清風 2010年9月

テーマ:清風 【住職】

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<天命に安んじて人事を尽す。(清沢満之)>

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  詞一) 困った時の神だのみ。
      困った時の仏だのみ。
      そんなものが、神仏だのみでもなんでもない。
      そんな虫のよい神仏がおありでない。
      それは、自分の勝手というものだ。
      たのんでいるわたしに目覚めるべきだ。
      そこが、神仏に遇うことだったんです。

 さて、それでは「神仏に遇う」とは、一体どういうことでしょう。

  詞二) 困ったなぁ、嫌だなぁと思って苦しんでいる。
      そのことは、どう考えても自分勝手なことだった。
      世の中の苦しみは、
      一切自分勝手です。

 「一切自分勝手」という自分、そういう自分とわかると、

  詞三) ある寺院の掲示板に、
      「人生、苦しみを越えて」
      と書いてありました。
      苦しみを越えて、また苦しみにぶつかる。
      さもあろうが、
      苦しみをいただく、
      そんな世界もありなんと思いました。

 「困ったこと」も「苦しみ」も
いのちが与えられていてのことでありました。
いのちそれ自身は困ることも苦しみも引き受けていたのでした。

 詞は、詞集『ありのままがよい』
(横山定男著 東本願寺難波別院発行)による。
     (この詞集は寺にもあります。1冊 1,200円)

『正信偈』のはなし 2010年9月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
 定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
                             光明名号、因縁を顕す。」

註)定散 … 定善の心、散善の心。
「やすらぎ」や「いやし」を求める心根。
  逆悪 … 悪人のこと。    
    矜哀 … あわれみをかけること。
    定散・逆悪 … 凡夫、私のこと。

 「いやし」も「やすらぎ」も、
やはり一過性のブームであったようです。
「いやし」や「やすらぎ」だけでは、
限度があるということでしょうか。
情緒、気分という、いわば表面を
なで回しただけということであって、
なぜ、人は悩むのか、苦しむのか、
それは生きる上で全く無意味なことなのか、という
深い問いには答えていないからでしょう。

 そして、現代は経済の突出です。新聞の一面トップに
「景気 正念場 GDP0.4%増に減速」などの言葉が、
形を変え姿を変えて登場しています。
人間の活動の一切が経済の計算の対象として
語られているということでしょう。
「儲かる」ことが一切に優先する、貨幣収入の増加が
一切の目標となる、ということでしょう。
善人・悪人の基準も貨幣次第です。
つまり、全ては市場(しじょう)の視点からのみ見られ、
市場(いちば)の視点は淘汰されてしまったということです。
「いちば」は人が介在して初めて成立していました。
「しじょう」では、全てが
経済の対象ですから、人が物化しています。

 善導大師や親鸞聖人の頃は、自然災害などがあり、
人間の身分差別は厳しかったでしょうし、
全てを数として統計的に扱うというような雰囲気どころか、
庶民は人間として見てもらえなかったかもしれません。
しかし、人と人の息づかいがあっての生活であって、
今の経済システムは人間を
窒息させる方向に進んでいることは、
(そして、その窒息している状況がニヒリズムを生み)
それがいろんな事件(いじめ・虐待・自死など)として
表面化していると言えるのでしょう。

 今、本当に求められているのは、
手段と目的が顛倒している事実に
まず気付くというあたりにあるように思うのです。
では、その目的とはなんでしょうか。
生きる意味を満たしていくためのGDPであって、
GDPのために生活があるのではないと、
1度言い切ってみることから始まるのでしょう。

お庫裡から 2010年9月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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誓先生の指導のよろしきを得て、
やっと駒の動き一覧表を見なくても対戦ができるようになった私。
毎日、何度も対戦するので、先生もどんどん腕を上げ、
一寸油断すると、大事な角行や飛車を取られてしまいます。
目配りができているので、なかなか攻め落とせないのですが、
たまに角行や飛車を取るチャンスが来ると、

「今、何取った? それはだーめ」

声の力でかわされます。それでも

「仕方ない、取られてやるか」

と言ってもらえる時がありますが、王将に至っては、
なかなかとらせてもらえません。

「あー、だーめ」

これで私は絶対勝てません。
誓くんは、あの手この手で逃げおおせ、
遂に私の王将を取ってしまいます。ある時、

「ほら、おばあちゃん王将を押さえた。
たまには勝たせてくれない?」

と言ってみたら、

「フン、もうおばあちゃんとは将棋してあげない」

と立って行ってしまいました。
これが開くんだと、又違います。始めると、]

「おばあちゃん、どんな作戦?」

「えー、作戦も何も、当てずっぽう。
あれこれ動かしてみているだけだよ」

少し進むと、

「あ、おばあちゃん、これ動かして、これ取るつもりでしょ」
「へーそうか、そんな手があったか。それもらっていい?」
「いいよ」

また少し進むと、

「あー負けた」
「エ? まだ勝負は決まってないよ」
「だって、おばあちゃんのこの駒がここにあるから、
これをこう動かせば王将を取られるもん。ぼくの負けだ」

長男と次男では、こんなに違うのですね。
小さな孫にも手加減できぬ私は勝他の権化。

 

今月の掲示板 2010年9月

テーマ:今月の掲示板

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●今の自分自身に無条件で満足できないのは
 これは、人間の持っている永遠の課題です。
  <二階堂行邦>

 ●この身体は、わが身体であるが
 わが身体ではない 
  <曽我量深>

 ●相手を鬼と見る人は
 自分もまた鬼である。
  <曽我量深>

 ●如来様は、私を助けるために
 親となり、子となり、妻となり、夫となり、
 善人となり、悪人となり、智者となり、愚者となり、
 男となり、女となり、
 あるいは生きてみせ、あるいは死んでみせ
 あるいは打ち、あるいはなでて
 お育てくださったのであります。
  <暁烏 敏>

 ●宗教とは、
 自分の人生をどこまでも全うして行く道

 ものが縛るのではありません。
 ものをとらえている心に縛られるのです。

 苦しみがなくなるということは
 その苦しみを生かしていくことができるということ。
  <蓬茨祖運>

 ●人は流転の責任が
 あくまでも自分であることを忘れている。
  <高光大船>

 ●念仏は
 する、しない、できる、できないの問題でなく
 仏の法、仏の行であるとうなずけるかどうかが要なのです。
  <平野 修>


 生  杉山平一

 ものを取りに部屋に入って
 何を取りにきたかを忘れて戻ることがある。
 戻る途中で、ハタと思い出すことがあるが、その時はすばらしい。
 身体が先にこの世へ出てきてしまったのである。
 その用事は何であったのか、
 いつの日か思いあたるときのある人は幸福である。
 思い出せぬまま、僕はすごすごあの世へ戻る。

本堂に座って 2010年9月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 現代は、科学が進歩して様々なことがわかる様になりました。

現実に起こる出来事はすべて科学で証明できる、
という様なことを言われた方もいらっしゃいましたが、
多くのことがわかる様になるほど、
かえってわからないことを軽視したり
恐れたりしてしまっている様にも思います。
見えないこと、わからないことにある
尊さについて書かれたお話を紹介させていただきます。

 「食べ物さまには、仏がござる」

 岡崎女子短期大学におられた宇野正一という先生のおじいさんは、
いつもそう言って食べ物を大事にされたおじいさんでした。
田んぼでも田んぼに手を合わせて働いておられたそうです。

 宇野先生が小学校の時、はじめて学校に顕微鏡が入りました。
顕微鏡は、小さなものが大きく見えます。宇野少年は
「ご飯粒をのぞいたら、
おじいさんの言っていた仏さまが見えるだろうか」と
一粒一粒のぞいて見ました。しかし何も見えませんでした。
そして小学校の先生にたずねると
「そんなものは入っているわけがない」と
おじいさんを笑ったのです。宇野少年は家へ帰ると
「嘘を教えた」とおじいさんをなじりました。
おじいさんは、それを聞いてとても悲しまれました。
仏さまの前で座って涙を流しておられたそうです。
 宇野先生は、子どものころに見た、
そのおじいさんの姿を忘れることはなかったそうです。

(『ごえんきこどもニュース』第2号付録 
大谷保育協会発行より抜粋して掲載しました。)

 ご飯粒に仏さまがいる…実際に顕微鏡で見ても
仏さまが見つかるはずがないということは、
今の小学生も当たり前のように知っていることでしょう。
しかし、ここで大事なことは、見えるか見えないかではなく、
なぜ「ご飯粒に仏さまがいる」と言われるのか、ではないでしょうか。

 私たちは、目先の解答ばかりに気を取られてしまって、
1つの問題を「深く考える」ことや
「考え続ける」ことができなくなっている様です。
ご飯の一粒一粒は、1年間、
様々なはたらきを受けてようやく育ったものです。
そして、そのご飯を食べることで
私たちは日々生活することができているのです。
「ご飯粒に仏さまがいる」というのは、
このような尊さやありがたさを表現しているのでしょう。
目に見えないから仏さまなんて入ってないということではなく、
目に見えない部分に込められている思いや願いや
はたらきを感じとることが大切なのです。

 学校で教わる問題には答えがありますが、
子どもたちのこと、人間関係など自分自身の問題は、
なかなか答えが見つかりません。そうした問題にぶつかったときに、
どのように考え、受け止めていくか…。
すぐに答えを出そうとするのではなく、
じっくりと考えてみることで、
本当に大事なことが見えてくるのだと思います。

今日も快晴!? 2010年9月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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・・・これですよ、これ!
憧れは、自然や実体験を大切にするスローな子育て。
親子で野菜を育てて、土や自然に触れる経験、育てる楽しさ、
収穫の喜び、安心安全の美味しい無農薬野菜、
これらが一度に手に入るなんて、こんな素敵なことはありません。

 ところがところが、こちらの期待に反して、
子ども達の反応は薄薄だったのです。

「開くん、誓く~ん。ゴーヤの水やり手伝って~。」

「暑いから嫌だ~」

「蜂がいるから外怖い~。
(※開は夏休みが始まって早々、蝉取りのさなかに蜂に襲撃され、
三カ所刺されてから「蜂が怖い!」と外遊びに及び腰・・・)」

「(…ったくやる気がないなぁ!)ありちゃ~…」

「や~だもん!」

「…(まだ名前も全部呼んでいないのに、だめ出しですか…)。」

せっかく在ちゃん用のかわいいジョウロも新調したのに、
やや反抗期を迎えた彼女は、二言目には「いや~」で、
全くとりつく島がありません。
(ちっ!やっぱりゴーヤの方がかわいいや)と、
一人でとぼとぼ水やりをしていると、
余計にゴーヤや青ジソがかわいく思えてきます。

 おまけに、毎日庭から青ジソをちぎっては
昼食の素麺の薬味に出しても、子ども達は「ゴマ!天かす!」と、
青ジソには全く手を付けず、ゴーヤは「苦~い」と見向きもしないし、
トマトも「嫌~い」と出しても残すし、全くどうなってるの??
私の夢見たスローライフは?
親子で土に触れる体験は??収穫の喜びは???
想像していた素敵な夏休みは、
がらがらと音を立てて崩れ去ってゆきました。

 まあ、でもそんなものかもしれません。
親が張り切って先回りしてあれこれお膳立てしても、
結局その時の子どもの興味や関心に沿わなければ
空振り三振に終ってしまうのかも。
開は読書やザリガニ釣りや工作に夢中だし、
誓は将棋や虫取りや在ちゃんへの意地悪に忙しいし、
在ちゃんは・・・??
今年の夏におしめが取れたから、まあ良しとしましょうか。

 楽しかった夏休みも、もうすぐ終わりです。
子ども達の胸には、何が一番楽しかった思い出に残るのでしょうか?
川遊びに流し素麺、BBQに花火、
福井の恐竜博物館にカヌー、人形劇etc・・・。

え?最後の日にばぁばに連れて行ってもらったラーメン?!
やっぱり・・・。

 

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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