<<最初    <前    1  |  2  |  3  |  4  |  5    次>    最後>>

今日も快晴!?2017年8月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

syukoji_09090905.jpg


友人のピアニスト、白神由美子さんの紹介で、8月22日の守綱寺絵本読み聞かせの会「夏休みお楽しみ会」で、絵本ミュージカル「ひまわりのおか」チャリティコンサートを上演することになりました。
守綱寺ファミリー合唱団のメンバーも増えて、子どもたちも少しずつ大きくなってきた今、新しいことにチャレンジ出来る良いチャンスだなぁと思います。
「ひまわりのおか」は、津波で子どもたちを失った8人のお母さんが、丘の上にひまわりを植えて育てているという実話を元にした絵本です。
ソプラノ歌手の方が参加して下さったり、クラリネット&パーカッション&ピアノの「クピパトリオ」さんが加わって下さったり、普段とは違った雰囲気で本番がとても楽しみです。
是非大勢の方に足を運んでいただきたいと思います。
守綱寺が関わっている「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト」では、原発事故による放射能の被曝から子どもたちを守りたいと願う福島のお母さん達の声を聴かせていただきましたが、津波によるこうした被害の声も、また震災の現実です。
「3.11を忘れてはいけない」と思うものの、日常生活の中で、どうしても震災も津波も原発事故も忘れがちな自分がいます。
地震や津波の被害を忘れないということは、自然の前では、人間というのは無力でちっぽけな存在であることを忘れないということ。
原発事故を忘れないということは、「科学の力で何でも思い通りになる」というおごった心は間違いだということを忘れないということだと思います。
丁度たまたま図書館で手にした司馬遼太郎さんの「21世紀を生きる君たちへ」という本の中の文章がとても素晴らしかったので、一部を紹介したいと思います。
『人間は ―くり返すようだが― 自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。―人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
同時に、人間は決して愚かではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、という素直な考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前に繰り広げてみせた。
二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。』

本堂に座り、仏さまに手を合わせるということは、「願いが叶いますように」という意味合いではなく、「また自分は大事なことを忘れていました」という気付きなのだと思います。

お庫裡から 2017年7月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
syukoji_09090902.jpg

何年か前、種から芽が出たと枇杷の苗を何本かいただき、適当にチョイチョイと植えておきました。
あれから何年経ったのか、庫裡横のフェンス脇の木が大きく育ち、去年暮れ、初めてたくさん花を咲かせました。
先月のコーラスの時、メンバーが「小さいけれど、うちで採れたサクランボ」と差し入れをしてくれました。
練習後「おいしいね」といただきながら、「よく鳥に食べられなかったね」「そりゃ、鳥は来るわよ。だからお父さんと難儀してネットをかけたのよ」。
そんな会話を聞いて、突然、枇杷の事を思い出しました。
見に行くと、あちらこちらの枝に沢山実が付いています。
万才!今年は家成りの枇杷が食べられるぞ。
よーし、まずネットだ。JAでネットを買ってきましたが、木が髙過ぎてネットがかかりません。
木をよーく見ると、実が付いているのは下の枝ばかりで、上に伸びている幹には1つも実がありません。
よし、剪定だ。幹を自分の背丈ほどに切り木を低くし、ネットに紐で石をくくりつけ、木を越えさせて、一応、ビワの木にネットがかぶりました。
おいしい枇杷が食べられるかと思うと、ワクワクしてきます。
それから約1ヶ月。他所のお家の枇杷が色付いています。
それで枇杷を思い出し見に行くと、鳥にも食べられず、実をふくらませていますが、もう少し、あと4、5日後が食べ頃と思い、収穫せず、また何日も枇杷を忘れて過ごしました。
何かの拍子に、あ!枇杷、と思い出し、ザルを持って行ってみると、なんとなんと、ネットに大きなすき間が開いており、鳥が入って、おいしそうな実は全部食べられているではありませんか。
鳥のおこぼれは、うーん、もう少し色付けばと思う実ばかり。
あーあ、残念。鳥は賢い。
本当に私のすることはこんなことです。
おいしい枇杷の実を鳥がたらふく食べてくれたのだから、良しとしましょう。

今月の掲示板 2017年7月

テーマ:今月の掲示板

syukoji_09090903.jpg

 今月のことばは、清沢満之「絶対他力の大道」(林暁宇師意訳)からいただきました。

  「自分」とは、いったい何でしょうか。
  私共のはかり知ることの出来ない
  不可思議な力にはからわれて
  今、こうして生かされているもの、
  これがすなわち「自分」であります。

  この世に生まれてきたのも
  やがて死んでゆくのも
  1つとして、
  自分の思いによるものではありません。

  この世の一切の出来事は
  すべてこれ不可思議な絶対他力の
  ハタラキによるものであります。

  私共は、身も心も
  全く他力の掌中におさめとられている
  身であります。

  現在只今、
  自分の胸に起きては消える
  ひと思いの心さえ
  少しも
  自分の自由にならぬではありませんか。

  「無限他力」は一体、
  どこにあるのでしょう。
  この自分に、
  いま与えられているものの中にあります。

  何をそんなに欲しがるのですか。
  何をそんなに要求するのですか。
  あなたは一体
  何の不足があるのですか。

  満足を外に求めるのは
  貪欲の因であり
  しあわせを得ようと人に頼るのは
  腹立ちの因であります。

  如来は、
  あなたが生きる為に必要な一切のものを
  すでにお与え下さっているではありませんか。
  この与えられているものを忘れて
  どこにあなたの満足を得る道があるのでしょう。

 

本堂に座って 2017年7月

テーマ:本堂に座って 【若院】

syukoji_09090904.jpg

先日「改正組織犯罪防止法」(「テロ等準備罪」法・「共謀罪」法)が成立しました。
選挙の結果から法律が成立することは分かっていたとはいえ、今までにも増して様々な出来事の起こる国会の様子を見ていて、いろいろ思うところもありました。
そんな中、ふとこの状況を言い当てている様な文章を思い出しました。

先に「学級は民主主義国家である」という話をしました。
そしてわたしは、「独裁者の率いる組織は、腐敗を免れえない」と指摘しました。
独裁が敷かれ、民主主義が確立されていない共同体では、善悪のあらゆるルールがリーダーの一存によって決定されます。
国家はもちろん、会社組織もそうですし、家庭や学校でも同じです。
しかもそのルールはかなり恣意的に適用されるものです。
では、これら独裁的なリーダーが「国民」から嫌われているかというと、かならずしもそうではありません。
むしろ国民から熱烈な支持を受けている場合も多いくらいです。
その理由は、そこに苛烈な賞罰があることです。
ルールを破れば厳しく罰せられ、ルールに従えばほめられる。
そして承認される。
つまり人々は、リーダーの人格や思想信条を支持しているのではなく、ただ「ほめられること」や「叱られないこと」を目的として、従っているのです。
さて、問題はここからです。
「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。
他者がほめられれば悔しいし、自分がほめられれば誇らしい。いかにして周囲よりも先にほめられ、たくさんほめられるか。
さらには、いかにしてリーダーの寵愛を独占するか。
こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。
競争のあるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。そんな事態を招かないためにも組織は、賞罰も競争もない、ほんとうの民主主義が貫かれていなければならないのです。
民主主義とは競争原理ではない、「協力原理」に基づいて運営される共同体です。
たとえば、ひとりの男子生徒が問題行動をくり返していたとしましょう。
これは彼が「悪」だったから問題行動に走ったのではなく、学級全体に蔓延する競争原理に問題があったのです。
問題行動を起こす「個人」に目を向けるのではなく、問題行動が起きる「共同体」に目を向けることです。
そして個人を治療しようとするのではなく、共同体そのものを治療していくことです。
賞罰をやめ、競争の芽をひとつずつ摘んでいくこと。それしかありません。
人間は、誰かの期待を満たすために生きているのではない。
その対象が親であれ、教師であれ、他の誰かであれ、「あの人」の期待を満たす生き方を選んではならない。
他者からの評価ばかりを気にしていると、自分の人生を生きることができなくなる。自由を奪われた生き方になってしまう。
アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。
つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。
孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。
では、どうすれば所属感を得られるのか? …共同体のなかで、特別な地位を得ることです。
ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生をおくることになるのです。
ではどうするか。自らの意志で、自らを承認するするしかないでしょう。
「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。
あなたの価値を決めるのは、ほかの誰かではないからです。「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。
それがほんとうの個性というものです。
「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。
(『幸せになる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より引用しました。)

 国も学校も家庭でも、「競争」が当たり前になっています。「わたしであること」に価値を置く…難しいことですが、とても大事な指摘だと思います。

今日も快晴!?2017年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

syukoji_09090905.jpg

子どもたちが幼い時は、「いかにゲームを持たせないようにするか」に心を砕きましたが、学年が上がると、次は「いかにスマホを持たせないようにするか」に問題が移ってきました。
幸い、子どもたちはまだ「スマホが欲しい」と言いませんが、『スマホ廃人』(石川結貴著 文芸新書)というタイトルの本を読み、改めて、(この先色々な問題が出てくるだろうなぁ)と恐ろしくなりました。

『…関東地方の保育園の元園長先生の話として、「子ども自身のスマホ利用の問題もさることながら、私が危機感を持つのは母親のスマホ依存です。登園時も帰宅する際も、ずっとスマホを使っているお母さんが増えてきました。子どもはお母さんのお迎えを今か今かと待っているのに、まともに顔も見なければ話しかけようともしません。運動会やお遊戯会のときも、子どもは一生懸命がんばっているのに親はスマホに気を取られている。こんな状態で家庭での様子はどうなのか…。」
…園児が泣きはらした顔で登園した際に理由を尋ねると、「朝、ママのスマホの邪魔をしたら、玄関の靴で思い切りぶたれた」としゃくり上げたこともあった。
「現場を見たわけではないので真偽の程はわかりませんが、日頃の様子から察するに有り得る話だなと思います。
私が園内でお子さんの報告をしている時でも上の空、LINEのメッセージ交換をする母さんもいるくらいですから。
保育士の話をきちんと聞けない人が、家で子どもの話をしっかり聞けているでしょうか。」
…子育て支援センターなどに勤務し、育児相談などを担当する保育士は、より強い不安を訴える。
「私たち保育士に悩みや不安をぶつけてくれるお母さんはいいんです。そうやって発信してくれればこちらも対応できるし、何よりお母さんが自身の悩みや現状を意識できる。自覚があれば問題を解決するための行動も取れますが、そうなる前にスマホで別のことに意識を向けてしまう。もちろんそれで気分転換にもなりますから、プラス面もあるでしょう。ただ、子どもと向き合うのを避けているような、目の前の現実から意識が飛んでいる感じを一部のお母さんから受けるのです。」
たとえばベッドの上の赤ちゃんが泣いている最中にLINEの着信があったとき、母親はためらいもなくスマホを手にする。
メッセージを交換している間、赤ちゃんは泣き続けているが、まるで「壁」を作ったように我が子に反応しない。』

「子どもが思い通りにならない」という状況から簡単に目をそらし、スマホで逃避することの繰り返しによって、親と子双方の育ちにとって大切なものが阻害されているように感じられてなりません。
悩み、苦しみ、自分の頭で考え、工夫して問題と向き合うことは、もう「古い」のでしょうか。
また、日本小児科医界が「スマホに子育てさせないで!」というポスターを作成したところ、子育て中の母親から「上から目線で言われても困る」「エビデンス(証拠・根拠)がないのに断定しないで欲しい」と否定的な声が相次いだそうです。
子育て中の母親が孤立しがちだったり、「子どもが騒ぐと周囲の迷惑だ」という不寛容な社会の空気が悲しいなと思いますが、自らを正当化する母親達の声も恐ろしく思えました。

 

清風 2017年6月

テーマ:清風 【住職】

syukoji_09090901.jpg

今、いのちがあなたを生きている
Now Infinite Life of Amida is Living you.
2011年 親鸞聖人750回御遠忌テーマ
 


「人はなぜ、長命を願ってきたのだろう」と問えば、あなたはどう答えますか。
おそらく、「生はともかく、私にとって一人称の死は経験外のことだから…」という答えが返ってくるのでしょう。
しかし、延ばしても延ばしても、その先にはやはり死があることは事実です。死から帰ってきた人はいません。
時々、臨死体験なるものが死の経験談であるかの如く発表されることがありますが、発表できた限り生きていたのであって、やはり死んだのではなかったのでしょう。
分からねばならないことと分からなくてもよいこととの区別がつかない、ここに現代人の最大の不幸があると言わねばならないようです。
その区別がつけば、「わからない」ことは「わからない」としておけばいいのです。
さてそれでは、何のために長命でなければならないのでしょうか。
実は、死(あるいは死後)が不安なのではなく、むしろ生が分からないのです。
仏教、ことに浄土教はその意味を問おうとしています。
では、その意味とは何でしょうか。
念仏の教えを聞いてきた先達は、生きる意味をまじめに尋ねる人に応えました。
「あなたは、お恥ずかしいという言葉を知っていますか」と。
「いのちがある間は生かせていただくのです。いのちつきればこの世とお別れさせていただくのです。心配はいりません。いのちが与えられて私が生きているのであって、その逆ではないからです。」と。
「お与え」というのはいかにも頼りないように聞こえますが、実は最も積極的な生の在り様を表現する言葉のようです。いのちの事実は、すべてお与えなのです。
私にまで届けられたそのいのちは、実は私に何を望んでいるのでしょうか…と、私が「問われた者としてある」という目覚めからのみ、生きる責任・喜び、つまりお与えに応える生き方をしてきたのだろうかという、思いも及ばなかった生き方が始まるのです。
それこそが「お恥ずかしい」という生き方で示された、私どもには思いも及ばない応答であったのです。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

テーマ:ブログ

仏事(葬儀・法事)に課せられていること(5)
「新たな出会いの場」としての葬儀…2

先月号の最後に、金子大榮先生が人間には「二つの悲しみ」があると教示されており、その内容は次のようであることを記しました。

① 失うことの悲しみ
② 日頃の暮らしを、当たり前としか受けとめられない悲しみ

①の「失うことの悲しみ」については、よく分かると思います。
では②の悲しみについてはいかがでしょうか。
東日本大震災で被災された方の、「失ってみなければ、日頃の暮らしの有り難さは分からないと思います」という言葉があります。
①の「失うことの悲しみ」から教えられなければ、「失ってみなければ、日頃の暮らし」が実は奇跡のようなことだとは気づかない(気づけない)、これが私たち人間の姿です。
日頃の暮らしが「有ること難い」、奇跡のようなことだとは誰も思わない(思えない)、これが、くどいようですが、私たちの日常です。

次に、金子先生は「人間に生まれたことの悲しみを知らないものは、人間に生まれたことの喜びを知ることはできない」と言われています。この「人間に生まれたことの悲しみ」とは、「なれば当たり前」としか思えないという事実を指しているのでしょう。
日常での経験から例を挙げれば、受験に合格した場合です。
合格した高校なり大学の入学式では、当然のことながら、合格した生徒ばかりです。
ここでは合格したことはまったく当たり前のことです。
そしてもう1つ例を出すならば、重い病気が治癒した場合です。
治療法が見つかり病気が治癒し、治って日常の生活が始まれば、その当初は嬉しいのですが、その嬉しさは3ヶ月も保たないようです。
「当たり前」になってしまうからです。
「人間に生まれたことの悲しみを知らない」とは、このように「願ったようになれば」、つまり合格とか病気から復帰するとかすれば、「当たり前」としか受けとめられない、その喜びは続かないということでしょう。
さらにまた幸せを求めて、もっともっとというわけです。
そうならなければ今度は被害者意識で、思い通りになったと見える人に「なぜ私だけが…」と比べて、今の私が置かれた状況は受け入れられないというわけです。

釈尊の言葉として、こんな言葉が伝えられています。
「どうかならなければ幸せになれない者は、
              どうなってでもその幸せは長くは続かない」
「どうかならなければ」とは「現在、自分の置かれている状況が変わる」ということでしょう。
それは当然のことながら、「今とは異なって、私の思って(願って)いるような状況(環境)に変わる」ことなのでしょう。
しかし、そうなったとしても、それは上にも記したようになってしまえば「当たり前」のこととして、何の感動ももたらさないことでしかありえなくなってしまう、つまり過去の思い出でしかあり得ないことになってしまうのです。
状況から状況へと追いかけている以外でしか生活の事実はない、空しいという感情が起こってくるこの事実こそが、実は大切な信号なのです。    (続く)

<<最初    <前    1  |  2  |  3  |  4  |  5    次>    最後>>

アーカイブ

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

ホームページ

このブログの読者

読者になる
読者数:2人