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『正信偈』のはなし 2009年10月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】
「生きていてよかった」といえる人生を生きる『正信偈』のはなし

No.168

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」 
_________________________

 先月号にも「念仏は鏡である」ということを書かせてもらいました。鏡というのは比喩(たとえ)です。顔も鏡がなければ自分で見るわけにはいきません。

では、念仏は何を見る鏡なのでしょうか。

自分の顔でも鏡がないとわからないように、自分のことも自分ではわからないのです。このことに気づけば、仏教は半分わかったというようなものです。

 例えば、今学んでいる善導大師は、自分について次のように告白しておられます。「自信は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来(このかた)、常に没し常に流転し、出離の縁あることなし」と。一言で言うならば「救われるような縁・手がかりの何もない者」という意味になるでしょうか。

 自分が法(念仏)の鏡に照らされるとは、このような「自己の発見」と言ったらいいのでしょう。仏教の言葉で言えば、煩悩のかたまり以外の何ものでもない、ということになるのでしょうか。

「私さえよければ」…それ以外、考えていることも、やっていることもそこから一歩も超えることなく、意識して以来―もちろんその前から―もうそれだけというわけです。

 釈尊の悟りを開かれた時のお話が、ひとつの典型として降魔―成道(悟り)と定型化されています。つまり「お悟り」とは「降魔」ということを内容として持つということです。仏教で「魔」というのは「誘惑するもの」をいいます。このことから「成道」の内容とは「己これ悪魔なり」という自覚だとも言われているのです。

詐欺に引っかかるのは、こちらに「うまい目にあいたい」という根性があるから、というわけです。詐欺師の素質がなければ、詐欺の罠にはかからないということでしょうか。

 そういう自己の有り様を、細大漏らさず的確に映し出す鏡、それが念仏だと善導大師は見出されたのです。「善導独明」といわれる所以です。

お庫裡から 2009年10月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
お庫裡から

食卓で、開くん誓くんが話をしています。

開「ぼく、和会(父親の在所)でカニ見つけたんだよ。」

誓「ふーん、ぼくもね、見つけた事あるよ、むかし。ザリガニだったけどね。」

そんな会話についついちょっかいが出したくなります。

私「誓くん、むかしっていつの事なの?」

誓「あー、2才の頃だよ」

何とも大人っぽい返答。

私「へー、そんな昔の事、よく憶えていたねー。それでどうしたの、つかまえた?」

開「ぼく、つかまえたけどね、すぐ離してやった」

誓「ぼく、つかまえない。だって怖いんだもん。ぼくまだちっちゃいから。」

あははの大爆笑。又、ある日の食卓。

誓「あ! ガラス戸にカマキリがとまっている。」

開「あれは家の中にいるのかな、外にいるのかな。」

私「どれ、あ、外にいるよ。」

誓「わかった! あれはメスだ。お腹が見える。それに尾っぽの先がとんがっているでしょう。あれはサンランカン(産卵管)で、サンランカンのあるのがメスなの。それでちょっと黄色いでしょ。サンランカンは黄色くって、その黄色がついてるから、それでメスなの。」

虫好きの誓くんは、ご飯もそっちのけで一生懸命話してくれます。聞きながら、腹の底から笑いがこみ上げてきます。

小さな孫達と生活を共にする功徳か、笑う事が多く、その笑いがスカッと解放感にあふれて、誓くんじゃないけど、こんな笑いは昔になかったような、そんな事を感じる自分が、又、嬉しくなる。

今月の掲示板 2009年10月

テーマ:今月の掲示板
今月の掲示板
●「何者でもない自分」こそ、本来的な自己。
それ自身、きわめて豊かなもの。

●自分を愛すること。
この孤独の楽しみは、「この自分を味わう」、
飽きようにも、飽きがない。
退屈なんてしようもない。

●誰か、自分でないような人が、
果して、存在するでしょうか。
誰もが、自分を生きているのです。

●人はいったい何の為に
今、この事を行い、考えているのだろう。
私は、いったいどうなりたいのだろう。
どうなったらいいのだろう。

●内に広がるこの空間の豊かさを味わおうとせずに、
外へ、他人に求めていくなんて、
なんて勿体ない。

●他人との関係は、
他人の中に自己を見るという事に他ならない。

●人生は、自分の意思を越えている。

●自然は、人間の理解を超えている。

●忙しがって、競いあって
慌ただしく過ごされて
わけもわからず死んで終わる一生。

●忙しい、忙しいと自分に言い訳しつつ
さらなる便利さを求めている。

本堂に座って 2009年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】
本堂に座って

 8月27日に、映画「おくりびと」の元となった小説『納棺夫日記』を書かれた青木新門先生のお話を聞く機会がありました。お話は、小説が映画化されるまでの青木先生と本木雅弘さんとのやりとりから始まって、青木先生ご自身の経験、そして「死」・「いのち」について語られていきました。その中から、一部を抜粋して掲載します。

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 我々は、どうしても丸ごと認める力が無くなってきている。分けて考えるクセがついている。分別で分けるってことです。理科・社会科って分ける。内科・小児科・産婦人科って分けるわけです。分けて学んでいくんです。トータルじゃないんですよ。丸ごとじゃないんです。宗教は丸ごと…仏教は特に丸ごと認める世界です。にもかかわらず分ける。分けて、こっちが良くてこっちが悪いっていう。

 こんな詩があります。小学校4年生の。

「僕は今日、トンボを捕まえて家へ帰ったら、お母さんが、可哀相だから放してあげなさいって言った。僕はトンボを放してやった。トンボはうれしそうに空高く飛んでいった。それから僕は台所へ行ったら、お母さんはホウキでゴキブリを叩き殺していた。トンボもゴキブリも昆虫なのに。」

という詩なんです。ね、分けるでしょ、お母さんは。そのお母さんの背中を見て育っていきますから、やがて少年もゴキブリを叩き殺して、心に痛みを感じない。

これはね、ヒューマニズムっていうんで育ってる、我々は。ヒューマニズムって人間中心主義なんです、日本語に訳すと。人間に都合のいいものは、可哀相だから放してあげなさいって、わりかしやさしいことを言うんです。

しかし、都合の悪いものは叩き殺しても心に痛みも感じないで生きているんです。そういう世界で我々は生きているんです。丸ごと認める力が弱ってるんです。

特にその中でも1番分けて隠してしまったのは、「死」というもんです。生にのみ価値を置く。生を維持するのは経済です。金融です。そっちに目がいっちゃって。手段が目的のようになってしまった。金子みすゞの詩にこんなのがあります。

「朝やけ小やけだ 大漁だ 大ばいわしの大漁だ。 

はまは祭りのようだけど 
海のなかでは何万のいわしのとむらいするだろう。」

という詩がありますね。

我々は、わっしょいわっしょいと、祭りのような生き方をしてきました。また、祭りのような感じが体に伝わらないと生きた心地がしない。

しかしその祭りの裏には、鰮の死っていうのがあるんですよね。そういう生と死を両方見る複眼の目を持っていたのが金子みすゞであったり宮沢賢治であったり。複眼の目、生と死を両方見つめた…。

ところが今日の我々は、生にのみ価値を置いて生きています。そういう社会っていうのは必ず少年たちに影響を与えます。
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私たちは、「死」という現実を「嫌なこと、悪いこと」として排除してしまっています。その結果、「死」を感じる事が無くなり、「死」がわからなくなりました。青木先生は「人を殺してみたかった」という事件の原因はここにあるのではないかと言われます。

「生」と「死」を分けずに、一つのものとして考えることから、本当の生の価値・意味が見えてくるのではないでしょうか。

今日も快晴!? 2009年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
今日も快晴!?

 今年の9月、突然出現した大型連休に、これまた突然我が家に降ってわいた棚ぼた話がありました。

とある知人から、「TDLまで旅行の計画を立てていたが、家族の病気で行けなくなってしまった。チケットをもう取ってしまったので、良かったら代わりに行かないか?」という、夢のような旅行計画です。

聞いた瞬間から、旅行好き&イベント好きの私の頭は、ミッキーと一緒にパレード状態です。丁度お彼岸の真っ最中で、忙しくて出かけられない旦那さんをあっさり置き去りにすることに決め、(東京まで行けば自分の妹たちがいるし、なんとかなるさ!)、と子ども3人を引き連れて、私一人で出かけることになりました。

 ところが、こんな素敵なプランなのに長男の開(小1)が「行きたくない」と言い出すのです。

元々この連休は「お彼岸で忙しいので、特別なお出掛けは無し」ということになっていて、子ども達は旦那さんの実家にお泊まりする予定になっていました。

大人の価値観でいけば、『市内車で30分。行こうと思えばいつでも行けるばぁばのおうち』vs『滅多に行けないディズニーランド。しかもチケット+ホテル付き』と、どちらを選ぶか言うまでもありません。

しかし、子どもたちは、この「お泊まり」を楽しみにしていたようで、「ディズニーランド行きたくない。和会のばあちゃんのおうちに行きたい」とぐずぐずです。

「お休みは5日間あるんだから、最初の3日間は東京に行って、帰ってからばぁばのおうちに泊まりに行けば良いよ」「東京に行けば、りこちゃんと有子ちゃんと遊べるよ」「ディズニーランド楽しいよ。次はいつ行けるか分からないんだよ」といくら言い聞かせても、「行きたくない」の一点張りで、全く心が動く様子がありません。

 開は、「意志が強い」といえば聞こえは良いかもしれませんが、頑固で融通の利かないところがあり、「嫌だ」と決めたらてこでも動きません。これまでも何度もそういう出来事があったので、(はぁ~。開がここまで嫌だと言い張ったら絶対行かないだろうなぁ・・・)と、ようやくこちらの諦めが付いたのは、出発前日の夜でした。

 「うちらの子だからね。どちらに似ても頑固なのは一緒だから、仕方無いよね。」と旦那さんと相談し、旅行カバンから開の荷物を抜き取り、子どもを前にして「開くん。お母さん、誓くんと在ちゃんと一緒に東京に行ってくるね。開くんは連れて行かないけど、本当にいいんだね?」と念押しし、翌朝本当に開を一人置いて旅立ちました。

 行きの新幹線の中で、しみじみ(ああ、子どもは自分とは別のものだ)と思いました。こうして子どもは親の手を離れてゆくんだ。自分の意志で自分の行動を決定し、親の決めたこととは違うことをするようになるんだ。いつまでも母親の言うことに黙って従うわけはないよね・・・と、ちょっと寂しいような、複雑な心境でした。

 しかし、ディズニーランドの楽しかったこと!よく考えたら、子どもが3人より2人の方が移動も楽だし、下二人の方が色々ごまかしも利くので、大人にとっては好都合です。

こうして、初日の感慨はどこへやら。(開く~ん、お留守番してくれてありがとう♪お母さん楽しかったよ~♪)と、のんびりウキウキ夢のような数日間を過ごしました。全く親ってやつは・・・。

清風 2009年9月

テーマ:清風 【住職】
清風
<仏教徒 われら静かに声あげん
               ブッダの言葉“兵戈無用”と>
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人生は、その課題において平等であり 
その成果において個性的である。
                    前田俊彦
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we can changeと呼びかけたのは、
アメリカのオバマ大統領でした。

 かつて私は、
選挙をするとは誰かを選ぶことだと
常識的には思われているけれど、
実は自分を選ぶことだと聞いたことがあります。
つまり、自分を選ぶ以上、
自分がどんな国家なりどんな政治をしようとするのか、
その自分の志、理想、課題が
問われているのだということになるというわけです。

 そこで、冒頭に掲げた言葉が大切になると思うのです。
あなたの課題は何ですか、
あなたがそのために生きているという志は何ですか。
こんな風に真正面から問われると、
困ってしまうと思われるかもしれませんね。

 不況と言われているのは、経済の不況だけではなく、
例えば冒頭に掲げた
「人はその課題において平等であり、
その成果について個性的である」
というような言葉には出会えない
(つまり、意味の不況)
ということにもあるように思いませんか。

 この度の選挙では、あらためて国の主人公としての志が
問われてきたと思います。

 私の願いは、憲法第9条を生かし、
軍隊の基地を日本から無くし、
例えば沖縄は世界中から貧困を無くすための、
あるいは紛争地域の問題を解決するための
国際会議などを開く会議場にし、
その費用は、今米軍に
「思いやり予算」として計上されているものを使い、
また、自衛隊は災害救助隊として、
国内外の災害に出動する
救助隊に組み替えればいいと思っています。

 孫や子どもに戦争で死ねというのは、
歴史から何も学んでいない
私ども大人の怠惰以外の
何ものでもないと思いませんか。自分の志をはっきり持って、
世界の諸外国との関わりを、
生きることの豊かさを実感できる未来の
日本にしていきたいですね。利害が異なる諸外国とは、
大いに喧嘩したらいいと思うのです。喧嘩という字はともに口偏ですね。口論です。
武器を持ちだしてことを解決しようとするのは、
大の大人の道ではないですね。

私たちは、その意味からもユーモアを、
エスプリのセンスをもっと磨かねばならないと思います。 

そのためには、小学生から英語を教える必要はないので、
日本語できちっと自分の意思を伝えられるように、
志を立てることが大切だと思いますが、どんなものでしょう。

『正信偈』のはなし 2009年9月

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「生きていてよかった」といえる人生を生きる『正信偈』のはなし

No.167 

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」 
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先月号で「念仏は鏡である」と書きました。
鏡は「映すはたらき」をいいます。

映すのは言うまでもなく知るためです。映せばそれで、鏡のはたらき(存在する理由)は無くなります。

鏡は、「自分の面が曲がっているのに、鏡に文句をつけてどうなる」という諺があるように、しばしば損な役を演じなければならないこともあります。

しかし、面が曲がっているのに、真っ直ぐに映す鏡では困りものです。嘘でも褒められれば嬉しいという根性の持ち主から一歩も出られない私は、いつも本当の私を映し出す鏡を悪者にしがちです。

その結果、いい外面(評価)だけを気にする人間があふれることになりました。その行為の動機〈因〉は、ほとんど問題ともならない、結果オーライならそれでOKというわけです。

仏教、ことに浄土教(南無阿弥陀仏の教え)は、そこに非常に厳しい、そこ一点のみを課題にしたのだと言っても言いすぎではないと思います。「念仏申せ・ただ念仏」これが、法然・親鸞という二人の人が私どもに残されたメッセージであったわけですから。念仏は鏡であるという、善導さんの非常に簡潔な念仏の了解がなかったら、法然・親鸞聖人の出現はなかったと言ってもいいでしょう。

念仏は、私は「念私」でしかないという私を映す鏡なのです。「念私」とは、私の思い・私の都合こそが善悪をはかるモノサシであると固く信じて疑ってみることもできない私のあり方を映し出す鏡のことです。念仏は、仏の智慧をこそモノサシとすることです。

「念仏申せ」とは、法然・親鸞という人が生涯かかって明らかにしてくださったお仕事の全体です。念仏とは、仏の呼びかけなのです。
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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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