清風 2010年11月

テーマ:清風 【住職】

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<汝の道を進め。人々をして、その言うにまかせよ。(ダンテ)>
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私たちは、他人の評価の前におびえているようでありながら、
本当は、自分で勝手に思い描いた「他人の評価の影」に
おびえているに過ぎないことが、すくなくないのです。
(『ものの見方・考え方』板倉聖宣)

 さて、どうでしょう。ここに書かれているように、確かに私たちは
他人の評価(殊に自分への欠点の指摘が)気になります。
しかし、それが「自分で勝手に思い描いた他人の評価」だとしたら
どうでしょうか。自分の勝手に描いた幻想に、
自分がおびえているとしたら。

 何故、評価がいちいち気になるのでしょうか。
現代は業績主義、効率至上主義の時代、
自分のすべての言動が
評価にさらされている時代とも言われています。
しかし、評価を取り除くことはできません。
では、どうするか―その事に気づいた先人が
次のように述べられています。

 「常には、わが前にてはいわずして、
かげに後言いうとて、腹立することなり。
われは、さようには存ぜず候。
わが前にて申しにくくは、かげにてなりとも、
わがうしろ事を申されよ。聞きて心中をなおすべき」よし、申され候。

(『蓮如上人御一代記聞書』126条)

褒められればうれしい、腐されれば面白くない、それが偽らぬ私です。
しかし事実は、褒められても増えもせず、
腐されても減りもしない、それが自己なのです。
つまり、受け入れられる評価は受け入れて元気をいただき、
今は受け入れられない評価は励ましであると判断できる、
柔軟な自己に育てという促しなのです。
 大人に成るとは、そういう自己にまで
育てられていくことなのかもしれません。

『正信偈』のはなし 2010年11月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 「源信、広く一代の教を開きて、
ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、
報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、
常に我を照らしたもう、といえり。」

 源信僧都は七高僧の第6祖(942年~1017年)。
『往生要集』の著者です。地獄の有り様をつぶさに書き記され、
当時の中国においても、よく読まれた本だと言われています。
地獄の模様が絵伝として軸にされ、絵解きとして
解説され民衆に膾炙(かいしゃ)されていきました。
『源氏物語』が執筆された頃で、
平安時代藤原氏が権勢を誇っていた時期と言えます。
親鸞聖人の生まれられる170年ほど前の方になります。

 奈良の当麻寺の近くの生まれです。
幼少時から大変優れた方であったようで、その頃の習いで、
比叡山に登り、師の一字をいただいて源信と名告られました。
15歳で天皇に阿弥陀経の講義をされ、
褒美として天皇から絹布をいただかれ、
その反物を母上に送り報告されたところ、
母はそのことを大変厳しくいさめられたと伝えられています。
そういうことによって、かりそめにも
名利に迷うようであってはいけないということでしょう。
宮中で講義をして褒美をいただくことが仏教なのか、
それは世間の誉れであると。
仏さまに褒められる、そういう人になってください。
決して名利に迷ってはならないと。だからこの絹布は返すといって、
使いの者に持たせて返された、ということが伝えられております。

 このお母さんのいさめに感ずるところがあって、
名利に明け暮れる比叡山を下り、横川というところに隠棲され、
念仏ひとすじに生きられたと伝えられています。

 この源信僧都によってインド・中国と伝来されてきた
浄土の教えが日本に受け継がれることになったのでした。

お庫裡から 2010年11月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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平成という年号と共に生まれたお寺のコーラス<みのりコーラス>は、
今年で満21年間も歌い続けてきたことになります。

これまでは、お寺で催すコンサートの前座を飾ってきたのですが、
お寺の行事の時に歌いたいなー、
本堂にお詣りの皆さんに聞いて頂きたいなー、と
秘かに願い続けてきました。

ところが、行事の前には、私は準備で走りまわり、
当日も走りまわって、歌うどころではなかったのです。
娘も結婚し、3人の孫達も手のかかる赤ん坊の域を脱出して、
私にもようやくゆとりが頂けるようになりました。

そして去年、報恩講で帰敬式が行われたのを機に、
初めてみのりコーラスの声を皆さんに聞いて頂きました。

今年も11月13日、報恩講・帰敬式の後で、
親鸞聖人の和讃曲を披露させて頂きます。
そうして、その曲を持って京都のご本山(東本願寺)の
「御正忌・報恩講コンサート」
(11月27日午前11時30分~13時 於・視聴覚ホール)に
出演させて頂きます。指揮をとって下さるのは、
和讃曲を作曲下さった平田聖子先生です。

21年という年月は、コーラスのメンバー各々に、
本当に思いもしなかった人生模様を見せております。
自分の頂いた色をしっかり受け止め、
み法に問い、問われ、さらに深め、実らせるお念仏を、
高らかに歌い上げたいと思っております。
ご縁がありましたら、ぜひ聴きに来て下さい。

今月の掲示板 2010年11月

テーマ:今月の掲示板

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●言い訳もせず
ごまかしもせず
正当化もせず
ひらきなおりもせず
あきらめもせず

●生まれてからの願い、
それは、よくわかっている。
しかし、生まれながらの願い、
それは、当たり前という心によって
常に見失っている。

●何か困った事が起きたら
何故、私はそのことに困るのか、
何を一体大事なこととしておるのか。
この大事にしていることは
本当に大事にするに足ることか、と
自分で自分に問うてみる。
それを内観という。

●おのがいのちは
徹底して
私物化することが
許されないものです。

●私達は、
自分の先入観にどんなに縛られ、
又、それが、
どんなに自分を縛っていることか。

●先入観がひっくり返って、
はじめて、
煩悩の心につかわれて、
選び、隔て、嫌っていた自分とわかる。

●信仰とは
我々を現実へと追いやって下さる力。

●困難にぶつかった時、
「やめるこっちゃ」と言うてみる。
「やめるこっちゃ」言うてやめてしまえる程度のものは
どちらでもよいこと。

●「やめるこっちゃ」と言われた時、
初めてそのことが自分にとってどんなに大事なことか
どの程度大事なことか
自分にはっきり確認できる。

本堂に座って 2010年11月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 以前にこの欄で何度か取り上げさせていただいた
小沢牧子さんのインタビュー記事が「同朋新聞」に掲載されました。
小沢さんは心理学に関わる中で、
現在の「心」に対する状況に疑問を投げかけられています。
今回は記事の中から、子どもに関する部分を
抜き出して紹介させていただきます。

 消費社会はあらゆるものを商品化していきます。
教育も福祉も、それこそ老いも死も。
あらゆるものを商品化した先に残っていたもの、
それが「心」だったのです。
心の商品化に伴って心理学が流行り、
悩みを取り扱う専門家をたくさん生み出しました。
カウンセリングの普及が人と人とのつながりを弱め、
悩んだり耐えたりする力を奪い、
「個」へのサービスに依存する風潮がますます進行していきました。

 先日、私の住む川崎市で、
悲しいことに中学生の自殺がありました。
そういう時にいつも違和感を覚えるのは、
このような事件で、すぐに心の専門家を学校に派遣して、
子どもの「心のケア」をしようとすることです。
本来はその場で暮らしている大人や子どもたちが、
悲しんだり励まし合ったり、どうしてこんなことが起きたんだろうと
一緒に考えることがもっとも大切なのに。
そういう大人たちの姿から子どもたちは学び、安心する。
見知らぬ専門家がいきなりやってくるのは
不自然で見当違いだと思いますよ。
専門家が入ってくると、先生たちは下手に動いて
何かまずいことが起こるといけないからという
責任逃れの気持ちが働いてしまって、
専門家に問題を預けてしまうんです。
でもそれは子どもを捨てることだと私は思うし、
自分自身をも捨てることだと思う。

 子どもにとっては、毎日暮らしている学校、
そしてそこにいる友だちや先生たちが生活の場です。
馴染んだその場が依り処なのです。
その大切さが忘れられ、おかしいと思っても言いにくい。
「あなたが責任を持ってやって」と言われることが嫌なんですね。
「心の専門家」は責任を取ってくれるかのように
派遣されてくるのですが、そんなことはできない。
ずっと一緒に暮らすわけではないのですから。

 たとえ悩みがあって、それを子が親に
話さなかったとしてもそれでいいと思う。
むしろ話さないものです。子どもにもプライドがあるんだから。
だけど、なんとなく仲間と一緒にいれば、折りあいがついていく。
それを問題として取りだして、
こころの専門家に委ねることでねじれてしまう場合もある。
だから、子どもも、馴染んだ場所に
身を置いているということが非常に大事で、
学校の意味もそこに尽きるんです。
「学校のいいところ」という詩があります。
運動会のような「晴れの日」も大事だけれど、
ベースになるのはいつもの暮らしなんですね。

(『同朋新聞』東本願寺発行 
2010年10月号より抜粋して掲載しました)

 本当の意味で「子どものため」になることとは何か…
専門家に頼ることではなく、いつもの「場」の中で
一緒に過ごし考えることが大切なんだと、
あらためて教えていただいた様に思います。

学校のいいところ
相談にのってくれる先生や友だちがいる
いつもの教室
いつもの勉強
いつもの中休み
いつものことを
いつものように
いつもの通りに
全部がいつもあるから学校に行ける
けんかがあっても、いじめがなければ大丈夫
いつものことがこわくなると
学校には行けない
私はいつものことが楽しいから
学校に行ける

今日も快晴!? 2010年11月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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  子どもを授かって嬉しいことの一つに、
絵本の楽しみが増えたことがあります。
図書館などで絵本を手に取ると、
(あ~懐かしい!これ昔好きだった~。)
(そうだそうだ!思い出した!)と、
次から次へと昔読んだ絵本が発掘され、
懐かしさと嬉しさでついつい読みふけったり買い込んでしまったり。
そうかと思うと、新しく発行された絵本の中にも
素晴しい作品がいくつもあり、子どもに読みながら
(うわっ!これ、ものすごく良い話~!)と感動したり、
「ごめん!お母さん悲しくて悲しくて泣けてきた~!」と
涙を流しながら読んだ絵本が何冊もあります。

 最近、福音館書店の相談役をされている
松居直さんの講演会を聞く機会がありました。

 絵本を知り尽くした松居さんのお話は本当に素晴しく、
温かな人柄と、豊かな知識と、
自らの子育ての経験など交えながらのお話は、
徹底して「言葉」へのこだわりがあったように思えました。

  「テレビから出るのは、機械音、騒音です。
もちろん、私もテレビは大好きですが、
日本の子どもは生まれたときからテレビ漬けになってしまっている。
人間の言葉は、心が通うんです。
・・・今の子ども達は、自分の目でちゃんと物を見ていない。
1日の空の動き、木や葉の移り変わり、雨の降り方・・・
子どもと一緒に見て下さい。
家庭での日常生活の中で、言葉を豊かにする。
そのために、いつも絵本が
家に子どものそばにあるというのは素晴しいこと・・・」

 「読書というのは、言葉の世界にどれほど深く入り込むか・・・
字を読むのは技術です。しかし、言葉の世界に深く入り込むには、
耳からはいる言葉の経験に勝るものはありません。
耳から聞いた言葉は、心に残るんです。」

 「今の子どもは、知識や情報は持っているが、心が育っていない。
そういう人は大抵仕事が出来ない。
人の話が聞けない。人と心が通わせられない・・・」

 「皆さんは、おうちでどういう言葉でお話されていますか?
大人が豊かな日本語を使わないと、子どもの言葉は育ちません。
また、大人も子どもの言葉をよく聞かないといけない・・・」

 自分が日常生活の中で、
どういう言葉を子どもに聞かせているのか、
本当にお恥ずかしいものだなぁ、
子どもに申し訳ないなぁと思えました。
また、自分が子どもに絵本を読んでやれるのは、
家族の色々のサポートがあり、
読んでやれる時間と心の余裕があるからだと思えます。
自分がもし核家族で、旦那さんが
仕事で会社に取られっぱなしだったら、
きっと絵本どころじゃなくなってしまうような気がします。
同居には色々難しい面もありますが、
家族が多いのは本当にありがたいことだと思います。

  最後に、
「赤ちゃんが育つとき、お母さんが幸せでなければいけません。
そして、それは亭主の責任です」
これは、全国のお父さんたちに是非伝えたいと思います(笑)。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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