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お庫裡から 2009年9月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
お庫裡から
私は、全く素人ですが、歌う事が大好きです。それをかなえてやろうと、お寺にコーラスが生まれ、コンサートが生まれ。皆様に支えられて、本当に嬉しい楽しい、張り合いのいい時間を頂いてきました。

その私に今年の春、暗雲が立ち込めました。
肺炎という病気になったのです。春の筍コンサートの時も発生していたのでしょうが、胸の痛みは、肋間神経痛(これも持病の一つ)と思い、咳も治りの悪い風邪と放置していたので、体力を奪われたのでしょう。

肺の影が薄くなっても、いつまでも風邪の症状が続き、少し動くと息苦しく、声に張りが無く、疲れやすい。声もくぐもる。声量が落ち、コーラスも自慢の高い声が出ない。困った!

「あははは、あなたも年令(とし)には勝てぬかね」電話の向こうで同級生の高笑いが聞こえます。それも嬉しげに。順調に老化が進んでいたのです。

それで11回目の今回を「お寺のコンサート」の最終回と致します。「親と子の音楽とお話の夕べ」から通算すると21回目となります。本当に長い間、皆様のお陰で張り合いのいい時間を頂いてきたものだと、謝念が湧いてきます。コンサートが近づいて、心配していた声に、張りが戻ってきたように感じます。

夜の最後のコンサート、思いっきり歌い上げたいと思っています。どうぞお出かけ下さりフィナーレを盛り上げて下さいますよう、お願い申し上げます。

今月の掲示板 2009年9月

テーマ:今月の掲示板
今月の掲示板
●私の物指しで問うのではなく、私の物指しが問われるのです。これが、聞法です。

●宗教を求める人間(私)の心は、私の思い通り(役に立つか否か)私の都合通り(高く売れるか否か)その心から一歩も離れない。その人間の心を自覚させるのが、宗教が求める人間の心というものです。

●何事も、自己免許はいかん!

●人間の(煩悩の)ご用聞き宗教は迷いを深める

●どこが限界であるかを知るには、質の違うものに触れることによって思わず、はからずも 限界が知られる。

●自力というのは、めげることを知らない折れることを知らない限界を知り得ない。だから「いつか、今にきっと」と未来へ、未来へ、先のばしして今を、生きない。

●現実の自分と、本当の自分(こんなはずじゃない。本当のボクはもっと違うボクだ)とのギャップ。泣こうが、笑おうがこの現実、この自分だけが
存在する。

●苦しむということは、人間を、根元の願が発遣しとるんです。困るのも、ただ困るんじゃない。より一層、深い人生の内面の意味というものに人間を呼びかえしてくる。

●ことばはぼくらが世界を見る時にかける≪眼鏡≫めがねをかけることによって一つ一つの事物がはっきりしてくる。

●自分という≪眼鏡≫には、≪自分らしさ≫という度がついて、それによってその時々の自分に焦点が当たる

本堂に座って 2009年9月

テーマ:本堂に座って 【若院】
本堂に座って
 毎月、お参りの際にお家の方と一緒に本や文章を読ませていただいているのですが、最近読んだお話に興味深いのものがありましたので、ここで紹介します。

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最近、葬儀や法事をなるべく簡単にすまそうとする風潮が広まっているようです。すごいところでは、亡くなったらすぐに火葬場へ遺体を運んでそのまま焼いてしまう「直葬」なんていうのもあるそうです。

私たちが知っている昔ながらの弔いの方法はたいへん丁寧です。それは亡くなった人を大切にする心があるからです。葬儀や法事は、先祖に対する敬いの心がなかったらやっていられないのかもしれません。

もともと仏教は、死者をなぐさめたり成仏させるためにあるのではありません。迷って苦しむのは死者ではなく生者です。私たちは生きているから煩悩に苦しんでいるわけです。この世で迷い苦しむ私たちのために仏の教えがあるのです。それは生きる者が生きたまま救われるためです。仏教は一見、亡くなった人を救うためにあるように思われますが、そうではありません。葬儀や法事は、あたかも死者をなぐさめるかのように行われているけれど、本当の目的は、死者の救いではなく生者の目覚めです。生あるものは必ず死ぬということは誰でも知っています。にもかかわらず、生者は死を恐れ、死を嫌悪し、死を遠ざけて生にしがみつきます。それを仏教の言葉では無明とか愚痴といいます。

仏教は死者のためではなく、生者の愚かさに光を当てるためにあります。葬儀や法事に仏教が深く関わってきたのも、人間に死の問題を乗り越えさせようとするからです。
死者は生者とどんな関係があるのでしょうか。「死んだらおしまい」というのは、生者と死者は無関係だという考え方なので、そこからは死者を敬う心は生まれてきません。

死者を敬うとは、死者を忘れないということです。人は死によってこの世から消滅するのではありません。

生者の中に記憶として生き続け、生者を呼びかけ続けます。生者は死者から見つめられ続けるから、死者に対して恥じることのない生き方をしようとするのです。それが死者を敬うということでしょう。
人が亡くなれば葬儀を行い、あるいは先祖の法事を勤めるのは、生者が死者に頭を垂れ敬う形です。先祖のために手を合わせているようですが実はそうではなくて、むしろ生者である私たちが死者である先祖から学ぶことが大切なのでしょう。

先祖の思いや願いを訪ねることです。死者に学ぶことができて初めて敬う心が本物になっていくのです。死者は生者に思い出されることによってこの世とつながっています。

死者と対話をすることは大切です。そんな時に金儲けや健康の話をする人はいないでしょう。

死者との対話は、自分の人生を丸ごと問うことです。それは自分の愚かさや無力さと素直に向き合うことです。
死者との語らいのない人生は、欲望の追求と自己肯定だけで終わる生です。死から目をそらし、死者から学ぼうとしない者は、自分自身の死も受け入れられません。そういう人生を「迷い」とか「空しい」というのです。
(円超寺報「海」2007年9月号「くらしと宗教」より抜粋して掲載しました)
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葬儀や法事は誰のために行われるのか…この大切な事をあいまいにしてしまったところから、「死」に対するイメージが変わってしまったのかもしれません。

「死者を敬うことは生きている自分のためでもある」ということを、あらためてはっきりさせていかなければいけないと思わせていただいたお話でした。

今日も快晴!? 2009年9月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
今日も快晴!?
我が家で今一番ネタの宝庫は、なんと言っても誓くんです。あまりの面白さに、この子がこうなのは、「子どもだから」「次男だから」「中間子だから」と色々な理由を付けては「そうかもしれない・・・」と思ったりするのですが、でも、その一番の理由は・・・○○似だから??

①人の話を聞かない
ある日の夕飯の席で。ご飯を「お代わり!」という開くん。
お皿に残った納豆を片付けてしまいたいが、開に全部やった後で「僕も欲しかった~!ギャァ~!」と誓に泣かれるとやっかいなので、とりあえず確認することにする。

母「誓くん。残った納豆、開くんと半分こする?それとも、開くんに全部あげても良い?」

誓「ぼくね~、今日ね~、セミ捕まえてね~、すっごい大きくてね~」

母「あのね誓くん。この納豆、開くんに全部あげていい?誓くんもお代わりする?」

誓「僕ね~、今日ね~、セミ捕まえてね~」

母「だから誓くん、この納豆・・・」 

誓「セミがね~」 

・・・永遠にかみ合わない・・・。

②その要求はあまりにストレート
工作好きの開の真似をして、同じ物が作りたくて仕方がない誓くん。しかし、やはり年中さんと1年生の間には高~い壁があり、なかなか思った通りの物が出来ない。

見かねた旦那さんが誓に開と同じ手裏剣を作ってやるが、やはりぐずぐず泣くので、「さっきお父さんに作ってもらったでしょ?」とたしなめると、「一個じゃダメだった~!沢山が良かった~!」

また、子ども同士で果物を分けた場合など、大きい方をめざとく見つけ、「大きい方を僕にちょうだいね」。

一つしかない食べ物を「はい。これ在ちゃんと半分こね」と切ろうものなら、「半分じゃダメだった~!全部食べたかった~!」と、そりゃ正直すぎじゃないかい?

③自分のことにしか関心がない
誓「ねーねー。のどかわいた~」

母「喉渇いたから何?」

誓「お茶ちょうだ~い」

誓「ねーねー。おイスがとおい~」

母「椅子が遠いから何?」

誓「動かしてちょうだ~い」

誓「ねーねー。これ外れた~」

母「外れたからどうして欲しいの?」

誓「直してちょうだ~い」

誓「ねーねー。ゼリ~」

母「・・・だからさぁ、誓くん。『ぼくは今こうです~』って自分の状態を報告するだけじゃなくて、『だからどうして欲しいのか』を言わないといけないんだよ。「ゼリ~」って言ってもゼリーは飛んでこないんだから!」

どの子どもにも共通の事かもしれないけれど、基本的に誓は自分中心に世界が回っている。

こうした誓くんの行動は、家中もみんなが(おじいちゃんそっくり・・・)と思いながら見守っている。本人も自覚があるらしく、「わしも小さい頃はこんなんだったんだろうなぁ~」と誓を見ながら苦笑い。(いや。今でもあんまり変わらないと思うけど・・・)と周囲は皆思いつつ、一応黙っている。

母親は子どもの納得いかない点を見つけると、(これはパパ似・・・)と大抵相手のせいにするのだが、今回は「じぃじ似」。でも、隔世遺伝だと言うことにして、自分似だとは決して思わない(キッパリ!笑)。

若院のブログ「お寺な日々」

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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