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本堂に座って 2017年2月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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あるテレビ番組で「現代を生きる私たちの矛盾を風刺的に表現した」として紹介された文章が気になって調べてみました。
その文章を(一部省略して)紹介します。

この時代に生きる 私たちの矛盾
ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
お金を使っているが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている

家は大きくなったが 家庭は小さくなり
より便利になったが 時間は前よりもない
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている

飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し 笑うことは少なく
猛スピードで運転し すぐ怒り
夜更かしをしすぎて 起きたときは疲れすぎている
読むことは稀で テレビは長く見るが 祈ることはとても稀である
持ち物は増えているが 自分の価値は下がっている
喋りすぎるが 愛することは稀であるどころか憎むことが多すぎる

生計のたてかたは学んだが 人生を学んではいない
長生きするようになったが 長らく今を生きていない
月まで行き来できるのに 近所同士の争いは絶えない
世界は支配したが 内世界はどうなのか
前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない

空気を浄化し 魂を汚し
原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
計画は増えたが 成し遂げられていない
たくさん書いているが 学びはせず

情報を手に入れ 多くのコンピュータを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている
ファースト・フードで消化は遅く
体は大きいが 人格は小さく
利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
レジャーは増えても 楽しみは少なく
たくさんの食べ物に恵まれても 栄養は少ない
夫婦でかせいでも、離婚も増え
家は良くなったが 家庭は壊れている

忘れないでほしい 愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることのできるこの唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを 心を込めて
(ボブ・ムーアヘッド:原作 佐々木圭一:訳)

今日も快晴!?2017年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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「子ども食堂」という活動が気になっています。
育児放棄、虐待などで満足に食事を与えられない子どもに、無償または安価で食事を提供する活動です。
「子どもの貧困」という言葉も耳にする機会が増えましたが、お腹を空かせてすさんだ気持ちでいる子どもがいると思うと、本当に切なく苦しくなります。
何か出来ることがあればしてあげたい思うのですが、よほどの覚悟と周囲の体制が整ってからで無いと、自分の家族を犠牲にすることになっては本末転倒です。
まだその時期では無い、だけど気になる・・・ともやもやしている時に、NHKスペシャル「ばっちゃん~子どもたちが立ち直る居場所」という番組を見ました。
ばっちゃんこと中本忠子さんは、広島で保護司として子どもたちと関わる中で、「罪を犯す子どもたちは、お腹を空かせている」という事実に気付き、30年以上子どもたちに無償で食事を提供する活動を続けていらっしゃいます。
番組の中では、金髪の子、虐待を受けている子、刑務所から出てきた子、住む家を失った子・・・様々な子どもがばっちゃんの家にやってきて、温かい手作りの食事を振る舞われます。
「腹が減ると(これくらいいいじゃろ)と、考えなくなる」、「手作りいうんは一番良い。それで子どもたちは収まる」と、ばっちゃんはご飯を作り続けます。
ばっちゃんは、子どもたちが空腹から非行に走り、社会全体に広がる不寛容の空気のせいで立ち直りがむつかしくなっていると感じています。
子どもたちは悪循環から抜け出せずにいて、子ども3人がばっちゃんのところで世話になったという母親は、全身に入れ墨を入れ、自分もまた親の愛情を知らずに育っていたのでした。
「こんなに大変なのに、なぜ続けるのですか?」取材している記者は繰り返しばっちゃんに尋ねます。
「続けているのは、きっとそこに何か喜びがあるのでは?」との問いに、ばっちゃんは「辛いば~っかで喜びなんかありゃせん!」と、ぴしゃりと言います。
「子どもに面と向かって『助けて!』と言われたことの無い人間には分からん」というばっちゃんの言葉から、簡単に「子どもたちの笑顔を見ると元気になります。こちらが癒やされます」などと言えない、厳しい現実があるのだろうと思いました。
一緒に番組を見ていた次男に、「ねぇ、お母さんもばっちゃんみたいに困っている子どもを助けてご飯を作ったりしてあげたいんだけど、もしそんな活動を始めたら、そっちの方が忙しくて誓くんたちが寂しくてぐれちゃうかもしれないから、まだやれないなぁ」と言うと、「そうだね。ぼくがこっちの側(=インタビューを受けていた刑務所から出たばかりの子)に行っちゃうかもしれないもんね」とさらりと言います。
本当にそうです。まずは自分の子どもに寂しい思いをさせないようにしないといけません。
一人の人間を育てるということは、本当にものすごい労力のいるとてつもない大仕事だと思っています。
時短や手軽さばかりがもてはやされる今ですが、子育てだけは手短に・・・というわけにはいきません。
子どもたちが「お母さん、もう良いよ」と言ってくれるまでは、お金は掛けなくても手間暇だけは掛けてやりたいと思います。
ばっちゃんになれなくても、子どもたちの母業は全うしてゆきたいと思います。

「和讃」に聞く 2017年1月

テーマ:[和讃」に聞く



清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。

新たな年を迎え、本年も相変わりませず、よろしくお願いします。
この欄では親鸞聖人が念仏のいわれ(徳)を記してくださった和讃(詩)を紹介しているのですが、新年ということもあり、和讃に「一切の有碍にさわりなし」とか「畢竟依に帰命せよ」と詠われている念仏の世界について、坂木恵定師の言葉を紹介させてもらいます。(『崇信』平成2年1月号より)

  充 足
人は
色んなことを
一生懸命やっているが
一番大事なことを
抜きにして
やっているに
ちがいない
何か起こると
あわてふためいて
泣き叫ぶより
外にない
自分の思いを皆
とられて 裸に
なるから だが
そこにこそ充実がある
    ○
子どもの時からの
つきあいで
あんな落ち付いた
慎重な
人は稀で
その人の前では
自分など
はずかしい限りだと
思っていたが
その人 大通りの
道を渡って
自動車にはねられ
即死した
之には
一言もない

慎重もいいが
事実は
そんなものを
けとばして
時が
まっしぐらに
すすんでゆく

人間は 失敗や
成功やと
さわぎたてて
いるが
それから
何を得たか
勿論
慎重な生活
態度をけなす
わけではない
併し失敗は勿論
慎重も共に
浮いているで
ないか

失敗も
成功も
どちらでも
頂戴出来る
何ものかを
感得できないか

朝から晩まで
そこに現れたものは
何にもないのだ
それそこにと
指指すものが
指指している
だけのことだ
何にもないのだ

之を一切の
有碍にさわりなしと
誰かが叫んだ

お庫裡から 2017年1月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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年末になると、あちらこちらから喪中葉書が届きます。
こちら様も、この方も、お身内を亡くされて、ああ、ああと読ませていただきますが、中にはどなたの喪中かわからない時や、こんな遠縁の方の喪中、と驚くこともあります。
我家からお葬式は出さなかったけれど、9月に母が亡くなり、11月に甥が亡くなっているということは、もしかして私って喪中?世間の決めごとにうとい私は、頭をひねっています。
お釈迦さまのお話の一つに…
子どもを亡くした母親から、生き返らせてくれと頼まれたお釈迦さまは「身内から一人も死人を出さなかった家から芥子の種をもらってきなさい」と言われました。
子を生き返らせたい一心で、母親は一軒一軒必死の思いでたずねまわりましたが、そんな家はついに見つかりません。
そこでやっと母親は、生まれた者は必ず死ぬという法に目覚めたというお話です。
法(必ず死ぬ)ということは知っていても、誰でも死ぬのはイヤです。
たとえ「いつ死んでもいい」と思っていたとしても、「それでは今から」なんて言われたら、あわててしまいます。
テレビをつければ、実年齢は〇〇才でもこんなにきれいになれます、という美容のコマーシャル。
足腰が痛くても、このサプリメントを飲めば元気ハツラツ、どこまでも歩けます、と元気で健康でなければならぬとばかりの広告があふれて、老人が老人になっていくことが、さも悪いことのように錯覚させられて、死がどこか遠くへ追いやられているように感じます。
死者を前にした時、私は何の為に生きているのか、私の生きる課題は何なのか、お前も死ぬぞ、いのちあるうちにその課題を見つけてくれ、そう問われている。
その問いの歩みが始まった時、その死が私を導く灯となって、私の行く手を明るく照らしてくれる…それが喪中に学ぶべきことのように思います。

今月の掲示板 2017年1月

テーマ:今月の掲示板

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  君は何しに
  この世に生まれてきたんだね 西村見暁

  平和、平和と君は言うが
  君は
  平和の人なのかね

  悩むというのは
  人間の基礎知力なんだよ
  せっかく悩んでいるのだから
  その悩みを
  深く掘ってみたらどうかね

  育児は育自

  勝つとか負けるということを考えている限り
  一つになれることはない

  私の身にふりかかるご縁が
  常にそこを「どう生きてくれますか」と
  私に問いかけている

  惑い、苦悩した時こそ
  立ち止まらねばならない

本堂に座って 2017年1月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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2016年は「改憲」の話題や参院選などがあったことから、守綱寺でも「憲法カフェ」を開催するなど、日本国憲法についての話を聞く機会を今まで以上に持ちました。
年末には法律学の研究者であり真宗の教えを深く聞いておられる平川宗信先生のお話を聞かせていただきました。
今月は、平川先生が新聞に寄稿された真宗の教えと日本国憲法についての文章を紹介します。

私は、現在の日本国憲法は本願に照らして高く評価できる憲法だと思います。
日本国憲法は、前文で、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言しています。
「恒久の平和」は「浄土」と、「崇高な理想」は「本願」と重なります。
そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるのは、本願が全人類に届いているからでありましょう。
これは、「日本国民は本願に立って平和を守る」という宣言です。
そして、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭」そして「恐怖と欠乏」をなくそうとする決意は、「地獄・餓鬼・畜生なからしめん」という大無量寿経の第一願「無三悪趣の願」と重なります。
戦争は「地獄」、欠乏は「餓鬼」です。
専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖は人間を「畜生」にするものです。
さらに、戦争放棄・戦力不保持を規定した第九条は、釈尊の「殺すな、殺させるな」という不殺生戒、大無量寿経の「兵戈無用」(武器も兵隊もいらない)と重なります。
私は、日本国憲法は、武力ではなく本願力を恃(たの)み、本願に願われた世界を求める国家を目指した「本願国家宣言」だと思います。
これに対して、改憲案の前文は、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、(中略)天皇を戴く国家であ」り、「(困難)を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」とした上で、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」、「経済活動を通じて国を成長させ」、「国家を末永く子孫に継承するため」に「憲法を制定する」としています。
ここでは、国家が前面に出され、その歴史・文化・天皇制や発展が誇られています。
ここには、地上の国家は「穢土」であるという、如来の視点はありません。
国民は、国土防衛、経済成長、国家の継承のための存在とされています。
これは、国民を国家に従属する「畜生」とするものです。
また、経済成長を国家目標とすることは、「餓鬼」でありましょう。
改憲案では、平和主義も、友好関係の増進と平和・繁栄への貢献という、抽象的な内容にされています。
そして、第九条は自衛戦争を認める規定に変えられ、国防軍の保持、国際的軍事行動への参加、軍事法制の整備等を定める条文が新設されています。
これは、戦争・「地獄」を求める国を目指すものです。改憲案は、「地獄・餓鬼・畜生」の「三悪趣国家」を目指す物といわざるをえません。
真宗者が選ぶべき憲法が現行憲法であることは、明らかだと思います。
ただし、現行憲法を護れば問題ないというわけではありません。
また最近は、解釈や立法で憲法を済し崩す動きも顕著です。
このような動きも阻止されなければなりません。
とはいえ、現状を座視・黙認・支持して支えているのは私たちです。
そこには、三悪趣を生きる私たちがあります。私たちは、三悪趣に安住するような念仏しかしてこなかったのではないか。
真宗者には、今こそ親鸞聖人の念仏に立ち帰ることが願われていると思います。
(中日新聞2015年2月27日付『真宗者と現代社会(下)』平川宗信 著より引用しました。)

憲法についての話を聞くたびに、「憲法の理念は仏教・真宗に通じる」と何となく感じていたのですが、平川先生のお話を聞いてハッキリしました。
自分がどんな世界を願っているのか…それを見つけ出す“学び”を深めていきたいものです。

今日も快晴!?2017年1月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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先日、弁護士の間宮静香さんの「大人の都合と子どもの人権~小さくても一人の人間だから~」という講演会に参加しました。
間宮さんは、春に子どもの通う高橋中学校にいじめについての講演に来られていて、その時のお話もとても印象に残るものでした。
弁護士として実際に担当された子どもさんの例を交えながらの講演は、事実に裏付けされたとても説得力のあるものでした。
「うん、うん」と頷くことばかりでしたが、記憶に残っている部分を少しまとめておくと、、
「傷害事件を起こして捕まる子どもは、ほぼ殴られて育っている。」
「子どもは、自分が幸せでないと『寂しい。おれを見てくれ』と非行をする」
「子どもは、自分が大切な存在だと分かれば、自分で問題を打破できる力がある。
自分は受け入れられているという実感が重要。
だから、子どもの気持ちを優先する、
子どもに自分のことを決めてもらう、大人は子どもの力を信じてサポートする。」
「愛された実感のある子は、時間が掛かっても戻ってこられる。けれど、一度も愛された実感のない子は時間が掛かる。ネグレクト(育児放棄)を受けた子どもは、人間関係の構築が難しい。」
「見守ることの大切さ・・・傷が深ければ深いほど回復には
時間が掛かる。子どもが10年後に幸せならそれで良し。大人が焦らない。」
中でも、「大人にとっての『子どものため』から、子ども中心の視点に戻すこと」という部分は、タイトルにもある「大人の都合」とも重なる内容で、本当に親として気をつけなくてはいけないと思いました。
例えば(この例は講演の内容ではありませんが)、受験の時期にありがちな「ちゃんと勉強しなさい!高校くらい行かないと!あなたのために言っているのよ」と言う言葉が、実は「中卒の子どもを持つ自分(親)が恥ずかしい」というように、「子どものため」ではなく、「親の都合。親が自分の面子のため」に言っていることがあります。
子どもは、親の本心を的確に見抜いて傷つくのだと思います。
我が家も来年はいよいよ長男が受験の年を迎えますが、「子どもは親の所有物ではない」、「子どもを一人の人間として尊重する」という基本姿勢は崩さずに、「この子が将来、どういう大人(人間)になって欲しいと思うのか」を考えて、子どもと向き合って行きたいなと思いました。
また、「ネグレクト(育児放棄)」と言う言葉は、最近よくニュースでも聞きますが、「愛された記憶の無い子ども」なんて、想像しただけで胸が苦しくなりました。
最低限自分の子どもたちは十分な愛情で満たしてやりたいと思いますが、私たち大人は、今虐待を受けたり、辛い気持ちで毎日を過ごしている子どもたちに一体何が出来るのでしょうか?
間宮さんのお話で、「ある子どもが、道を歩いていてすれ違った人に『おはよう』と声を掛けられて、自殺を思いとどまった」というエピソードがありました。
その他、親や血のつながりは無くても、(この人は信じられる)という人と出会うことで、子どもが立ち直ってゆくきっかけになることもあるそうです。
大人の姿勢が問われているのだと思います。
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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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