清風 2011年2月

テーマ:清風 【住職】

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<自己の躓(つまず)きの石は自己だ 怨みようもない(毎田周一)>

天命に安んじて人事をつくす
      清沢満之(1863~1903)

 普通には「人事を尽くして天命を待つ」という。
「天命を待つ」とあるけれども、実際はどうであろう。
事がうまく運ぶことが前提とされていてのことであろう。
例えば受験ならば、勉強をしっかり行って
(人事を尽くして、の意であり)、
合格を待つということは「天命を待つ」と同じ意味のことと言えよう。
 しかし、冒頭の言葉はそういう意味で言われているとは思えない。

「天命に安んじて」とは、受験の結果に
合格・不合格のあることを承知して受験する私が、
天命を決めるのではない、ということが表明されている。
「人事を尽くして」という立場は、
天命をこちら(当事者)が決めようという立場である。

 考えてみると、合格・不合格はレッテル、
合格は善・不合格は悪というのは評価である。
合格・不合格というレッテルと自己が同一化してしまっている。
つまりレッテルは、たとえて言えば、着物であって私自身ではない。
ところが私どもは、いつでもこの着物を
自己と同一化してしまう思考に陥っている。
簡単に言うと、自分にとって有効と思われる着物はいただいておこう、
有効と思えない場合は自分のものとはしたくない、
ということに違いない。
合格は自慢できる、不合格は劣等感に苛まれるとでも言おうか。

 人が生きるということは、外からのレッテルを免れることはできない。
それは、抽象的に生きているということはあり得ないからである。
 「天命に安んじて」とは、生きることの全てが、
それがどんな生き方であっても、
私の生き方として受け入れられる人生がある
という座・視点・立場に気付けた人がいたという証といえる。

 俳人・一茶に、
「下々の下々 下々の下国の 涼しさよ」という句があったことを思う。

『正信偈』のはなし 2011年2月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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「生きていてよかった」といえる人生を生きる 
-『正信偈』のはなし No.184

源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

 地獄について詳細に書かれている
源信僧都の『往生要集』によれば、
地獄は八つに分かれ、地下(一千由旬)にあるとされています。
最初の地獄は等活地獄、順に下へ、
黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間の、
それぞれ地獄が存在すると書かれています。当時の人には、
生きている時にどんな生活をしていたかによって、
地獄が決まると考えられていたようです。

しかし例えば、等活地獄へ行く者は
「害心をいだける者」というのですから、
現代の生活状況からいえば、被害者意識に苛まれている者、
つまり、自分の人生を振り返って
「私の人生でありました」と受け止められず、
加害者探ししかできない人ということでしょうか。

 「誰でもよかった」と言って、繁華街の道路にトラックで突っ込み、
多くの死傷者を出した事件がありました。
自動車が運転でき、そしてレンタカーを借りられたのですから、
それだけの能力と健康を他に振り向けようと
少し想像力を働かせられなかったかと、
残念に思われてなりません。

無間地獄(阿鼻地獄ともいう)について、そこに行く人は
「我、今帰する所なく、孤独にして同伴する者なし」と述べています。
地獄についてこのように書かれてあるのは、
孤立無援…地獄とは人間(人=間)でありながら、
人との関わりが開けず同伴する者がいない、ということでしょう。
これは、誰でもお互いが
「生きているということは、お世話になって生きている」のだという
人間であることの事実を忘れさせてしまう、
人間の知恵の限界のようなものを言い当てているように、
私には思われてなりません。
決して私は見捨てられているのではないのです。

 自分のことは自分が一番よく知っていると思っています。
それは怪しいのだと、まず気づかされること、
それが源信僧都の意図であったように思うのです。
地獄とは、邪見の人(自分を見る鏡を持たず、正気に戻れない者)、
他ならぬ、私どもが作り出している世界であったのです。

お庫裡から 2011年2月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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この度、インドの北、ヒマラヤ山脈の山懐、
6000m級の山は山ではないと名前も付けてもらえない山あいの国、
ブータンとネパールへ9日間の旅をしてきました。

ブータンは、国民の幸福度(GNH)が世界一、
仏教が国教という国で、面積は九州をやや小さくした広さ、
人口も少なく、日本の着物のようなドテラのような民族衣装、
顔も日本人ととてもよく似ていました。
平地というところがほとんどなく、渓流に沿って棚田が作られ、
民家が点在しています。
各家には立派な仏間が作られており、様式は違っても
何代にも渡って仏さまを中心に生活してきた日本の生活が偲ばれ、
どこか懐かしい、ゆっくり、ゆったり、ゆたかに、が信条の国でした。
ネパールは首都のカトマンズに行ったのですが、
ここは人、人、人、インド系、チベット系、パキスタン系、
色々の民族の顔であふれかえっていました。
道という道には、車・バイクがあふれ、先を争って、
右に左に車線を変え(対面二車線幅の舗装道路に三台が並ぶ、
当然対向車線にはみ出す)、かえって渋滞を呼び、
また、渋滞の車・バイクを縫って人が横切る、
まったく無秩序としか思えない。
しかし、ガイドは「この国では交通事故がありません」という。
(渋滞で速く走れないし、接触は事故ではない)
両国共に、GNP世界のトップを争う国に住む私たちから見れば、
大変に貧しく、私たちの持つ常識が通用しない。
しかしそうであるが故に、常識とは何か、
豊かさとは何か、という大きな問いをいただいて帰りました。

のどかなり蕎麦に菜の花龍の国    冬の陽や眼下に連なる大雪山
学童が馬子なり巡礼冬山路      貧しくも足を知りたり冬籠り
落氷の音響きおり山の寺       旅終えて交す杯冬の月

今月の掲示板 2011年2月

テーマ:今月の掲示板

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自己を狂わせ迷わせる敵は 内にある  安田理深

いらないものを持っているから 人間は流転する  安田理深

自己だと思っていたのは 自我であった  安田理深

念仏は 自我崩壊の音である  金子大栄

嫌いな物が多くある人ほど 知識の狭い人である  清沢満之

人生に行きづまりはない。
行きづまるのは、わが思いである。

わが身には 先祖の願いが流れている  曽我量深

木枯しの果てはありけり海の音  詠

海に出て木枯し帰るところなし  誓子

難聴  榎本栄一
 この耳は なが年 人のいうことをおろそかに聞いた耳です

諸国巡礼 榎本栄一
 この二本の足がまだうごいて たどりついたところが
 モッタイナイという国の入口

本堂に座って 2011年2月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 1月は僕(14日)と開くん(24日)の誕生月でした。
ふと、以前読んだ『お誕生日おめでとう 生まれてくれてありがとう』
という本のことを思い出し読み返してみましたが、
この中には、あらためて教えられる大切なことが書かれていました。

 世の中に尊くない人は一人もいないのです。
世の中にどうなってもいい人は一人もいない。
捨てられていい人は一人もいない。
イラクをアメリカが攻撃するということがありました。
けれども、世界中に、殺されて当然だという人は一人もいないのです。
殺す権利を持つ人もいません。
殺してしまった人も尊い人生を生きているのです。
殺された人も尊い人生を生きていたのです。尊い人同士なのです。
いじめられていい人は世の中に一人もいません。
誰かをいじめていい人も一人もいません。
差別されるべき人もいなければ、差別して当然だという人もいない。
どの人の、どの人生も皆尊い。
他の人と比べて尊いということではなく、
あなたのそのままで尊いということです。

 仏教のお話では、よく
「ただ生きているんじゃない、生かされて生きている」と言われます。
それはその通りですが、私たちはそれと同時に
「(誰かを、何かを)生かして生きている」とも思います。
つまり、私はこの世に必要なのです。存在に意味があるのです。
どのいのちもそうなのだと思います。
親子においても、子は(宿った時から)親に生かされ、
親を生かしています。
親は子に生かされ、子を生かしています。
もちろん、親子以外にもあらゆるいのちとの「無量」の関係があります。
私を生かし支えているいのちと、私が支え生かしているいのちと、
共に大事に生かし合って生きなければなりません。
私たちのできることには限りがありますが、
それぞれの苦手と得意を組み合わせると、
不思議とうまくいくものです。
支え合い語り合いながら、共に歩みを進めましょう。

 「お誕生日おめでとう 生まれてくれてありがとう」。
私の身近な人だけでなく、過去現在のあらゆるいのちから、
そして仏さまから、この私に呼びかけられています。
同時に私もあらゆるいのちに向かって呼びかけたい。
私が生きているこの世界は、
「おめでとう、ありがとう」と、いのちがお互いに認め合い、
尊び合う世界であるのに、私は、そのいのちの呼応に気づかず、
「私の知恵」で「私の都合」を満たそうともがいています。

ちょっと立ち止まって、お茶か水でも飲んでひと息ついて、
私は「おめでとう、ありがとう」のいのちの世界で生きていたんだと、
気づき直してほしい。
そして、あらためて、自分と周りを見回してみましょう。
ちょっとうれしくなってくるかもしれませんよ。
(『お誕生日おめでとう
生まれてくれてありがとう』                         
東本願寺発行 真城義麿 著より抜粋して掲載しました)

 得意なことも苦手なこともそのままに見せてくれている開くんは、
毎日元気に登校していて、
まだまだ深く悩んでいる様子は見られませんが、
いつかこんな話が響く時がくるのかな…? 
今年の誕生日、開くんには「お誕生日おめでとう、
生まれてくれてありがとう」の言葉をプレゼントしました。

今日も快晴!? 2011年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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 年末に学校の懇談会がありました。
私自身は、子どもに関して何も問題だと思っていることが無く、
むしろ以前に比べて交友関係も盛んだし、外遊びもよくするし、
本も好きだし、何も相談することないなぁ~と、
のんびりした気持ちで教室に足を運びました。

 一通りあれこれ学校での様子を聞いた後、
私が「特に何もないです。ではこれで」
と席を立とうとすると、先生の方から、
「では、お母さん・・・。開くんのなわとびを何とかして下さい!」
と真剣な顔つきで言われてしまいました。
「・・・はぁ?」。
薄々勘づいてはいましたが、
どうやら開の歌&運動はかなりレベルが高い(!?)らしく、
先生曰く、
「惜しいです。そこさえ何とかなれば、『何の問題もない、素晴しいお子さんです!』
と言えるんですけど~・・・。」と、
非常に残念そうな顔をされてしまいました。
運動や音楽のセンスは、
学校の先生に相談してもどうなるものでもないし、
懇談会の話題として取り上げる気持ちも無かったのですが、
ここまで真剣な顔で話をされては、
こちらも平静な気持ちではいられません。
(そんなにひどいんだ・・・)と、
すっかりブルーな気持ちで教室を後にしました。

 帰る道すがらこれまでの育て方を振り返ってみては、
(もっと早くから体操教室やヤ○ハのピアノ教室にでも通わせるべきだったのか・・・。
そういえば開は、「外遊び」と言っても、どんぐりを拾ったり、
ダンゴムシを捕まえたりと、動き回る遊び方じゃなくて、
じっと観察系だったよな~。
どんなに外で遊んでいても、あれじゃ運動神経は育たないよね~。
外遊びも大事だけど、もっと早く何とかしてやった方が良かったかなぁ)
と反省したり悔やんでみたり。
(でもな~、元々インドア派なのは分かっていたし、
運動よりレゴや工作や本の好きな子だっているよね~)と、
開き直ってみたり。母親とは仕方のないもので、
久しぶりに心に大きな波風が立ってしまいました。

 そして冬休みに突入しました。
その日の午前中は、除夜の鐘の準備のためにお檀家の方たちが集まって下さり、
子どもたちは外で一緒に穴を掘ったりたき火を見たりしていました。
私は(これ幸い!)と台所の大掃除に取りかかり、
「邪魔だから、今日は家に入ってきちゃダメ!
1日外で遊びなさい。」と、子どもたちに帰宅禁止令を出しました。
午後になり、開が「焼き芋がしたい!」
と玄関に駆け込んできましたが、
新聞とアルミと芋だけ渡して、「自分たちでやりなさい!」と、
丸投げしました。

 ようやくこちらも一段落して、
(多分子どもたちだけじゃ出来ないよね~。どうなったかな?)
と外にのぞきに行くと、諦めて他の事をしていると思った子どもたちが、
火のそばに座り、焼き芋を頬張っているではありませんか!
(そっか、自分たちで全部やれたんだ!)と、本当に驚きました。
大人抜きでやらせたのは初めてだったのです。
3人とも、手や頬やあちこち炭で黒くなり、靴は灰で真っ白です。
薄汚れた子どもたちの、美味しそうにお芋をかじる顔を見ながら、
本当に本当に感動してしまいました。
そうだそうだ。自分が育てたいのは、こういう子どもたちだった。
お稽古ごとよりも、外で自由に遊ぶ時間を大切にしたい。
子どもの時には本当に子どもらしい経験を積ませてやりたい。
与えられたことだけしか出来ない大人になるより、
自分たちで考えたり工夫して問題を解決出来る人に育って欲しい・・・。
なぁんだ。期待通りの子どもたちに育っているじゃない。
運動も歌も、出来ないよりは出来た方が良いけれど、
まぁいっかと思えました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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