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今月の掲示板 2017年1月

テーマ:今月の掲示板

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  君は何しに
  この世に生まれてきたんだね 西村見暁

  平和、平和と君は言うが
  君は
  平和の人なのかね

  悩むというのは
  人間の基礎知力なんだよ
  せっかく悩んでいるのだから
  その悩みを
  深く掘ってみたらどうかね

  育児は育自

  勝つとか負けるということを考えている限り
  一つになれることはない

  私の身にふりかかるご縁が
  常にそこを「どう生きてくれますか」と
  私に問いかけている

  惑い、苦悩した時こそ
  立ち止まらねばならない

本堂に座って 2017年1月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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2016年は「改憲」の話題や参院選などがあったことから、守綱寺でも「憲法カフェ」を開催するなど、日本国憲法についての話を聞く機会を今まで以上に持ちました。
年末には法律学の研究者であり真宗の教えを深く聞いておられる平川宗信先生のお話を聞かせていただきました。
今月は、平川先生が新聞に寄稿された真宗の教えと日本国憲法についての文章を紹介します。

私は、現在の日本国憲法は本願に照らして高く評価できる憲法だと思います。
日本国憲法は、前文で、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言しています。
「恒久の平和」は「浄土」と、「崇高な理想」は「本願」と重なります。
そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるのは、本願が全人類に届いているからでありましょう。
これは、「日本国民は本願に立って平和を守る」という宣言です。
そして、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭」そして「恐怖と欠乏」をなくそうとする決意は、「地獄・餓鬼・畜生なからしめん」という大無量寿経の第一願「無三悪趣の願」と重なります。
戦争は「地獄」、欠乏は「餓鬼」です。
専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖は人間を「畜生」にするものです。
さらに、戦争放棄・戦力不保持を規定した第九条は、釈尊の「殺すな、殺させるな」という不殺生戒、大無量寿経の「兵戈無用」(武器も兵隊もいらない)と重なります。
私は、日本国憲法は、武力ではなく本願力を恃(たの)み、本願に願われた世界を求める国家を目指した「本願国家宣言」だと思います。
これに対して、改憲案の前文は、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、(中略)天皇を戴く国家であ」り、「(困難)を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」とした上で、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」、「経済活動を通じて国を成長させ」、「国家を末永く子孫に継承するため」に「憲法を制定する」としています。
ここでは、国家が前面に出され、その歴史・文化・天皇制や発展が誇られています。
ここには、地上の国家は「穢土」であるという、如来の視点はありません。
国民は、国土防衛、経済成長、国家の継承のための存在とされています。
これは、国民を国家に従属する「畜生」とするものです。
また、経済成長を国家目標とすることは、「餓鬼」でありましょう。
改憲案では、平和主義も、友好関係の増進と平和・繁栄への貢献という、抽象的な内容にされています。
そして、第九条は自衛戦争を認める規定に変えられ、国防軍の保持、国際的軍事行動への参加、軍事法制の整備等を定める条文が新設されています。
これは、戦争・「地獄」を求める国を目指すものです。改憲案は、「地獄・餓鬼・畜生」の「三悪趣国家」を目指す物といわざるをえません。
真宗者が選ぶべき憲法が現行憲法であることは、明らかだと思います。
ただし、現行憲法を護れば問題ないというわけではありません。
また最近は、解釈や立法で憲法を済し崩す動きも顕著です。
このような動きも阻止されなければなりません。
とはいえ、現状を座視・黙認・支持して支えているのは私たちです。
そこには、三悪趣を生きる私たちがあります。私たちは、三悪趣に安住するような念仏しかしてこなかったのではないか。
真宗者には、今こそ親鸞聖人の念仏に立ち帰ることが願われていると思います。
(中日新聞2015年2月27日付『真宗者と現代社会(下)』平川宗信 著より引用しました。)

憲法についての話を聞くたびに、「憲法の理念は仏教・真宗に通じる」と何となく感じていたのですが、平川先生のお話を聞いてハッキリしました。
自分がどんな世界を願っているのか…それを見つけ出す“学び”を深めていきたいものです。

今日も快晴!?2017年1月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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先日、弁護士の間宮静香さんの「大人の都合と子どもの人権~小さくても一人の人間だから~」という講演会に参加しました。
間宮さんは、春に子どもの通う高橋中学校にいじめについての講演に来られていて、その時のお話もとても印象に残るものでした。
弁護士として実際に担当された子どもさんの例を交えながらの講演は、事実に裏付けされたとても説得力のあるものでした。
「うん、うん」と頷くことばかりでしたが、記憶に残っている部分を少しまとめておくと、、
「傷害事件を起こして捕まる子どもは、ほぼ殴られて育っている。」
「子どもは、自分が幸せでないと『寂しい。おれを見てくれ』と非行をする」
「子どもは、自分が大切な存在だと分かれば、自分で問題を打破できる力がある。
自分は受け入れられているという実感が重要。
だから、子どもの気持ちを優先する、
子どもに自分のことを決めてもらう、大人は子どもの力を信じてサポートする。」
「愛された実感のある子は、時間が掛かっても戻ってこられる。けれど、一度も愛された実感のない子は時間が掛かる。ネグレクト(育児放棄)を受けた子どもは、人間関係の構築が難しい。」
「見守ることの大切さ・・・傷が深ければ深いほど回復には
時間が掛かる。子どもが10年後に幸せならそれで良し。大人が焦らない。」
中でも、「大人にとっての『子どものため』から、子ども中心の視点に戻すこと」という部分は、タイトルにもある「大人の都合」とも重なる内容で、本当に親として気をつけなくてはいけないと思いました。
例えば(この例は講演の内容ではありませんが)、受験の時期にありがちな「ちゃんと勉強しなさい!高校くらい行かないと!あなたのために言っているのよ」と言う言葉が、実は「中卒の子どもを持つ自分(親)が恥ずかしい」というように、「子どものため」ではなく、「親の都合。親が自分の面子のため」に言っていることがあります。
子どもは、親の本心を的確に見抜いて傷つくのだと思います。
我が家も来年はいよいよ長男が受験の年を迎えますが、「子どもは親の所有物ではない」、「子どもを一人の人間として尊重する」という基本姿勢は崩さずに、「この子が将来、どういう大人(人間)になって欲しいと思うのか」を考えて、子どもと向き合って行きたいなと思いました。
また、「ネグレクト(育児放棄)」と言う言葉は、最近よくニュースでも聞きますが、「愛された記憶の無い子ども」なんて、想像しただけで胸が苦しくなりました。
最低限自分の子どもたちは十分な愛情で満たしてやりたいと思いますが、私たち大人は、今虐待を受けたり、辛い気持ちで毎日を過ごしている子どもたちに一体何が出来るのでしょうか?
間宮さんのお話で、「ある子どもが、道を歩いていてすれ違った人に『おはよう』と声を掛けられて、自殺を思いとどまった」というエピソードがありました。
その他、親や血のつながりは無くても、(この人は信じられる)という人と出会うことで、子どもが立ち直ってゆくきっかけになることもあるそうです。
大人の姿勢が問われているのだと思います。

清風 2016年12月

テーマ:清風 【住職】

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当たり前にある日常のありがたさを胸に 僕たちはグラウンドに立ちます
2016年、春の甲子園・選抜高校野球 選手宣誓

 

今年も1年が暮れようとしています。
今年の出来事の中で感銘を受けたのは、この高校生の宣誓の内容でした。「
当たり前にある日常のありがたさ」、この言葉を聞いてどう感じられるでしょう?皆さんもこの一言に「人間は捨てたものではないな」と思われたのではありませんか。
豊かさと言えばいいのか、深さと言えばいいのか、とにかく人間が成熟していくとすれば、進歩とか経済成長とかいろいろ言われている中で、「それは何のためか?」の一言がなければ、それらは全て空虚なる内容のない言葉でしかないということになるでしょう。
進歩と言い、経済成長と言い、いわゆる「経世済民」と言われるように、世と民を潤していかなければ、逆に民が経済成長の僕(しもべ)となり、つまり経済成長のためにのみ国民が位置づけられていく、全く逆転した様相になっていくのでしょう。
何のための経済成長か ― 人間が経済成長を目的として生きるとすれば、いったいどれだけ豊かになれば、もう経済の成長は十分だと言えるのでしょう。

経済成長のために一流企業の社員が過労死を強いられているというニュースを聞くと、暗澹たる思いにならざるを得ません。
いただいたいのちは、私(人間)に何を望んでいるのしょうか。

「当たり前にある日常」こそが「有ること難い」ことだと、来年はあらためてこの言葉の持つ意味を味わいながら歩みを進めていきたいと思います。

「和讃」に聞く 2016年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】



清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。
究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
(註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

一面の「当たり前」についての文章の最後に、「いただいたいのちは、私(人)に何を望んでいるのでしょうか」と記しました。
皆さんはどう思われますか?「いのちは大切だ」「いのちは尊ばれなければならない」と言われますし、また自分で言いもします。
では、いのちは尊いと本当に思っているのでしょうか?また思っているとすれば、なぜその尊いいのちを殺したり自死をするということが、進歩した現代においても頻繁に起きるのでしょうか?
まぁそれはくちばしの黄色い青二才の言うことであって、しばらく放っておけば他へ議論が移っていくと高を括られている、状況まかせにされてしまっている様です。
国民の側(私)も、人間観としていのちが尊いと言いながら、実際には自分にどれだけ付加価値を付けるかということになっているのではないでしょうか。
付加価値を付ける…受験はその近道と考えられているのでしょう。学歴は、付加価値としてはまだまだ評価の高いものとされています。
かつては受験戦争とまで言われたものです。
付加価値(健康・肩書(地位、役職)・財産などなど)とは、比較しての話ということでしょう。
つまり、いのちも比較の上であって、いのちそのものが尊いということは全く問題にもされません。
それが現代の偽らざる人間観だと言っては言い過ぎでしょうか?
ものではない「いのち」そのものは、いったい人間(私)に何を願っているのでしょうか。
今一度、「問いかけるもの」という面からではなく「問われているものとしての私」という視点が回復されねばならないのでしょう。
その時、一面でとりあげた「当たり前にある日常のありがたさ」に帰らされるというか、平凡な「日常」が私にとっての新たな光源となってくるのでしょう。
では「畢竟依」とは何を指すのか…。「忙しい」、他ならぬこの私も、また相対的なことを「畢竟依だ」としているということでしょう。

お庫裡から 2016年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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11月15日夜、我家に悲しいニュースが飛び込んできました。
甥(姉の長男)が亡くなった、という知らせです。
脳腫瘍という病名がわかって約1年、今年のお正月明けに手術をし、良くなってくれるものと思っておりました。
しかし、願いはなかなか叶わず、秋に入ってから再入院をしておりました。
甥は私たち姉妹の初子なので、私にとっても誕生の時からとても印象深く、たくさんの記憶が残っております。
小さいときから理解力に優れ、気性は穏やか、時にはおちゃめで、我家の娘たちにとっても、頼もしい誇らしいお兄ちゃんでした。
名古屋大学から大谷大学に進み、インドへ留学、また名古屋大学へ戻り、結婚後はアメリカのハーバード大学で学び、若くして名古屋大学の准教授になったと聞いた時は、「いとこの中の誉れ星だね」と、娘たちと喜び合ったものです。
頼りの長男に先立たれた悲しみに、義兄は一回りも二回りも小さくなったように思います。
姉は悲しみを内に秘め、気丈にふるまっています。
ふとんに横たわる甥の姿は、鼻高く、眉凛々しく、ああこの子はこんなにハンサムだったんだ、こんなにも背も高かったんだと、大人になっていた甥を(小さいときの記憶が強すぎて)再発見する思いです。
中学、高校の2人の子どもと妻と両親、102歳の祖母を残し、学究半で彼岸に旅立つことが、48歳の甥にとって、どんなに無念であったことかと思うと、涙が止まりません。
本当に惜しいことだ、残念なことだと涙があふれます。
彼岸では、9月に逝った母が驚きながら「あれー、俊也、早く来たねぇ」と父と一緒に手を取り合って迎えてくれたことでしょう。
私も必ず。
待っていてください。

今月の掲示板 2016年12月

テーマ:清風 【住職】

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  己こそ 己のよるべ
  己をおきて 誰によるべき
  よく調えられし 己にこそ
  まこと得がたきよるべをぞ得ん (法句経より)

  真の救いは
  自分が自分で独り立ちして
  他の支柱を要しないこと

  自分に頼れば
  大悲は姿を見せない
  否、あっても見えない

  ころころ変わる自分の心なのに
  その心を私たちは
  神よりも仏よりも確かなものと信頼している

  自己が否定されて
  初めて本当の自分に目覚める

  偽になったら もうええだ
  なかなか偽になれんでのう (源左)

  阿弥陀が なぜ我が名を呼ぶことをもって
  (念仏を称えること)
  救済としたのか
  そのいわれを聞き抜くことが
  信心獲得のための第一歩だ

  他力の信心は善悪の凡夫
  ともに仏の方よりたまわりたる信心なれば
  源空が信心も善信房の信心も
  更にかわるべからず
  ただ ひとつなり
  わがかしこくて信ずるにあらず (歎異抄)

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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