清風 2010年7月

テーマ:清風 【住職】

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<ひとつこと 成し得るために 
いくたりの 人の情けを 
受けて来たかや (あいち歌壇より)>

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よくみれば なずな花咲く 垣根かな
                      芭蕉

註)なずな … ペンペン草のこと。春の七草の一種。
       道ばたに咲いているふつうの雑草。


 俳句は世界で最も短い文学と言われています。
何しろ、五・七・五、
つまり17文字しか許されていないのですから。

 芭蕉は俳聖とも言われている人ですが、
私は、この一句がおそらく俳聖と言われる
芭蕉の誕生と関わりのある一句だと思うのです。
この句は、多くの芭蕉の句の中でも、
かなり重要な位置にあるものではないでしょうか。

「なずな」というのはペンペン草のことですから、
私たちでも平生は見過ごしている草だと思われます。
その「なずな」を見過ごすことなく、
いや、見過ごせない思いが、
この時の芭蕉に湧いてきたのでしょう。

「お前、こんなところに、
人に見られるということもないだろうに、
咲いていたのだなぁ」と。

「よく見れば」の言葉遣いに、俳句を詠むということ
-それを外して芭蕉の人生はないのですから-
俳句を詠む姿勢が決まったという、
そういう芭蕉の生涯の立ち位置が
読むものに伝わってくる様に思います。

この句に於いて、どういう句を詠むとか、
世間の評判とか、そういう他人の眼を気にしなくても良い、
一表現者として満ち足りていて、
作者の名はもうそこには無くても良いというか、
新しい俳人・芭蕉が誕生した瞬間のように思われます。

 日常の生活を退屈にしてしまうのは、
どうやら「出遇い」が無いからのようです。

「なずな」と会話ができた…芭蕉の句からそんなことが思わされます。
こうした出遇いは、一切の予見と
先入観から人間(私)を解き放つのです。

しかし、それが人間(私)にとって最大の難関だと、
この句は教えてくれています。

『正信偈』のはなし 2010年7月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
                光明名号、因縁を顕す。」

 先月号に書いた
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という
善導大師の告白について記すことにします。
この告白をさらに簡潔にすれば
「凡夫」という一言に尽きるのでしょう。
「自身は凡夫である」。

 聖徳太子の「十七条憲法」には

「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)」
                         (第一〇条)

という言葉があります。親鸞聖人はこの凡夫について
次のように記しておられます。

「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、
 欲もおおく、いかり、
 はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、
 ひまなくして臨終の一念に
 いたるまでとどまらず、きえず、たえず」
                     (『一念多念文意』)

 凡夫というのは、条件さえ整えば(縁によって)
何をしでかすか、自分でさえわからないと言われています。
「煩悩が欠けることなく備わっているもの」、
それが凡夫というものだと。

思い通りにならなければ不機嫌になり、
それが昂じてくるとどんな行為をするか
自分でもわからないもの、それが
「私が生きる」ということの中身だというわけです。

 最近「キレる」と言うようですが、
これが凡夫の実態と言っていいでしょう。

「わかっちゃいるけど、やめられない」
              (植木等)
という歌がありましたが、
この歌を聴いた父(植木徹城)は、
この歌は親鸞聖人の
教えの雰囲気があると言って喜ばれたそうです。

自分の思いに振り回されていく、
そしてそのことを自分自身でもわからない存在、
それが仏の眼から見られた私(凡夫)で
あるということでしょう。

 「仏道を習うというは、自己を習うなり」
               (道元禅師)

と言われますが、自己を習うことを外して、
あれこれを学ぶに忙しい、これが現代の時代状況であり、
その結果がどうなっているかは
見てのとおりというわけです。

仏法を聞けば仏法がわかるのではない、
自己がどんなもんかわかる、
浄土の教えを聞けば浄土がわかるのではない、
私が穢土を作り出しているとわかる、と言われてきた所以です。

 仏は目覚めた人という意味です。
自分に目覚める。これが人として生まれた私が、
生涯をかけて明らかにしなければならない課題なのです。

 

 

お庫裡から 2010年7月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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私 「あれ、おばあちゃんのお膝がなんだかしっとり。
  在(あり)ちゃん、もしかしておしっこ出てない?」

在 「出てないよ」

私 「いやいや、そんなはずは…。これはあやしい」

在 「イヤだ。ない、ない。おしっこ、ない。出てないもーん」

私 「そうかなー。でもいっぺん見てみようよ。
  おしめ持ってきてね、さっぱりすっきり、きれいきれいしようよ」

在 「はい」

あれ? いやに素直。自分でも気持ち悪かったのかな。
在ちゃんはおしめを2枚持ってくると、
恥じらいもなく当然のように大の字に。

私 「どーれ。あっ、くちゃー。
  おしっこが匂い立ちますねー。こんなに重くなるまで。
  あーあ、気持ちが悪かったでしょう」

在 「そうですねー」

私 「そうですねーって、在ちゃん、
  “おしっこ”って一言教えてくれなくっちゃ」

在 「おしっこ」

私 「え!おしっこなの? トイレ行こうか?」

在 「いやだ。出ない、出ない。おしめちて!」

私 「“おしっこ”って一言教えてくれたら、
  こんなもん(おしめ)しなくてもいいのに。
  すっきりさっぱりが待ってるのにねー」

私の嘆き節に、開くんが助け船。

開 「おばあちゃん、在ちゃんはまだ小さいから、
  おしっこって言えないんだよ」

在 「そうだよ。ありちゃん、まだ小しゃいの。
  だからおしめちてるの」

私 「そうか、まだ小しゃいのか」

そうかそうかで大爆笑。孫と漫才をしているみたいです。

今月の掲示板 2010年7月

テーマ:今月の掲示板

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 ●生きるための一切の努力をみな忘れて
 眠りこけていた私なのに 眼がさめてみたら生きていた。
                                        東井義雄

●人間の心は変わってばかり。
たった1つしかない、かけがえのない私の生命を
コロコロ変わるものに托するわけにはいかぬ。

●我々は、
「ありのまま、このまま、そのまま」の世界から
このまま、そのままの世界におり
ありのまま、このままの世界に死んでいく。

●肉体を持っているので、それに心が宿っているので、
ありのまま、このまま、そのままを見ることができない。

●生きている人間の、生身の人間である今、
ありのまま、このまま、そのままを
何とか見せたいというところに仏の慈悲がある。

●不平・不満があったら、それが宗教心。
宗教心が目覚めたがっている叫びである。

●人間に生まれたという事は自我の底にある真実の自己に
目覚め得る唯一の機会を持ったというその事が尊いのです。

●私が拝む身になる事によって
私の外なる一切が浄土に変わってくる。

●南無阿弥陀仏
ああ、如の方から呼ばれている。

●生きている、ただ今
自分がみなを拝むことができれば
その人は浄土に生きている。

(今月のことばは、米澤英雄著作集の中より頂きました。)

本堂に座って 2010年7月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 先日、カルト問題についてのお話を聞く機会がありました。

カルト問題と聞くと話には聞いていても
あまり身近ではない様に思っていましたが、
被害の実態やマインドコントロールの手法を用いた
巧みな勧誘方法、慈善活動を装った集金を行っているなど、
具体的な内容の話を聞く中で、
とても身近な問題であることに、あらためて気づかされました。

 これらのお話を聞かせていただいている中で、
ふと思ったことがありました。
こうした問題が広がりを見せているのは、
(もちろん巧妙な手法を用いられているということが
大きな要因だと思いますが)
本当に大切にするべきことを
私自身が知っていないからではないのでしょうか? 

 以前に相談を受けた中に、「家の相や向きについて」や
「庭をさわる時期について」といったものがありました。
こうしたことはいろんな方から聞かれる内容で、
多くの方が気にされているのだと思いますが、
例えば家の向きは建てる場所の条件に大きく左右されます。
間取りは生活する当人に使いやすいのが1番です。
庭をさわるのも、天候や季節・植物の種類によって
条件が変わるものだと思います。

気にすること自体は否定しませんが、
それによって意見の食い違いから
家庭不和になってしまったり、
自分のしたいことができなくなってしまうのでは、
本末転倒と言わざるを得ません。

(姓名判断というのもありますが、
僕と奥さんは(数え方にも依りますが)同じ画数になるようです。
僕らのことをご存じの方は、
当たるのかどうか判断していただけるでしょう。)

 宗教というと、「あやしい」とか「必要ない」と
思われている方が多いと思います。
また、自分が幸せ(=自分の思い通り)になる為のものと
考える方もいるかもしれません。

宗教とは、自分(もしくは特定の個人)の
利益のために利用するものではなく、
私の身の周りにある様々な知識や情報、
古くからの迷信、ふだんの生活の中で
当たり前だと思い込んでしまっていること…などを
見つめ直し、自分にとって本当に大切なこと、
本当に必要なものに気づくためにあるのです。

 私が置かれている状況や
目の前の人が自分の思い通りになってくれる…
こんなにうれしいことはないでしょう。
しかしそのために、どれくらい多くのことを
犠牲にしてしまっているか、
自分自身ではまったく気づけないのです。

相手を自分の思い通りにするために、
相手の非を責めます。が、それと同時に相手は
私を同じ目線で見るようになります。
自分には(相手を責められるほど)間違ったところ、
悪いところは無いのでしょうか?

 生活の中に起こる出来事の一つひとつを通して、
相手の方を見るのではなく、自分のことを見つめ直す、
そのきっかけを与えてくれるのが
宗教の本当の役割なのです。
家の相を良くして、
そこに住む私はどうなりたいのでしょうか。

何かが「気になる」とき、
そこには必ず自分が深く関わっている
(私に悪いことが起こるのでは…など)はずなのですが、
私自身のことをきちんと見つめる方は
あまり多くないようです。

 私が本当に大切にしなければならないことは何か…
カルトの問題も占いも夫婦のケンカも、ただこのこと一つを
私に問いかけているのではないかと思います。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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