さ、など)をつけていくこと、これが現代人の、学校で学ぶことから始まって生涯を過ごす、大きな関心事でしょう。
しかし、長寿ということが長年の人類の悲願であったと言えるかと思いますが、世界でも有数の長寿を達成した国、日本ではどうでしょうか。
「長生きはめでたい事なのか」という題で投書をされていたのは、83歳の男性でした。
投書の内容は、老齢になっての不安、認知症・介護の世話にならなければならなくなる、そして尊厳死・安楽死が可能となる法的環境を整えてほしいというものでした。

みんな誰でも生まれて生きる以上は老・病・死を避けて通るわけにはいきません。
結局、今問われているのは「なぜ命は尊いのか」ということでしょう。
付加価値という「ころも(衣)」を着けたいのちではなく、付加価値を付けていない、裸のいのち、それが尊いと言える根拠、病んでいても、老いていても、そのままで「命は尊い」と言える根拠は何ですか、と。(続く)

 

今月の掲示板 2017年9月

テーマ:今月の掲示板

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  若きにもよらず
  強きにもよらず
  思ひかけぬは
  死期なり  (徒然草 137段)

  人 みな
  生をたのしまざるは
  死をおそれざる故なり

  我が智を取り出でて人に争ふは
  角ある物の角を傾け
  牙ある物の牙を咬み出だす類なり (徒然草 167段)

  万の事
  外に向きて
  求むべからず
  ただ ここもと(手元)を正しくすべし(徒然草 181段)

  予(かね)てのあらまし
  皆 違ひ行くかと思ふに
  おのずから違わぬこともあれば
  いよいよ物は定め難し
  不定と心得ぬるのみ
  実(まこと)にて違わず (徒然草 189段)
  
  ゆく河の流れは絶えずして
  しかも もとの水にあらず
  よどみに浮かぶうたかたは
  かつ消え かつ結びて
  久しくとどまりたる例(ためし)なし
  世の中にある人と栖(すみか)と
  また かくのごとし (方丈記)

  心の師とは成るも
  心を師とする事なかれ (往生要集より)

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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