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清風 2017年3月

テーマ:清風 【住職】

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あなたにとって、幸せとは何ですか。
呼吸のできることです。
水木しげる(漫画家「ゲゲゲの鬼太郎」作者 1922~2015)


幸せを求めて生きている、これが我々の生きる根っこにある普通の関心事ではないだろうか。
誰も、不幸であることを望んで生きているという人もなかろうから。
そして幸せとは、未来におかれている何らかの事態を、やがて手にすることができると考えていることだといえよう。
受験生なら合格する、というように。
少なくともその場合、呼吸のできる状況は「当たり前」のこととして見過ごされている。
水木さんは幸せを、未来に手にすることがらではなく、「呼吸のできることです」と言われている。
幸せを未来にではなく現に「今」ここに確かに手に入れていると言われる。
幸せとは、もちろんその前提として「呼吸ができること」が条件であると言えよう。
常識的には、それは「当たり前」のこととして問題としない。
水木さんは、その前提として当たり前と見過ごしていることがらを、それをこそ幸せそのものと言われるのである。
人生全て、呼吸ができて初めて経験できることと言える。
不幸ですらも呼吸ができていて可能と言える。
とすると、現在でもよく聞く「いのちは尊い」という意味は、この水木さんの言われることを踏まえなければ、よくわからないことと言えるようである。
「いのちは尊い」という言葉も、「ではなぜ、いのちは尊いのか」とあらためて聞かれると、「えっと?」と我々は、一歩、瞬間的に引くのではないだろうか。
気がついたら、私は生まれて、生きていたのである。
つまり私が今、幸せならばもちろん、不幸であっても、その前提として生きているからと言えなければならない(いのちを与えられていて全ては成立可能であるから)。
それは、つまり呼吸ができるということは、奇跡が今、私に実現していると言わねばならないような事態だったのである。
仏教のイロハは「人身 受け難し」である。
全ては与えられて始まったこと。
それが人生である、と。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

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  「清め塩」を巡って ~儀式が仏式で行われる意味~

葬儀では、印刷された会葬礼状が用意されていますが、この礼状には添え書きが付けられていることをご承知でしょうか。
それは「なお、真宗のご葬儀におきましては清め塩は用いませんのでご了承ください」という文面です。
縁のあった方が亡くなり、葬儀に出席されるのでしょう。
そういう意味では、葬儀は悲しい別れの儀式ではありますが、「清め塩はもちいません」と書いてあるのは、そこにもう一つの意味合いがあるからと思われます。
それは、一般的にその儀式(葬儀)が「穢れている」という認識があるからでしょう。葬儀は死者を縁として勤まるから、ということでしょうか。
亡くなったことは悲しいことですが、穢れたことなのでしょうか。
もし穢れたことならば、遺族にとって、そして参列された方にとって、とても無残なことと言わねばなりません。
なぜなら、遺族にすれば一日も生き長らえて欲しいと介護されていたに違いない親族を、亡くなった途端に今度は穢れたものとして扱うというのですから。
さらに、縁あって参列した方にとってはどうでしょうか。参列された方々にとってみても、必ず亡くなっていかねばならない方々ばかりです。
その時期は決まっていませんが。
そうです、死亡率100%です。
人間は現在を生きるものですが、未来と過去をはらんだ今(現在)を生きています。
そうだとすれば、未来が塩を撒かれるような「穢れたもの」に向かって生きるということになります。
これとても、無残なことといわねばならないでしょう。
なぜなら、死は未来でありますが、当来のことだからです。
釈尊は6年の修行の後、35歳でお覚りを開かれる(成道)のですが、そのときの言葉は「我は不死を得たり」と伝えられています(無死ではありません)。
死は完全燃焼(涅槃・ニルバーナ)を示すことであると。
いろいろな死に方があります。
例えば、事業の途中であった、と。しかし事業の途中なら途中で、やはり終わったのである、と。事業の途中というのは「未練なのだ」と釈尊は言われているのです。
事実は死があるのですが、その途中という判断に私が迷わされているのだと、やっぱり迷っているのだと。
では、どういう場合を想定して「終わった」と現代に生きる私どもは言えるのか、でしょう。
長寿を全うした場合でしょうか。それはいくつまで生きた場合を言うのでしょう。
大変難しい問題をはらんでいます。
安楽死・尊厳死という言葉があることをご存知かと思います。
その定義は次のようです(参照「文芸春秋」2017年3月号 P242)。

安楽死:回復の見込みのない病気の患者が薬物などを服用し、死を選択すること。
尊厳死:患者の意志によって延命治療を行わない、または中止すること。

生まれる・死ぬという場にも人間の都合・思いが介入して、その評価が先行するという時代(生命科学と言われる分野が開かれてきた)になってきたということでしょうか。
それでは、逆に言うと「安楽なる生」「尊厳なる生」とは、いったいどんな生・生き方をいうのでしょう。
例えば、いじめなどで自死した子がでた場合などに、よく「いのちは尊い」と言われるのですが。
尊い・尊厳である、それがいのちであるということがぐらついてきているということでしょう。
さらに議論を深めていくことが必要であると思います。
なぜなら、死ぬ時は自分で決めていきたいと言いますが、では誕生の時はどうだったのだろうと逆に思わせられるからです。(続く)

お庫裡から 2017年3月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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人権の研修会が名古屋で開かれ、豊田から参加した女性3人が昼食をとっていたとき、中の一人が「ネェ、世の中に平等って本当にあると思う?」と聞かれました。
私は「比較できるもので考えると平等はないですね」。
するともう1人が「いのちよ、いのちは平等よ」と。
それで私は「人はその課題において平等であり、その成果において個性的である」と前田俊彦の言葉を紹介したのですが、午後の講義の時間が迫っていたので、会話はそこで終わってしまいました。
その数日後、私は夕方から体調が崩れ動けなくなりました。
白湯も受け付けず、お腹も下って、5時間後、やっとベッドに移動できました。
ベッドに入ると、物を考え始めるのが私の悪い癖です。
そんな状態でベッドに入ったのに「課題とは何か」という問いが大きく私の頭の中を占領してしまったのです。
どれくらいの時間思索していたのかわかりませんが、ついに一つの答えにたどりつきました。
「課題は、二本の足で立てる大地が見つかること。」そうだった、そうだった。
自立するとまでは言うけれど、自立するにはその立脚地、大地が一番必要だった。
するとすぐに「大地が見つからなければ、何を付けても転んでしまう」という言葉が浮かびました。
わー、何て素晴らしい言葉に巡り会えたのだろうと、布団の中で小躍りする程の喜びに包まれました。
それでも時々気分が悪くなるので、「寝込むれば 老いがすり寄る すきま風」こんな気弱な俳句も浮かんできます。
また気分が治まると、先の言葉に続くように「大地が見つかれば、どんなご縁も杖となる」という言葉が浮かび、あっ完成したと思いました。
「課題は2本の足で立てる大地を見つけること。大地が見つからなければ何を付けても転んでしまう。
大地が見つかれば全てのご縁が杖となる。尚子」
嬉しくて、この言葉を何度も味わっているうちに、朝になっておりました。

今月の掲示板 2017年3月

テーマ:今月の掲示板

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  あいつは鬼みたいなやつだと言う
  都合がいい事が好きで
  都合の悪い事の嫌いな
  私の根性が、鬼を見ている

  われわれは迷っていると
  ありもしないものを見て
  それに脅かされたり
  腹を立てたり
  苦しんだりしている

  我々は、根本の問題を見失っている
  その根本の問題を見失っている我々に呼びかけて
  我々を根本の問題に呼び返すところに
  本願念仏の教えの大事な意味がある

  自分の始末がつかない
  自分の始末がつかないものだから
  あらゆる問題の始末がつかない

  自分の始末がついたときに
  一切の問題は
  片づかないままに片づく

  煩悩の根っこになっているのが
  分別(はからい)です
  これを破るのは大仕事です

  人間は色々のことで悩んでおる
  けれどその一番もとには
  自分に悩んでいるということがある

  色々のことに困っておる
  色々のことに困る一番のもとは
  自分自身に困っているということがある

 

本堂に座って 2017年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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毎月のお参りで、本山(東本願寺)から出版されている『真宗の生活』の文章を読んでいます。
この本は、本山から出版されている書籍から一部分を抜き出して掲載し、いろいろな本(12冊)を毎月少しずつ読むことができるように作られています。
今回はその中から、最近読んだ「老い」についてのお話の原文を紹介します。

 ひとのおもいや願いが叶わないことのひとつに「老い」があります。
老いに関しての一般的な考え方は、近代化の「以前」と「以降」では大きく違います。
近代化以前は大家族で、支える地域にも地縁血縁者にも囲まれて、老人は長老として敬老されていました。
近代化以降は、家族規模が縮小して核家族となり、老人の暮らしや介護などが外部化して、家族ではなく老人ホームなどへ移りました。
また、近代化以前は、老人のさまざまな知恵で諭す役割もありました。
そして、老親に孝行する風土がありました。
近代化以降は、産業化が進展し、労働力としては排除の対象となりました。
また、長寿となり、老いに対するイメージや考え方は「敬老される存在」から介護される存在となりました。
しかし、このことは「時代や社会」とともに変化するものとおもいます。
「時代や社会」が変化しても変わらない「老い」について考えてみることにします。
 お釈迦さまが出家する由来の物語として「四門出遊」というおはなしが伝わっています。
お釈迦さまは、今から2500年前、現在のインドの小さな国の王子さまとして生まれられました。
あるとき、お城の外へ出かけようと東の門から出ようとすると「老人」に、南の門から出ようとすると「病人」に、また西の門では「死人」にと、人生において逃れることのできない「老病死」に出会われました。
そして、北の門ですがすがしい出家僧に出会い、出家されたといい伝えられています。お釈迦さまが29歳の時のことでした。
 「老い」は、そのテーマである「老病死」のひとつであり、人間にとって逃れることのできない、じぶんの意志では叶わないことのひとつです。
「老い」に至る人生の歩みは、どれひとつも「夢」ではなく「事実」です。
老いの道中は、「叶わない」「意のままにならない」ことのなかで、苦渋を味わい、また、悲しみの中で、ひとはみ教えを聞き、正しく観ることを知ることになります。
それは、「あきらめ」ではなく、「正しく観る」ことで、他人事ではなく、「じぶん」のこととしてみえてくるのだとおもいます。
 ボクは樹木からさまざまな教えを聞いてきました。樹木は、陽春に芽吹き、新芽が育ちます。まるで赤ちゃんが育つかのようです。
次第に季節が初夏に向かえば、新緑の葉っぱは立派に育ちます。
そして、季節が移ろい秋になり冬に向かいはじめ寒風が吹き始めると、広葉樹の樹木は、錦秋の彩りをみせてくれます。
「老い」の輝きが艶やかにさえみえます。
ひとびとを、「もみじ狩り」に足しげく向かわせるのは、錦秋の彩りに秘められた多くの物語と出会うからではないでしょうか。
その背景には、春の桜にはない、「人生の趣」を感じるからのようにおもいます。
そして、落葉の季節を迎えます。
しかし、枯れ葉の後には、すでに新芽が準備されていることは、驚きです。
「老い」は、単独であるものではなく、「起承転結」のなかにあり、それは、「いのち」の連なりでありバトンタッチのときでもあります。
また、大地へ還ることは、「いのち」の源である樹木を肥やす滋養となるのですから、「老い」のはたす役割は「尊い」ものであるといえます。
「老い」もこのように考えてみると、「老い」をじぶんのものと独占していることが間違いであることになります。
じぶんの「老い」から、解放されて「つながり」のなかで考えてみてはいかがでしょう。
大きな「つながり」のなかに、「連綿とつづく」なかに「いのち」があります。そのなかに、おひとりおひとりの「老い」があるということです。
このように「老い」も、じぶんの手元から解放されてはじめて、「衰えること」から意味が転じて、大きな「いのち」として「よみがえる」という世界がみえてきます。
(『すべてが君の足あとだから-人生の道案内-』佐賀枝夏文 著より引用しました。)

今日も快晴!?2017年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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6年生の次男が、小学校を卒業するまであと一ヶ月を切る時期になりました。
身長はこの一年間で10センチ近く伸びて、ランドセルが飾りのようにちょこんと背中に乗っています。
毎朝玄関で「行ってらっしゃい」と見送るのですが、ランドセル姿もあとわずかと思うと、じんわり涙がにじみます。
小学生男児らしく、毎日誰か友達と遊ぶ約束をして来て、6時間授業で4時半頃に帰宅した日でも「遊びに行ってくる!」と飛び出して行きます。
そうかと思うと、自分の部屋にこもって扉を閉めて本を読みふける時間も増えました。
目立って反抗期というわけではありませんが、時折(何を考えているのかな?)と思うこともあります。
私は次男について、大変な思い違いをしていました。
自分が三姉妹だったので、友人から聞きかじった話をお手本に、「男兄弟はライバル関係にあり、仲が悪いわけでは無いけれど、成長したら進んで連絡を取り合うことも無くなり、滅多に口も聞かなくなる」といった兄弟像をイメージしていました。
幼い頃は、「物静かな長男と元気な次男」というイメージだったので、極力違った方面のことをさせて、二人が同じ土俵で勝負することが無いように、互いに違った分野で力を発揮できるようにと考えていたのです。
ところが、(活発な次男に向いているだろう。
左利きを活かせるし)と連れて行ったスポーツ教室は、1年半ほどで「やりたくない」と言いだし、あっさり止めてしまいました。
次に次男が自分から「これをやりたい」と言い出したのは、長男が通っていた「クルマづくり究めるプロジェクト」というものづくり系の活動でした。
中学に入ってやりたい部活は、長男と同じ「ロボット部」だと言います。「兄弟で競わせるのは止めよう。違うことをさせよう」というこちらの意図に反して、次男は長男と同じことばかりやりたがるのです。
最近になって、ようやく(ああ、次男は長男が大好きで、憧れのお兄ちゃんで、同じことがやりたいんだ)と気づきました。
二人は本当に仲良しで、喧嘩もせず、毎日学校から帰ると二人で延々と楽しそうに好きな漫画や小説、アニメや音楽のことなど話し続けています。
子どもは、親の思いを超えて育ってゆきます。
(この子はこういう子だろう)という固定概念を易々とぶちこわして、思いも付かないような面を見せてくれます。
毎日、「今日の晩ご飯は何~?」と言いながら帰宅する子ども達に、あと何年ご飯を作ってあげられるのだろう?
「次はこれ読んで~」と、毎晩寝かしつけの読み聞かせをねだる子どもに、あと何冊本を読むことが出来るだろう?
次男は4月から一体どんな中学生になるのだろう?
学校で過ごす時間も増えて、部活、テストの成績、反抗期等々、親としては(こんなはずじゃ無かった!)と思うことも多々あるとは思いますが、「どんな風になっても大丈夫。どんなあなたでも愛していて受け止める」と、言ってあげられるかどうか。
まだまだ親が試される日々が続きます。

清風 2017年2月

テーマ:清風 【住職】

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近代文明ほど、人間に対して敵 対的な文明は歴史上存在したことがない。
それは、スリリングな文明であり、人を憩わせることがない。
これが史上初めてのヒューマニズムを標榜する文明であったことは、それ自体スリリングな逆説である。

『荒野に立つ虹』渡辺京二著(P139 葦書房 1999年10月初版第1刷)
(現在は『新編 荒野に立つ虹』として弦書房より刊行(2016年11月)されています)
著者…1930年生まれ、思想家。
著書『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞受賞、平凡社ライブラリー)『黒船前夜』(大佛次郎賞受賞、洋泉社)など。


刑法で禁じられているはずの賭博を合法化する議員立法(カ ジノ法・IR法)が、多くの欠陥が指摘される中、衆議院の委員会の6時間にも満たない審議で与党の多数で強行採決され(参議院の内閣委員会では16時間の審議)、賭博を禁じた刑法のもとで民営賭博を認めるという、法秩序の大転換に向けた決定がされた。
今後、こうした問題を含むカ ジノ法は、安倍首相を本部長とする「整備推進本部」のもと、有識者による整備推進会議やカジノ管理委員会の設置が予定されている。
カジノ法による賭博場は、1日24時間、365日休みなし、賭け金額の上限がない。
カジノの公益性とは何であろうか。
詳しいことは、カジノ法の下に設置される諸会議で慎重に(?)審議されていくことを期待したい。
要するにこの法は、施設が稼働すれば経済的効果が大きく公益性を満たすという論法が繰り返された。
経済効果があれば、賭博依存症というような人を生む可能性が多分に予想される「人間に対して敵対的な施設」が、政府の音頭取りで合法化されていく。
まさに近・現代の文明の一つの象徴と言えようか。
ヒューマニズムとは人間尊重という主義ではなかったのか。
人間を非 人間化する施設が経済効果の大義を付けて合理化されていく。
人間のための経済が、経済(利潤)のために人間が資源として使われる事態が、堂々とまかり通ることとなった。

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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