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今月の掲示板 2010年3月

テーマ:今月の掲示板
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●悲しい事ではありますが、人間は今のところ
決して気高い心を持っているとは言えません。

●人間は、お互いに尊敬しあわなければなりません。
それなのにどうでしょう。お互いに傷つけあっています。

●最も幸福な人民は、
大砲を沢山持っている人民ではなく、
平和を愛する人民です。

●世界の人はもっと仲よくつきあわなければいけないと思います。

●文明人も、ひと皮むけば
やばん人とたいして違ってはいません。
平気で殺しあいをします。

●戦争も人間の行為の一つです。
こんなばかげたことも、人間は平気でやっているのです。

●戦争を始めて、多くの国民を傷つけたり殺したりする征服者は、
にくんでもにくみたりない野獣です。
人間は、鉄砲をうちあうのではなく、
お互いに手をにぎりあわなければならない。

●罪深い私達人間は、
いつになったら救われるのでしょうか。

●人間以外には、自殺するものはありません。
自殺は人間だけの特権です。
しかし、自殺することは、ひきょうなことです。おろかなことです。
いのちは大切なものです。
どんな困難にであっても、これを断つべきではありません。
人生を見捨てることは許されないことです。

●昆虫や動物は、みんな死とは何かということを知ってはいません。
死を知っているのは人間だけです。
これが人間の偉大な点です。

●私達人間だけが、生命のとうとさを知り、
死者をとむらうことを知っています。
他のどんな動物も、こんなことを知ってはいません。

(以上、『ファーブル昆虫記』より)

本堂に座って 2010年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】
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 最近、いろいろな場で「直葬」ということばを
耳にするようになりました。
(「直葬」とは、お葬式をしないで
直接火葬場で火葬することだそうです。)

つい先日、このことに関して、新聞の投書欄に掲載された文章と、
葬儀について話された文章を続けて目にする機会がありました。

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 今、従来通りに葬式をすると、平均で250万円ほどかかるらしい。
社会的に広く活躍してきた人ならともかく、
つつましく暮らしている庶民が
死後に及んでこの金額の出費はかなり痛い。

そう考えるのは私だけではないのか、
近年は「家族葬」といい、
身内だけで簡略に葬儀を済ませる人が増えてきているようだ。

 その家族葬の中でも最もシンプルなのが
直葬と呼ばれる、火葬だけを執り行うものだ。
首都圏ではすでに葬儀の3割がこの直葬で占められているという。
直葬なら10万円を少し超える程度の
金額で請け負う葬儀社が名古屋にもいくつかある。
もし私が死んだら、ぜひこの直葬で見送ってもらいたいと思う。

 従来の葬式をする代わりに、浮いた金はユニセフに寄付して、
世界の恵まれない子どもたちのために使いたい。
その方がずっとさばさばとしたこの世との別れになると思う。
         (中日新聞 平成22年2月9日 発言欄に掲載)


 (真宗の葬儀について)
こういったお勤めは、亡くなった方に対して、

「あなたはこの世にお生まれになってから、
いろんなことに遇われましたね。
幸せな方も苦労された方もおられます。
どんなに幸せに生きたと思う方でも、それなりの苦労をしておられる。
どうしたらいいだろうか、と思い悩むような出来事にも
必ず出遇っておられます。

だから、あなたもこの世に生まれられて、
いろいろなご苦労をなさいましたね。」

と、お勤めをしている私たちの気持ちを
亡くなった方に語りかける形式になっているのです。

若くして未亡人になった方もいます。
若くして親と死に別れた方もいます。
怪我をした方もいます。
重い病気になられた方もいます。

「いろいろなご苦労がございましたね。大変でしたね。
しかし、あなたはそういうご苦労を通して、
弥陀仏の本願に遇うことができましたね。
本当に良かったですね。

あなたは今、さぞ満足して
この世の命を終えていかれることでしょう。
誠に尊いことであります。

今、あなたとのお別れに際して、
あなたの一生を私なりに思いますに、
このような生き方をしている私の姿が誠にお恥ずかしい。

だからこそ、あなたの姿に照らされて、
あなたのように命終えていく時に

―あなたそれで良かったね。さぞ満足なことでしょう―

とすべての人々から心からそう言って
頂けるような最期を遂げることができる人間に
成れるような生き方をしていきたいと願います。

お浄土からこの私を守り、どうかお導きください。」、

こういう気持ちで
お葬式に遇わせていただくのだと私は思っております。

 (『君は君の願いに生きていけ』林暁宇 著
 広大舎刊 より抜粋して掲載しました。)
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 直葬が増えている要因の一つに
「経済的事情」があるというのは確かなことの様です。
しかし、「儀式の意味」や「人が亡くなることの意味」が
十分に理解されなくなってしまったことも、大きな要因なのでしょう。

様々なことが「合理的に」という視点のみで
考えられてしまいがちですが、
葬儀について考える中には、
「私が、どのようにいのちを終えていくか」という
大事な課題が含まれている様に思います。

今日も快晴!? 2010年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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長男の開と話していて、最近どうも気になる言葉があります。
「証拠を見せてよ」というものです。

例えば、子どもがふざけておかしな顔をするので、
「そんな顔をしていると、そういう顔になっちゃうよ!」と言うと、
「へぇ~、そうなんだ。じゃあ、そういう顔になっちゃった人見せてよ。
本当にそういう顔になる証拠を見せて」という言い方をするのです。

学校に通い出してから
そういう言い方を覚えてきたように思うのですが、
子ども同士の会話の中で「証拠を見せろ」という
言い方が流行しているとしたら、何だか嫌な感じです。
会話のキャッチボール以前に、
相手との関係を切ってしまうように思えるからです。


 また、
「お母さん、この間○年生の人とサッカーしていてね、
△君の蹴ったボールがズボンに当たって泥だらけになったら、
△君『わ~、きったねぇ!』って言ったんだよ」と言うので、

「そうなの?大丈夫だった?
△君は、自分が蹴ったボールが当たって
開くんのズボンが汚れたのに、
『ごめんね』じゃなくて『汚ったねぇ!』なんだねぇ」
「うん。でも、サッカーの最中だし、わざとじゃないから」
「ふ~ん。そう・・・。」

 話している内に△君の顔が浮かび、
何だか腹が立ったのですが、でもよく考えてみると、
△君ももしや、家庭の中や友達同士の会話の中で、
彼自身もそういう言葉を掛けられて来たのではないか。
自分が育ってきた環境の中で、
そういう場面で人に掛ける言葉を学ばずに来たんじゃないか。
と思ったら、何だか気の毒になってきてしまいました。


 子ども園に行きだした次男が、
途端に「バカ」と連発するようになり、
家庭の中ではあまり聞いたことのない言葉が
急速に増え続けているのを感じますが、
汚い言葉は覚えるのが早いし、
家庭の外で色々な言葉を耳にすることを止めることは出来ません。

けれども、出来るだけ穏やかな言葉、
相手を思いやる優しい言葉、
柔らかな言葉を聞いて育つ子どもになるといいなぁと思います。

家庭の中では、親(特に母親)の言葉が
一番影響が強いのは間違いがないので、
まずは自分が口にする言葉を再チェックです。


 先日は、味噌汁をよそったところ、
子どもに「お母さん!熱すぎる!」と怒られたので、
「あ、ちょっとコンロに火が強すぎたかな。ごめんごめん」と言うと、
「コンロのせいにしない!」と叱られました。
これは、いつも私が子どもに対して
「開くん!これどうしてくちゃくちゃになってるの!?」
「だって○○が・・・」
「○○のせいにしない!」と
注意しているそのままです。(よく聞いているなぁ・・・・。)


また誓は、登園途中に
「お母さ~ん。カバン持って~」と言ってくるので
「そんなの自分の荷物なんだから自分で持ちなさい」と、
知らんぷりをしてスタスタ先に歩いていくと、
「お母さん、いつも『人の話は最後まで聞きなさい』って言うくせに、
ぼくの話は聞かないじゃん!」と反撃してきます。
(おっ?なかなかいいとこ突いてくるなぁ)と思いましたが、
このシチュエーションではまだ折れるわけにはいきません。

「カバンは自分の荷物でしょう?
人に持ってもらおうなんて甘いっ!
そんな言葉は聞けません!!」と、
ここは引かずに頑張ります。
母業は、日々子ども達とのサシの勝負なのです。

清風 2010年2月

テーマ:清風 【住職】
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< 憲法に守られ守り生きし人生
 戦なき世を 子孫に伝えん(朝日歌壇より) >
_______________________

論の沸く 後期高齢めでたけれ
 五十二歳の亡夫(つま)は老い得ず(愛知歌壇より)
_______________________

 後期高齢者は75歳を迎えた人からを指す名称です。
この作者の夫は52歳で亡くなったので、
もちろん75歳は迎えられなかったのです。

この詩の作者から見ると、75歳を迎えたということは、
もうそれだけで目出度いということだというわけです。


 しかし、どうでしょうか。
かく言う小生も今年で70歳になるのですが、
振り返ってみると70年の人生はあっという間でした。

70歳を迎えても、目出度いという感動は無い様に思います。
いわば、当たり前のことに過ぎないのです。

まさに「私は自分を幸福にしてくれると予想され、
しかもそれに到達した瞬間
巧みに私をはぐらかすような目的を追っている」(E.フロム 註)
ということでしょうか。


 幸福を望まない者はいません。
しかし、どうやら我々は、フロムが言うような
「到達した」、つまり幸福とやらを手に入れた途端
「巧みにはぐらかされる」と言っているごとく、

成ってみれば(到達してみれば)いつも
「当たり前としか思えないような目的」(幸福)に
向かっているとは気づけない病に罹っているのかもしれません。


 私どもは、自分がこの人生において
本当に達成すべき願望を、
実は一度も尋ねたことなどないのだということに、
もうそろそろ気づかなければならない時に来ているのかもしれません。

いつも私の願望とは言いながら、
他人と比較してのことであり、
世間体という幻を追いかけてきただけでは
なかったのかと。

しかし、私どもにとって、
その課題に気付くということに
遅すぎるということは決してありません。
この短歌の作者も、つれ合いを亡くされて初めて、
その課題に気付かれたのではないでしょうか。



註)E.フロム(1900~1980)
 ナチに追われ、アメリカに移住。
心理学的方法を社会現象に適用する。

引用した著書は
『自由からの逃走』(東京創元社刊行 平成5年101版)
引用の箇所は278頁。

『正信偈』のはなし 2010年2月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】
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No.172

 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁
 「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」
_______________________

  今回から「光明名号顕因縁」に入ることにします。
「光明名号顕因縁」というのは、
「光明(如来の智慧)」と
「名号(南無阿弥陀仏)」が因縁であるということです。
はからいは間に合わないという事実を
言い当てたことと言ったらいいでしょうか。


 仏教では、因縁は事実、つまり他力ということ、
はからいは妄想、つまり自力のことと教えられています。

困ることも嬉しいことも、因縁によって起こってきます。
どちらも、起こそうと思って起きるものではありません。

ところが私どもは、
自分にとって嬉しいことは引き受けることが出来ても、
自分にとって嫌なこと・苦しいことは引き受けたくない
というはからい(計算)がはたらきます。

要するに、悩まされることはあっても、悩めないのです。
私が私の世界を作り出しているにもかかわらず、
私が作り出しているとは思えないということでしょうか。


 私の人生でありながら、
その私の人生に起こってくる全体を引き受けられない、
そういう私がここにいるのです。
「鬼は外、福は内」というわけです。

鬼も福も、
実は我がはからいが作り出しているもので、
我が身の内なのです。

その証拠に、
昨日は鬼と思ったことが今日は福になったり、
その反対に、
今日は福と思ったことが明日には鬼になるということがあるのです。
この事実が、私どもにはなかなか分かりません。


 妻の評価も、その時その時です。
川柳に
「値札見て これが似合うと 妻はいい」と言われるかと思うと
「帰り来れば わが家明るく 灯ともれり
 昨日退院せし 妻の居て」とも言われます。

その事実に気付ける知恵を磨けというのが、
生活をしていく(生きている)意味なのだよと、
仏教は教えてくださっているのです。

お庫裡から

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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 年末に、小学校を卒業して50年が経ったと、
同窓会の案内が舞い込みました。

私が卒業したのは、今でこそ津市になっていますが、
津の西方、安濃村(私の子供の頃はその村がもっと小さく
安濃(あのう)・村主(すぐり)・
明合(あけあい)・草生(くさわ)と分かれていて)、
経ヶ峯という山懐の一番奥まった草生村の草生小学校です。
(ちなみに中学は、4つの村の4つの小学校から、
村に1つの東観中学校に進みました。)

案内が届いた時、
「わー、同窓会だって。」「エー、50年ぶり」
「同窓会開いてくれる人が出来たんだ。」
「わー、嬉しい」とすっかり舞い上がってしまいました。

そして、ハタと気がついたのです。
小学校の同級生って、誰がいたかしら。
同級生は45人(男23人・女22人)
という事はよく憶えていました。
しかし、名前が出てこないのです。

お世話役の3人は、同じ集落だったので
(それでもいつから顔を合わせていないか)知っているとはいえ、
35人が集まるという同窓会に
(これも偶然ですが、家のすぐ前にいた同級生が、
豊田に家を構え、寺の門徒になってくれている)
2人で出かけて行きました。

中学で同じクラスになった人も何人かはいますが、
ほとんどが初めましての感覚で、
案内状を手に取った時のワーっと沸き立ったような
喜びの感じがショボショボ消えて、
その時撮った集合写真をながめつつ、
これは誰だった? 

名簿と姿が結びつかない私なのです。

今月の掲示板 2010年2月

テーマ:今月の掲示板
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●人間は、欲に手足のついているものぞかし。(井原西鶴)

●地獄が人間を殺すのでない。
地獄を逃れようとする心が人間を殺す。

●沈む所は地獄であるが、
それは、浮べる力のある本願のところ。

●沈めば、そこは浮ぶ所。
不思議じゃないかね。

●心はあれを思いこれを思いしている。
人間の心というものは、解決のないものです。

●海は泳ごうとする力があれば、かえって怖い。
泳ぐ腕の力には限界がある。
我々は、落ちまいとするから怖いけれど、
海にのみ尽くされれば海は浮かべる。

●怖いものを避けるから、怖いのです。

●やがて死ぬということを考えておるからあかん。
今、死ぬる。
助からん身(自力無効)に死する。
それが、生きる所。

●本願にふれて初めて助からんことがわかる。
凡夫ということがわかる。
助からん身とわかれば、そのまま助かったことです。
それが不思議です。

●なるべく地獄に落ちずに助かろうと思っておったが、
徹底的に地獄に落ちる。
そこに本願がある。

●死んで生きる。
一ぺん死なんとあかん。
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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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