清風 2011年5月

テーマ:清風 【住職】

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<においたつ 春のけはい たゆたいて 震災の町に 梅の花咲く
                               (朝日歌壇より)>


 ①真理は一つである。その真理を知った人は、あらそうことがない。
 ②我は王国を望まず 救いを望まず また天国を望まず。
   我が願うは抑圧されたるものと貧しきものの
   困苦の取り去られんことなり。

    ①スッタニ・パータ』(法句経) … 釈尊の言行録
   ②ガンジー(1869~1948)… インド独立運動の思想的指導者。
                      非暴力的抵抗を運動のモットーとする。


 東日本大震災の災害規模の
全容がはっきりするにつれて(特に福島の原発事故の発生)、
誰もが今まで当たり前のこととしてきたことが、どうも違うのかもしれないと、
自己の人生観を揺さぶられる経験にまでなってきている感を受けます。

 進歩・進化という便利さ・快適さを追っていくことの
ほころびがあちこちに見えてきていた
-自殺者の数、不登校生徒の数、孤独死などを生んでいく無縁社会など-
つまり、これが戦後追い求めてきた
豊かな生活というものの実質であったのかという、
豊かさの内容についてです。
人間をバラバラにし、孤立化させていく…
これが求めてきた豊かさというものであったのか
という感じとでも言ったらいいのでしょうか。
特に、先進国と言われる国が目指している
経済発展(GNP)のみを国の指標とする
(そして、その経済の成果を軍備競争に費やしていくという)あり方について、
我が国は先頭に立って今回の災害をきっかけとして、
出直す絶好のチャンスを与えられたというべきではないかということです。

 そのためには、1度戻らねばならないと思います。
世界精神の発露とも言うべき、あの「日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した」
とうたいあげた憲法前文の願いと、
この志願に導かれておかれた「戦争放棄」(第9条)をこそ決意したあの時に。
その時こそ、日本は地球を自己とする国に
生まれ変わっていくに違いありません。
その精神を、上記に挙げた釈尊とガンジーのことばに思います。
 広島の爆心地には、国境のない地球が描かれた梵鐘があるのをご存じですか。
福島原発の事故が何を暗示しているかを示すものというべきでしょう。

『正信偈』のはなし 2011年5月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

 源信僧都の明らかにしてくださったことは、
広く宗教(を信じること)に対して人間が持っている強固な執(とらわれ)であると言えるでしょう。
それは、功利性の追求、世にいうご利益を求めるという行為についてです。
1面で述べたことで言えば、進歩・進化が結局のところ
便利さ・快適性の追求にあるという事実にも示されています。
 さて、いうまでもなく、宗教を功利性から考える
(癒されるとか心が落ちつくなどと表現されている宗教観も含めて)
人が圧倒的に多いのではないでしょうか。簡
単に言えば、当面している私にとって、
事態が都合の良いようになることです。
受験生の親ならば、合格することが救いでしょう。
神様にお願いして合格したとすると、受験に関してはそれでいいのですが、
人生は1つ済めば次にまた1つ…
と新しい状況に出会っていかなければなりません。
都合を頼む姿勢は変わらないので、次の新しい状況に対しても思い通りにしたいと思えば、
また別の神様に頼まなければならなくなります。
というわけで、この功利性の追求が、
執(迷い)の連鎖を作っていくことになります。
そしてついには、先祖の祟りなどと言い出すのです。
私どもは、とにかく思い通りにしたいので、
手っ取り早く先祖を持ち出します。
先祖のおかげは、思い通りにならなければ容易に先祖の祟りになります。
 この繰り返しによって、結局自分(私)が
人生の主人公として生きるという手応えを得ることなく
人生を生きることになってしまうのです。
当然、空しい・充実感がないという空虚感を生きることになります。
報化二土(報土・化土)を分けられたということは、
自己の功利性に気づかないで救いを求めることが
迷いであると教えられていることだったのです。
功利性の救いを求めていたと気づく、
そこから初めて幸も不幸もその全体が私の人生であるという生活が始まる-
そのことを「大悲無倦常照我」と言われるのです。

 

お庫裡から 2011年5月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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   今年で7回目を迎えた花まつりチャリティ筍コンサート、
当日はお天気に恵まれ、桜も満開の中、
本堂にあふれんばかりの人々を迎え、開催させていただきました。
高橋誠さんのヴァイオリンに魅せられ、
東北支援のお気持ちがバザーの売り上げを伸ばし、
誠さんもCD売り上げの2割を出してくださり、当日は来られなかったと、
後日志を出してくださる方もあり、お志も合わせて純益が133,616円という額になりました。
それに住職から50,000円、私も少々足して190,000円にして、
東本願寺の支援窓口に届けました。

コンサートを内から支えてくださる方、足を運んで支えてくださる方、
本当に皆様のお力のお陰です。本当にありがとうございました。
「人を支えるということは、人に支えられること」
 メディアを通して知る被災者の方々の言葉は、
こちらにハッとする気づきを与えてくれます。
被災直後の中学生が避難先の体育館に書いたという
「いのちあることを よろこぼう」。
同じく女子高生がマイクを向けられて
「こんな目にあって、今まで普通にしていた生活がどんなに幸せなことだったのか、はじめて気づいた」。
ラジオから流れた「天を怨まず、生き残った者は、力を合わせ、
亡くなられた方の分も、一生懸命生きていきます」。
これらの言葉は、南無阿弥陀仏が平明な言葉となって表現されているように私には感じられます。
だから、どの人の心をもゆさぶる力を持っているのでしょう。
 人間って、捨てたものではないなー。この2ヶ月の私の感想です。
この震災を、日本人の人間性の回復のチャンスにしなければと思います。
その中で、原発事故、放射能汚染は人間のおごりの結果と受け止めています。
しっかり見続けていかねばと思います。
そしてまた来年もチャリティ筍コンサートが開催できますように、
と念じているのです。

今月の掲示板 2011年5月

テーマ:今月の掲示板

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  人を支えるということは
  人に支えられること

  生きて 存在することに
  大きな意味がある
  今、やっていることに意味がある

  言葉は大切です。
  しかし、その言葉が生み出した
  背景、願いを見失ったら
  コンクリートのように冷たいことばになる

  死とは、
  その時まで生きるということ

  点としての死はなく
  生の中に死は内在している
  だから、今「どう生きるか」が
  とても大切

  「がんばる」とは
  「頑張る」ことではなく
  眼張る(目配りする)こと

  介護、育児は眼張ること
  まわりを見て、人と比べ
  負けないように、しっかりやっていくことではない。

  社会的関係
  家族的関係
  自分自身との関係
  これらはみなかけ算
  何かが0(ゼロ)になると、人間になれない

  “人間”に向かって
  進歩してきた人が
  自分の中の“生きもの”に
  反逆される

  マニュアルの行動と
  痛みを感じた行動は
  全く違う

  本来痛みがあってマニュアルが出来ているのに
  痛みを感じられない 単なるマニュアルになっていないか?
  マニュアルが生み出された背景が 大切

本堂に座って 2011年5月

テーマ:本堂に座って 【若院】

 

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 大震災の後、いろいろなところで
「生活を見なおそう」という声が聞かれる様になりました。
身近なところでは、節電・余分なものを買わない…
といったところでしょうか。
しかし、我慢や無理をしながら、というのはなかなか長続きしないものです。
そんな中、生活を見なおす前に、まず自分を見つめなおす、
そんなことを考えさせられる様な文章に出会いました。

 仏教では「天人」は、なおいっそう深い迷いの世界を意味しています。
天人のように環境条件に恵まれるようになると、
かえって深くなる苦悩や迷いもあります。
天人は、自分の周囲が、自分の都合に合うように整っていることが標準と考え、
あらゆるもの・ことは思い通りになっているのが
「当たり前」と考えるようになりがちです。
すべては自分に都合よく準備され、
不快なことも不便なこともあってはならないと。
そこには、感謝も痛みも喜びもありません。
他人と同じかそれ以上にそろっていなければならないと、
不要なものもそろえ、何か足りないものがあるのではないかと探し続け、
あらゆる情報を入手したくなります。
本当に欲しい物は思いつかず、何を得てもその喜びは一瞬で、
続くことがありません。
どこまでいっても不足感があり、失ったものを嘆くばかりです。

結局のところ「つまらない」「楽しくない」「退屈」で、
「生きている実感がない」となります。
 傷つく心配のあることには最初から近づかず、
リスクは負わず、だから驚きの感動もありません。
もっと「当たり前」の充実している他人を羨み、
不如意(※思い通りにならないこと)や苦労には価値を見ません。
心地よい結果だけを求めて、そのための準備や我慢や待機はできません。
本当のところは、感動も喜びも満足も、いちばんよく準備した人にもたらされるのです。

 半分あるのは、「ありがとう」の人には満足ですが、
「当たり前」の人には不満にしか見えません。
「当たり前」の人は、何が起こっても、最大でもマイナスがゼロになるだけですが、
「ありがとう」の人は、無限に喜びや満足が加わっていきます。
「子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、
いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである」(ルソー)と言われます。

 ある町の教育委員会が「かわいい子には□をさせよ」の空欄を小学生の親に問うと、
圧倒的多数が「楽」と答えたそうです。天人の環境を用意して、
実は多くの喜びや希望を奪っていることの罪を知らねばなりません。
「ありがとう」から「いただきます」
「ごちそうさま」「もったいない」が出てきます。
それが私たちを豊かにするのです。それをしないのは、
幸福になるのをあきらめてしまったようです。
(『あなたがあなたになる48章』東本願寺出版部発行 真城義麿著
-46「当たり前」の人と「ありがとう」の人-より抜粋して掲載しました。)

 「便利で快適」だと感じていた生活は、すぐに「当たり前」のことになってしまいます。
なんでも手に入り、楽ばかりしていると、
うれしさ・喜びが薄れていってしまうでしょう。
こうなれば幸せになれると思ってきたことが、
反対に幸せを遠ざけてしまっている…
そう感じる自分に気づいて初めて「生活を見なおす」ことが出来るようになるのではないかと思います。

今日も快晴!? 2011年5月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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 4月に次男の誓(せい)が小学校に入学しました。
毎朝お兄ちゃんと一緒に、ぶかぶかの制服にがぼがぼの帽子を被り、
ランドセルに背負われる感じで家を出ます。
家を出る前は、「箸セット入れた?」「入れた~」
「もう50分だよ!急いで急いで!
あれ?誓はどこ行った!?お~い。せいく~ん」
「トイレ~。うんち~」(・・・何で今頃・・・(-_-))
「(気を取り直して)行ってきま~す。」
「ちょっと待った~!!
どうして帽子が玄関に落ちてるのかな~!?」
「あ・・・」
と、毎朝嵐のようです。
しかし、8時前に子どもたちが家からいなくなり、送り迎えも無いって、
何て楽なのでしょう!
子どもが成長した喜びや、一人で学校に通う事への感慨と言うより、
今の私の気持を一番的確に表現しているのは、
「楽っくぅ~♪」の一言です。母親ってそんなものですね。

 さて、入園して1週間メソメソ泣いたり、
年長になってお友だちとクラスが分かれてしまい、
「子ども園全然楽しくなかった」と言う開に対して、
誓は登園を泣いて嫌がることもなく、
週の半分はお友だちと遊ぶ約束をして帰ってくるような子で
(ちなみに開は、年長時はお友だちと約束して遊んだのは年に3回くらい・・・)、
「集団生活に順応する」、という点では全く手の掛からない子でした。
小学校に入学してからも、「学校楽しい」「早く勉強したい」と意欲的で、
(今日は金曜だから一週間疲れたかな?家でゆっくりさせよう)
という親の心配を余所に、
「お母さん。今日○○くんのおうちに遊びに行く!」と、
飛び出して行ってしまいます。
 そんな誓ですが、学校が始まってからも毎晩明け方に起き出して、
「お母さん・・・」と、2階の寝室まで上がってきます
(我が家は、子どもは1階の子ども部屋で添い寝で寝かしつけますが、
子どもが寝たら2階の自分たちの寝室で休むことにしています)。
顔をくしゃくしゃにして泣きながら、
「どうしてお母さん、ずっと横で寝てくれないの?」、
「おっぱい触りたい。お腹触って良い?」
と、メソメソべたべたとまるで赤ちゃんの様です。
そうです。
誓は、声と態度の大きさに惑わされて大きな子のように錯覚してしまいますが、
中身はまだ幼くて幼くて、在ちゃんと同じように抱っこもおっぱいも必要なのです。
上がこうだから、下もこうだろう。泣かないから大丈夫、
という思い込みでほっておいてはいけないなぁと思います。
 「はい。誓くんおいでおいで」まずは布団に入れて、ぎゅっと抱っこです。
「学校で疲れちゃったのかな?」「うん」
「知らないお友だち一杯いるもんね~」「うん」
「何か嫌なことされたのかな?」「○○くんが××してきた・・・」
「本当、嫌だったねぇ。嫌なことされたら、『嫌だ』って言えば良いんだよ」
「ぼく、いわずにがまんしてる・・・」
「そう。我慢できる範囲のことは、我慢すればいいけど、
もし本当にこれは嫌だと思ったら、ちゃんと先生に言うんだよ」。

 誓をよく観察すると、自分より強い子にガツンとやられるとすぐクシュンとしぼんでしまったり、
自分から嫌と言い出せずに黙っていたり、意外と当たりに弱い小心者だったりします。
こんな誓が、新しいお友だちにもまれて、これからどんな成長をみせてくれるのでしょう?

※3月の絵本読み聞かせ会で子供服バザーを行い、
27、318円の収益がありました。
東日本大震災への義援金として、日本赤十字へ送らせて頂きました。
ご協力ありがとうございました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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