清風 2010年1月

テーマ:清風 【住職】
清風

心得たと思うは 心得ぬなり
   心得ぬと思うは こころえたるなり
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 本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
                              元旦

『正信偈』のはなし 2010年1月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】
「生きていてよかった」といえる人生を生きる『正信偈』のはなし
No.171

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」 
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 念仏の教えを聞いてきた先輩は、この世が娑婆であるという受け取りを大事にしてきました。

娑婆とはインドの言葉で、日本語にすれば「忍土」あるいは「雑会」とも訳される言葉です。つまり、この世は辛抱しなければならない場所だというのです。

しかし私どもは、ただ単に辛抱しているのではありません。諺にも「ならぬ堪忍、するが堪忍」と言うように、辛抱することにある意味を見出したのです。

 辛抱しなければならないのは、相手があってのことです。身近な例でいえば、家族でしょう。辛抱しているのは辛いことです。ことに、自分一人が辛抱していると思っているのは辛いものです。

 さてそれでは、辛抱しているという被害者意識から解放されることは出来ないのでしょうか。なかなか困難であることは確かなようです。何故なら、自分が凡夫(ただひと)という自覚を持つのは、ほとんど不可能だからです。

凡夫というのは妄念を自己として生きるものという意味です。源信僧都も「妄念はもとより凡夫の地体なり」(『横川法語』)と言っておられます。

 私どもは「辛抱している」と言うのですが、四六時中辛抱ばかりしているのでしょうか。そういう人は「たいした人(?)」と言わねばならないかもしれません。相手の辛抱が全然見えていないということなのですから。

 自分は全く周囲が見えていなかったという発見。つまり、相手の辛抱が見えてきたということを「逆悪の自分」と教えによって見出されたこと。それが、善導大師が「独明」と讃えられている意味なのです。

まったく、私どもはどうなったらいいのでしょう。一人でおれば淋しい、大勢でおれば辛抱しなくてはならないというのです。「一人でおれば静か、二人でおれば賑やか」とは、なかなかいかないもののようです。

お庫裡から 2010年1月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
お庫裡から
 ある日の夕食時、誓くんが突然「ぼく、1年生になるときに名前を替えてほしい」と言い出し、食卓が一瞬、固まってしまいました。「あのー、もしかして、開くんとかに?」母親の恐る恐るの問いかけに、彼はこっくりと大きくうなずいたのです。全員がそれを見届け、再び時が戻り、何事もなかったように食事は進んでいきました。

開くんを2才の差で追いかける誓くんが、どんなに兄の開くんをまぶしく、うらやましく思って見ているのか。次女の私は、そんな誓くんを見るとせつなくて仕方がありません。(聞くと、長女の娘は、長男の方に自分を重ねて見ているようです。)

毎晩のお夕事は「三帰依文」「重誓偈」「念仏」「回向」をやっています。

「誓くん、ほら、このお経を読むと、最初の方に3回も誓くんの字が出てくるでしょう。

仏様が「私の名前を称える人は、誰1人ももらさず救うぞ」と誓われたの。誓くんの名前の「せい」いう字は、仏様の誓いという意味で、とっても大切な字で、それが誓くんのお名前になっているんだよ。この仏様の誓いがあっても、私の心の眼が開かないと、仏様の誓いがわからない。

だからどうしても心の眼を開いてくれと、2回開くんの「開く」という字が、誓の字の後に出てくるでしょ。

誓くんのお名前の字も開くんのお名前の字も、とっても大切な意味を持っていて、2人の名前の字がなければ、仏様の教えは成り立たない、というくらい、大切な大切な字のお名前なんだよ。

開と誓と2人揃って「ああ、ぼくはぼくであることがとても大切なんだ」と思えたという事が、在ちゃんのお名前の字なんだよ。

だから、3人とも居てくれなくちゃ駄目なの。3人が3人とも、とても大切。

今月の掲示板 2010年1月

テーマ:今月の掲示板
今月の掲示板
●どこまでも救われない自分というものが見えてくることは、
どこまでも救われなければならない
自分が見えるということです。

●救われてしまった自分というものに立ってしまったら、
それはみな「想い出」に生きることになるでしょう。

●人間自身とは何だ。
一切の可能性の
つまっている蔵だ。

●その蔵につまっているものは、
外なる縁を待って
(一切の可能性の)
種が現実となって現れてくる。

●君達、
自分より近い私に
遇うたことがあるか。

●自分より近い私とは
何だろうか。
「私」「私」といい、
自分は「私」を一番
よく知っとると言って、
その「私」を一ぺんも
疑ったこともない。

●生きておるということは、色んな経験・行為をする。
それは、すべて内にその因を持っておる。
外なる縁がやってくれば、どういうことをするかわからん。

●「あなたの願い(ぼんのう)をかなえてあげよう」という教え、
「地獄は一定すみかぞかし」と言った人が親鸞聖人
さて、あなたはどちらにうなずくか。

●困ることは誰にでもある。
いくら仏法に眼を開いておっても、困ることはなくならん。
だけども、そういう事を通しても、
暗くならんでもいいんじゃないか。
明るく、困るわけにはいかんかね。

●凡夫というものは
苦悩をようせんもんだ。
困るだけだ。

●キャットフードで育ちゆく
猫は前脚に魚を押さえる術を知らず。

●葬式には塩まいてさ
お盆には迎えに来るんだもんね。

本堂に座って 2010年1月

テーマ:本堂に座って 【若院】
本堂に座って
 最近、「○○式」というような教育法を耳にすることが多くなってきた様に思います。

「これからの日本を担う子どもたちを強く・たくましく・賢く、世のため・人のためになるような立派な人に」育てることを目標とし、幼児のうちから、子どもたちに様々なことを身につけさせているのだそうです。

これだけを聞くと、何だかとてもいいことの様にも思うのですが、何か大事なことを見落としてしまっているのではないか…とも思い、ふとこのお話を思い出しました。

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 皆さんの中に、自分はつまらんと考えている人はいませんか。僕はぶっきっちょでつまらんと考えている人はいませんか。私もぶきっちょです。

私は師範学校というところで勉強したんですが、その師範学校に入りましたらね、必ず何か運動部に入れということで、初めサッカーの検査の所へ行きました。

力を入れて蹴ったのに、横ちょへ飛んで、
「お前はあかん、野球部へ行け。」…
「お前あかん、庭球部にいけ。」…
「お前あかん、水泳部にいけ。」…
「お前あかん、競技部に行け。」

百メートル走らされましたが、一番びりっ子です。

「お前何もあかんな、辛抱強う粘れるくらい粘れるか。」というので、「へぇ。」と言いましたら、「それじゃあマラソン部へいれてやる。」というんで、ようやくマラソン部へ入れてもらいました。

 一週間に一ぺん、市川の鉄橋まで走りますと、一万メートル。みんなから何百メートルも遅れて、犬に吠えられながら女学校の前走るの辛かったですが、「辛抱強う、粘れるくらい粘れるか」「へぇ」言いました手前、そのびりっ子四年続けました。

たいていのことは努力すると何とかなると聞いています。しかし四年間努力してみましたが、やっぱりびりっ子から逃れることはできませんでした。

人間の世界には努力してもできないことがあるんですね。しかし、四年間のびりっ子は、私にはいい勉強になりました。

毎日びりを走りながら考えましたのが、兎と亀の話。亀が兎に勝ったというか、亀がいくらがんばっても、のろまな兎にもなれん。亀はいくらがんばっても亀だ。

しかし、あの話は、“つまらん兎”よりも“値打ちのある亀”の方が値打ちは上だ、という話ではないか。亀の中にも日本一の亀がいるという話ではないか。そうすると、びりっ子の中にだって日本一のびりっ子があるじゃないか。よし日本一のびりっ子になってやろう。そんなこと考えながら走っているうちに、また気が付きました。

僕がびりっ子をとらなんでみい、誰かがこのみじめな思いをせねばならぬ。それを僕が引き受けているのだと気が付くと世の中がパッと明るくなりました。私も役に立てるぞという発見はうれしかったです。皆さんの中で、ぶきっちょの人は、ぶきっちょであることを自慢にしてもいいと思います。 (中略)

 みんなどこかに値打ちを持っているんですね。その値打ちを先生に見つけていただいたり、自分で自覚したりして、五千通りの可能性の中から値打ちのある可能性をつくっていこうということを考える主人公が、皆さん一人一人なんだということを知っていただきたいんです。

(『バカにはなるまい』東井義雄 著
 真宗大谷派岡崎教務所発行 より抜粋して掲載しました)
 
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 親から見て、子どもが多くのことを身につけ、出来るようになることは、とても喜ばしいことです。

ただ、「子どもたちの持っている可能性を広げる」という時には、出来るようになることばかりに目を向けるのではなく、「世界一のびりっ子」になる立派さにも目を向けてあげられる広い視野を持っていたいものです。

今日も快晴!? 2010年1月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
今日も快晴!?
 その日は次男の誓を子ども園に迎えに行った帰りに、門の前で近所の小さなお友だち達と行き会い、そのまま学校から戻った開も合流して参道でボール遊びが始まりました。

やっているのは単純な「ボールの蹴りあっこ」ですが、異年齢の子どもたちが混じってキャツキャツと駆け回る光景は本当に見ていて微笑ましく、幸せな気分になりました。

 ところがしばらくして、開が「あっ!今日○○くんと交流館でサッカーする約束していたんだった!」と言うのです。

幸い約束した時間からそう経ってはいなかったので、そちらのお母さんの携帯に電話をして、「すみません。今日はこんなことでお友だちと家の前で遊び始めてしまって、うちの子がうっかり約束を忘れていたみたいで・・・。よかったらこっちに来て一緒に遊びませんか?」と誘いました。

 数分後に車で駆けつけたその子は、車から降りるなり
「こんな狭い所じゃイヤだ。」「交流館でサッカーがしたい。」と駄々をこね、

いくら「ごめんね。でも、ここでも工夫すれば遊べるよ。」「開くんと二人じゃなくて、ここなら他のお友だちも一緒に遊べるよ。」と声を掛けても、

「こんなとこじゃイヤだ。」「やりたくない。つまらない。」と言い張り、隣のおうちの生け垣にボールを蹴りつけたり、お母さんを叩きまくったり、挙げ句に「ここじゃだめだ~。だめだ~。」と、おいおい声を上げて泣き出しました。

その様子は、横で地面にひっくり返って泣いている在ちゃんそっくりで、(この子は中身は2歳児と同じなんだわ・・・。)と見ていて呆れるやら情けないやら。

もし自分の子なら「いい加減にしなさい!」とはり倒すんだけどな~と思いながら様子を見ていると、そちらのお母さんはひたすら

「そう、○○くんは開くんと交流館で遊びたいの。」と子どもの要求を繰り返し、最後には「すみません。しばらく開くんお借りしても良いですか?」とうちの子を車に乗せて、交流館に連れ去ってしまいました。

 こちらはもう呆気に取られて、(どうして子どものわがままを通してしまうのだろう?)と、その行動は不思議で仕方がないのですが、最近あきらかに(この子は、おうちできちんと叱られていないんだろうなぁ)と思える子どもさんが多いような気がします。

 確かに、感情的に怒ったり、「服が汚れるから止めなさい」とか、「よそのおばちゃんに怒られるから止めなさい」と親の都合や人に責任をなすりつけて子どもを叱るのは間違いだと思いますが、子どもが間違った行動や振る舞いをしたら、やはりきちんと叱るのが親としての責任ではないでしょうか。「子どもの自由を尊重している」という建前で、自由と放任を勘違いしているような気がします。

確かに「叱る」というのは、パワーがいります。叱れば子どもも反抗してくるし、泣けばうるさいし、子どもの要求を聞いてやれば一見「良い親(実は、子どもにとって「都合の良い親」)」に見え、親も余計なエネルギーを使わずに済みます。

 しかし、親が子どもの言いなりになり、叱られず自分の思い通りになって育った子どもは、将来どうなるのでしょう?

社会人になり、上司に注意された時でも「ママが悪い!」と八つ当たりする困った大人になるのではないかと、人事ながら心配になってしまいました。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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