清風 2010年8月

テーマ:清風 【住職】

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<競争は、力の足りないものがすることである。(清沢満之)>

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自分の欲するものを獲得したとたんに、色褪せてしまう願望。
幸せを願っているけれども、本当の願望がはっきりしない限り
私の人生は未だ始まっていない。

「しんらん塾のノート」より


 人は幸せを求めて生きていると言えよう。
私は不幸で結構です、と言える人は
そんなにはお見えにならないだろうから。
しかし、幸せを求めるならば
幸せそのものについてまず知らなければならないと
思っている人は、少ないのではなかろうか。
これは、考えてみれば奇妙なことと言わねばならない。
もし幸せそのものを知らなければ、
幸せのど真ん中にいても、幸せに気づけないで不幸せだと
思っているかもしれないのだから。

 例えば、人がたくさん乗り降りする駅で
「今日は○○さんに出会った」と言えるのは、
○○さんを予め知っていたからである。
知っていなければ出会うことはなくすれ違うだけであり、
今日はたくさんの人出だったとは言えても、出会ったとは言わない。

 では、幸福とはどのようなものと考えられているのだろうか。
人は予め、自分の幸福観というものを持っていると言われる。
幸福とは、自分の思い通り(都合の良いよう)になることであり、
不幸とはその反対で、自分の思い通り(都合の良いよう)に
ならないことだと言えるようである。川柳にも、

「壁一重(ひとえ) 子があれば なければといい」

という句があった。

 ではその「我が思い」とは
そんなに確かなものだと言えるだろうか。
我が思いに適うか、適わないかで
幸・不幸が決まるものならば、気分は変わるし適ってみれば
当たり前だし…と、幸福とは瞬間のものになってしまう。

 では、幸福とはどういうことだろうか。
それは「我が思い」の実態に
触れることから始まると言っていいのだろう。

 

『正信偈』のはなし 2010年8月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
                            光明名号、因縁を顕す。」

 善導大師は、人間(私)の偽りのない相を
「凡夫(ただひと)」と告白しておられます。
私どもは飾るというか、なかなか自分を掛け値なしで
認識できないものということでしょうか。
つまり、うぬぼれているか、
被害者意識を持っているかのどちらかというわけです。

 脳出血の後遺症で寝ておられた患者さんについての
こんなエピソードが紹介されていました。
その患者さんの枕もとに立派な軸が
掛けてあって、次の言葉が書いてあったそうです。

いらいらや くよくよもせで おおらかに
                         悠々自適 老いの坂路を

 年を取ったら、いらいら、くよくよしたらいかんと。
特にお前さんの様な、いつ治るかわからん後遺症のある病人は、
とにかく安心してこのような大らかなゆったりした気分で
過ごさなきゃいかん、と。いいことが書いてある。
ところがその患者さんは

「これを見ていても、ちっともいらいら、
        くよくよが直らん。先生どうしたことでしょう」

と。そこで、往診された先生が次のように手直しをされたそうです。

いらいらや くよくよのみの 人の世も 
                         名残なつかし 今日の一日

 それから幾日かして往診されたら、
病人が良くなってきている。患者さんが言われるには

「今まで、掛け軸の言葉を見ていても、
凡人の悲しさいらいら、くよくよ…
これはいかんと思えば思うほど、よけい落ち着かなくなっていたが、
先生に手直しして書いてもらったのを眺めているうちに
「いらいらや くよくよのみの 人の世も」
なるほど全部、世の中は
そういうもんだったんだなぁということがわかってまいりました。」

そうすると、だんだん安心感が起こってきて、
血圧も安定するし、血色も良くなる。
今まで進まなかった食事も
食べられるようになったと言うわけです。

「名残惜しむ」心は、この世の人情でしょう。
「名残なつかしむ」心は、
そこに無限に対する思慕が見られ、それはそのまま一日一日を
生かさせていただくという喜びの心と言えるようです。

人生を生きるとは、身の上に起こったことを
引き受けていく私の誕生が、ただ一つ待たれていると言うことに
尽きるということでもあるからです。

                      (次頁に続く)

 仏教が大切にしてきた「凡夫」という人間観には、
このような身の事実を引き受けて
生きてこられた先人の歩み(証)が
あるということでしょう。

(参照 本文中の歌についてのエピソードは
                         『健康と念仏』長尾雄二郎著による)

お庫裡から 2010年8月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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「あのね、ぼく将棋ができるんだよ」

と、誓くんがないしょ話。将棋は全く知らない私。
早速、誓くんに指南してもらう事に。

「うーん、仕方がない。相手してやるか」

誓くんは早くも先生言葉。
まずは駒の並べ方。駒の一つ一つの動かし方。
説明してもらっても、もらっても、なかなか覚わりません。
とりあえず先生の動きを真似します。

「歩は一つずつ」「ハイ」

ちょっと動きを間違えると大きな声が飛んできます。

「そうじゃない、桂馬は前一つ斜め一つ」「ハイ」

真似てやっているつもりなのに、

「チッ、チッ、チッ。それはできませーん」

「誓くんのと同じように動かしたけど、だめ?」

「だーめ!ぼくのは角行、
        おばあちゃんのは飛車、ぜーんぜん違います」

「あーそうですね。ハイ、ごめんなさい」

こんな調子で2日、3日、4日と指南の日々は続いていますが、
日を重ねる度、「エ、それありなの?」という
ルールが加わってきます。

「相手の陣地に入ったら、
  駒は全部ひっくり返って金の動きができるようになる」

「ハイ、わかりました」

誓くんの駒が少なくなると、私からとった駒が次々出てきます。

「エ!そんなことしていいの」

「いいんだよー。自分の駒なんだもんねー」「へー」

たまたま誓くんにスキあり、私が王将をとりました。

「仕方がない、とられてやるか。
 でもボク、金を王将にするから、まだまだ終わらないよ」

私の頭は完全に混乱しています。
先生が今日も「おばあちゃん、将棋をしよう」と誘ってくれます。
「誰か正しいルールを教えて」の心境ですが、
どうやら私は、相手が保育園児だという事を忘れていたようです。

今月の掲示板 2010年8月

テーマ:今月の掲示板

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●ふしぎ  岩田有史 10才
雲が白いことも
風が音をたててふいてくることも
ささの葉が青いことも
犬が犬で、猫が猫であることも
不思議でたまらない

●はからいを捨てたら
私自身もなくなるほどにさえ思っている。
それが不安だから
さらに化粧を重ね
背のびをして
他人に遅れをとらじと気をはりつめている

●ぬぎすてて
うちが一番よいという

●ありのままの私を
古人は凡夫と呼ばれたが
凡夫に帰りつくことのむつかしさよ

●罪悪深重と呼ばれるまでに
私たちは“はからい”を着込みすぎ
今では、私と一体になっている。

●私たちのはからいで娑婆がつくられ複雑化されていくとするならば
はからいを捨てて本来の私に帰るところに
如(ありのまま)の世界、根元の世界、浄土がひらけてくるのであろう。

●なべてみな 捨てよと言いて捨てざりし
わが煩悩のぬかるみ深き

●空高く栃の花咲き草青し
あやまちて人は生まれしならず

●人はねぇ
誰一人として
まちがってこの世に生まれてきたのではないんだよ

本堂に座って 2010年8月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 いろいろな文章を読ませていただいていると、
時に、深く考えさせられるものや、大切な事に
気づかされるものに出遇うことがあります。

『同朋新聞』(東本願寺発行)に掲載された
湯浅誠さんのインタビューを読んで、
自分が持っていた考えを見直さなければいけない…と
強く思わされました。その中の一部を、
以下に紹介させていただきます。

 今、世の中で言われている「自己責任論」というのは、
自分自身の責任を棚上げしたところで成り立つ考え方なんですね。
自分に対しては自己責任論です、けれどもそれを
他人に言っちゃおしまいだろうと思うんですね。

「俺ができたから、お前もできるはずだ」

というのは、それこそ相手の尊厳を
否定した言い方にしかならないですね。

 私は、この世の中には
完璧な人間なんていないと思っています。
ところが、生活できなくなった途端に、
完璧であることを求められてしまう。
例えば、野宿をしていた人がアパートに入居できるよう、
敷金礼金を支給する制度があるのですが、それを受けるには

「身だしなみを整えられる」「自分で炊事・洗濯ができる」

といった条件が15項目もあるんですよ。

世の中にはそんなことできなくても
生活しているお父さんが何百万人もいるはずですよね。
だけど、その人たちはとがめられなくて、
うまくいかなくて困っている人にだけ完璧を求められる。
これはすごく逆立ちした価値観だと思います。

(再就職のために2万円の支給を受けた人が、その中から
缶ビールを買って飲んだといって非難された報道について)

 ああした報道が出ると、みんなその話に飛びついて、

「やっぱりこの人たちは駄目なんだ」

と思ってしまう。
誰もが聖人君子になって生きろと言うんでしょうか。
本当にやりきれない気分になりますね。

 こうした非難をする人は、自分が周囲から
きちんと認められていないと思うんですね。
日本人の、特に男性は褒めることも褒められることも下手でしょう。

でも、人から承認してもらいたいという欲求は誰にでもある。
そこで、人から認められたことのない人は、
他人を押さえつけることで自分を承認しようとするんですね。

「俺はもっと辛いことに耐えて
頑張ってきた。お前なんか怠け者じゃないか」

と人を非難することで自分を支えようとする。
逆に言うと、その人がちゃんとありのままの自分を肯定されていれば、
そんな欲求は起こってこないはずです。そういう意味で、
日本には人と人が認め合う文化が弱いのかな、という気がしますね。

(『同朋新聞』平成22年7月号(2~3面)より抜粋して掲載しました。)


 僕自身、再就職のための2万円でビールを買った…という報道に
「そんなことしちゃっていいのかなぁ」と思っていたことがあり、
今回の文章を読んで、ドキッとさせられました。
知らず知らずのうちに自分のことを棚に上げて、
人のことを非難していたのです。この文章に出遇っていなければ、
きっと今も考えは変わっていなかったでしょう。

自分の価値観は本当に間違っていないのか…を
確かめさせていただける文章やお話がどれほど大切なものか、
あらためて気づかせていただきました。

今日も快晴!? 2010年8月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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  昨年、引っ越しをすることになった近所の友人から
ゴーヤの種を譲り受けて以来、緑のカーテン作りにはまっています。

水さえやっておけば勝手に成長し、
どんどん実がなってくれるので、「植物殺し」の異名を取る
ものぐさな私でも育てることの出来る丈夫さと、

(今日のおかずにもう一品・・・)

と思ったときに、庭に出てチョキンと収穫すれば、
あっという間にもう一皿と言う手軽さ。そして、
見た目にも涼しげな感じと、ちょっぴりエコがすっかり気に入り、

(よーし。来年もやろう!)

と昨年は確かに心に決めたのでした。

 しかし、面倒くさがりの私は
最後にゴーヤの種を取ることを怠ってしまったのです。
真っ赤に熟れて地面に落ちてゆくゴーヤを見ながら、

(次は種を取ろう・・・。あ、また落ちちゃった。次こそは・・・)

と思いながら、気がついたら全てのゴーヤは地に落ちていたのでした。

 そして迎えた今年の春。
そろそろ 種まきをしなければいけない時期になり、
これまた近所の友人に泣きついて種を譲ってもらい、
かなり時期が遅れて種まきをしたところ、
無事発芽したのはたった4本。

(ああ、これじゃうちの窓にはとうてい足りないわ・・・)

と思いながら、とりあえず窓際のプランターに
植え替えてからしばらくして、どうも周辺の地面から
何かの芽がにょきにょき顔を出していることに気がつきました。
植物に疎い私なので、母を呼んで

「これ、何の芽だろう?」

「さぁ~?何だろうねぇ?」

「そのへんの雑草とはちょっと違うよね~?」

と言いながら、しばらく様子を見ることにしました。

 毎日プランターのゴーヤに水をやりながら、
近くに勝手に生えている見知らぬ植物の芽を
見るとも無しに観察していると、その芽はぐんぐん成長し、
気がついたら葉の影から蔓が伸び始めていたのです。

・・・そうです。実は、その芽は全て去年熟して
地面に落ちた種から生えたゴーヤだったのです!
初心者の私は、自分がプランターに植えた種から発芽したものと、
地面から勝手に生えている芽が同じものだとは全く気づかず、

(どこかで見たことがあるけど、何だろう?何だろう?)

と思いながら育てていたのでした。
この二つが全く同じものだと気づいたときには、
本当に目からウロコでした。

(そうか!よく考えたら当たり前だよね。植物って、
普通わざわざ種を水につけてプランターに植えなくても、
地面から勝手に生えるじゃない!)

当たり前なんだけれど、何だか私は植物の生命力というのか、
たくましさ、しなやかさにすっかりやられてしまいました。
毎日少しずつ背丈が伸び、必死で蔓を伸ばし、
上へ上へと向かって伸びてゆくゴーヤの何て健気なこと・・・!
もう今は、在ちゃんよりゴーヤがかわいくて仕方がありません。

 与えられた場所で必死に生きて自分の居場所を見つけ、
懸命に伸びてゆくゴーヤの姿は、思いがけなく転勤を言い渡され、
涙を浮かべながら引っ越ししていった友人を思い出させてくれます。
彼女は引越した先で、それまで自分が取り組んでいた活動が
出来る場所を見つけて仲間を作り、
着実に自分の居場所を見つけているようです。

すくすく育つゴーヤを見ると、見知らぬ土地で
たくましく根を張り、自分の人生を生きている友人を思います。

 

 

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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