清風 2010年5月

テーマ:清風 【住職】

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<太古より姿を変えぬ甲蟹 進化せし種を嗤うが如くに  
(朝日歌壇より)>

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殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。

 釈尊『ダンマ・パダ』130(岩波文庫)  
註)ダンマ・パダはパーリ語で「真理のことば」の意)

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 「うちの子たちは戦争を知りません。よろしくお願いします。」
アレン・ネルソンさんは日本の学校を講演で回るごとに、
先生から聞かされるこの一言に驚くという。
何とすばらしいことか。
子どもたちが戦争を知らずにいる。
アメリカの子どもは戦争を知っている。
イギリスの子どもも戦争を知っている。
フランスの子どもも。ドイツの子どもも。
しかし、日本の子どもは戦争を知らない。

 1996年に来日したとき、戦争放棄、軍備を持たないという
日本国憲法第9条の条文を初めて目にして、
これは非暴力を訴え続けたM・ガンディーか
M・L・キング牧師が日本に与えたのかと思ったという。
この60年、日本中の誰も
子どもや父親の戦死を悲しむことはなかった。
また、一発の爆弾も、どこの国にも落としていない。
世界中どこの国にも、日本の軍に殺された人はいない。
これが9条の力だという。
9条が日本人だけではなく、
世界の人々を戦争の悲惨と恐怖から守ってきた。

「今、9条を変えようという動きが一部にあるが、
今度は日本の皆さんが9条を守るべき時。
私は戦争を知っている。
私のような者を二度と生み出さないために。」

(同朋新聞2007年3月号 ネルソンさん
〈ヴェトナム戦争帰還兵〉インタビューより。)

 力ある者は、人々を分断することによって、支配を可能にする。
人々を孤立させ猜疑心を持たせ、争わせ続けることによって、
仲裁者としての位置を確保し利益を得る。それが常套手段なのだ。

 戦後60年も経つのに、いまだに沖縄をはじめ
日本の土地の多くをアメリカに献上し、
ご機嫌を取り、決してアメリカに逆らおうとしない。
日本は、アジアの民衆からは
中途半端な戦後処理の責任を追及され、
周辺諸国との信頼関係も築けていない。
その上、在日米軍の施設整備費や
光熱水費まで負担する「思いやり予算」とか。
この「思いやり予算」には聖域と称して、
マスコミもほとんど自主規制している。

 鳩山さん、せっかく政権交代したのです。
60年安保から50年、5年後の米軍基地撤去を目指して、
第9条を持った誇りを忘れることなく
アメリカと交渉してください。世界平和のために。
オバマ大統領の核兵器削減の表明をふまえて。

『正信偈』のはなし 2010年5月

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 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
光明名号、因縁を顕す。」

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 善導ひとり仏の正意を明かせり。
ブッダの正意―ブッダは何を言いたかったのか。
それを善導大師は明らかにされた。
善導大師はこの内容について、次のように言っておられる。

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫より已来(このかた)、
常に没し常に流転して、出離の縁ることなし。」

 私は、勝ち組こそ生まれた甲斐であり、
負け組で生きるくらいなら
死んだ方がましだという感じで生きてきました。
ですから、生まれた意味ということを
たずねるというようなことは気づかないままに、
毎日、もう全く世間体(被害者意識)に苛まれながら、
かろうじて生きてきたというのが、偽らざる心境です。

 生きることは、勝ち組になることでしかない
…というのが、現代日本の空気らしい。
しかし、バンコクでなくなったカメラマンのように、
世界に事実を伝えようとして亡くなっていく人も存在している。

「願い」とか「志」という言葉は、
今の日本ではあまり聴かれなくなってしまった。
勝ち組・負け組。確かに、勝ち組・負け組があるのだろう。
しかし「始める」「始まる」と言うべきか、
とにかく「勝つ」「負ける」というモノサシでは
計れない生活もあるのではなかろうか。

大勢の中の一人ということもあるが、
どれだけ人がいても
私は私というような「一人」という在り方もあるのだと、
そういう事実に目覚められた。
それがお悟りの内容であったのだろう。

 ブッダの悟りとは、人は繋がって生きているという、
当たり前の、生きることそのものの事実の持つ
豊かさに気づかれたということではないだろうか。
その「事実の持つ豊かさ」が、
「縁起の法」という教えとして伝えられ、
やがて浄土教の祖師方は、
その事実の持つ豊かさを忘却した自身の在り方を
「愚」と表明して行かれたのである。

(善導の告白こそ、この愚の表現であり、
         釈尊のお悟りでもあった。)

 

 

 

お庫裡から 2010年5月

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 俳句で「山笑ふ」という季語があります。
私はこの季語が大好きで、
またそのことばが使われる季節が大好きです。

今年は天候不順で、いつまでも寒さが続いた為か、
桜の花も長く楽しめましたし、新芽の伸びも遅く、
さ緑色の時期が、いつまでも続いたように思います。

本堂の御拝の階段に座って境内を見渡せば、
大樹の欅、楠、樫が競うように新芽を出しており、
その下の楓は、新緑の枝を横に伸ばし、
その下その下大地に至るまで、
みんなみんな芽吹く喜びにあふれている。

雨降れば、新芽は一層艶やかに清らかに輝く。
ああ、何と素晴らしいいのちの讃歌か。
ただそこに座っているだけで、胸が熱くなる。

そうか、63才のこの春は、私の初体験だったのだ。
境内をひとまわりしたら、
俳句にもならぬ、こんな句が生まれた。

ああここに あなたが居たのね菫草
筍や 今年も出会えた 頂きます
足下を 羽音高く 雉飛てり
花王の 牡丹慎まし 頭下げ
猫柳 秘かに根出す 壺の中
蕾みな 合掌している躑躅かな
吾も亦 み光の中 山笑ふ

今月の掲示板 2010年5月

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●天上天下唯我独尊(釈尊誕生宣言)
私という存在は、世界中にたったひとつ。
全宇宙の全協力の上に成り立っている尊在なのです。

●人間(私)は、人間(自分)を
有用性(間に合う、役に立つ)ではかっている。
有用性は、便利で快適を求める。
それは人間を道具として見ていることです。

●生存価値を外の物に見出さなくてもよくなった。
生きておる、その事に尊さを見出す。

●自分の中に、何らかの価値を見出さねば生きていけない人は
価値を見出せなければ生きていけなくなる。

●外なるものに価値を求めている間は、
得れば失うことを、得られなければコンプレックスを、
いずれにしてもわが人生の全体を
意味あることとして受けとることはできない。

●自分の欲するものを獲得した途端に色あせてしまう願望、
幸せを願っているけれども、
本当の願望がはっきりしない限り
いつも人生は途中でしかない。

●あなたはあなたに成ればよい
あなたはあなたで在ればよい(釈尊)

●人間の問題は、全部私1人の中にあるのであって、
自分を抜きにして、外に問題があるのではない。

●他に願っていることはよくわかるが、
自分が願われているという事に、なかなか気づかない。

●悟るというのは、いかなる場合にも
平気で生きている事であった。(子規)

本堂に座って 2010年5月

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 今年も、3月の永代経・初まいり式のお話には、
中川晧三郎先生にお越しいただきました。今年のお話では
「人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべし」という
親鸞聖人の言葉をキーワードに、
私たちの苦しみの原因について、
わかりやすくユーモアを交えて話していただきました。
その中から一部を以下に紹介させていただきます。

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 苦しみということは、例えば健康ではないとか、
  経済的に豊かではないとか、
  年を重ねていかなければならんということがありますけれども、
  こうした苦しみの問題は、
 そういう自分を受け止めることができない。
  死んでいかんならん自分を嫌だと思ってしまう。
  だから、苦しみというものはいろいろ人によって違うけれども、
  一番元にある問題は、それを受け止めることができない。
  それを自分のこととして受け入れることが
  できないということがあるんですね。  (中略)

 我々はこの「私」を前提に、ひたすら自分の思い通りに、と。
  自分の思いに適うものは受け入れることができるけれども、
  思いに適わないものは受け入れることができないと、
  そういう「私」をみんな生きているんですね。
  皆さん方の「私」というものは、
  自分の思いに適うものと適わないものをきちっと分けて、
  そしてひたすら自分の思いに適うものを手に入れたいと、
  自分のものにしたいと願って
 生きているということがあるんですね。
  それが苦しみの原因だと言われるんですね。(中略)

 我々一人ひとりは、思い通りの人ではないですね。
  じゃあ隣にいる、共に生きている、
  例えば家族、自分にとっては妻・子どもですけれども、
  その妻や子どもが思い通りの人かとたずねてみたら、
  絶対に思い通りの人ではありませんね。

  そういう風に、思い通りではない自分と、
  思い通りでない者と共に生きておりながら、
  思い通りになることが幸せになることだと
  考えながら生きているということが、
  どれほどむちゃくちゃかということがわかりますね。

  だから親鸞聖人が「人の執心、自力の心は…」とね。
  根深いわけですよ。わかってもわかっても我々は、
  この自分を前提に、自分を中心に、みんな生きている。
  だから、思い通りにならんということが苦しみであって、
  思い通りになることが苦しみから救われることだと
 考えてしまうんですね。
  こういう風にしたら病気が治りますよと、
  こういう風にしたらお金が儲かりますよと、
  こういう風に言われると、
 その教えにふらふらふらっと行ってしまうんですね。

  ところが親鸞聖人は、
 念仏の教えに出会っておられたということがあって、
  自分という、ふらふらっと自分の思いに
 適うものを追い求める生き方を、
 「ああ、これは間違っておった」と
 気づくことができたわけですね。

  苦しみの原因はいったい何か…それはこの私だと、
  自分の思いを追い求めるこの私が苦しみの原因なんだと、
  こういうことが本当に教えられてわかることによって、
  どこまでも自分の思い通りにということを
 願って生きる自分というものから、
  どうしたら離れていくことができるかと。
  そこに本当の救いということがあるんですね。

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 私は、自分のことも自分の周りにいる人のことも、
自分の思い通りになれば(私が)幸せになれると
思い込んでいます。
そして、自分の思い通りになるように様々な努力をします。
それはふつうに生活している
私にとって、ごく当たり前のことです。
しかし親鸞聖人は、こういったことについて、
よくよく考え、見つめ直さなければいけない、といわれます。
思い通りにならないことが苦しみなのではなくて、
思い通りにしようとするから苦しむのだと
教えてくださるのが念仏の教えです。

 

 

 

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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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