今日も快晴!? 2010年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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三人目にして初めての女の子、在を授かってから、

「良かったわね~。やっぱり女の子はかわいいでしょう?」

と言われることが増えました。
確かにお洋服や髪型など、
男の子には出来なかった楽しみが増え、
目先が変わって新鮮な気持ちはあります。しかし、

「男の子と比べると、やっぱり女の子の方がかわいい?」

と聞かれると困ってしまいます。

在がかわいいと思えるのは、
2歳半という年齢からくる幼い仕草や表情、
拙い言葉によるのかもしれないし、
そうかといって、2年生とはいえ、
まだまだ素朴で子どもらしい開もかわいいし、
自己主張の固まりのような誓も、
ネタの宝庫で面白くて
かわいくてたまらないのです。

授かってみれば、この三人のパワーバランスが
また絶妙で、見ていて色々な発見があります。

開(7歳)と在(2歳)の間には
はっきりした上下関係があるようで、
ここはケンカになりません。
しかし、誓(5歳)は上、下両方と
上手にケンカをします。

誓は基本的に開が大好きで、
いつも構って欲しくて仕方がないのですが、
開はもう自分の好きなことに夢中になって
相手にしてくれないので、
誓が開にいらんちょっかいを出す→怒られる、のパターンで
毎日ケンカです。

逆に在に対しては、誓は徹底的に優位に立ち、
在の持っている物は
(どんなに今自分に必要でなくても)
取り上げて泣かせています。

「3つも下の子に、
どうしてそんなに本気になって意地悪をするの!?」

と、見ていて本当にがっかりするのですが、
どっこい在も負けてはいません。

在にとって誓は同レベルのライバルのようで、
(この人はお兄ちゃんだから、私は遠慮しよう)
という気持ちは、さらさら無いようです。
「ここぞ!」と言うときには、
かなり巧妙な技を使って意地の悪いことをします。

例えば、誓が(みんなを驚かせるぞ!)と、
こっそり布団の中に隠れていたとき、
誓が声を出さないのを良いことに、
「せいくんいないよ~」と言いながら
布団の上からバシバシ叩いたり、
または在が開の手をつかんで開の手で誓を叩き、
(叩いているのは私じゃないよ)と
しれっとした顔をしていたりします。

こうして、下二人の意地悪合戦は続くのですが、
一日の終りに、妙に二人が結束する時があります。
それは、「部屋の電気を消す」時です。

それまでは毎晩
「まだ遊ぶ~!」「電気消しちゃダメ~!」と、
なかなか消灯にならなかったのですが、
(これも遊びにしてしまえ!)と、発想を転換し、
「はい!電気消せる人~!」と
私が電気の下に四つん這いになり、
背中に子どもを立たせて、
電気の紐を引っ張って消させてみました。
これが意外と難しいらしく、
子ども達は面白がって背中に登り、
すぐに電気を消すようになりました。

開はもう重たいので、
「これは誓の仕事」と言うことにしたら、
在は、「じゃあ私もお手伝い!」と言わんばかりに、
四つん這いになった私のお腹の下で
同じように四つん這いになり、
一緒になって誓を支えている気分になっているようです。
時には、「もっと高くしてあげる!」と、
開が私の背中に被さってきて、
更にその上に誓がよじ登り、「無理無理~!」と
みんなで総崩れ&大笑いです。

この面白さは、やはり三人揃ってこそ。

私には、この子たちが
この形で授かるのが一番良かったのだとつくづく思います。

 

清風 2010年6月

テーマ:清風 【住職】

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<仏教徒 われら静に声あげん 
ブッダの言葉 “兵戈(ひょうが)無用”と (朝日歌壇より)>
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わがこころのよくて ころさぬにはあらず、
また害せじとおもうとも 百人千人ころすこともあるべし。
 『歎異抄』第13条

日本国民は (略)政府の行為によって
再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
『日本国憲法』前文

前項の目的を達するため、
陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。 
                  『日本国憲法』第9条第2
_______________________


 ハワイ大学のランメルの著書『政府による死』によると、
どれだけの人が国家によって殺されたかというと、
この100年間で203,319,000人、
つまり2億人にのぼるそうです。

 20世紀には怪物のような国家がいくつかあって、
それがこの数字になっているといえる側面もありますが、
ナチ・ドイツが600万人、
あるいはそれ以上のユダヤ人を殺したと言われており、
スターリン時代のソ連でも、
おびただしいロシア人が殺されたと言われております。
21世紀になっても、アメリカによって
正義と悪魔の戦いといってイラク、アフガン戦争がおこされ、
たくさんの民間人が殺されたことは記憶に新しい事です。

そして、国家が殺した2億人のほとんどは
戦闘員ではない一般市民です。
それも大部分は自国民と言われているのです。

 これからの安全保障は、この現実から出発すべきであり、
これは交戦権を国に与えてきた、ここ100年の現実であったのです。
与えられた交戦権で、国家はこの100年間に
これだけの人を殺してきたのです。

 日本でも「現実主義」者の政治家や評論家は
軍事力を持っていた方が安全が守られると言っています。
その根拠は、歴史の中ではどうであったのでしょうか?

 戦後日本は、ともかく外国人を武力で殺したり、
日本人を武力で殺したりはしていません。
これが何よりも戦後史の現実、
国の交戦権を禁止した憲法を持っていた現実です。

 

 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』
(C.ダグラス・ラミス著
  平凡社ライブラリー513 P47~P54)を参照しました。

『正信偈』のはなし 2010年6月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
                光明名号、因縁を顕す。」

 前回、親鸞聖人が善導大師について
「善導ひとり、仏の正意を明かせり」と言われている中で、
「仏の正意」とは、善導大師が述べられた
次の告白であると書いたことに関して、記すことにします。

 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来(このかた)、
常に没し常に流転して、出離の縁ることなし。」

 中心となるのは
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という
告白の文にあるということでしょう。

仏教は、これまでもしばしば基本的な了解としては
次のように述べられてきました。

 まず、仏教ということばについてです。
仏教は「仏」と「教」から成立している熟語です。
「仏」と「教」はどちらも漢字ですが、
「仏」はインドの言葉に漢字を当てたもの、
「教」は漢字本来の意味である「教え」を指しています。
「仏」は「ぶつ」と読むのが本来で、
「ほとけ」と読むのは日本独自の読み方です。
また、元はインドの言葉
「ブッダ(漢字では仏陀)」で、「目覚めた人」という意味です。

 ですから「仏教」は目覚めた人の教えであり、その教えを聞いて、
また目覚めた者と成る教えでもあると言われてきました。
その「目覚め」の内容を、善導大師は「自身は現に…」と
表現されたのです。つまりこの告白は、信仰告白なのです。

 インドから中国、朝鮮半島、日本へと伝えられた仏教史とは、
このように仏陀の目覚めを受けて、
その目覚めに感動した人が誕生していった歴史ですし、
その誕生していった人の代表が、例えば七高僧と言われる人です。

龍樹・天親はインドの人、
曇鸞・道綽・善導は中国の人、
源信・源空(法然)は日本の人です。

 道元禅師も
「仏道を習うというは、自己を習うなり」と言っておられます。
つまり仏教の学びは、自己の外にある
あれこれについて学ぶ通常の学びとは質を異にする学びなのです。

お庫裡から 2010年6月

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 陽子にお勝手を譲って、7年になります。当初は、
「もしかして、この娘は味音痴か」
と思う料理が出てきたものでした。

手を出そうとする私に、
「ここは私の仕事と思うから、お母さん取り上げないで」
と言われ、そう思ってくれているのならと、
一切を任せてやってきました。

この間に慣らされたという事もありますが、
彼女も確実に腕を上げ、
「今日はおいしいね」という料理も増え、食事に関して
不足に思う事が少なくなっている事に驚かされます。
(やっぱり慣らされてしまったのかなー?)

でも、どうしてもイヤな事があります。
彼女の作る気の無い日の食事を、
私が、餌を与えられていると感じてしまう、
それがイヤなのです。

その日、友達に笑いながらその事を喋っていて、
ふっと大事な事に気がつきました。
イヤな日は毎日ある訳でなく、
不足に思わず頂いている日の方が多いにもかかわらず、
あたかも毎日がイヤだと感じているように…。

オー! あぶない、あぶない。
念仏は、私が不足に思う時、不満に思う時、
「本当にそうか」「本当にそうか」と入念に尋ねて下さる。

そして遠い昔、
イヤイヤ食事の用意をした日のあった私である事を思い出す。

「あぁー、済まない事であった」
そんな思いが心に広がると、
「陽子、毎日ご苦労さま、ありがとう」
という思いが自然に湧いてくる。

自分の思いを前面に立ててしまうと、
最も大事な足元を見失う。
こんな日常に、お念仏を頂いて生きる事を、親鸞聖人は

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、
念(おもい)を難思の法海に流す」(後序)

と記されたのかな、と思う。

私も本当に慶(うれ)しい。

 

今月の掲示板 2010年6月

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 安田先生の他は、米澤英雄先生のことばです。

●妄想とわかることと 妄想が消えることとは 一つです。
夢だとわかることと 夢から覚めたこととは 同時です。
-安田理深-

●生きている仏さまとは
息を出さしめている力 血液を循環せしめている力
それを 生きている仏という
これを 絶対他力という

●自分の力では どうにもなりません
自分は無力であります。
与えられたままを受けさせて頂きます。
これが念仏であります。

●誰にでも 負けることができれば 天下無敵です。

●あなたは
打ち勝とう 打ち勝とうと 力んでおられますね。
よけい、つらいのではないですか。

●私達は、
私達を生じせしめている大きな力の前には 無力であります。
私達に出来ることは、その宿業を身に引き受けて
力一杯、生きぬかせて頂くという
謙虚な態度だけ。

●自分であってよかったという 自分になりなさい。

●人間の顔がそれぞれ違うように
一人一人の生きていく道はみな違うのです。
ひとりひとりがかけがえのない絶対的ないのちとして、
今、あなたは存在している。

●仏法は、生きている如何なる業障の中にでも
しあわせをつかむ智慧なのです。

●遠い遠い昔から
大根のいのちの連続があって、
今、この一切れの大根を頂く。

本堂に座って 2010年6月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 東本願寺から毎月発行されている『同朋新聞』に、
芹沢俊介氏(評論家)と本多雅人氏(真宗大谷派蓮光寺住職)の
対談が掲載されました。この中では、
「ある」と「する」ということを通して、「私が生きていく」ことについての
大事な視点をお話しくださっています。
その中から一部を抜粋して、以下に紹介させていただきます。

芹沢:
英国の小児科医であり精神分析家でもあった
D・W・ウィニコットは、私の理解ですけれど、
人間はそこに存在していること自体を表す
「ある」と、「する」すなわち「何かができる」というあり方の
二重性として存在している、という捉え方をしています。
この視点に立つと、赤子はできないわけですし、
老いるということはできたことができなくなり、
「ある」という状態に近づくことです。ところが
「ある」こと自体に価値を見いだすことが難しい。(中略)
「ある」が「する」に先行されなければならないにもかかわらず、
それが逆転している。
「老いをどうするか」というかたちでしか「老い」は語られない。
子どもの虐待という深刻な事態も、
突き詰めれば「する」に軸足を置いた価値観がもたらしたものですね。
「生まれたことの意味」にまでさがって
「ある」の全肯定への道を考えなくては、ということになります。
「ある」の全肯定に触れることができれば、人は生きられる。

本多:
「する」を前提とした社会の物差しに合わない場合、
ほとんど絶望していくしかありません。
しかし本当はそれは絶望ではなく、
そうやって悲しみながら、苦しみながら
私たちはどうありたいのかということを見いだしてきたと言いますか、
関係性の中から思いもかけず教えられてくることが、
どんな人間であっても、どんな境遇であってもあるのです。

芹沢:
「する」「できる」という意識でかかわろうとすると、
相手の求めるものを無視した「させる」になっていく。

本多:
「する」「何ができるのか」というのは結局人間の「思い」です。
その人間の思いの延長ではけっして救われることはないのです。
すべては因縁によって成り立っていると道理を説くのが仏教です。
縁によって成り立たしめられている「私」という存在は、
みな平等に与えられたものです。だからこそ尊いのです。
自分の思いで生きようとしている自分から、
道理を軸にして生きる転換が救いではないでしょうか。
道理を軸にするとは、どんな自分も
受け入れていく眼をいただくということです。
誰もがありのままの自分に目覚めることにより、
どんな状況においても意欲をもって
立ち上がっていくのではないでしょうか。
それが本願のはたらく浄土からの呼びかけそのものであり、
私たちは願われている存在であったことに気づかされていくのです。
そこには慙愧(ざんき)の念がともなうのです。
  (注・慙愧=恥じ入る、の意)

(『同朋新聞』
平成22年5月・6月号(2~3面)より抜粋して掲載。
 なお、上記の文章は全体から
個別に引用・列記したものです。ご了承ください。)

 私たちの意識の中では
「ある」ことは当たり前になっていて、
「ある」ことの尊さが見えなくなってしまっています。そのために
「する(できる)」ことに価値があるという
「思い」にとらわれてしまうのでしょう。

その「思い」を見つめ直すことで、
私の「存在(ある)」そのものに
価値があると気づくことができるのだと思います。

今日も快晴!? 2010年6月

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 私の周りには、様々な家族形態で暮らしている人たちがいます。

それぞれの事情で、必然としてその形に落ち着いているのですが、
それぞれに色々な悩みがあるようです。

 核家族の人であれば、仕事で忙しくて、
ほとんど家にいない旦那さんをあてには出来ず、
奥さんが一人で子どもを抱えてへとへとに疲れてしまっていたり、
同居であれば、互いに(良かれ)と思ってやっていることが
空回りしてしまったり、育児の方針の違いや、
自分の意見を持った大人が多い分だけ、
(自分の思い通りにならない)
という不満を抱えている人が多いようです。

誰もいがみ合おうと思って一緒に住むわけではないけれど、
家族の人数が多いというのは、本当に大変だなぁと思えます。

周囲の人たちの話を聞くに付け、
(自分は同居とはいえ、実家で自分の親と暮らしているわけだから、
周りの人たちに比べたらよほど恵まれている。
文句を言っていてはいけないなぁ)と思えてきます。

とはいえ、自分もそう出来た嫁(娘)ではないので、
(よくそんなこと言うなぁ。自分がお嫁さんだったら、
絶対この家を出ているだろうなぁ・・・)
と思うようなことも無いわけではないのですが、
実際に家を出た人の話や、出ようとしている人の話や、
出たいけれど出られずに我慢している人の話などを聞くと、
(ああ、私はまだましだった。)と思い直したり、
(自分も将来お嫁さんを迎える可能性があるんだから、
将来に向けて予習をさせてもらっていると思おう。ありがたいなぁ)
という気持ちになります。

もちろん、何の不満も漏らさない素晴しい人もいるのですが、
あまり文句を言わない人の話を聞くと、
「(忙しい旦那さんについては)あきらめている。
顔を合わせる時間が少ないからケンカにもならない」とか、
同居であっても「互いのことに干渉しない」とか、
接触しないようにすることで、衝突も少なくなる傾向にあるようです。

 けれど、もしうちが玄関も居住空間も別で、食事もお風呂も別々で、
互いの行動や生活に全く干渉しないかたちの
同居だったとしたらどうだろう?とはたと考えます。

 作る食事の量も洗い物も、洗濯物も半分で済むし、
疲れた日は外で食事を済ませれば良いし、
親のスケジュールに気を配って
こちらの行動予定を立てる必要は無いし、
自分たち夫婦と子どものことだけを考えておけばいいなんて、
何て楽なんだろうと思えるのですが、
じゃあ果たして何をもって「家族」と言うのだろうか、と考えると、
一番面倒くさい「顔を合わせる回数の多さ」が、
家族としての形を作ってゆくのではないかと思えるのです。

 毎日顔を付き合わせて食事をし、今日会ったことを伝え合ったり、
明日の予定を確認して互いの情報を交換し、
「今日は洗濯物入れておいてくれてありがとう」とか、
「明日は出かけるので、昼ご飯準備できないけどごめん」とか、
小さな事でも言葉を掛け合い、
ケンカをしたり、文句を言ったりしながら、
(でも、こんなところで助けてもらっているな)とか、
(自分も人のこと言えないしな・・・)と、我が身を省みたり。

難しい勉強や修行はしなくても、日々の生活の中で、
実は大変な勉強をさせてもらっているのではないかと思えます。

 

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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