清風 2011年1月

テーマ:清風 【住職】

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今ある自分は かつて求めた 自分である -安田理深-

仏成道歴2439年 元旦

本年も どうぞよろしくお願いします。

『正信偈』のはなし 2011年1月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教
偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 
報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 
我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 
大悲無倦常照我

 「源信、広く一代の教を開きて、
ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、
常に我を照らしたもう、といえり。」

 今回から浄土について記そうと思います。
浄土というと、西方とか死後とか、
現代でも輪廻転生という言葉と共によく使われるようになりました。
輪廻転生という言葉が、今でも影響力を持っているなと思わされ、
意外な感を持つことがあります。

 テレビなどの番組で霊感者と称する人が、相談者に向かって
「3代前のおばあちゃんが成仏していなくて、
あなたに取り憑いている」などと言い
「供養するように」などと、
白昼堂々とお託を告げている番組が放送されています。
テレビはなんと言っても視聴率が番組制作者にとって
一番の目安ですから、
この手の番組が繰り返し放送されているということは、
それだけ視聴率を稼げる番組だということでしょう。

死後の世界、それも自己の人生の罪福を左右する存在
-亡くなった人が
「あの世」にいると信じられているということでしょう。
 自己の人生について責任主体として生きられない
現代人の孤独というか、本当に困った時に相談できる、
自分の弱みも安心して相談できる人が
いないという孤立しているあり方、
つまり、虚勢を張って生き、他人には弱みを見せられない不安が、
こうした番組を何度も放映される理由なのかと思われます。

人間の知恵の持つ闇が、テレビ制作者とCM提供企業によって
もてあそばれているということは、
こういう不安に現代人が出口を持っていないということでしょう。

 人間だけが言葉を持つということは、
天国とか地獄とか浄土などの言葉によって表現しなければ、
この世を生きることができない、単に食べて生きるだけではすまない、
意味ある人生を生きたいという深い欲求を持つようになった
ということなのでしょう。
自分の生き方・姿勢を相対化できる視点を持たなければ、
本当に生き生きと生きる事はできない…
それが浄土の建立が要請されてきた理由だと思います。 

お庫裡から 2011年1月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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新しい年を迎えるにあたり、
これからいよいよ老齢という未知との遭遇が始まるのだと、
しみじみ思われます。
先日も、年齢を記入する書類に、無意識に34と書いており、
「エー、私って何考えていたのかしら」
と自分で自分の書いたものにびっくり。
ああ、自分のことは、本当にいつまでも若いつもりでいるのだと知らされます。

そんな私の日常生活では、めがね、手帳、キー、財布、携帯と、
探しまわらぬ日とて無く、この時間さえなければ、
一日がもっと有効に使えるのに、と溜息しきり。
字を書けば、誤字、脱字。
書いている途中に手が止まると、
今、書いている字が本当にこんな字だったのかどうか、
まったく自信がなくなる。

花の名、人の名、地名等、よーく知っていたつもりなのに、
あれ、あれ、ほら、あれよ、知らない、あれ。あれしか出てこない。

庭掃除をしていても、家の中にいても、何で転んでしまうのか。
スローモーションのように尻もちをついたり、倒れたり。
時には派手に大転びをして、青あざの無い時がない。

全て、加齢現象によるものに違いないのに、
その全部をたまたまのこととごまかし、受け取れない自分がいる。
そして私は、まだまだ若くて元気と、自分に発破をかけている。
それにも限界がある。ありのままを受け入れます。
身が受け入れていることを私とします。
そして、その中でできることを見つけ、それを喜びとします。
南無阿弥陀仏。

今月の掲示板 2011年1月

テーマ:今月の掲示板

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 帰るところがあると思うからこそ
安心して旅行にいける。

浄土は、仏さんによって建立された。
その建立の意味は、私の未来に心配がなくなること。

未来というものがあきらかになることにおいて
はじめて、現在というものが本当に頂ける、今を生きていける。

いのち終えて、死んだらどうなるか。
こういうことを問わずにおられない存在が、
人間存在なのです。人間だけの特権(功徳)なのです。

人間という存在は、
常に、死から、未来から、問われ続けている。

いのちある限り
依りどころであるものこそ
このいのち終えて、帰っていけるところなのです。

依りどころであるところと
帰っていけるところが一つである。
それが南無阿弥陀仏。

今が大事、今が大事。
そう言えるのは、未来があきらかになったから。

死に向かって進んでいるのではない。
今をもらって生きているのだ。

稲は、稲を成就して米にならなければ満足できません。
人間は、人間を成就して仏にならなければ満足できない。

本堂に座って 2011年1月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 ある環境問題に関する本の中で、
「すべての戦争は資源の奪い合いで始まる」
(『地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか』田中優 著より)
という言葉を目にしました。
いろいろな大義名分を立てて戦争を始めるのですが、
実際は、石油や天然ガスなどの資源を確保したいという本音が隠れているということなのだそうです。

では、戦争をなくすにはどうしたらいいのでしょうか? 
この本ではエネルギーの源を化石燃料から
自然エネルギーに替えることを教えてくれていますが、
そうではなくて、私たち自身の価値観や意識を
見つめ直してみる方法を書いてくださっている文章があります。

 戦争と自殺は、人間の愚かさが持っている裏表
と言ってもいいと思います。
自分の都合に合わなければ、結局は、自分が死ぬか他人を殺すか、
というようなことにしかならないのですから。
自分の都合を絶対化した考え方の究極は、
戦争になるか自殺をするかのどちらかです。
だから戦争と自殺という人間の問題を超えるには、
究極的には、自我という自分の都合をどう超えるか
という問題ではないでしょうか。

(中略) 戦争や自殺の究極的な課題は、人間の外の問題ではなくて、
人間の自我の持つ反省が届かないほど
深い人間の自己執着にあるのではないでしょうか。
とすると戦争や自殺の問題を、
外の条件によって無くそうというような考え方は、
もうお手上げ状態になっているのでしょう。
(中略)外の条件を整えて戦争や自殺を超える道は
もう閉ざされています。

もし、戦争や自殺を超える可能性があるとすれば、
人間の自己執着を内に超えていく
仏道だけしか残されていないと思われます。
 人間の問題の最も深い根源は、
人間の自己執着と一つになっている都合です。
生まれてから無意識に作られていった人間の都合が、
本当に正しいのかどうか。
そこに焦点を当ててみましょうというのが、
お釈迦さまの仏教の考え方です。
自分の都合に合わせて外側を変える
という考え方があって当然ですが、
その都合が、本当に正しいかどうかを
尋ねるという考え方も、またあって当然ではないでしょうか。
生きていく主体に合わせて外側を変えるのではなくて、
主体そのものを問うという考え方です。

 それを内観道、あるいは仏教というわけです。
したがって、仏教は自分の都合に合わせて
いろんなことを考えていくのではなくて、
人間の都合は本当に正しいのかどうか、それを問うのです。
人間の無意識の都合を問うて、
生老病死の苦しみがどこから出てくるのか、
それに目覚めて、生老病死の苦しみから
自由になろうではないか。
こういう方法なのです。
(『今、いのちがあなたを生きている』東本願寺発行 延塚知道 著より     
抜粋して掲載しました)

 自分の思い通りにするためには人を傷つけても構わない、
という考え方の究極が戦争なのでしょう。
都合の悪い相手を力で変えるのではなく、
自分の都合そのものが本当に正しいのかを
見つめ直してみることは、国同士だけでなく、
身近な人間関係の中でも、とても大切なことだと思います。

今日も快晴!? 2011年1月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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 毎月1回不定期に活動している「守綱寺子ども会」ですが、
12月の活動の中で、こんな出来事がありました。

その日1日の活動を終え、
夕方近く居残りの数名でまったりと過ごしてた時のことです。
突然、うちの開(2年生)と、3年生のJ君の間で、
取っ組み合いの大げんかが始まりました。
急な出来事で、その場に居合わせていた私も
J君のお母さんも原因が分からず、
呆気にとられてしばらく様子を見ていましたが全く勝負が付きません。

 これでは埒が明かないと
「ちょっと待った。一旦お仕舞い。一体何があったの!?」
と二人を引き離して理由を聞くと、どうやら何かの遊びを始める際に、
J君がルールを一つ伝え忘れてしまったようでした。
開「最初から言えよ!」
J君「だって。必要ないと思ったんだもん」と、
きっかけは本当に「なんだ?それ(笑)」と言うくらい些細なことでした。

 しかし、また二人とも収まりが付かない様子だったので、
「分かった。じゃあ相撲で決着を付けなさい!」と、
仕切り直しをさせました。
これもまたなかなか勝負が付かず、
相撲からレスリングのような体勢になり、
すったもんだで再び10分以上も勝負が続きました。

 考えてみたら、開は生まれて初めて真剣に相手に挑み、
勝負をした瞬間でした。
いつもは穏やかな草食系?で、
お友だちと喧嘩をした経験など一度もなく、
弟の誓と喧嘩をしても、2歳の差は大きく、
それなりに手を抜いたり適当なところで
勝負を切り上げたりしていたと思います。
J君はもちろん学年も上だし、体格差も歴然としているので、
本気で開をやっつけようと思えば、
勝負はあっという間に付いたはずでした。

しかし、J君も普段はニコニコ笑顔が印象的な
とても心根の優しい男の子で、猛々しい所などまるでありません。
(これ以上やったら、相手に怪我をさせてしまうぞ)と、
様子を見ながら、それでも真剣に勝負を受けて立ってくれていました。

汗だくになり、つかみ合い、転げ回ってにらみ合う二人の姿に、
居合わせた親同士は、「うちの子のこんな姿は初めて見た!」と、
我が子の知らざる一面に大いに驚き、
成長を喜び、共に感動していたのでした。
 結局勝負は付かなかったので、
最終的には、開の足の指からほんちょっぴり血が出ていることを見つけて、
「待て待て!怪我をしているよ。もう止めよう!」と
二人を引きはがし、開の小さな怪我についてJ君が「ごめんね」と謝ってくれて、
開も「いいよ」と小声でぼそっとつぶやき、勝負はお開きになりました。

 思いきり体を動かしてすっきりしたようで、
開は夕食の席で「今日は真剣勝負だった。男と男の戦いだった」と、
満足げに話していました。
子ども達の人間関係の希薄さが問題になっていますが、
恐らくこういう経験を出来ることが少ないんだろうなぁと思います。 
丁度1年前に活動が始まった「守綱寺子ども会」ですが、
学区も年齢も違う子どもが集まり、
時には寝食を共にしながら様々な体験をする中で、
子ども同士も自分の感情を遠慮無くぶつけることが出来るくらいうち解けてきたのだと思います。

とにもかくにも、集まれる「場」があり、集まる「人」がいるというのは、
本当に素晴しいことだと思います。
「お寺が身近になった」「ここに来ると、ホッとする」
そんな声を聞く度に、嬉しい気持ちで一杯になります。
お寺は、可能性が一杯があって、本当に楽しい場所だと思います。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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