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本堂に座って 2009年12月

テーマ:本堂に座って 【若院】
本堂に座って
去る11月14日・15日に守綱寺の報恩講が勤まりました

今年も高柳正裕先生にご法話をいただいたのですが、その冒頭から、聞いている僕の心を見透かされているような、内面を言い当てられているような、そんなお話を聞かせていただきました。少々厳しい表現も含まれますが、そのままを紹介させていただきます。

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世の中は、なかなか私そのものを呼んでくれるということはないんですよ。役職であったりとか、家の中でもお父さん・お母さんとかですね、そういうふうには呼ばれるけども、真っ直ぐに私のことを呼んでくださるということは、なかなかないんやね。

 (中略) 今までの価値観をそのまま持って、その上に付け足して聞法(仏さまの教えを聞くこと)をしていたら、それは全部、自分がもうすでに持っているものに上塗りしているだけなんです。

それでは、本当に深くお互いの名前を呼び合う世界には出られません。これまでの自分の価値観を1回投げ捨てて「死ぬ」ということですね。1回「死ぬ」ということがなければならんと。

例えば子どもでもそうです。親子の関係においてもそうですが、私たちの心…理想もそうですし、いろんな環境も違うわけですね。

それを、「この子はこういうものだ」というふうに、あるいは「この夫はこういうものだ」というふうに決めていると、脅すわけじゃないですけど、次の日に死んでいるかもしれんですよ。自殺しているかもしれない。

今だったらそういうことはいっぱいありますよ。皆さんでも、今でも死にたいと思うことはあるんじゃないですか。で、そうするとね、「まさか死ぬとは思わんかった」っていうのは、相手のことをわかっているつもり、なんです。

それも含めて、この人のことをわかっているつもりという理解を、1回捨てる。1回というか、毎日捨てると言ったほうがいいかもしれません。

だから、聞くということ、あるいは本当に人と会うということはですね、いつも新しく会うんです。いつもですよ。いつも新しく会うということがなければですね、実は、記憶に残っている「この人はこういう人だ」というふうに決めている人としか話をしていないんです。

そうなると、自分の子どもでもそうですけどね、「この子はこういう子なんだ」と、それ決めていると、気がつかないうちに死ぬかもしれんですよ。

そういうのがね、いわゆる世間の、私たちの、決めつけて聞くことができない…で、名前を呼んでるけども、本当にその人の、深い…その人そのものを呼んでいるんではない、ということに関係するということです。 
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私たちは、子ども・連れ合い・友だち・職場の人・近所の人など、顔を合わせるほぼすべての人について、判断・評価をくだしています。そして、その評価を基にして関係を作り上げています。ところが、その評価が相手を(知らず知らずのうちに)苦しめてしまっているかもしれない、また、評価が間違っているかもしれない…ということには、なかなか気づくことができません。

 「これまでの自分の価値観を1回投げ捨てる」というのは「死ぬ」という表現を用いる必要があるほどに難しいことなんだと思います。しかし、それほどのことをしなければ、「本当に、その人そのものを呼ぶことはできない」のでしょう。

「この間、○○は××だった…」ということを引きずるのではなく、「いつも新しく会う」ことで、初めて、今まで見えなかった本当の部分が見えてくるんだと教えていただいた様に思います。

今日も快晴!? 2009年12月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
今日も快晴!?

 長男・開が小学校に入学してから、授業参観だ何だと、30年ぶりに母校に顔を出す機会が増えました。校舎や体育館は自分が通っていたときのままですが、教室の中身はと言うと、(随分雰囲気が違うなぁ)というのが実感です。

上手く表現できませんが、「全員を平等に」ということが極端なくらい注意深く慎重に守られているような印象です。

毎週学級通信で、「この日は何を持って行くか」という毎日の持ち物の指示があり、生徒の作品などは必ず全員分掲示がされています。

 先月も、「歯磨き教室」があるというので、出かけて行きました。当日の持ち物に、「歯ブラシ、うがい用コップ、水を吐くための容器(500mlの牛乳パック)、タオル・・・」と細かい指示があります。(まあ、親切なこと。水吐き用の容器まで準備するのね~)と思いながら教室に着くと、子どもの机の上には、「コップ、タオル、歯ブラシ…」と、その日の持ち物をかたどったイラストが描かれた紙が乗っていました。

その紙の上に、描いてある通りの物を乗せれば、クラス全員全く同じ位置に同じ物が同じように乗っている・・・という状態になります。(ちょっと丁寧すぎるんじゃないかなぁ…)と思いながら1時間の講習を受け、最後に先生に「この紙はどうするのですか?」と尋ねると、「あ、こちらで回収して捨てますから」という返事でした。

わずか1時間、机の上に乗せる物の場所を示すためだけに、人数分の紙が準備されているなんて、何て勿体ない…!学校でのエコは?と首をかしげたくなりました。

例えば、授業の始まる前に黒板に「今日の持ち物は、机の上にこういう形で置いてね」と図を書いて説明すれば、大抵の子どもは同じように出来ると思います。「黒板に書かれた図を、机の上に再現する」という過程で、一度自分の頭を使って「考える」という作業も行われます。

けれども、紙の上に描かれたとおりに物を並べるだけでは、子どもは全く頭を使わずに済んでしまいます。「最近の子どもは指示待ちで、自分から考えて行動しない」という批判を耳にすることがありますが、机の上の物を置く位置までも指示されてやっていたんでは、指示待ち人間になっても仕方がないのではないか。

「個性が大事だ」と言いながら、授業で使う物を自分の好きな位置に置く個性すら認められないなんて…と、思えてしまいました。

 担任の先生は、細やかな気配りの出来る優しい方で、出された宿題以外の子どもの頑張りを認めて下さったり、教室の掲示も丁寧にされていたりと、とても評判の良い先生です。

子どもも慕っており、私も(良い先生に受け持ってもらえて良かったなぁ)と安心しています。それなので、「担任の先生の善し悪し」という問題ではなくて、現代の学校や社会が「どういう子どもを育てようと思っているのか」という点から考えると、どうも「自分の頭でものを考えない人間」を育てようとしているように思えてしまいます。

 クラス全員の動きが全く同じであれば、それは「教員の指導力がある」ことの現れだとか、または、「全員を平等に扱っている」ということの証に見えるのかもしれません。けれど、何だか妙な違和感を感じたまま、私は教室を後にしました。

そうした表面的な「平等」を、親が求めて学校に要求しているということなのでしょうか。

清風 2009年11月

テーマ:清風 【住職】
清風
<聞き流すことのできな言の葉に
          心の水があふれてゆきぬ>
_________________________

無量寿は、身の事実に頷けたこと。

不老長寿を願うのは、
事実として無量寿を生きていることを
忘れているということ。
_________________________
 生まれなければ、死ぬということはありません。生まれた、それが死の因です。仏教はたったそれだけのことを明らかにしたのです。

生まれたことはめでたい、死ぬことは穢れたこととして受け止めていくならば、それは身の事実を受け止めないで、妄念を生きることになってしまいます。

結局それは、不老長寿を求めることであり、最後は「死んでもいのちがありますように」と、まさに妄念に従って生きることであり、本当に生きたことにはならないことになってしまいます。

 いのちは、身(体)という器をいただいて、今、私としてあるのですが、不老長寿というのは、その器が自分であるということでしょう。そうすると、どういうことが起こるのでしょうか。

 現代は、事あるごとに「いのちを大切に」と呼びかけられています。もし、器としてのこの身というものをいのちと考えるならば、「いのちを大切に」とは、せいぜい健康で長生きすることを指し、病気の人や若くして亡くなった人は「いのちを大切に」したことにはならないことになってしまいます。

 身は正直に老い・病を引き受けています。しかし、それを引き受けられないのは「我が思い」というものです。

 つまり、不老長寿という願いのあることを一歩認めるとしても、よく考えてみると、不老長寿は人生の目的ではなく、手段であるということです。

不老長寿、老いず長生きして、それで何をするのでしょうか。退屈しなければよいのですが…。

 浦島太郎の“空けてビックリ玉手箱”のお話を、単なるお伽話として片付けるのは惜しいように思います。                         (つづく)

『正信偈』のはなし 2009年11月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】
「生きていてよかった」といえる人生を生きる『正信偈』のはなし
No.169

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」 
_________________________

 先月号にも書いたのですが、ここ数回「善導ひとり仏の正意を明かせり」という言葉に注目させられていることです。

前回は、その善導大師を親鸞聖人が「ひとり仏の正意を明かせり」と言われた根拠として、信仰告白である「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫より已来(このかた)、常に没し常に流転し、出離の縁あることなし」という語句を紹介しました。

 では何故、このような自己理解が「独明」と言われるような意味を持つのでしょうか。

先日、40代の壮年世代の人と語り合う機会があったのですが、彼が言うには、自分たちは物心ついた時には、我が国の経済は右肩上がりの時代で、豊かな時代に生まれたと言うべきなのでしょうが、いわゆる南の国々の発展途上国の現状を写真などで見て、「日本は豊かな国というのか」というような雰囲気の中で育ちました。

貧しい国の子たちにすれば、羨ましい境遇だと言わねばならないでしょう。しかし僕達は、いつも見られているというのか、周囲の評価を気にしながら生きてきた感じがすると漏らしていたのが印象的でした。

 つまり、何か評価される価値を身につけていることが、生きることの中身として要求されているということなのでしょう。

神戸事件の酒鬼薔薇と名告ったA君が「自分には国籍がない」と告白していました。これは「自分が自分のままで、丸ごと存在することが許される居場所がどこにもない」と言いたかったのでしょう(もちろん、彼のした事は肯定される事ではないのですが)。

いつも「自分が自分としてあることは許されないで、他人と比べてしか見てもらえない」という、競争社会というような人間観の中でのみ育ってきている人からすれば、本当の安心感を持って生きることができない、何か不安というか、ストレスを感じながら生きねばならなかったということを言い当てているような気がします。

善導大師の信仰告白にある「常に没し、常に流転し(ひがんだり、有頂天になったり、定まらぬ日を過ごしている)」は、現代にも通じるものがあると思いますが、いかがでしょうか。

お庫裡から 2009年11年

テーマ:お庫裡から 【坊守】
お庫裡から
夫は、昭和15年生まれ。育った時代なのか、人格なのか、全く家庭的な人ではありません。

40年になんなんとする結婚生活の中で、その夫の欠点(?)に何度も腹を立ててきた私ですが、その一つ一つ全てが、悪意を持ってやったのではない、ただ気づいていないのだと分かり、そう納得して矛先を納めてきました。

主婦になった娘は、そんな父親を辛辣な目で見ていて、常々「私にお父さんの奥さんは勤まらん」と言っています。その日も夫の行動が目に余ったのでしょう。「お母さん、若い頃もてなかったの? どうしてお父さんと結婚したの」と聞いてきました。

「うーん、そうだねー。ま、陽子、あなたの生まれ出たい、生まれ出たい、という願いが、とてつもなく大きくて強かったので、他の男性に目を向けさせず、私達を引き合わせ、あなたのお父さん・お母さんに成らせて頂けたのよ。全ては、あなたのその願いによるのよ」

「うーん、そうくるかー」

「私はあなたのお母さんにならせて頂いて良かったよ。あなたが貴之くんと出会い、開くん、誓くん、在ちゃんとも出会わせてもらって、本当に嬉しいよ。お父さんと結婚していなかったら、こんな今はないのだもの。生活しているのだから、些細な事は色々あるけれど、家族として出遇えた事を本当に嬉しく、勿体ない事だと感じているよ」

今月の掲示板 2009年11月

テーマ:今月の掲示板
今月の掲示板
今月のことばは
『骨道をゆく』(浅田正作著)より頂いています。

―無所有―
自分のものを何も持っていない鳥やけものは世界中がわがものだと教えている。

―体得―
楽になりたくて、仏法聞き始めたが楽を求めぬのが一番楽と、体でわかってきた。

―事実―
聞いてわかった、そんなものは信ではなかった。聞いている身の事実が、ありがたいのだ。

―見える―
昔は、いつも誰かと自分をくらべていじけたり、のぼせたり。
今もやっぱりそれをやるが、
やったあと、それが見える。

―正体露顕―
年とって、面倒なものになったというが、面倒なものが年とったがやわい。

―永遠の凝視―
苦しいとき、つらいときそれから逃れようとする、悲しい習性を仏はひたすらに、見つめつづけてくださる。

―人とせず―
愧(は)ずかしくない生き方など人間の生き方ではないと思う。

―思い違い―
死ぬことが情けないのではない。空しく終わる人生がやりきれないのだ。

―大悲方便―
助かる道の真中で座り込まぬように如来さまは、次々と苦悩を与えてくださる。

―業縁―
親を殺した。子を殺した。妻殺し、夫殺し。私はやっていないが、ただ業縁が来ないだけ。

本堂に座って 2009年11月

テーマ:本堂に座って 【若院】
本堂に座って
少し前のことになりますが、小学生の登校指導ということで、1週間ほど、それぞれの親が交替で集合場所から学校まで一緒に歩く機会がありました。

後日、日々の記録を付けた資料が回覧されてきたのですが、ほぼすべての方が「あいさつができない」「こちらから声をかけても返事が返ってこない」と書いておられました。

確かに近頃は、大人であっても見なれない人とあいさつを交わすのは気が引けてしまうところがあります。

しかしこの場合は、「○○くんのお母さん」ということがわかっているのに、それでもあいさつができなかったのです。

そういうものかなぁ、と思っていたところ、あいさつについて書かれたお話を読む機会がありました。

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「自立」には経済的依存から独立へという側面以外に、さまざまな人間関係からフリーになったようなイメージがあり、例えば親からの自立というと、親への反抗とか、親とあまり話さなくなることのように思われているかもしれません。

しかし実は、親に話せない秘密を打ち明けられる友だちができてはじめて、親離れとか「自立」ということになるのであって、親への秘密をただ一人抱えて、どうすることもできないというのは、いわば「孤立」です。

自分の悩みなどの隠しごとを打ち明けられる友だちができた時が本当の自立で、つまりその勇気と、支え合い分かり合える友が、自立の中身なのです。

つまりは、自立(独立)と連帯・共感は同時なのです。独りぼっちではないという自覚に立って、安心して友とともに歩んでいく。

そのコミュニケーションの出発点として、「あいさつ」があります。あいさつは相手の存在を認め敬意をはらう表現であるとともに、自らの存在主張であり、さらに相手とあいさつというひと時を共有することになります。人と人を結ぶ架け橋と言ってもいいでしょう。 (中略) いかに物があふれていようと、あいさつのない世界は貧しい世界です。

私がここにいますよ、そしてあなたの存在を認めていますよ、私たちはコミュニケーションしながらともに歩んでいきましょうという気持ちで、まず声をかけましょう。応えましょう。その音声と、それにともなう表情と姿勢とが、自分とその周りを明るく元気にします。

元気な自立者同士の連帯が、相乗的に人間を深く豊かにし、生きる力の源泉になります。友を信頼し尊敬することから、安心して「ともに」生きる世界が開けてきます。自立者として元気よくあいさつしてほしいものです。

(『あなたがあなたになる48章』
真城義麿 著 東本願寺出版部発行
「27 自立と挨拶」より抜粋して掲載しました)
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今、子どもたち(だけでなく大人も)の置かれている状況は、「自立を求められ、結果として孤立してしまっている」ということなのかもしれません。

周りからは常に「評価」という視点で見られ、「結果」ばかりを求められているうちに、自分の殻に閉じこもってしまい、自己主張・自己表現をできなくなってしまった…。

その結果、「ともに」という関係が崩れてしまっていることが、「あいさつ」に表れているのでしょう。それに対して真城先生は、「まず声をかけましょう」と言われています。

子どもたちが返事をしないことばかりを問題にするのではなく、こちらから声をかけ続け、「私はあなたを認めていますよ」という思いを伝え続けることが、子どもたちの心を開く第一歩になるのだと思います。
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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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