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今月の掲示板 2010年4月

テーマ:今月の掲示板
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●苦しいのは、自分を中心にしているからです。
(平野 修)

●自分がえらい者と思うと、世の中が暗くなる。
(曽我量深)

●自分が破られたことだけが、相手に通じていくんです。
(柘植闡英)

●人間が人間を理解するということは、
そんなに簡単にできることではない。
(牧野桂一)

●苦しんでいることは救いではないが、救いの縁となりうる。
(安田理深)

●依頼は苦痛の源なり。
(清沢満之)

●仏は、人間の苦を救うのではない。苦悩の人間を救うのである。
(安田理深)

●我が身があきらかになるという他に、
阿弥陀仏はどこにもおいでにならない。
(平野 修)

●救われるというのは、場所をたまわること。
(宮城 顗)

●凡夫であることを忘れないということは、念仏の智慧なのです。
(本多弘之)

本堂に座って 2010年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】
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先月号の「守綱寺カレンダー」には誤植がありました
(この場を借りてお詫びいたします)。

印刷も終わり、ひと仕事終了! 
と思っていた所で指摘を受けたこともあり、
原稿を作った奥さんに、わざわざ一言
「間違ってたって。今から直すよ。」と言ってから
修正の作業に掛かりました。
ひたすら手書き修正という単純作業を繰り返していた時、
ふと「あれ? そういえば何にも言わなかったなぁ」
と思ってしまいました。

謝って欲しいわけではないですが、
一言ぐらいあってもいいものです。
「子どもたちの言葉遣いに敏感な割に、自分はどうなの?」
とかブツブツ言いながら、なんとか作業は終わりました。
その後もしばらくは
「私は忙しいんだから、チェックくらいしといてくれればいいのに…」
と思ってるんじゃないかと“勝手に”想像しては
「いや、印刷から発送準備からいろいろしてるんだから、
こっちだって忙しい」と(心の中で)反論したり、
すっきりしないままでいたのですが、
そんな時、ある勉強会で清澤満之という方の言葉に出遇いました。

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
 請ふ勿(なか)れ、求むる勿れ、
爾(なんじ)、何の不足かある。
若(も)し不足ありと思はゞ、
是れ爾の不信にあらずや。

 如来は爾がために必要なるものを、
爾に賦与(ふよ)したるにあらずや。
若し其の賦与において不充分なるも、
爾は決して此れ以外に満足を得ること能(あた)はざるにあらずや。

 蓋(けだ)し爾自ら不足ありと思ひて苦悩せば、
爾は愈々(いよいよ)修養を進めて、
如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。
之を人に請ひ、之を他に求むるが如きは、卑なり、陋(ろう)なり。
如来の大命を侮辱するものなり。
如来は侮辱を受くることなきも、爾の苦悩を奈何(いかん)せん。
    (清澤満之 著「絶対他力の大道」四)

 何をそんなに欲しがるのか、何をそんなに要求するのか、
お前にいったい何の不足があるのか。
もしお前に不足があるならば、
それは全くお前自身の不信心によるものである。

 如来はお前が生きる為に必要な一切のものを
既にお与え下さっているではないか。
この与えられているものを忘れて
どこにお前の満足を得る道があろうか。

 もしお前に不足の心があるならば、
お前はいよいよ教えを深く聞いて、
如来のおはからいにおまかせして、
与えられたものの中に安んじて
生きることを学ばなければならない。
それを人に求め、物に頼るのは
まことに卑しむべく恥ずべきことである。
如来の仰せをふみにじるものである。
如来はお前にふみにじられるようなお方ではないが、
如来をふみにじっているときのお前自身の苦しみをどうするのか。
(林 暁宇 著『意訳 絶対他力の大道』より引用しました。)
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 あらためてこの言葉にふれてみて、
このすっきりしない気持ちの原因は何だったのかを
考えさせていただきました。

「自分がチェックをしなかった為に、
面倒な作業をすることになってしまった」ことを、
奥さんひとりのせいにしていたんじゃないか…。
“原稿くらい自分でちゃんと作って”という「要求」が、
できていないことへの「不足」につながっていたのです。

「誤植のある原稿も、
受け取ったところから自分の仕事になるんだ。
毎日忙しい中、ちゃんと原稿を
作ってくれることに感謝しないといけないな」

…と思いつつ、
やっぱり感謝できない時の方が多いのです
(何かと文句ばかり「浮んで」きます。決して口には出せませんが…)。

今日も快晴!? 2010年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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毎月第4火曜日が近づくと、我が家は殺気立ってきます。
第4火曜日に開催している「絵本読み聞かせ会」に合わせて、
翌月の「守綱寺カレンダー」を発行しなければならないからです。
だいたい主婦は昼中に原稿が書けるわけがないので、
子どもが寝てからが勝負です。

しかし、子どもはこっちがどんなに時間に追われて
焦っていても全く意に介さないので、
9時に消灯の後も布団で添い寝&おっぱいをやりながら
(・・・{10分経過}よ~し!開が落ちた!・・・
{更に20分経過}・・・よしっ!誓が落ちた!あとは在だ!)
と、いう気配を察するのか、
在は端から見ていたら完全に寝ているとしか見えないのに、
20分経っても30分経っても「チュツチュツチュツチュツ・・・」と、
おっぱいをくわえて離しません。
(まだ?まだ??)と苛々している内に、
こちらが寝かしつけられ、気がついたら
(ああっ!!また12時~!!今からお風呂!明日のご飯の準備!
学校あるから朝起きなくちゃいけないし、原稿なんて無理~!)
というのはしょっちゅうです。

何とか子どもを早く寝かそうと、
週末も朝から思い切り外遊びをさせると、
結局それに付き合っている私も疲れ果てて、
(し、しまった~!今日は2時まで寝てしまった~!)
と、余計自分の首を絞めることになってしまいます。

 運良く子どもが奇跡の9時3人同時就寝をしたとしても、
読み聞かせ会の準備等で時間が過ぎ、
ようやく机に向かって、そろそろ筆が乗ってくる12時を過ぎたあたりに
誓or在が「ぎゃぁ~。おかあしゃ~ん!」と
毎晩必ず寝ぼけて起きてくるので、
そこで“終了~”か、もっと運が悪いと、お風呂の最中に
「ぎゃぁ~!おかあしゃ~~ん!!」が聞こえてくるので、
十分温まっていない体にバスタオルを巻き付けて、
「ありちゃ~ん!ここだよ~!」と
叫びながら走っていかないといけなくなってしまうので、
端から見ていたらまるでコントです。

 そんなこんなの綱渡りの日常
(時には綱から落ちてしまう)ですが、
こんな時、M78星雲(=大抵2階のパソコン前)から
ヨウコの味方ダンナマンが現れないかと私は祈ってみます。
(お~い!ダンナマ~ン!
怪獣カイゴン、セイゴン、アリゴンが暴れているよ~!)
すると、ダンナマンはさっと現れ、
3匹の怪獣を連れ去り、私に訪れるのは夢のフリータイム・・・。

と、妄想は膨らむばかりだけれど、
現実は、そろそろどうにもならなくなり、
「ちょっと子どもを見て欲しいんだけど・・・」と頼むと、
「え?僕も○○があるんだけど・・・」
「でも、子どもが『お母さんが良い』って言うんじゃない?」等々、
なんとか逃れられないかというオーラが漂っていて、
(それなら、もういいや)と、自分でやる→疲れる→
子どもと一緒に寝てしまう→起きたら12時、の繰り返し。
そして、いよいよ締め切りが近づくと苛々もピークに達し、
家庭内は一触即発状態。
(だいたい何よ!私の方が過酷な状況で
3倍量の原稿書いているんだから、
最終チェックくらい責任持ってやってよね!)
ということになってしまうのです。

 この夫婦間の激しい亀裂を引き起こす
「守綱寺カレンダー作り」ですが、
それでもやはり二人で協力し合わないと出来ないので、
発行後はものすごく仲良くなったりもします。

こうして我が家は月一回必ず波風を経験するので、
いまだ倦怠期とは縁がない・・・。のかも?

清風 2010年3月

テーマ:清風 【住職】
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< 汝の道を進め。人々をしてその言うにまかせよ。(ダンテ) >
_______________________

老いゆくは かくもうれしきものなるか。
おそわることの あまりに多き。(城 みゆき)
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 幸せのための必要条件を求めて生きる人生は、限りがない。
何故って、なって(達成して)みれば、
すべては当たり前でしかないからである。
だから、幸せを求めて生きる人は、
いつも被害者意識に苛まれて生きねばならない。


 幸せのための十分条件を知る人は少ない。
幸せを生きることは容易なことではない。
ではどうしたら、幸せを生きることができるのだろうか。
それには、私はどうなっても満足できない自分だと、
知らされる以外なさそうだ。

 幸せは実体(事実)としてあるのではない。
条件が整うことが幸せなら、
それは夢見ている時にあると言ったほうがいい。

 恋愛は 美しき誤解に始まり
  結婚は 惨憺たる理解に終わる
と警句を述べている先達もいるように。


 いつも学べる人のみが、(条件に左右される)
幸せとか不幸とかいった幻を追うことなく、
条件を丸ごと我が人生として、
新たな人生を始めていける。
若さとは学べるということ。

87歳になってなお、
師・法然上人の著
『選択本願念仏集』を書写された親鸞聖人を思う。

『正信偈』のはなし 2010年3月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】
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善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」 
_________________________
光明は如来の智慧のはたらきを指す言葉です。
そして名号は名、如来の名です。
つまり、南無阿弥陀仏です。

如来の智慧と南無阿弥陀仏が、
私(人間一般ではなく、ここでの私というのは、
今この文章を読んでいる「あなた」ということですが)が
生きる上で、何故、問題となる、
あるいは欠かせないことなのか
…という前提が明らかにならなければ、
ここで話題にしていることは、
閑人の無駄話になってしまうに違いありません。

 人間(私)は何を
生きる根拠(動機)としているのでしょうか。
「幸福を求めて」と、一般的には言えるのでしょう。
私は不幸せになりたい、
という人はいないと思われるからです。

ただ、その幸せの内容(条件)となると、
様々であることは確かです。

ある人は健康になることであり、
ある人は忙しすぎるから病気にでもなって入院して、
ゆっくり休みたいと思っている、というようにです。

 先月の巻頭の文章で、
フロムの言葉を紹介したのですが、
フロムはあの後に続いて次のように記しています。

「近代人(私)は、自分の欲することを知っているという
幻のもとに生きているが、
実際には欲すると予想されるものを欲しているに過ぎない。
(中略)このことを認めるためには、
人が本当に何を欲しているかを知るのは
多くの人の考えるほど容易なことではないこと、
それは人間が誰でも解決しなければならない
もっとも困難な問題の一つであることを理解することが必要である、と。(註)


 「幸福」と一言で言うのですが、
ことはそう単純ではないということです。

「幸せを求めて」と言いながら、
それが条件整備を意味するなら、
根本的な懐疑

-私は幸せになるための準備に一生をかけ、
ついに幸せを生きられなかったという疑問-

が解けてはいないからです。
何故なら、一つ片付けば、また一つ…
これが人生の偽らざる相ですから。

もしそうなら、これほど空しい人生はないと言わねばなりません。

(註 E.フロム著『自由からの逃走』278頁)

お庫裡から 2010年3月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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 開くんは、なかなかの読書家です。

ある日、開くんの机の上に
『少年少女ファーブル昆虫記』(あかね書房)が
1~8巻まで、ずらりと並んでいました。

「へー、もうこんな本を読んでいるの?」と聞くと、
「うん、ぼくもう全部読んだから、
おばあちゃんに貸してあげる」と、
8巻全部私の部屋に運んでくれました。

さあ、読まねばなりません。
読まねばなりませんが、移り気で気の多い私は、
昆虫記にばかり集中はできません。

親切な開くんは、
自分の読んで面白い本は
次々と「おばあちゃん、読む?」と声をかけてくれるので、
『三国志』10巻、『西遊記』10巻、その他諸々、
開くんと競うように読みます。
子供向きとはいえ、なかなか面白いものが多いのです。

『ファーブル昆虫記』は
先を競って読み進む本ではありませんが、
1冊1冊なかなか面白く、教えられることもいっぱいでした。
8巻全部読み終えるのに、約6ヶ月もかかりました。

今月の掲示板は、その『ファーブル昆虫記』より
言葉をいただいています。

娘の頃、
「私は、親が字を読めるように
躾てくれましたので、野良に出れぬ日は、
曽我先生のご本を読んで
過ごさせていただいています。
本当にお陰様で、勿体ない事です。」と
話されたおばあさんに出遇っています。

その時、その方は64歳といっておられました。
まさに今の私の年令です。

雑念の多い私は、その方の足下にも及びませんが、
開くんのお陰で読む本の範囲が広がり、
勿体ない時を頂いています。

今月の掲示板 2010年3月

テーマ:今月の掲示板
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●悲しい事ではありますが、人間は今のところ
決して気高い心を持っているとは言えません。

●人間は、お互いに尊敬しあわなければなりません。
それなのにどうでしょう。お互いに傷つけあっています。

●最も幸福な人民は、
大砲を沢山持っている人民ではなく、
平和を愛する人民です。

●世界の人はもっと仲よくつきあわなければいけないと思います。

●文明人も、ひと皮むけば
やばん人とたいして違ってはいません。
平気で殺しあいをします。

●戦争も人間の行為の一つです。
こんなばかげたことも、人間は平気でやっているのです。

●戦争を始めて、多くの国民を傷つけたり殺したりする征服者は、
にくんでもにくみたりない野獣です。
人間は、鉄砲をうちあうのではなく、
お互いに手をにぎりあわなければならない。

●罪深い私達人間は、
いつになったら救われるのでしょうか。

●人間以外には、自殺するものはありません。
自殺は人間だけの特権です。
しかし、自殺することは、ひきょうなことです。おろかなことです。
いのちは大切なものです。
どんな困難にであっても、これを断つべきではありません。
人生を見捨てることは許されないことです。

●昆虫や動物は、みんな死とは何かということを知ってはいません。
死を知っているのは人間だけです。
これが人間の偉大な点です。

●私達人間だけが、生命のとうとさを知り、
死者をとむらうことを知っています。
他のどんな動物も、こんなことを知ってはいません。

(以上、『ファーブル昆虫記』より)
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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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