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本堂に座って 2017年5月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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今年も昨年に引き続き、3月27日~31日まで「福島のみんな!あそびにおいでんプロジェクト」(原発事故による放射能の影響を軽減するための保養事業)が開催されました。
守綱寺には27日~30日まで、昨年と同じくMさん一家をお迎えし、裏の広場で遊んだり、福島での現状を聞かせてもらったり(詳細は『今日も快晴』を読んでください)と、充実した4日間を過ごすことができました。
「おいでんプロジェクト」は、原発事故後の福島の状況へ強い思いを持った皆さんが立ち上げ、ちょうど同じ頃「保養事業を企画していきたい」という思いを持っていた真宗大谷派岡崎教区が主旨に賛同し、「共催」の形で開催されています。

原子力発電所の稼働は、原発作業員の被ばく労働に支えられる社会を生み出し、ひとたび放射能に侵されればその地域や国土の風評被害を含め、そこに住む人々までも排除してしまうような「差別社会」を助長します。
(中略)さらに、このたびの事故により原子力を利用する限り、現在のみならず未来のいのちをも脅かす放射線被曝を避け得ないことが明らかになりました。
(「原子力発電所の再稼働に対する真宗大谷派の見解」2012年4月23日 より抜粋)

いのちは生きる場所を失っては生きられません。人のいのちが育まれる大地とは、人と人が共に生きあえる社会であります。
いま願われることは、被災された人々の悲しみに寄り添い、引き裂かれた関係性を回復していくことではないでしょうか。
(「九州電力川内原子力発電所の再稼働に関する声明」2015年8月10日 より抜粋)

他のいのちを顧みないものは、自らのいのちも見失います。そして、それは未来のいのちをも脅かすことになるのです。
(「関西電力高浜原子力発電所の再稼働に関する声明」2016年2月1日 より抜粋)

福島第一原子力発電所の事故による放射性物質の拡散に伴い、多くの子ども達が地元を離れて避難生活を送ったり、外で長時間遊ぶことができなかったり、行動の自由を奪われている状況があります。
何よりも、福島県内では、小さな子ども達が低線量被曝を今もなお余儀なくされている状況に本当に悲しい気持ちで一杯です。
子ども達の被曝を避けるために避難したほうがいいのは分かっていても、様々な事情で「避難」「疎開」できないご家庭が多くあることを聞きます。
それは、美しい故郷への強い想いや、家族との強い絆、私達には簡単に言葉で言い表せない事情があるのだと考えます。
福島のママからは、このような言葉をよく聴きます。
「子ども達が、以前のように、自由に砂場遊びができて、自由に川で遊べて、自由に外で走り回れたらいいのに・・・」福島の子ども達が、笑顔で過ごせる機会をたくさん作りたい!私達の中で、強い想いが芽ばえ、このプロジェクトを立ち上げました。
フランスの医師であるミッシェル・フィルネックス博士も、「放射能から子ども達を守るために最も重要なことは、食べ物による内部被曝を避けることと、子どもを汚染地域外でしばしば休養させることも効果的である」と述べています。
福島の子ども達に必要なことは、数日から数週間の短期間の保養でも、体内の放射性物質を減らし、自由に野外を駆け回ることでストレスを発散することだと考えます。
また、日ごろ子ども達の被曝に気を遣っているお母さん達にとっても、心配をせずに子ども達を自由に遊ばせることができることから、同じようにリラックスできる良い機会だと思います。
なかなか知ることのできない福島のお話を聴き、今回の事態について、みんなで話し、一緒に考える機会を作りたいと思います。
全ての地域の、すべての世代の方々ができうる限り健やかに暮らす社会こそが、子どもたちの明るい未来を作っていくと信じてやみません。
(「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト」FBページより抜粋して引用しました。)

本山・真宗大谷派の見解・声明とおいでんプロジェクトの願いに重なる部分があり、その願いに共感したことから、日程の合う際には受け入れ寺院として手を挙げているのですが、原発事故に対する思いや状況がだんだん変わっていくのを感じます。
変えるべきところは変えながらも、継続して関わっていきたいと思っています。

 

今日も快晴!?2017年5月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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この春休みに、岡崎教務所との共催による「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト(若院さんのお話参照)」が開催されました。
守綱寺でも、3月27日から30日までの4日間、福島からMさん一家をお迎えすることになりました。
福島のお母さん達と同じように子育て中の身であること、地震、津波、原発事故、未曾有の災害に「何かしたい。けれど、何が出来るだろう?」と模索していたので、ここ豊田に居ながらお手伝い出来ることがあるなんて、本当に幸せだ、ありがたいと思いました。
おいでん開催中は、お寺で活動している「寺っ子クラブ」のメンバーが中心になり、企画から準備から様々な面でお手伝いをしてくれました。
27日は福島からの移動にあててもらい、28日は読み聞かせ会の「春休みお楽しみ会」を開催していたので、劇や合唱、朝市でのお買い物を楽しんで貰いました。 
午後からはMさんを囲んでお話会を開き、福島での今の生活について聞かせて頂きました。
除染しても捨てる先が無いから、庭先にシートなどに覆われて除染した土がそのままになっている、子どもたちが知らずにその山で遊んでしまう。
雨が降ると線量が上がる、排水溝の側溝なども掃除が出来ない、隣のリンゴ農家さんからリンゴを頂くけど、除染や放射能対策を十分にしていないようなので、とても子どもには食べさせられない、甲状腺検査を受けたものの、全国のデータなどと比較が出来ないから「みんなそうだよ」「心配無い」と言われても、本当にそうなのか不安は残る。
聞かれたら「保養に行く」と答えるけど、自分からは言わない。
表だって放射能などの話はしにくい、etc・・・といった福島の現状を聞くことが出来ました。
Mさんの「何も変わっていない」という言葉が、胸に重く残りました。
政治家や外にいる人間が、安易に「安全だ」「いつまで放射線と言っているのか」など言うべきではないと思います。
夜は引き続き、寺っ子クラブ有志でカレー作りでした。
お米や野菜を差し入れして下さる方があったり(河合明子さんがたくさんの食材を差し入れして下さりました。ありがとうございました)、朝市に出店されていた「てくてく農園」さんが卵を差し入れして下さったり、おかずを届けてくれる方があったり、皆さんの温かい気持ちのこもった美味しい晩ご飯でした。
29日は、三河名物の五平餅を作って一緒に食べ、夜は守綱寺の竹やぶで掘った筍を使って山菜おこわを頂きました。
30日は、「野草を食べる会」を企画して、守綱寺の境内を回ってカラスノエンドウ、タンポポ、ツクシ、よもぎなど集めて調理して皆で頂きました。
どの日も、入れ替わり立ち替わりたくさんの人に関わってもらえました。
子どもたちは守綱寺の広場を駆け回り、土手滑りや鬼ごっこ、焚き火など思う存分外遊びを楽しみました。
すっかり打ち解けた子どもたちが仲良く遊ぶ様子は感動的でした。
朝は本堂の縁の雑巾がけ、参加者の皆で夕方のお勤め、食前の言葉の唱和など、お寺ならではの活動を通して、仏さまの願いを感じながらの活動になったのではないかと思います。
「福島」や「放射能」が、テレビの中の遠くの世界の出来事ではなく、自分の友達が暮らす場所の問題なんだと思えることが、無関心や無理解を無くしてゆく第一歩だと思いました。
原発いじめの問題も、同じようにしてでなければ解決できないのかなと思いました。

 

清風 2017年4月

テーマ:清風 【住職】

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あなたはあなたで在ればよい
あなたはあなたに成ればよい   釈尊
 


もう60年ほど前、アメリカの映画の主題歌で我が国でもよく歌われた「ケ・セラ・セラ」は、各フレーズの最後に「なるようになるわ さきのことなど わからない わからない」という言葉が繰り返されました。
歌詞は知らなくても、この繰り返される部分のみは覚えている方もおられると思います(私もその1人です)。
この歌が流行したずーっと後に、聞いた言葉が次のようなものでした。

どうかならなければ幸せになれないものは
どうなってでもその幸せは 長くは続かない  釈尊

そして現在、私どもがよく聞く言葉は「いのちは尊い だから 大切にしなければならない」というものです。
この言葉を聞いて、何か落ち着かない―もう少し言わせてもらえるならば、何かうさん臭さを感じるのはなぜなのでしょう。
今よく使われる言葉で言うならば「上から目線」ということでしょうか。
「ケ・セラ・セラ」で繰り返されるフレーズ「なるようになるわ さきのことなど わからない わからない」を聞くと、妙に納得したというか「わかりました」と引き下がらずにはおれないものを感じさせられたことですが、どうでしょう。
私は冒頭に掲げたこの釈尊の言葉に出遇い、「そうか」と思わせられたことでした。
それは、こういうことかと思います。
「いのちは尊い」と言われてきたのは、物のように代わりはない―つまり「私のものではない、他人のものもない」という至極当たり前の事実を表現しているということ。
そうです、「いのちはいのちのもの」であったのですし、あるのでしょう。だから「いのちは尊い」と言われてきたのです。
つまり端的に言って、いのちは与えられたもの、私に預けられたものであったのです。
では、預けられたいのちは、私に何を願っているのでしょうか。
それを表現しているのが、上に掲げた釈尊の言葉であったのです。
俗にも「(私の)思うようには ならないけれど なるようには なる」と言われています。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

テーマ:ブログ

3・11から6年、今年は7回忌の年です。
あの震災から2年半ほど経過した2013年10月11日の午後、自動車のラジオを聞いていたとき、今もよく覚えている「失ってみなければ、日頃の暮らしの有り難さはわからないと思います」という言葉が聞こえてきました。
当時は毎月11日には、ラジオ・TV、新聞でも東北の人たちのことを忘れまいと、現地からの状況が伝えられてきました。
その企画で現地の人々へのインタビューの中での発言でした。
葬儀は、一言で言うなら、縁あった方が亡くなったことによって行われるものとも言えるのでしょう。
亡くなったその方との縁の有りようは様々でしょう。
縁はいろいろなのでしょうが、実は残された者は亡くなった方からどういうメッセージをいただいてゆくか…という縁(場)でもあるのです。
その時に、亡くなった方を「仏さん」と呼んできた故事が、今この現代という時代にあって、私はあらためて思い起こされるのです。
それは1面にも書きましたように、いのちは誰にあっても「与えられたもの」だからです。
与えられたものを私有化している、それを人間は知恵を持ったばかりに忘れてしまった。
そのことに気付けという催促をいただいている場(縁)、それが仏式で葬儀が行われている意味なのです。
そのことを詠んだ詩「生」(杉山平一 作)を紹介します。

ものを取りに部屋へ入って
何を取りに来たかを忘れて
戻ることがある
戻る途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時は すばらしい

身体が先に この世へ
出てきてしまったのである
その用事は何であったのか
いつの日か思いあたるときの
ある人は 幸福である
思い出せぬまま
僕はすごすごあの世へ戻る

私がこの世へ出てきた「その用事は何であったのか」を改めて問う、その「尊いご縁」を「今、いただいている」、それこそが葬儀の場からの新しい出会いをいただくスタートであったのだと。
とすると、「安らかにお眠りください」と、もし弔電などで発信すれば、「目を覚ませ」と身体(からだ)全体をあげて亡くなった方が教えてくださっている縁を、その方はまったく活かせていないという錯覚で終えてしまうことになると。
釈尊は、まことにそれは残念なことだと。目を覚まさなければならない、眠っている私がせっかくのご縁を生かせていないと。
「失ってみなければ、日頃の暮らしの有り難さはわからない」との貴重な体験の中からの言葉を冒頭に紹介させていただきました。
ここには人間(他ならぬ、この私)の2つの悲しみが述べられています。
1つは文字通り「失う悲しみ」でしょう。
もう1つは(これこそ私どもへの最も大切な伝言だと思うのですが)失ってみなければ、日頃の平々凡々と思える繰り返しの日常生活が「有ること難い」、それこそ「奇跡」であるのに、そのことに気づけない。
それが知恵をいただいている人間であることの悲しみであると。「眠っているのは、お前(私)ではないか」と。
なぜなら、その大事なご縁を「安からにお眠りください」と言って他人事にしてしまっている、と。
仏法を聴聞してこられた先輩は、仏式で行われる葬儀こそ、教えを聞かせていただく場であると、身を運ばれていたに違いありません。
今でも亡くなった方を「仏さん」と呼ぶのは、こうした伝統の賜(たまもの)以外のなにものでもないのですから。

 

お庫裡から 2017年4月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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新しい学生服がハンガーから下がり、誓くんの中学入学の日を待っています。
3才の頃、『ナルニア国物語』(C.S.ルイス著)に夢中になり、「ぼくのこと、エドマンドと呼んで」と言い、戦う騎士エドマンドになりきって何日も過ごしていたことを、懐かしく思い出します。
3月で12才になった誓くんは、相変わらず夢見る少年で、頭の中は空想でいっぱいのようです。
時々聞かせてくれる空想は、アニメのキャラクターと映画のシーンの合体、仮想宇宙の戦いetc.etc.70才の頭では、とてもついていけぬ話ばかりです。
この夢見る少年が、この先ぶつかるであろう現実、出遇わねばならぬ自分自身、それらにどう悩み、どう苦しみ、どう育っていくのか、限られた時間の中で、そばにいて見守れるのは、老いの楽しみの一つです。
私の人生まだ途上ですが、後に続く若人に、是非一つ伝えておきたいことがあります。
悩みにぶつかったら、その悩みから逃げず、大事に抱えて、自分の心と向き合い続けてもらいたいと思います。
浅い悩みは、割合早く解決しますが、悩みの出どころが深いと、解決までに何年もかかるものです。
人間に限りなく近いチンパンジーは、悩むということがありません。
悩むというのは、人間だけに与えられた特権です。
悩みは必ず解決します(しかし、自分の思った解決ではないはずです)。
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」
(『歎異抄』第9章より)その呼びかけに「ハイ」と返事ができる時、そこにはじめて支えられている大地(浄土)が見えるのです。
私はその道を、今、歩んでいます。

今月の掲示板 2017年4月

テーマ:今月の掲示板

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  何ものにも頼らなくてもいいいのちを
  もうすでに
  私は頂いている
  そのいのちを
  あなたはどう生きてくれますか

  自分の思いを強く持っているから
  救いとは
  自分の思い通りになることだと
  疑いもせず信じている

  いのちが尊いとどこで言っていますか
  健康で長生きがその中味ですか
  比べるものではかっていませんか

  煩悩というものは
  人間をつかう
  起こした人間をつかう

  本当がわかってから
  後で間違いが知れるのではなしに
  間違っていたと気づいた時に
  本当の世界が私に受け取れる

  人間の基礎知力は
  悩むということです

  死んでいける言葉を持っている人は
  生きていける

  六字の名号(南無阿弥陀仏)は
  仏さまが我々に呼びかけられている言葉
  南無せよ
  おまえ、間違っておるぞ
  自分のまちごうた姿に目覚めよ

本堂に座って 2017年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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このところ、葬儀や法事についての考え方やあり方が変わってきている…と耳にすることが多くなりました。
家族形態の変化・人間関係の希薄化など様々な理由が挙げられますが、何より儀式を勤める意義がわからないことが一番の要因なのだと思います。
そうした中で、法事を勤めることを「亡き人からの願いに遇い、また仏様の教えやその呼びかけに出遇う、大切なご縁である」として、著者であるご住職が実際に法事の場で話された内容を掲載している本から一部を紹介します。

仏教が問題にしているのは私たちの心です。その心はどんなものか、私たちはどういう心で生きているのか、どういう心で人を見ているのか、どういう心で自分自身を見ているのか、ということを問題にするのです。
そういうことを前提に考えてみると、私たちが一番当てにしているのは「愛」や「優しさ」でしょう。
優しさという言葉は、聞いただけで心がなびくような気がします。
思いやりや愛というのは、優しさを含めて大切なことだと思います。
しかし、これを唯一絶対のものとして決めつけてしまうと人生を誤るかもしれません。
人間の愛の正体を知らないと、それを間違いないものと決めてしまう。
人間の愛は常に育てられ続けないと、いつでも崩れてその本質を失ってしまいます。
(中略)愛とか友情というものは、育てられないと別なものに成ってしまうのです。
(中略)この愛というものの正体は何かというと、それは「エゴイズム」ということになるのです。
エゴイズムということは「自我」です。そういうことを知っておかなければいけないと思うのです。
「愛」を初めから否定することはできませんが、人間がもっている愛というものの中身は何かということです。
だから忘れてはいけないことは、いくら優しい愛であっても、いつでも“自我の心”に転落してしまうことがあるということです。

覚るということ、目覚めるというのは心の問題です。
少し誤解されていますが、迷うのは心です。
取り違えるのも心です。
救われるのも心です。
ものをどう見ていくかでしょう。物事や人をどう見るかで、救われるかどうかが決まるのです。
どんな大切な人でも生きている間は、その人の本当の良さはわからないものです。
死んでしまってから、自分のことをこんなに考えていてくれたのかと、遅まきながら気づくのでしょう。
生きている時にわからなかったというのは、自分の判断する心が狭いからです。
私たちの大きな課題は、その思い込みという枠をいかに取り払うかです。
大切なことなので繰り返しますが、迷うのは心です。
物事を判断するのは心なのです。
身と心は繋がっているので分けられないのですが、どちらかといえば、物事を見たり、判断したりする心が迷いを作っているのです。
これは「識」といいまして、分別のことです。
この分別というのは、みなさんにもあります。
「分別がある」と世間ではいい意味で使います。
ですが、この人は大切な人、この人は大切でない人と分けるでしょう。
この人は絶対いてもらわないと困る人、この人はいてもらったら困る人と。そういうように、心が分別するのです。
「身近な者のことはわからない」とよく口にしますが、わからなくさせているのは、あなたの判断、分別ですよということです。
そういうことを仏教は教えているのです。
気がつかないのだけれども、一緒に住んでいて面倒くさいとか鬱陶しいと思った時でも“分け隔てる心が起こっていることに気がついてほしい”と常に仏様は、はたらきかけてくださっているのです。
また大切な人と別れることになった時、今まで我慢ばかりしてきたが、それはとても大事なことだったと後でわかることも多くあるでしょう。
今はわからなくても、そういうご縁があれば私たちは気づくことができるのです。
こう考えてみると、人間の判断力で全てがわかるわけではありませんね。
全体の半分か3分の2ほどはわかっても、残った重要なことがわかっていないのではないでしょうか。
そういうことを知ることは、とても大切なことだと私は思います。
(中略)自分の思い込みによって、他人を傷つけたり、自分を大事にできなかったりするのですから。
(『ご法事を縁として 亡き人からの願いに生きん』伊藤元 著 東本願寺発行より引用しました。)

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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