清風 2010年10月

テーマ:清風 【住職】

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<力の及ばざるところは如来の領分なり。(清沢満之)>

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神も仏もないものか というところから、
人々は本当の宗教を考えるようになるのではないですか  
                    (遠藤周作)


 なぜ、念仏ひとつで救われるのですか。
どういう風に救われるのですか。具体的に言ってください。

 さて、念仏の救いとはどういうことを言うのでしょう。
念仏は仏を念ずることです。
では仏のはたらきはどういうことでしょうか。
仏はインドの言葉・ブッダを漢訳したときに
仏陀という字を当てたのです。

インドの言葉・ブッダは目覚めた人、
智慧(法)に目覚めた人という意味です。

ですから、仏教は仏法ともいいます。
成仏という言葉もあるように、仏教はブッダの教えであり、
かつ、この教えを聞いた人がブッダに成る教えでもあります。
この、仏の教えを聞けば聞いた人が
仏に成るという教えであることが、仏教の特色です。と共に、
仏教が難しいと言われる所以でもあります。

 人は大抵、宗教とはこういうことであるとか
仏教とはこういうことであるというように、
先入観を持って生きています。ブッダを対象として拝むのが
仏教を信ずる・助かる・救われるとは言わないのです。

それでは、仏を礼拝の対象としてしまい、
自分と仏とは別々のことになってしまいます。
ですから、成仏・目覚めたものに成るということは、
現代では生活の中では意味を持った言葉としては、
ほとんど使われなくなっています。
そんな、仏と私がよそよそしい関係なら、
仏ほっとけ神かまうなというように、
神と言い仏と言っても、自分のエゴの小間使いに過ぎないのです。
その証拠に都合が悪い時は「祟り」なんて言うのですから。

 では、念仏で救われるとはどういう事実を指すのでしょうか。
仏と言えばハタラキ(徳)は智慧です。
他を目覚めさせること。他とは私のこと。
この私が仏の智慧のハタラキに出遇うこと、
それが救いと言われることです。
私の実態が―仏の智慧のハタラキで、
いつも我が都合を握って放せないことが―明らかにされるのです。
先祖が大事なのも自分の都合ですから、
都合が悪くなると先祖の祟りと言います。

 私は、自分の人生に責任を取れる主体が
はっきりしていないお粗末なものだとわかり、
「念私(念仏ではない)」という(自分の)妄念に気づくこと、
それが妄念から解放されることです。
これが念仏申すことの救いです。
仏法を聞けば仏法がわかるのではありません。
自分がどんなものかわかるからです。

 

『正信偈』のはなし 2010年10月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 「善導独(ひと)り、仏の正意を明かせり。
定散(じょうさん)と逆悪を矜哀(こうあい)して、
             光明名号、因縁を顕す。」

 ―末法について(競争の意味すること)―

 ずいぶん善導大師の項で書いてきましたが、
まぁ同じことを巻き返しくり返し書いてきたことでした。
「正信偈」は、正しくは「正信念仏偈」と言われます。
念仏を正信する偈(歌・詩)とでも言ったらいいでしょうか。
ですから、全編これ念仏を讃歎する内容です。
念仏は、称名念仏という言葉もある様に、
南無阿弥陀仏と口で申すことに尽きます。
そのことを明らかにして下さったのが、
善導大師の一生の仕事でした。南無阿弥陀仏一つで救われる、
それが善導大師に遇うということです。

 現代はマニュアル時代と言われるように、
答えが示される時代、疑問を持たせない時代と言われています。
小学校へ入って大学まで、いつも問いを出し
答えを知っているのは先生という訓練を、
明治以来させられてきました。
現代はその傾向が強力になりこそすれ、
こうした教育のあり方そのこと自体には
反省の声はあまり聞かれないようです。
教育は新しい知識を注入(つまり覚えること)することが
主流であって、内発的な動機を育てていくという芽は、
ほとんど摘まれてしまっている状況です。
つまり、自由というのは競争をともなってきます。
なぜなら、自分(私)を何らかの能力で
証明する(他人とはここが異なる)ことを
強制されている時代と言えるからです。

「自分探し」「自己啓発」「自己実現」という言葉が
今はもう使われなくなりましたが、
それはそういう事態が無くなったのではなく、
あらためて言うまでもないほど当たり前になったからでしょう。

 念仏はそういう意味では、答えです。
念仏が答えであるような問いを発することさえ、
もうできない時代に私どもは生きている、
それを仏教では末法と受け止めてきました。
末法なんて、そりゃ古い時代の戯言だと、
近代では見向きもされなかったのですが、どうでしょうか。
全てが商品化され、作家も歌手も賞味期限とか言って
何でも物化されていく時代、末法という時代認識は、
実は人間であること、生きることの意味を
問い直す呼びかけのメッセージでもあったのです。

 次回からは、末法到来が意識され始めた頃の
日本の高僧・源信僧都について学んでいきます。

 

お庫裡から 2010年10月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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<将棋シリーズ第3弾>
2学期が始まり、開くんや誓くんとなかなか遊んでもらえません。
覚えたての将棋が面白くて面白くてたまらない私は、

「エー、今宿題してるんですけど」

「明日返しちゃうから、恐竜の本読んでるんだよ」

という孫に、

「そんなの後にして、おばあちゃんと
将棋してくれない? 1回だけでいいから」

と強引に頼み込んで相手をしてもらいます。

開くんはあまり勝負にこだわりませんが(でも、強いです)、
誓くんはなかなかのものです。
その分、粘り強く、角行や飛車の使い方が上手で、
誓くんと対局する時は、気が抜けません。

しかし、初心者の悲しさ、
ついつい自分の駒の動きにばかり気をとられます。

「あ、飛車が取れる」「角行もらい」と読めただけで
「フフフフ」と笑いが込み上げ、喜び勇んで
「ホーラ取った」と駒を進めると、

「取られても平気、取り返してやるもんね」

あっという間に私の大事な角や飛車が取られていきます。

 王将を追いつめていく時も、
責めることばかりに気を取られているので、
自分の王将がどう狙われているかまでは気が回っていません。
次の一手で王将もらいのはずなのに、誓くんの方が一手早く

「ハイ、王将もらい」

おかしいな、追いつめていたはずなのに。いつの間にか
角行が出ていて、いとも簡単に負けてしまいます。 お見事!

「おばあちゃんは、笑うから
 すぐわかっちゃうんだよ。ぼくは笑わないもん」

「まずは笑わないこと」

 誓先生と対等になるには、まだまだ修行が足らない。
でも、笑うなですって。
こんな楽しくて面白いのに、そんなことできません。

今月の掲示板 2010年10月

テーマ:今月の掲示板

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●食わなきゃ死ぬ。
 しかし、食っていても死ぬ。

●無事平穏な生活は、
 退屈につながるという。
 それは、「生老病死」によって
 脅かされるような
 生しか知らないからだ。

●現代の苦悩は
 何をこそ願いとして
 生きていったらいいのか
 わからないところにある。

●汝(お前)は、
 自己をどう受け止め、
 どう生きたいのだと
 自己自身から問われている。

●死というものに呼び出されて、
 そこで初めて自分に遇う。
 自分の尽くすべき努力というものが、
 初めてわかる。

●私達は、
 思いつきのしたいことに
 ふりまわされて
 次から次へと
 己を失い続けている。

●念仏は、
 「利用の対象として相手を取り扱っていた私」と
 気づかせてくださる。
 この意識こそが、私を正気に戻してくださる。
 ここから初めて人間関係の回復が成り立つ。

●念仏の生産性とは
 人間関係の回復にあります。

●放てば、手に満てり。

●我々の本当の努力というものは
 一生の終わりを見通した時、
 そこから初めて湧き起こる。

本堂に座って 2010年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 夏休みが終わって、年長さんの誓くんにとっての
一大イベント「運動会」が近づいてきました。

開くんの時もそうでしたが、年長さんの運動会は、
年中さんの時とは比べものにならないほど
内容の濃いもので、その練習もかなり大変な様子です。

竹馬・なわとび・フラフープ・踊りの振り付け・リレー…、
これだけのことを約1ヶ月で仕上げなければならないということで、
今日は何を練習した、今日は何がができるようになった…と
日々その進み具合に一喜一憂しています。
そんな誓くんの様子を見ながら思うのは、
やっぱり開くんとは違うなぁ、ということです。

 つい先日、ようやく誓くんも補助輪なしの
自転車に乗れるようになったのですが、
その過程もかなり違っていました。

開くんは、たまに思いたっては練習するものの、
なかなか続かずに時間ばかりが過ぎてしまって、
最後はお母さんの厳しい(?)指導のもと、
涙を流しながらの猛練習でようやく乗れるようになったのでした。
一方の誓くんは、開くんが乗れるようになった日に
少しだけ挑戦してみたのですが、
勢いに乗りすぎたお母さんの暴挙(!?)で
怖い思いをしてしまったために、
その後まったく練習しないまま、しばらく経ってしまいました。
それでも、近所のお友達が(誓くんよりも小さい子も含めて)
平気な顔をして乗っている姿に刺激を受けたのか、
ちょっと自転車を貸してもらって乗ってみたところ、
3~4回ペダルを踏んで進んでいます!

 この機会を逃してはいけない、とばかりに、
あらためて練習を始めたところ、何とその日のうちに
乗れるようになってしまったのでした…。

 竹馬についても、開くんは毎日必死に
練習している様子が感じられたのですが、
誓くんからはあまり前向きな雰囲気は感じられません。
それでも「今日は4歩乗れた」「今日は40歩行けた」と
誓くん本人が言っているのを聞いていると、
順調に進歩している様です。
あまりの緊迫感の無さにこちらの方が
心配になるほどですが、自転車の様子を見ていると、
まぁ何とかなるのかな? という感じで、
あとは本番当日のお楽しみです。

 ある程度はわかっていたつもりだったのですが、
開くんと誓くんは、物事に対しての
アプローチの仕方がまったく違います。
とにかく慎重で、好きなことには
コツコツと取り組む開くん。
それに対して、負けず嫌いで弱音を吐かず、
サラッとこなしてしまう(感じのする)誓くん。
そんな2人を見ていて、開くんには
「考える前に動いてみればいいのに」と思ってしまい、誓くんには
「もう少し落ちついて、じっくりやってみればいいのに」と
思ってしまうのです。でも、よーく考えてみると、
この2人の違いは僕ら夫婦の違いそのもの(!)なのでした。
子どもたちの姿を見ている様で、
実は自分たちの姿を見せてもらっているのかもしれません。
奥さんが子どもに対して言っていることは、
もしかすると自分に対する不満、なのかもしれません…。

 そして、僕ら2人から見ても
思いがけない行動をする在ちゃん。今のところ、
補助輪付の自転車にも「こわ~い」といって乗ることができません
(こう見えても(?)、案外ダメダメな在ちゃんなのです)。
さて、在ちゃんはどうなるのでしょうか? 

 

今日も快晴!? 2010年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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先日、『こどもの時間』という映画を鑑賞する機会がありました。
この映画の主人公は、埼玉県桶川市にある
「いなほ保育園」に通う子どもたちです。

この園では、畑や林もある4000坪の土地で、
0歳から6歳までおよそ100人の子どもたちが、
大人と山羊や馬と、火や水と共に暮らしています。

そこに登場する子ども達は、
(これが本当に最近撮られた映像なの!?)と驚くほど汚く
(土の上で遊んだり、手づかみで食事をしたりするため)、
でも本当に子どもらしい子どもの姿をしていました。

映画の後は、信州で青少年の自然体験教育活動を
展開している内田幸一さんの講演会がありましたが、
(おっ!?)と思うような言葉にいくつか出逢いましたので、
覚えている範囲で記録しておこうと思います。
(※あくまで私の耳で聞いて、記憶に残っている
範囲の言葉ですので、一字一句正しくはありません。)

 「子どもに『早くしなさい!』と言ってしまう」
という会場の参加者からの質問に、
「時間っていうのは、時と場合によって変化するってことを、
子どもにちゃんと伝えないといけないんだよ」、

「・・・今は『待つ子育て』というのがはやっているけど、
本人が全くやる気のない子どもを
ひたすら待っていたって時間の無駄です」、

「子どもの自主性を尊重と言うけど、おもちゃ屋に行って
『この中から好きな物を選びなさい』じゃダメ。
お母さんが、(これならいいか)というものを
3つくらい選んで、『この3つの中から選びなさい』と
やってやれば、子どもが高校を卒業するくらいには、
随分まともな物を選ぶようになります」、

「子ども達を自由にのびのびとは言うが、
広い野っぱらで走り回ったり花を摘んだりするのは良いけど、
公園の花壇には『入ってはいけない』。
貴重な植物の保護地域では『花を摘んではいけない』など、
ルールはきちんと伝えないといけない」、

「今は色々情報が本当に周りに溢れているけど、
お母さんが自信を持って自分の方針で育ててやればいい・・・」

等々。日頃から(これって、どうなんだろう?)と
思っていたことについて、ヒントをもらえたような気がしました。

  園に子どもを送る朝、玄関で靴を履いて
外に出るまでに5分掛かる子どもに苛々してしまうこと。
誕生日プレゼントも、子どものリクエスト通りではなく、
かなりこちらで選んでいること。図書館に行っても、
子どもが山盛り持ってくる「テレビアニメ絵本」等は
「2冊までにしなさい!」などと制限し、
こちらが選んだ絵本ばかり大量に借りてしまうことetc・・・。

 これらは「子どものために」やっているのではなく、
「私が、その方が気持ちがよいから」という一言に尽きます。

それは、自分の育児方針の「押しつけ」なのではないか?という
葛藤がないわけではないのですが、見ていて自分が
不愉快になるオモチャを購入する気にはなれないし、
良質な絵本を差し置いて、全く心が豊かにならないような物を
手に取られるのも納得がいかないので、
「周りはどうか」とか、「今時の普通はどうか」という基準よりも、
家族と話し合いながら、自分で納得のいく
子育てをしていけばいいのかなと思えました。

 内田さんは最後に、
「男の子はいくら頑張って育てても無駄です。
結局奥さんの方針で子育てが行われてしまうから。
女の子を頑張って育てて下さい」と一言。笑ってしまいました。

 

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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