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清風 2009年12月

テーマ:清風 【住職】
清風

<小事に大胆なるものは 大事に臆病である>
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はえば立て 立てば歩めの 親心(川柳)
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 私どもの先輩(つまり、仏教の教えを聞いてきた人たち)は、亡くなった方を「ほとけ(さま)」と呼んできました。しかし、亡くなった方がいつ「ほとけ」に成るのかわからないので、現代では「ほとけ、ほっとけ」という駄洒落が出るようなことになってしまっています。

少し考えてみると、わからないというのは、本当にそうだと思います。人が亡くなった時、お葬式で塩を撒くとすると、亡くなった方は「穢れたもの」だということなのでしょう。それが今度は「ほとけさん」と呼ばれるのです。これは何故なのでしょう。

 私はここに、仏教に培われてきた先輩の方々の、歩みの中からの尊い気付きがあったと思わされています。その気付きの1つの例が、親鸞聖人の教えの伝統に照らすならば、まず蓮如上人が「お文」(三帖目-九通)に「今日は鸞聖人のご明日として」と書かれて、「命日」を「明日」として受け取っていかれたところにあるように思います。

「亡くなった方は、何処に行かれたのだろう」と案じている私に対して、実は「亡き人から案じられていたのだ」と蓮如上人が気付かれ、「命日」ではなく「明日」といただいていかれた―その伝統がここにあるのだと思うのです。

 亡くなった方の行く末を案じているこの私が、どれだけ案じられているかということを思ってみたこともないのです。つまり、私は何処へ向かって生きているのかわかっていないのです。わかっているとすれば、(葬式で塩を撒かれる様な)穢れたものに成るために生きている、ということでしょうか。

 「はえば立つこと」は当たり前で、「立てば」次に「歩む」のも当たり前、そこに何の感動もない(その時は少しの喜びがあったかもしれませんが)、ただそれだけのことでしかないのです。他の誰かではない、この私は、その繰り返しをずーっとやってきた、ただそれだけの人生―その人生全体が問われているのです。それが「命日」を「明日」と書かずにはおれなかった蓮如上人の感慨であったと、私は思うのです。    (つづく)

『正信偈』のはなし 2009年12月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】
「生きていてよかった」といえる人生を生きる『正信偈』のはなし
No.170

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」 
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 一面でも書いたことなのですが、目標を立てて行動せよというか、絶えず前へ前へというか、目標(外部の人にもわかる数値で表せることが当然とされている)を立て、それを成し遂げていけ、というわけです。

 しかし、外に目標を立てる場合は、挫折ということが結果として起こりがちです。そして、挫折というのは他人の立てた目標の成果と比較されてのことが多いと思います。

 ここで、「目標」と「願い」という言葉に分けて考えてみたいと思います。簡単に言うと、「目標」は当面の課題、「願い」は人生を一貫する課題のことと定義しておきます。

 「はえば立て 立てば歩めの 親心」という句を例に引くならば、「はえる」ことは当たり前ですから、当然のことながら次には「立つ」ことが要求されているわけです。はえない子は、人生の挫折者というレッテルを貼られてしまうのではないでしょうか。しかし、「願い」という視点に立つならば、通常の人間の機能として出来ないからといって、その子の「願い」までも否定はできないという視点があるというわけです。

 ある障害者の子を持った親の文章の中で、明らかに「存在」と書くべき所を「尊在」と書いている箇所があり、そのことを念のために尋ねたところ、「いや、それで結構です」と言って、「最近やっと、子が損在から尊在と受け止められるようになった」と言われたというのです。

損か得か、苦か楽かと言う二項の中でしか考えられなかったが、いやそうではない、もっと広いというか、別の視点があることに気づいたということでしょう。この子が存在そのものを通して、親である私に願いをかけてくれていたということなのでしょう。

 その願いの内容こそ、こちらの視点がいかに狭いものであったか、相手(子)を変えようとばかりしていた親が、実は、自分のその視点こそ間違いであったと気づかされたというわけです。

お庫裡から 2009年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
お庫裡から
 我が事ながら、大腹を立てるという事は、なかなか面倒で、かつ、面白い現象をともない、又、学ぶ事が多い。まず、腹の立つ状況が起こる。それには、きっかけとなる相手が要る。

第一の条件、相手が居た。そこはクリアー出来ている。そこで、その相手が私の思ったように動いてくれぬ。案外、些細な事がきっかけで腹を立てる。

大腹立ちは、それに重なるように私の側だけの見解が心の中に広がった時起こる。相手は何故、私の思いを解ってくれぬのか。こんなに私は相手に心を砕いて、自己犠牲を払って、相手を立て、配慮して、こうしたいと思ったのに! ここまでくると被害者意識の固まりになり、相手を責める気持ちが、どんどん強くなる。

そんな私の姿が、そのまんま相手に写るので、相手は増々、私を避けようとする(と感ずる)。その相乗効果で、又々、私の被害者意識がかき立てられる。

そうなると、夜は眠れず、血圧ははね上がり、脈はぴょんぴょん飛びはねて、悶々とする日を過ごすこととなる。「あーあ、これはまるで病気だ」そう自分を見られるようになると、腹立ちが段々に沈静化して、心が元に戻ってくる。相手は以前と変わらないのに、この過程を経て、相手との関係も回復する。

私は、私の心の動きにとても関心がある。この心(思い)は、どんなにもろいものか、又、虚仮なものか。それを私としている限り、安心はない。〔仏かねて知ろしめして〕阿弥陀さんは、すでに私の心を見破られていた。

(大腹を立てるという事は、仏の教えを私で検証していることでした。)見破られてみれば、ワハハの世界。巻き込んだ周りには申し訳なく思い、又、許されてここに在る身の幸を実感した、ここ一連の騒動でした。

今月の掲示板 2009年12月

テーマ:今月の掲示板
今月の掲示板
●評価は他人に
まかせなさい

●耳にもちゃんと
好き嫌いがあって、
いつもほめことば
ばかり聞きたがる
「変な私」

●私たちの望んでいるのは、
天人の生活。
天人の生活は、
してもらう事が多すぎて、
自分でする事が少ない。

●天人の生活の実情は、
1.生活に張りがない
2.気力が衰える
3.誇りを失う
4.健康ノイローゼになる
5.居場所がない

●人間を尊重する
ということは、
相手の話を、
最後まで静かに
聞くことである。

●幸福とは、
生活に喜びが感じられること。
あなたが必要なんですよと
言われること。
生かされ、又、
誰かを生かして
今、いのちがあなたを
生きている。

●お前は、熊手という
便利な物を持ったばかりに
それをよう離さんと、
石の間に入った
落ち葉一つをとりかねとる。

●携帯という
便利な物を持ったばかりに
それをよう離さんと、
一番身近な者と
会話一つもよう交わさん。

●「自分を好きになること」と
「自分を愛すること」は全く違う。自分を好きとは、
自分の長所に優越感を持ってうっとりすること。

愛するとは、
自分の長所や短所、コンプレックスなど、
全部ひっくるめた自分自身に対して、
「私は今のままの私でいい、それで大丈夫」と
心の底から思えるようになること。

●自分を愛さなければ、人から愛されない。
人を愛すること、人に優しくすること。
コンプレックスを抱いているからこそ、人に優しくできる。
人とつらさを分かち合いながら、人を愛していくことができる。

本堂に座って 2009年12月

テーマ:本堂に座って 【若院】
本堂に座って
去る11月14日・15日に守綱寺の報恩講が勤まりました

今年も高柳正裕先生にご法話をいただいたのですが、その冒頭から、聞いている僕の心を見透かされているような、内面を言い当てられているような、そんなお話を聞かせていただきました。少々厳しい表現も含まれますが、そのままを紹介させていただきます。

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世の中は、なかなか私そのものを呼んでくれるということはないんですよ。役職であったりとか、家の中でもお父さん・お母さんとかですね、そういうふうには呼ばれるけども、真っ直ぐに私のことを呼んでくださるということは、なかなかないんやね。

 (中略) 今までの価値観をそのまま持って、その上に付け足して聞法(仏さまの教えを聞くこと)をしていたら、それは全部、自分がもうすでに持っているものに上塗りしているだけなんです。

それでは、本当に深くお互いの名前を呼び合う世界には出られません。これまでの自分の価値観を1回投げ捨てて「死ぬ」ということですね。1回「死ぬ」ということがなければならんと。

例えば子どもでもそうです。親子の関係においてもそうですが、私たちの心…理想もそうですし、いろんな環境も違うわけですね。

それを、「この子はこういうものだ」というふうに、あるいは「この夫はこういうものだ」というふうに決めていると、脅すわけじゃないですけど、次の日に死んでいるかもしれんですよ。自殺しているかもしれない。

今だったらそういうことはいっぱいありますよ。皆さんでも、今でも死にたいと思うことはあるんじゃないですか。で、そうするとね、「まさか死ぬとは思わんかった」っていうのは、相手のことをわかっているつもり、なんです。

それも含めて、この人のことをわかっているつもりという理解を、1回捨てる。1回というか、毎日捨てると言ったほうがいいかもしれません。

だから、聞くということ、あるいは本当に人と会うということはですね、いつも新しく会うんです。いつもですよ。いつも新しく会うということがなければですね、実は、記憶に残っている「この人はこういう人だ」というふうに決めている人としか話をしていないんです。

そうなると、自分の子どもでもそうですけどね、「この子はこういう子なんだ」と、それ決めていると、気がつかないうちに死ぬかもしれんですよ。

そういうのがね、いわゆる世間の、私たちの、決めつけて聞くことができない…で、名前を呼んでるけども、本当にその人の、深い…その人そのものを呼んでいるんではない、ということに関係するということです。 
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私たちは、子ども・連れ合い・友だち・職場の人・近所の人など、顔を合わせるほぼすべての人について、判断・評価をくだしています。そして、その評価を基にして関係を作り上げています。ところが、その評価が相手を(知らず知らずのうちに)苦しめてしまっているかもしれない、また、評価が間違っているかもしれない…ということには、なかなか気づくことができません。

 「これまでの自分の価値観を1回投げ捨てる」というのは「死ぬ」という表現を用いる必要があるほどに難しいことなんだと思います。しかし、それほどのことをしなければ、「本当に、その人そのものを呼ぶことはできない」のでしょう。

「この間、○○は××だった…」ということを引きずるのではなく、「いつも新しく会う」ことで、初めて、今まで見えなかった本当の部分が見えてくるんだと教えていただいた様に思います。

今日も快晴!? 2009年12月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
今日も快晴!?

 長男・開が小学校に入学してから、授業参観だ何だと、30年ぶりに母校に顔を出す機会が増えました。校舎や体育館は自分が通っていたときのままですが、教室の中身はと言うと、(随分雰囲気が違うなぁ)というのが実感です。

上手く表現できませんが、「全員を平等に」ということが極端なくらい注意深く慎重に守られているような印象です。

毎週学級通信で、「この日は何を持って行くか」という毎日の持ち物の指示があり、生徒の作品などは必ず全員分掲示がされています。

 先月も、「歯磨き教室」があるというので、出かけて行きました。当日の持ち物に、「歯ブラシ、うがい用コップ、水を吐くための容器(500mlの牛乳パック)、タオル・・・」と細かい指示があります。(まあ、親切なこと。水吐き用の容器まで準備するのね~)と思いながら教室に着くと、子どもの机の上には、「コップ、タオル、歯ブラシ…」と、その日の持ち物をかたどったイラストが描かれた紙が乗っていました。

その紙の上に、描いてある通りの物を乗せれば、クラス全員全く同じ位置に同じ物が同じように乗っている・・・という状態になります。(ちょっと丁寧すぎるんじゃないかなぁ…)と思いながら1時間の講習を受け、最後に先生に「この紙はどうするのですか?」と尋ねると、「あ、こちらで回収して捨てますから」という返事でした。

わずか1時間、机の上に乗せる物の場所を示すためだけに、人数分の紙が準備されているなんて、何て勿体ない…!学校でのエコは?と首をかしげたくなりました。

例えば、授業の始まる前に黒板に「今日の持ち物は、机の上にこういう形で置いてね」と図を書いて説明すれば、大抵の子どもは同じように出来ると思います。「黒板に書かれた図を、机の上に再現する」という過程で、一度自分の頭を使って「考える」という作業も行われます。

けれども、紙の上に描かれたとおりに物を並べるだけでは、子どもは全く頭を使わずに済んでしまいます。「最近の子どもは指示待ちで、自分から考えて行動しない」という批判を耳にすることがありますが、机の上の物を置く位置までも指示されてやっていたんでは、指示待ち人間になっても仕方がないのではないか。

「個性が大事だ」と言いながら、授業で使う物を自分の好きな位置に置く個性すら認められないなんて…と、思えてしまいました。

 担任の先生は、細やかな気配りの出来る優しい方で、出された宿題以外の子どもの頑張りを認めて下さったり、教室の掲示も丁寧にされていたりと、とても評判の良い先生です。

子どもも慕っており、私も(良い先生に受け持ってもらえて良かったなぁ)と安心しています。それなので、「担任の先生の善し悪し」という問題ではなくて、現代の学校や社会が「どういう子どもを育てようと思っているのか」という点から考えると、どうも「自分の頭でものを考えない人間」を育てようとしているように思えてしまいます。

 クラス全員の動きが全く同じであれば、それは「教員の指導力がある」ことの現れだとか、または、「全員を平等に扱っている」ということの証に見えるのかもしれません。けれど、何だか妙な違和感を感じたまま、私は教室を後にしました。

そうした表面的な「平等」を、親が求めて学校に要求しているということなのでしょうか。

清風 2009年11月

テーマ:清風 【住職】
清風
<聞き流すことのできな言の葉に
          心の水があふれてゆきぬ>
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無量寿は、身の事実に頷けたこと。

不老長寿を願うのは、
事実として無量寿を生きていることを
忘れているということ。
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 生まれなければ、死ぬということはありません。生まれた、それが死の因です。仏教はたったそれだけのことを明らかにしたのです。

生まれたことはめでたい、死ぬことは穢れたこととして受け止めていくならば、それは身の事実を受け止めないで、妄念を生きることになってしまいます。

結局それは、不老長寿を求めることであり、最後は「死んでもいのちがありますように」と、まさに妄念に従って生きることであり、本当に生きたことにはならないことになってしまいます。

 いのちは、身(体)という器をいただいて、今、私としてあるのですが、不老長寿というのは、その器が自分であるということでしょう。そうすると、どういうことが起こるのでしょうか。

 現代は、事あるごとに「いのちを大切に」と呼びかけられています。もし、器としてのこの身というものをいのちと考えるならば、「いのちを大切に」とは、せいぜい健康で長生きすることを指し、病気の人や若くして亡くなった人は「いのちを大切に」したことにはならないことになってしまいます。

 身は正直に老い・病を引き受けています。しかし、それを引き受けられないのは「我が思い」というものです。

 つまり、不老長寿という願いのあることを一歩認めるとしても、よく考えてみると、不老長寿は人生の目的ではなく、手段であるということです。

不老長寿、老いず長生きして、それで何をするのでしょうか。退屈しなければよいのですが…。

 浦島太郎の“空けてビックリ玉手箱”のお話を、単なるお伽話として片付けるのは惜しいように思います。                         (つづく)
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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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