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本堂に座って 2016年12月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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よく見ているテレビの書評番組で、『人間にとって健康とは何か』という本が紹介されていました。
自分自身は「健康」について、ふだんそれほど意識することは無いのですが、「幸福」を“過程”、「健康」を“状態”と考える視点が面白いと思い、読んでみました。
内容は…かなり難しくて読み進めるのがやっとという感じでしたが、WHOの健康についての定義「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」ことから始まり、「幸福」「健康」の受け止め方で終わります。
ここでは「幸福と健康」・「過程と状態」について書かれている部分を引用します。

私たちは幸福については雄弁に語る。
病気についてもお喋りになる。
しかし私たちは、健康についてはほとんど語らない。
いや、もっと正確にいえば、私たちは健康法やサプリで「健康になること」は好んで語るが、「健康であること」については語らない。
これはなぜなのだろうか。
中井久夫氏は戦争と平和についてこう書いている。
戦争は「過程」であり、平和は「状態」である、と。
これは「なぜ平和が維持しにくいのか」ということの説明として、非常に説得力がある。
中井氏によれば戦争とは、始まりと終わりがある「期限付きのプロセス」だ。
「勝利のため」という一点に気持ちを集中させやすく、それ以外のことは単純化されやすい。
プロセスには目的、意義、そして戦略がある。
好戦的な人の言葉が説得性を帯びやすいのは、プロセスのほうがとにかく語りやすいためである。
一方で、平和は「状態」だ。
輪郭もなく、曖昧で、目的があるともないともいえない。
なぜ平和がよいのかと尋ねられても「だって平和のほうがいいに決まっているでしょう」というトートロジー(いつまでも同じことのくりかえしで先に進まない議論)になってしまう。
平和主義者の言葉が、概して曖昧で説得力に乏しく思われるのは、そのためもある。
ここで「戦争」を「幸福」、「平和」を「健康」に置き換えてみよう。
すなわち幸福は過程であり、健康は状態である、と。
つまり、幸福は過程であるがゆえに雄弁に語られうるが、健康は状態であるがゆえに語る言葉に乏しいのである。
別の言い方をするなら、幸福は過程だからこそ「上限」がなく、健康は状態だからこそ定常状態がある。
「世界一幸せです!」という言い回しと同じニュアンスで「世界一健康です!」と宣言する人はまずいまい。
私たちが自らの健康にすらしばしば無関心になるのは、それが「平和」と同様の定常状態と感じているからだ。
だから健康は幸福以上に、「失って初めてその価値に気付く」ものなのである。
もし「幸福」を状態のように語ることが可能になれば、健康との両立が可能になるだろう。
幸福を「過程」として捉えるかぎりは、それは決して安定的な所有物たりえないが、「状態」として捉えることで、誰もが手に入れられるものとなる。
過程としての健康を求め、状態としての幸福を享受する。この姿勢こそが、健康と幸福のもっとも安定した関係といえるのではないか。
(『人間にとって健康とは何か』斎藤 環 著より抜粋して引用しました。)

「幸福になること」については目的地がハッキリしているので実感しやすいのですが、「健康であること」は“あたりまえ”になってしまうことで「見えない・語られない」ものになってしまっているのでしょう。
だからこそ「失って初めてその価値に気付く」ことになるのですが…。
今月号の「清風」1面に「あたりまえにある日常のありがたさ…」ということばが紹介されていますが、これこそが「幸福であること(=「幸福」を状態として語ること)」なのだと思います。
「幸福」は「なるもの」ではなく「あること」だと知ることで、条件に依らない「幸福」を見つけることができるのだと思います。

今日も快晴!?2016年12月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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長男が中学校に入学し、しばらくしてから中学の読み語りボランティアに参加することになりました。
小学校の読み語りに比べると、聞き手の子どもたちが大人に近づいている分だけ選書には気を使います。
小学校よりは内容のしっかりしたものを・・・、腰を据えて15分間聞いてもらえる内容を・・・ということで、今月は「世界で一番貧しい大統領のスピーチ」(くさばよしみ 編:中川学 絵 汐文社)を選びました。
この絵本は、2012年のブラジルのリオデジャネイロで開かれた国際会議の場で演説されたウルグアイのムヒカ大統領スピーチを元にした絵本です。
このスピーチが非常に素晴らしかったとネット上でも評判になっており、2014年に絵本の形で出版された翌年は、Amazonの絵本のランキングで第一位となっています。
目で読んでいても素晴らしい内容だと思いましたが、教室で子どもたちを相手に読むと更に言葉に輝きが増し、(ああ、やはり元々スピーチとして書かれたものは、声に出して読むことできちんと伝わるようになっているんだなぁ)と感動しました。
絵本の中身を少し紹介したいと思います。

「・・・わたしたちの頭には何が浮かんでいるでしょう?もっと豊かになって、欲しいものがどんどん手に入る、裕福な社会を望んでいるのではないでしょうか?・・・70億や80億の全人類が、今までぜいたくの限りを尽くしてきた西洋社会と同じように、ものを買ったりむだづかいをしたりできると思いますか。・・・私たちは、もっと便利でもっと良いものを手に入れようと、さまざまなものを作ってきました。おかげで、世の中は驚くほど発展しました。しかしそれによってものをたくさん売ってお金をもうけ、もうけたお金で欲しいものを買い、さらにもっとたくさん欲しくなってもっと手に入れようとする、そんな社会を生み出しました。・・・そんな仕組みを、わたしたちはうまく使いこなしているでしょうか。それともそんな仕組みにおどらされているのでしょうか。・・・私たちが挑戦しなくてはならない壁は、とてつもなく巨大です。目の前にある危機は、地球環境の危機ではなく、わたしたちの生き方の危機です。・・・人のいのちについてはどうでしょうか?私たちは発展するためにこの世に生まれてきたのではありません。幸せになろうと思って生まれてきたのです。・・・水不足や環境の悪化が、今ある危機の原因ではないのです。ほんとうの原因は、わたしたちが目指してきた幸せの中身にあるのです。見直さなくてはならないのは、私たち自身の生き方なのです。・・・わたしが話していることは、とてもシンプルなことです。社会が発展することが、幸福を損なうものであってはなりません。発展とは、人間の幸せの見方でなくてはならないのです。人と人とが幸せな関係を結ぶこと、子どもを育てること、友人を持つこと、地球上に愛があること、こうしたものは、人間が生きるためにぎりぎり必要な土台です。・・・」

繰り返し語られる
「今ある危機は、私たちの生き方の危機である。私たちが目指してきた幸せの中身にある」
という言葉は、真実を語っていると思います。そして、
「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、かぎりなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがることである」
という言葉も心に響きました。

清風 2016年11月

テーマ:清風 【住職】

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いにしへは こころのままに したがいぬ 今はこころよ 我に したがへ
                        一遍上人(1239~1289)

ここに言われている「我」とは、いったい誰を指すのだろうか?というのは、この歌は「以前は、私の心に浮かんできた意識のままに、私はしたがってきた。
しかし今は、心(意識)よ我に従え」というのであろう。
それなら、前半の私と後半の「我」とはいったいどう違うのだろうか。
違うとしたら、後半の「我」とは何(誰)をさすのだろうか。
この歌を考察するには、作者が一遍上人であることを、まず考えるべきであろう。
仏教、とりわけ浄土教の系譜に繋がる人である。
そうだとすれば、仏教ではよく知られているように「一切衆生悉有仏性(いのちあるものは、ことごとく仏となる種(因)を有している)」と言われることが思い起こされる。
結論を先に言うならば、後半の「我」はこの仏性を指している。
ここでの仏性とは仏のハタラキを指している。
つまり、この歌を詠まれた時の一遍上人とかつての一遍上人とでは、自分を見る視点がまったく変わっていることに気付く。
この歌を詠まれた時の一遍上人にとって、仏性とは抽象的なことではなく、念仏すなわち南無阿弥陀仏こそが「我=真実主体」であったと気付かれたことである。
念仏は、如来の本願(仏性)によって誓われた、仏性(真実)そのものである。
「気ままなこころ」は拠り所とはならない。
この歌は、私が拠り所としてきた「我が心の判断」が仮のことであると念仏(真実)から教えられた、仏者・一遍上人の誕生を物語るものであるといえる。
「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです。」(法語カレンダー2015年6月)と気付かせたハタラキ、それが念仏(真実・仏性)である。
先人は、人は生きる限り「悩む」もの、それは人間(私)の基礎知力であると受け入れてきた。
たとえば「おかげさま」と。

「和讃」に聞く 2016年11月

テーマ:[和讃」に聞く



清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。
究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
(註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

今月も、まず1面の原稿を書きながら、ふと思い起こしたことがありました。
あらためて一遍上人の歌を思い返してみてください。
何か感じられたでしょうか…というか、私どもは慌ただしい日常生活の中でこんなことを考えるだろうか、とは思われませんでしたか?
いつも書いていることですので、またかと思われるかもしれませんが、経典の言葉を紹介します。
「心の為に走せ使われて、(こころ)安き時あることなし。」(『仏説無量寿経』下巻)
経典は2000年前に編集されました。
親鸞聖人は800年前、一遍上人は700年前を生きられた方です。
そして現代の私ども…いかがでしょうか。
「心の為に走り使われて」(使って、ではない)、やはり「安き時あることなし」ではないでしょうか。
また、そうやってきた結果はどうなっているのでしょうか。
いきなり、現代の課題です。
国連は地球温暖化対策なる警告を出しています。
「生物多様性条約」「持続可能性な経済成長」などです。
いったい、人間は進歩しているのでしょうか?全然変わっていないと思われませんか?
変わったのは暮らしぶりです。
しかしそれも「もっと、もっと」です。つまり暮らしぶりには「心の為に走り使われてきた」その結果が正直に現れているのでした。
さて、上の和讃です。
あなたは何を「畢竟依=究極の拠り処」としていますか?そんなことを考えたことがありますか?
そうです、「こころのために走り使われて、安き時あることなし」ですね。
「我が心」は、結局のところ「勝他・名聞・利養」すなわち他と比較してというわけですから、安き時あることなし、一喜一憂です。 
ここでもう一度、1面の最後に紹介した法語カレンダーの言葉をかみしめてください。
「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです。」
(続く)

お庫裡から 2016年11月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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私は、9月の末に心房細動の治療を受けました。
退院の時、担当医に「今後、生活面で注意するようなことはありますか」とお尋ねしたら、「何もありません」と即答されました。
そこで私は、大いなる錯覚をしてしまいました。
退院したら、即、元通り元気と。
しかし実際は、たった5日間の入院で、体力はガクンと落ち、身体は動かず、動けば息が上がる、カテーテルを入れた場所は、つり痛む。
ああ、完全に老人にギアが入った、と思いました。
考えてみれば、今月私は古稀になります。
古来稀な年令の域に入るということです。
私って老人なんだ。
そうか、老人なんだ。
これからは老人の自覚を持って、周りに「お願いします」「ありがとう」「助かります」、そんな言葉をたくさん使って……。
退院後初の診察日。
先生に「体力が落ち、息も上がる」と言うと、先生は「ああ、たくさん焼いたからね。徐々に戻ってきますよ」との返事。
先生の言葉に、「私は老人だ」としおらしいことを言っているのも今のうちだけかもしれない、と思ったり、いかんいかん、老人の自覚、自覚と言い聞かせたり、そのどちらもいのちいただいている上でのこと、めでたいことです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

今月の掲示板 2016年11月

テーマ:今月の掲示板

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凡夫はすなわちわれらなり
  凡夫というは 無明煩悩われらが身にみちみちて
  欲も多く いかり 腹立ち そねみ ねたむ心おおく
  ひまなくして 臨終の一念にいたるまで
  とどまらず きえず たえず(『一念多念文意』より)

  珍らしいこった 珍らしいこった
  凡夫が仏になるちゃな
  こがな珍らしいことが他にあるかいや
  有難いぞなぁ
  ナムダミダブッ ナムアミダブッ (源左)

  困ったときには
  お念仏に相談しなされや (源左)

  宗教観が痩せているということは
  人間についての見方が浅いということにもなる
  人間について浅い見方しかできないと
  人間の引き起こす、深くて巨大な問題に
  お手上げになってしまう (阿満利麿)

  どんな人も個性的である
  その個性を
  自分自身で受けとめていけるかどうかだ
  まわりを見る分別に
  自分がつかわれていて、自分を失う

  限定されたいのちをいただいて
  私は何をしていくのか

  悩んでいるときにも
  すでに与えられている事実がある

  いただいたいのちは
  今、私に何を願っているのか
  生涯を一貫する願い
  それは何だろう

  あなたは あなたに成ればいい
  あなたは あなたで在ればいい (釈尊)

 

本堂に座って 2016年11月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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9月下旬に、以前このページに文章を紹介した三谷宏治さんの講演を聞く機会がありました。
小学生向けのお話で、テーマは「発想力」。お話は以下の質問から始まりました(ネタバレになっちゃいますが…)。


右の図を見て、①~③のいずれかに手を挙げます。
①Aのが長い ②Bのが長い ③A・Bとも同じ
三谷さんいわく、小学3年生以上になると、ほぼみんな同じ答え(=③番)に手を挙げるそうです。
この手の問題が出たときには「長さが違って見えるのは目の錯覚で、実は同じ長さ」だと“知っている”からです。
でも実際は…きちんと測るとBのが長くなっています。
パッと見ただけでわかったことにしてしまい、疑うことをせず、確かめることもしなかったので、正しい答えを導き出せなかったのです。
既存の知識や常識に違和感や疑問を持つことから、独自の「発想」が生まれると三谷さんは言われていました。
わかっているから、わからない…こんなお話に池田勇諦先生の著書でも出会うことになりました。

これはたまたまラジオで聞いた、アニメ映画で著名な宮崎駿監督の発言です。
「現代のあらゆる領域における行き詰まり状況は、戦後日本人が万事について“どうしたらよいか”という対症療法的発想でやってきたことのツケではないだろうか。それに対して、鎌倉期に出現した法然・親鸞という人は“なぜか”という根本的思考を生きた人ではなかったか。この発想こそ現代のわれわれが学ばねばならぬ一点ではなかろうか」。
私の記憶では、おおむねこんなことをおっしゃっていました。
かつて、「テロなくすための戦争、テロを生み」という川柳がありました。
それはまさに、対症療法的な発想では報復の連鎖を断ち切ることはできないことを語っています。(中略)
日ごろ「仏法がわからん」という溜め息のような発言によく接します。
誰しもが通る道ですが、それについても忘れられないことがあります。
以前、お寺の集いで、清沢満之師の絶筆『我が信念』を読んでいたときのことです。
「私は何が善だやら、何が悪だやら、(中略)何が幸福だやら、何が不幸だやら、何も知り分くる能力のない私……」という文章のところで、ある人が「清沢先生ですらわからんと言われているのやから、私たちがわかるはずがないですよね」と発言されたので、思わず大笑いになったのです。
それはなぜか。まったく逆だからです。
清沢先生だから、わからんとおっしゃった。
私たちはわかっているのですね。
健康であることは幸福、病気は不幸。
お金があることは幸福、貧乏は不幸…。みんなわかっているから、仏法に相談する必要がないのです。
健康であっても暗い顔もあれば、病気であっても明るい顔もある…。
何が幸福なのか、何が不幸なのか、何が善なのか、何が悪なのか、わからなくなる。
わかっていたはずの人生がわからなくなる、この歩みこそ真宗入門の歩みでありましょう。
わからんことになって、わかる真宗。
わかっているから、わからん真宗。
妙ですね。
(『浄土真宗入門』- 池田勇諦 著より抜粋して引用しました。)

池田先生は「真宗入門」について、冒頭で「実践概念であり動詞です」と話しておられます。
三谷さんは矢印問題について「発想のお話会でこんな問題が出たら、アヤシイと思わないか?(=なぜかを考える)」「アヤシイと思ったら座って遠目に見ている(上図はスクリーンに映されていました)のではなく、動いて確かめてみればいい。ただ座って悩んでいるのは、考えていないのと同じ」だと言われました。
矢印の様な問題も、世の中の問題も、自分自身のことも、わかったことにして本当のところがわかっていない…。
頭(だけ)であれこれ考えているつもりで、体を動かしてみる・身に引き寄せて確かめてみることがない…。
大切なことは、「答えの出し方をおぼえる・どうしたらよいかを教わる」ことではなく、「物事に対し疑問を投げ掛けてみる・なぜそうなるのかを考える」ことから見えてくるのでしょう。

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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