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今月の掲示板 2017年3月

テーマ:今月の掲示板

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  あいつは鬼みたいなやつだと言う
  都合がいい事が好きで
  都合の悪い事の嫌いな
  私の根性が、鬼を見ている

  われわれは迷っていると
  ありもしないものを見て
  それに脅かされたり
  腹を立てたり
  苦しんだりしている

  我々は、根本の問題を見失っている
  その根本の問題を見失っている我々に呼びかけて
  我々を根本の問題に呼び返すところに
  本願念仏の教えの大事な意味がある

  自分の始末がつかない
  自分の始末がつかないものだから
  あらゆる問題の始末がつかない

  自分の始末がついたときに
  一切の問題は
  片づかないままに片づく

  煩悩の根っこになっているのが
  分別(はからい)です
  これを破るのは大仕事です

  人間は色々のことで悩んでおる
  けれどその一番もとには
  自分に悩んでいるということがある

  色々のことに困っておる
  色々のことに困る一番のもとは
  自分自身に困っているということがある

 

本堂に座って 2017年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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毎月のお参りで、本山(東本願寺)から出版されている『真宗の生活』の文章を読んでいます。
この本は、本山から出版されている書籍から一部分を抜き出して掲載し、いろいろな本(12冊)を毎月少しずつ読むことができるように作られています。
今回はその中から、最近読んだ「老い」についてのお話の原文を紹介します。

 ひとのおもいや願いが叶わないことのひとつに「老い」があります。
老いに関しての一般的な考え方は、近代化の「以前」と「以降」では大きく違います。
近代化以前は大家族で、支える地域にも地縁血縁者にも囲まれて、老人は長老として敬老されていました。
近代化以降は、家族規模が縮小して核家族となり、老人の暮らしや介護などが外部化して、家族ではなく老人ホームなどへ移りました。
また、近代化以前は、老人のさまざまな知恵で諭す役割もありました。
そして、老親に孝行する風土がありました。
近代化以降は、産業化が進展し、労働力としては排除の対象となりました。
また、長寿となり、老いに対するイメージや考え方は「敬老される存在」から介護される存在となりました。
しかし、このことは「時代や社会」とともに変化するものとおもいます。
「時代や社会」が変化しても変わらない「老い」について考えてみることにします。
 お釈迦さまが出家する由来の物語として「四門出遊」というおはなしが伝わっています。
お釈迦さまは、今から2500年前、現在のインドの小さな国の王子さまとして生まれられました。
あるとき、お城の外へ出かけようと東の門から出ようとすると「老人」に、南の門から出ようとすると「病人」に、また西の門では「死人」にと、人生において逃れることのできない「老病死」に出会われました。
そして、北の門ですがすがしい出家僧に出会い、出家されたといい伝えられています。お釈迦さまが29歳の時のことでした。
 「老い」は、そのテーマである「老病死」のひとつであり、人間にとって逃れることのできない、じぶんの意志では叶わないことのひとつです。
「老い」に至る人生の歩みは、どれひとつも「夢」ではなく「事実」です。
老いの道中は、「叶わない」「意のままにならない」ことのなかで、苦渋を味わい、また、悲しみの中で、ひとはみ教えを聞き、正しく観ることを知ることになります。
それは、「あきらめ」ではなく、「正しく観る」ことで、他人事ではなく、「じぶん」のこととしてみえてくるのだとおもいます。
 ボクは樹木からさまざまな教えを聞いてきました。樹木は、陽春に芽吹き、新芽が育ちます。まるで赤ちゃんが育つかのようです。
次第に季節が初夏に向かえば、新緑の葉っぱは立派に育ちます。
そして、季節が移ろい秋になり冬に向かいはじめ寒風が吹き始めると、広葉樹の樹木は、錦秋の彩りをみせてくれます。
「老い」の輝きが艶やかにさえみえます。
ひとびとを、「もみじ狩り」に足しげく向かわせるのは、錦秋の彩りに秘められた多くの物語と出会うからではないでしょうか。
その背景には、春の桜にはない、「人生の趣」を感じるからのようにおもいます。
そして、落葉の季節を迎えます。
しかし、枯れ葉の後には、すでに新芽が準備されていることは、驚きです。
「老い」は、単独であるものではなく、「起承転結」のなかにあり、それは、「いのち」の連なりでありバトンタッチのときでもあります。
また、大地へ還ることは、「いのち」の源である樹木を肥やす滋養となるのですから、「老い」のはたす役割は「尊い」ものであるといえます。
「老い」もこのように考えてみると、「老い」をじぶんのものと独占していることが間違いであることになります。
じぶんの「老い」から、解放されて「つながり」のなかで考えてみてはいかがでしょう。
大きな「つながり」のなかに、「連綿とつづく」なかに「いのち」があります。そのなかに、おひとりおひとりの「老い」があるということです。
このように「老い」も、じぶんの手元から解放されてはじめて、「衰えること」から意味が転じて、大きな「いのち」として「よみがえる」という世界がみえてきます。
(『すべてが君の足あとだから-人生の道案内-』佐賀枝夏文 著より引用しました。)

今日も快晴!?2017年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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6年生の次男が、小学校を卒業するまであと一ヶ月を切る時期になりました。
身長はこの一年間で10センチ近く伸びて、ランドセルが飾りのようにちょこんと背中に乗っています。
毎朝玄関で「行ってらっしゃい」と見送るのですが、ランドセル姿もあとわずかと思うと、じんわり涙がにじみます。
小学生男児らしく、毎日誰か友達と遊ぶ約束をして来て、6時間授業で4時半頃に帰宅した日でも「遊びに行ってくる!」と飛び出して行きます。
そうかと思うと、自分の部屋にこもって扉を閉めて本を読みふける時間も増えました。
目立って反抗期というわけではありませんが、時折(何を考えているのかな?)と思うこともあります。
私は次男について、大変な思い違いをしていました。
自分が三姉妹だったので、友人から聞きかじった話をお手本に、「男兄弟はライバル関係にあり、仲が悪いわけでは無いけれど、成長したら進んで連絡を取り合うことも無くなり、滅多に口も聞かなくなる」といった兄弟像をイメージしていました。
幼い頃は、「物静かな長男と元気な次男」というイメージだったので、極力違った方面のことをさせて、二人が同じ土俵で勝負することが無いように、互いに違った分野で力を発揮できるようにと考えていたのです。
ところが、(活発な次男に向いているだろう。
左利きを活かせるし)と連れて行ったスポーツ教室は、1年半ほどで「やりたくない」と言いだし、あっさり止めてしまいました。
次に次男が自分から「これをやりたい」と言い出したのは、長男が通っていた「クルマづくり究めるプロジェクト」というものづくり系の活動でした。
中学に入ってやりたい部活は、長男と同じ「ロボット部」だと言います。「兄弟で競わせるのは止めよう。違うことをさせよう」というこちらの意図に反して、次男は長男と同じことばかりやりたがるのです。
最近になって、ようやく(ああ、次男は長男が大好きで、憧れのお兄ちゃんで、同じことがやりたいんだ)と気づきました。
二人は本当に仲良しで、喧嘩もせず、毎日学校から帰ると二人で延々と楽しそうに好きな漫画や小説、アニメや音楽のことなど話し続けています。
子どもは、親の思いを超えて育ってゆきます。
(この子はこういう子だろう)という固定概念を易々とぶちこわして、思いも付かないような面を見せてくれます。
毎日、「今日の晩ご飯は何~?」と言いながら帰宅する子ども達に、あと何年ご飯を作ってあげられるのだろう?
「次はこれ読んで~」と、毎晩寝かしつけの読み聞かせをねだる子どもに、あと何冊本を読むことが出来るだろう?
次男は4月から一体どんな中学生になるのだろう?
学校で過ごす時間も増えて、部活、テストの成績、反抗期等々、親としては(こんなはずじゃ無かった!)と思うことも多々あるとは思いますが、「どんな風になっても大丈夫。どんなあなたでも愛していて受け止める」と、言ってあげられるかどうか。
まだまだ親が試される日々が続きます。

清風 2017年2月

テーマ:清風 【住職】

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近代文明ほど、人間に対して敵 対的な文明は歴史上存在したことがない。
それは、スリリングな文明であり、人を憩わせることがない。
これが史上初めてのヒューマニズムを標榜する文明であったことは、それ自体スリリングな逆説である。

『荒野に立つ虹』渡辺京二著(P139 葦書房 1999年10月初版第1刷)
(現在は『新編 荒野に立つ虹』として弦書房より刊行(2016年11月)されています)
著者…1930年生まれ、思想家。
著書『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞受賞、平凡社ライブラリー)『黒船前夜』(大佛次郎賞受賞、洋泉社)など。


刑法で禁じられているはずの賭博を合法化する議員立法(カ ジノ法・IR法)が、多くの欠陥が指摘される中、衆議院の委員会の6時間にも満たない審議で与党の多数で強行採決され(参議院の内閣委員会では16時間の審議)、賭博を禁じた刑法のもとで民営賭博を認めるという、法秩序の大転換に向けた決定がされた。
今後、こうした問題を含むカ ジノ法は、安倍首相を本部長とする「整備推進本部」のもと、有識者による整備推進会議やカジノ管理委員会の設置が予定されている。
カジノ法による賭博場は、1日24時間、365日休みなし、賭け金額の上限がない。
カジノの公益性とは何であろうか。
詳しいことは、カジノ法の下に設置される諸会議で慎重に(?)審議されていくことを期待したい。
要するにこの法は、施設が稼働すれば経済的効果が大きく公益性を満たすという論法が繰り返された。
経済効果があれば、賭博依存症というような人を生む可能性が多分に予想される「人間に対して敵対的な施設」が、政府の音頭取りで合法化されていく。
まさに近・現代の文明の一つの象徴と言えようか。
ヒューマニズムとは人間尊重という主義ではなかったのか。
人間を非 人間化する施設が経済効果の大義を付けて合理化されていく。
人間のための経済が、経済(利潤)のために人間が資源として使われる事態が、堂々とまかり通ることとなった。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

テーマ:ブログ

仏事(葬儀・法事)に課せられていること
「真宗の仏事の回復」を願って
註)2011年に勤まった親鸞聖人750回御遠忌基本方針
テーマは「今、いのちがあなたを生きている」でした。
 
1979(昭和54)年、私は縁がありまして、無住でしたここ守綱寺に家族4人で入寺いたしました。
その頃、門徒さんの家に伺い、親鸞聖人の仏事(法事)であります「お取りこし」を初め、年回法事などを勤めていました。
各家に伺いますと、大抵、仏壇の引き出しの中に和紙に木版で印刷されたお勤めの本(360頁)、それに蓮如上人(本願寺8代)制作の『お文』(手紙を編纂したもの、カタカナ書き。5帖200頁)があり、その『お文』を拝読するのが楽しみでもありました。
その和綴じの『お勤めの本』も『お文』も、各頁左下の部分が薄黒くなっているのが常でした。
しかしそれは、汚いというより、年輪というか、繰り返し繰り返し読まれたことを示す、その家の尊い精神史を見せてもらっている様でした。
その一方で、その頃もそうですが、今でも『勤行本』は「正信偈」(親鸞聖人制作の漢詩、七言一句120行)は漢文のみで読み下しもなく、もちろん意訳は付いていませんでした。
私は当時、お勤めの後その家の方々とその本を巡って話をさせてもらっていました。
よく聞かれたのは「いったい正信偈というのは何が書かれているんですか?」つまり「なぜ読むのか?」ということです。
正信偈は漢詩ですから、意味がわからない…そういう訴えを聞かせてもらう様になりました。
そういう経験のなかから、「読み下し」と「意訳」を付けた勤行本を作製しようと組内の住職方に呼びかけ、賛同を得て1995年4月に『同朋唱和勤行集』として発行させてもらいました。
その後もご協力いただき、増補し3刷版を2013年11月に発刊することができました。
そういう歩みを重ねさせていただくなかで、上にに挙げた様に毎日繰り読みされて黒くなった『お勤めの本』『お文』を見せてもらい、漢文の「正信偈」・室町時代の古文である「お文」をとにかく毎日読めた(或いは読ませた)その原動力、生きることの根源にあった求めに応答するものが、ここにはあったに違いないと思わせられ、当時の農作業の大変さを思うとき、作業の始まる一日を正信偈で始め、正信偈・お文で終えていく、その生活を支えた文化というかライフスタイルが大変尊いものであったのだということに気づかされたことでした。

進化・進歩した人間は、「万物の霊長」と人間自身が勝手に自分で名付けているのですが、しかし、どうでしょうか。
「私たちはどこからきたのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか」(ゴーギャン 画家)という問いは、決して過ぎ去った問いではなく、先程の生きる上での「根源的問い」として、いつの時代も人は問われて在る者なのでしょう。
悩む者、なぜ悩むのか、と。それこそ基礎知力(基礎体力に対し)なのでしょう。つまり、問われてある者・人間ということではないか、と。
釈尊の遺された言葉に、「あなたは、あなたで在ればよい。あなたは、あなたに成ればよい」というものがあります。
「私たちは何者か」とは、決して古くさい問いではなく、人類の歩みを通して尋ねてきた問いと言えるのでしょう。

ご法事の折に「お坊さん、生きているものがわからないお経というものは、死んだらわかるんですか」と問いかけてくれた小学3年生ぐらいの子の純な表情の様な、「お経にはいったいどういうことが説かれているのか」という問いすら聞けなくなってしまっている現状からすれば、仏事(法事など)を勤めることが習俗としての通過儀礼とも了解されていく、つまり(少し極端な言い方と思われるかもしれませんが)非仏教徒を熱心に育てていることになっているのでしょう。
今月号から、こうした課題を担った儀式としてあった葬儀・年回法事をどのように私が受け止めさせていただいてきたのか、歩みのなかで考えさせられましたことを記させてもらおうと思います。
歩む力をいただいた万分の一のご恩返しと思ってくだされば有り難い事であります。(続く)

お庫裡から 2017年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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大寒には大寒波がやってきて、当地にも一日雪が降り積もりました。
大雪で難儀をされている地方の皆さまには、お見舞い申し上げます。
孫達は、久しぶりの雪に大はしゃぎ。
一日中、外遊びに興じておりました。
私も確かに孫達と同じ年令は通っていて、あんな頃もあったはずだと思うものの、今は寒さに家から一歩も出ない日が多くなっています。
携帯が壊れ、新しく買い換えました。
年々に機械の操作が面倒で、不携帯のことも多く、便利な道具なのに、使い切れていないのが現実です。
最低、基本の操作は覚えようと新しい携帯を操作していたら、歩数計がついていることがわかりました。
私の手元に来てからの毎日の歩数が全部記録されているのです。
おまけに、消費カロリーまで。
436歩、1410歩、2329歩、1604歩。
消費カロリーは、14カロリー~22カロリー。
もちろん、携帯を携帯している時間の記録なので、正確なものではありませんが、毎日摂っている食品のカロリーを考えても、消費されないものが体内に残って蓄積されていくのかと思うと、ちょっと怖いものがあります。
一度、朝起きてから一日の歩数を計ってみたいものだと思いながら、それも果たせずにおります。
「寒い時には暖を取っておいしいものを食べ、体力をつけ春を待つのがよろしく候。それが冬を乗り切る秘策に候」と、良寛さんならぬ私めが独りごちしています。
この寒い冬を、どうか皆さまお元気に乗り切ってくださいませ。

今月の掲示板 2017年2月

テーマ:今月の掲示板

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人生については
誰もがアマチュアなんだよ
そうだろう

今の人は、いくつになっても
“自分探し”が好きだけれど
ちょっと、自分を探しすぎ
求めすぎですよね

上を目指すことばかりにとらわれて
現在を否定してしまったら
どんどんしんどくなっていく

与えられたものに満足し
そこでできることをやっていく
そういう生き方も
悪くないんじゃないでしょうか

今ある自分をしっかり生きれば
それは、きっと明日につながっていく
(ここまで、プロデューサー・河毛俊作 ビッグイシューより)

私たちは
死ぬとき、どうやって死ぬのだろう
死ぬときの言葉ってありますか
昔の人は「南無阿弥陀仏」と言って死にました
今のあなた方は、何と言って死ぬんですか
(佐藤正英)

あなたはあなたに成ればいい
あなたはあなたで在ればいい
(釈尊)

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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