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お庫裡から 2017年4月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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新しい学生服がハンガーから下がり、誓くんの中学入学の日を待っています。
3才の頃、『ナルニア国物語』(C.S.ルイス著)に夢中になり、「ぼくのこと、エドマンドと呼んで」と言い、戦う騎士エドマンドになりきって何日も過ごしていたことを、懐かしく思い出します。
3月で12才になった誓くんは、相変わらず夢見る少年で、頭の中は空想でいっぱいのようです。
時々聞かせてくれる空想は、アニメのキャラクターと映画のシーンの合体、仮想宇宙の戦いetc.etc.70才の頭では、とてもついていけぬ話ばかりです。
この夢見る少年が、この先ぶつかるであろう現実、出遇わねばならぬ自分自身、それらにどう悩み、どう苦しみ、どう育っていくのか、限られた時間の中で、そばにいて見守れるのは、老いの楽しみの一つです。
私の人生まだ途上ですが、後に続く若人に、是非一つ伝えておきたいことがあります。
悩みにぶつかったら、その悩みから逃げず、大事に抱えて、自分の心と向き合い続けてもらいたいと思います。
浅い悩みは、割合早く解決しますが、悩みの出どころが深いと、解決までに何年もかかるものです。
人間に限りなく近いチンパンジーは、悩むということがありません。
悩むというのは、人間だけに与えられた特権です。
悩みは必ず解決します(しかし、自分の思った解決ではないはずです)。
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」
(『歎異抄』第9章より)その呼びかけに「ハイ」と返事ができる時、そこにはじめて支えられている大地(浄土)が見えるのです。
私はその道を、今、歩んでいます。

今月の掲示板 2017年4月

テーマ:今月の掲示板

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  何ものにも頼らなくてもいいいのちを
  もうすでに
  私は頂いている
  そのいのちを
  あなたはどう生きてくれますか

  自分の思いを強く持っているから
  救いとは
  自分の思い通りになることだと
  疑いもせず信じている

  いのちが尊いとどこで言っていますか
  健康で長生きがその中味ですか
  比べるものではかっていませんか

  煩悩というものは
  人間をつかう
  起こした人間をつかう

  本当がわかってから
  後で間違いが知れるのではなしに
  間違っていたと気づいた時に
  本当の世界が私に受け取れる

  人間の基礎知力は
  悩むということです

  死んでいける言葉を持っている人は
  生きていける

  六字の名号(南無阿弥陀仏)は
  仏さまが我々に呼びかけられている言葉
  南無せよ
  おまえ、間違っておるぞ
  自分のまちごうた姿に目覚めよ

本堂に座って 2017年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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このところ、葬儀や法事についての考え方やあり方が変わってきている…と耳にすることが多くなりました。
家族形態の変化・人間関係の希薄化など様々な理由が挙げられますが、何より儀式を勤める意義がわからないことが一番の要因なのだと思います。
そうした中で、法事を勤めることを「亡き人からの願いに遇い、また仏様の教えやその呼びかけに出遇う、大切なご縁である」として、著者であるご住職が実際に法事の場で話された内容を掲載している本から一部を紹介します。

仏教が問題にしているのは私たちの心です。その心はどんなものか、私たちはどういう心で生きているのか、どういう心で人を見ているのか、どういう心で自分自身を見ているのか、ということを問題にするのです。
そういうことを前提に考えてみると、私たちが一番当てにしているのは「愛」や「優しさ」でしょう。
優しさという言葉は、聞いただけで心がなびくような気がします。
思いやりや愛というのは、優しさを含めて大切なことだと思います。
しかし、これを唯一絶対のものとして決めつけてしまうと人生を誤るかもしれません。
人間の愛の正体を知らないと、それを間違いないものと決めてしまう。
人間の愛は常に育てられ続けないと、いつでも崩れてその本質を失ってしまいます。
(中略)愛とか友情というものは、育てられないと別なものに成ってしまうのです。
(中略)この愛というものの正体は何かというと、それは「エゴイズム」ということになるのです。
エゴイズムということは「自我」です。そういうことを知っておかなければいけないと思うのです。
「愛」を初めから否定することはできませんが、人間がもっている愛というものの中身は何かということです。
だから忘れてはいけないことは、いくら優しい愛であっても、いつでも“自我の心”に転落してしまうことがあるということです。

覚るということ、目覚めるというのは心の問題です。
少し誤解されていますが、迷うのは心です。
取り違えるのも心です。
救われるのも心です。
ものをどう見ていくかでしょう。物事や人をどう見るかで、救われるかどうかが決まるのです。
どんな大切な人でも生きている間は、その人の本当の良さはわからないものです。
死んでしまってから、自分のことをこんなに考えていてくれたのかと、遅まきながら気づくのでしょう。
生きている時にわからなかったというのは、自分の判断する心が狭いからです。
私たちの大きな課題は、その思い込みという枠をいかに取り払うかです。
大切なことなので繰り返しますが、迷うのは心です。
物事を判断するのは心なのです。
身と心は繋がっているので分けられないのですが、どちらかといえば、物事を見たり、判断したりする心が迷いを作っているのです。
これは「識」といいまして、分別のことです。
この分別というのは、みなさんにもあります。
「分別がある」と世間ではいい意味で使います。
ですが、この人は大切な人、この人は大切でない人と分けるでしょう。
この人は絶対いてもらわないと困る人、この人はいてもらったら困る人と。そういうように、心が分別するのです。
「身近な者のことはわからない」とよく口にしますが、わからなくさせているのは、あなたの判断、分別ですよということです。
そういうことを仏教は教えているのです。
気がつかないのだけれども、一緒に住んでいて面倒くさいとか鬱陶しいと思った時でも“分け隔てる心が起こっていることに気がついてほしい”と常に仏様は、はたらきかけてくださっているのです。
また大切な人と別れることになった時、今まで我慢ばかりしてきたが、それはとても大事なことだったと後でわかることも多くあるでしょう。
今はわからなくても、そういうご縁があれば私たちは気づくことができるのです。
こう考えてみると、人間の判断力で全てがわかるわけではありませんね。
全体の半分か3分の2ほどはわかっても、残った重要なことがわかっていないのではないでしょうか。
そういうことを知ることは、とても大切なことだと私は思います。
(中略)自分の思い込みによって、他人を傷つけたり、自分を大事にできなかったりするのですから。
(『ご法事を縁として 亡き人からの願いに生きん』伊藤元 著 東本願寺発行より引用しました。)

今日も快晴!?2017年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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 お寺の新聞に目を通してくれている友人たちから、「お母さん、最近調子悪いみたいだね」「入院とか、大丈夫なの?」と度々声を掛けてもらうことが増えました。
元気で働き者の母も、もう70代のおばぁちゃんです。
度々調子を崩し、救急車を呼んだり寝込んだりと、思いがけないことが増えました。
そんな矢先に、一足先にお身内の方の介護が始まった友人と会いました。
それまで元気だった方が倒れられ、入院&手術の末、回復して退院されたものの、喉を切開して痰の吸入などが必要になったのだそうです。
食事も全てフードプロセッサーに掛けた流動食で、痰の吸入は家族しかすることが出来ないため、友人は自由に外出することが難しくなってしまいました。
足も不自由だったため、バリアフリーに向けて色々買いそろえたりと、友人もしばらくはばたばた忙しいようでした。
最初のうちは、(介護の生活リズムに慣れるのは大変かもしれないなぁ)と言う遠慮もあり、介護が始まって一月ほど経ってから友人宅を訪ねました。
(大変なんじゃないか。疲れているんじゃないか)、と心配しながらの訪問でしたが、友人の口から出た言葉は予想もしていなかったようなものでした。
「介護が始まって、周りの皆に『大変だね』って言われるけど、実はそうでもないんだよね。今まで出してきた食事は全部完食してくれて、何を出しても『美味かった』と言ってくれるから作り甲斐があるし、いつも『ありがとう。良いお嫁さんに来てもらえた』と言ってもらえたら、私も悪い気はしないよね。
介護してもらって、あそこがいかん、ここがいかんと文句ばっか言う人もいるらしいけど、あの人は全然そういうことは言わないし、人柄が良いからこちらもお世話出来るんだと思う。
確かに手は掛かるけれど、お世話をするのは嫌じゃない。
子どもたちも学校から帰ったら必ず顔を見に行って『ただいま』って挨拶をするようになったし、なんだかうちの家族、良い感じだよ。
私は今まで(いつ死んでもいいや)くらいに思っていたけれど、今は生きていてありがたいなって思える。
お世話もまだ全然やり足りないから、(やり切ったぞ!)って思えるくらい生きて貰いたい・・・。」
友人の口から出る言葉は、宝石のように光り輝いて聞こえました。
同じ経験をしていても、(なぜ私ばかりこんなに苦労しなければいけないのか)と不平不満を漏らす人もいるだろうに、「私は幸せだ」と受け止めることが出来る友人とその家族はなんてすごいんだろう。
家族の病気を通してばらばらになってゆく家もあるだろうに、このお家は、身内の方の病気を通して家族がより家族としての関係を深めているのだと思えました。
友人と二人、テーブルを挟んで互いに涙を浮かべながら存分に語りました。
母が調子を崩した時、母の背をさすりながら(東京にいる妹たちは、すぐに駆けつけることが出来ないんだ)と思ったら、隣で手助けすることが出来る自分は本当に恵まれていると思えました。
我が家にも、介護が必要な日が来るかもしれません。
友人の様に理想的な介護生活が送れると良いのですが、その時にならないと分かりません。
本当に切羽詰まった時に、どんな自分が顔を出すのか。
思いがけない自分と対峙するかもしれず、我が身の正体が暴かれるかもしれないと恐ろしいような気もします。

清風 2017年3月

テーマ:清風 【住職】

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あなたにとって、幸せとは何ですか。
呼吸のできることです。
水木しげる(漫画家「ゲゲゲの鬼太郎」作者 1922~2015)


幸せを求めて生きている、これが我々の生きる根っこにある普通の関心事ではないだろうか。
誰も、不幸であることを望んで生きているという人もなかろうから。
そして幸せとは、未来におかれている何らかの事態を、やがて手にすることができると考えていることだといえよう。
受験生なら合格する、というように。
少なくともその場合、呼吸のできる状況は「当たり前」のこととして見過ごされている。
水木さんは幸せを、未来に手にすることがらではなく、「呼吸のできることです」と言われている。
幸せを未来にではなく現に「今」ここに確かに手に入れていると言われる。
幸せとは、もちろんその前提として「呼吸ができること」が条件であると言えよう。
常識的には、それは「当たり前」のこととして問題としない。
水木さんは、その前提として当たり前と見過ごしていることがらを、それをこそ幸せそのものと言われるのである。
人生全て、呼吸ができて初めて経験できることと言える。
不幸ですらも呼吸ができていて可能と言える。
とすると、現在でもよく聞く「いのちは尊い」という意味は、この水木さんの言われることを踏まえなければ、よくわからないことと言えるようである。
「いのちは尊い」という言葉も、「ではなぜ、いのちは尊いのか」とあらためて聞かれると、「えっと?」と我々は、一歩、瞬間的に引くのではないだろうか。
気がついたら、私は生まれて、生きていたのである。
つまり私が今、幸せならばもちろん、不幸であっても、その前提として生きているからと言えなければならない(いのちを与えられていて全ては成立可能であるから)。
それは、つまり呼吸ができるということは、奇跡が今、私に実現していると言わねばならないような事態だったのである。
仏教のイロハは「人身 受け難し」である。
全ては与えられて始まったこと。
それが人生である、と。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

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  「清め塩」を巡って ~儀式が仏式で行われる意味~

葬儀では、印刷された会葬礼状が用意されていますが、この礼状には添え書きが付けられていることをご承知でしょうか。
それは「なお、真宗のご葬儀におきましては清め塩は用いませんのでご了承ください」という文面です。
縁のあった方が亡くなり、葬儀に出席されるのでしょう。
そういう意味では、葬儀は悲しい別れの儀式ではありますが、「清め塩はもちいません」と書いてあるのは、そこにもう一つの意味合いがあるからと思われます。
それは、一般的にその儀式(葬儀)が「穢れている」という認識があるからでしょう。葬儀は死者を縁として勤まるから、ということでしょうか。
亡くなったことは悲しいことですが、穢れたことなのでしょうか。
もし穢れたことならば、遺族にとって、そして参列された方にとって、とても無残なことと言わねばなりません。
なぜなら、遺族にすれば一日も生き長らえて欲しいと介護されていたに違いない親族を、亡くなった途端に今度は穢れたものとして扱うというのですから。
さらに、縁あって参列した方にとってはどうでしょうか。参列された方々にとってみても、必ず亡くなっていかねばならない方々ばかりです。
その時期は決まっていませんが。
そうです、死亡率100%です。
人間は現在を生きるものですが、未来と過去をはらんだ今(現在)を生きています。
そうだとすれば、未来が塩を撒かれるような「穢れたもの」に向かって生きるということになります。
これとても、無残なことといわねばならないでしょう。
なぜなら、死は未来でありますが、当来のことだからです。
釈尊は6年の修行の後、35歳でお覚りを開かれる(成道)のですが、そのときの言葉は「我は不死を得たり」と伝えられています(無死ではありません)。
死は完全燃焼(涅槃・ニルバーナ)を示すことであると。
いろいろな死に方があります。
例えば、事業の途中であった、と。しかし事業の途中なら途中で、やはり終わったのである、と。事業の途中というのは「未練なのだ」と釈尊は言われているのです。
事実は死があるのですが、その途中という判断に私が迷わされているのだと、やっぱり迷っているのだと。
では、どういう場合を想定して「終わった」と現代に生きる私どもは言えるのか、でしょう。
長寿を全うした場合でしょうか。それはいくつまで生きた場合を言うのでしょう。
大変難しい問題をはらんでいます。
安楽死・尊厳死という言葉があることをご存知かと思います。
その定義は次のようです(参照「文芸春秋」2017年3月号 P242)。

安楽死:回復の見込みのない病気の患者が薬物などを服用し、死を選択すること。
尊厳死:患者の意志によって延命治療を行わない、または中止すること。

生まれる・死ぬという場にも人間の都合・思いが介入して、その評価が先行するという時代(生命科学と言われる分野が開かれてきた)になってきたということでしょうか。
それでは、逆に言うと「安楽なる生」「尊厳なる生」とは、いったいどんな生・生き方をいうのでしょう。
例えば、いじめなどで自死した子がでた場合などに、よく「いのちは尊い」と言われるのですが。
尊い・尊厳である、それがいのちであるということがぐらついてきているということでしょう。
さらに議論を深めていくことが必要であると思います。
なぜなら、死ぬ時は自分で決めていきたいと言いますが、では誕生の時はどうだったのだろうと逆に思わせられるからです。(続く)

お庫裡から 2017年3月

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人権の研修会が名古屋で開かれ、豊田から参加した女性3人が昼食をとっていたとき、中の一人が「ネェ、世の中に平等って本当にあると思う?」と聞かれました。
私は「比較できるもので考えると平等はないですね」。
するともう1人が「いのちよ、いのちは平等よ」と。
それで私は「人はその課題において平等であり、その成果において個性的である」と前田俊彦の言葉を紹介したのですが、午後の講義の時間が迫っていたので、会話はそこで終わってしまいました。
その数日後、私は夕方から体調が崩れ動けなくなりました。
白湯も受け付けず、お腹も下って、5時間後、やっとベッドに移動できました。
ベッドに入ると、物を考え始めるのが私の悪い癖です。
そんな状態でベッドに入ったのに「課題とは何か」という問いが大きく私の頭の中を占領してしまったのです。
どれくらいの時間思索していたのかわかりませんが、ついに一つの答えにたどりつきました。
「課題は、二本の足で立てる大地が見つかること。」そうだった、そうだった。
自立するとまでは言うけれど、自立するにはその立脚地、大地が一番必要だった。
するとすぐに「大地が見つからなければ、何を付けても転んでしまう」という言葉が浮かびました。
わー、何て素晴らしい言葉に巡り会えたのだろうと、布団の中で小躍りする程の喜びに包まれました。
それでも時々気分が悪くなるので、「寝込むれば 老いがすり寄る すきま風」こんな気弱な俳句も浮かんできます。
また気分が治まると、先の言葉に続くように「大地が見つかれば、どんなご縁も杖となる」という言葉が浮かび、あっ完成したと思いました。
「課題は2本の足で立てる大地を見つけること。大地が見つからなければ何を付けても転んでしまう。
大地が見つかれば全てのご縁が杖となる。尚子」
嬉しくて、この言葉を何度も味わっているうちに、朝になっておりました。
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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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