清風 2011年6月

テーマ:清風 【住職】

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<ほんとうは、不安に蓋してきたのかも 東海村の四季をめでつつ
                             (朝日歌壇より)>

 神も仏もないものか というところから
   人々は、本当の宗教を考えるようになるのではないですか
                              遠藤周作

初めてお仏壇を求められた際に、「お精入れ」をしてくださいと
お願いされることがあります。
仏壇を求められて行う「お精入れ」とは、どんな儀式をいうのでしょうか。
仏壇は、ご本尊を安置するところです。
本尊とは「本当に尊いこと」という意味で、「もの」ではありません。
「こと」とはハタラキを指す言葉であり、「もの」であれば、
その価値は純金とか木というように、素材が決定します。
その意味からいえば、「お精入れ」をするというのは
ご本尊に対してすることではありません。
これからご本尊をどういう姿勢でお参りするかを
決める儀式と言えるでしょう。

調子の良いときは先祖のおかげ、事がうまく運ばないと先祖のたたり、
という根性でしかご本尊に向かえません。
このような姿勢でお参りするのは、
先祖もご本尊も自分の都合のための小間使い過ぎないということでしょう。

そんな自己の姿勢に「お精入れ」をしてもらうのです。
仏壇(ご本尊)はいつ求めたらいいのでしょう、
という質問を受けることがありますが、
これは、こちらの心に本尊の意味を「お精入れ」できていないことを表しているのでしょう。

自分以外のものは、人であろうがものであろうが、
自分の思い通りにしたいという根性を正直に見つめ、
自分が何を本尊としているかを明らかにしてもらう
-それが仏壇をもうし本尊を安置する意味なのです。
このことが明らかにならなければ、
幸せにはなれても安んずることはできません。
これからあなたは何を本尊として生活していきますか、と問われています。

自分の都合・自分の思いを、
神よりも仏よりも確かなものとして握って離さない、
その根性にこれからも振り回されていきますか?

 

『正信偈』のはなし 2011年6月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

註)報化二土 … 報土と化土のこと
     報土 … 浄土のこと。仏の願に報いて立てられた土。
     化土 … 自分の思い通りになることが
           浄土だとの思い込みの作る仮想世界。
          有頂天、迷いの世界のこと。

経済学という学問が課題としているのは、
何が人間の幸福かということであるらしい。
例えば、AとBとどちらを選ぶかと聞かれてAと答えた人は、
Aの方が「効用」すなわち「幸福度」が高いと判断するから
-というわけである。

こういう考えに立つと、所得が高いほど選択の機会も広がるから、
1人あたりの国内総生産(GDP)が高い国で暮らす方が
「幸福度」も高くなると考える。
そこで、GDPの高さが国の目標になってくる。
現在の日本がそうであるように。
 
ところが、統計的にGDPの高さと「幸福度」の関係を見ると、
それほど単純ではなくて、
1人あたりのGDPが1万ドルを超えるぐらいから、
逆に国民の「幸福度」は低下する国が増え始めるという。
いろいろな要因があるのだろうが、幸福を求めない人はないわけで、
幸福にはなれても安んずることができぬ、
と1面でもふれたことを深めていかなければならないようだ。

人類は生命の進化した最後の相であると、
少なくとも人間は自己理解していることだけは確かだろう。
しかし、そこに思いもよらない落とし穴があったのではないか。
「選択の機会が広がる」から「幸福度」が高まるというのは、
その「選択の基準」が正しい(間違っていない)
としたところでのみ成り立つように思われる。

こうしてみると、「報化を弁立した」という文言は、
現代社会の依って立つ基軸の建て方そのものを問題にしているとは言えないだろうか。
  (この項つづく)
(『幸福の政治経済学』ダイヤモンド社刊 を参照しました。)

お庫裡から 2011年6月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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五月晴れと言うよりは、猛暑日となった5月21日(土)に、
孫2人が通う寺部小学校の運動会がありました。
開くん誓くんの張り切りっぷりに引っぱられ、
久しぶりに小学校へ出かけました。
学校を見渡せば、私が子育てをしていた頃と何も変わらず、
「ああ、ここは運動会でいつもお弁当を広げていた場所だ」等々、
昔が懐かしく思い出されてきました。
行き交うお父さんお母さんは全く見知らぬ若い人たちでしたが、
その人たちに混じって、「あっ!あの人は」「おっ!この人も」と、
昔見知った顔を見かけ、
みんなおばあちゃんになって孫の運動会に来ているという、
年月の流れに感慨深いものがありました。
さて、運動会の中身はというと、
運動音痴とこっそり異名をいただいている開くん。
クラス対抗リレーで、何と一番走者からバトンを受けてしまい、
私たちがハラハラ見守る中、次の走者にバトンを渡すまで、
辛うじて一番をキープして走れたことがトップニュース。

「ダンスもリズム感がねー」と母親は嘆いたけれど、
とてもきまじめに踊っていて、私にはほほ笑ましく写りました。
次は、「開くん程じゃないよねー」と家族の誰もが思っていた誓くん。
期待を背負いすぎたのか、「あれー」という結果。間違いなく、
走りののろい私の孫だったと再確認。
嬉しそうに笑顔を見せて競技している姿を見せてもらえただけで大満足。
真っ赤に日焼けして帰ってきた2人。
誓くんの声はすっかりかすれきっています。
きっと持ち前の大音声で、はりきって応援したのでしょう。
「誓くん、将来は応援合戦のリーダーだね」と母親。
「ほらほら、すーぐ先を読んで、おかーさん」。楽しい運動会の一日でした。

今月の掲示板 2011年6月

テーマ:今月の掲示板

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  このままのぼくでは駄目なの
  ありのままのぼくでは愛してくれないの

  思い通りにならない時こそチャンスだ
  「本当のもの」と出会えるのだから

  いい所も悪い所も、まるごとあなたじゃないですか。
  それを引き受けて生きていけるかどうか
  それは、あなたの問題です。

  本物の鬼は
  人間の面をかぶっている

  私達は、明日が目的になって
  今日を明日の手段・方法にしてしまっている。


  幸福になる準備ばかりで
  一度も幸福を生きたことがない

  針を踏んで痛む足が
  アリを潰して平気だ。
  身勝手な被害者。

  人生に絶望はなし
  いかなる人生にも決して絶望はない  中村久子

  私を救ってくれたものは
  手足のない私の身体であった。
  逆境こそ私の善知識であった   中村久子

  神仏に
  「私の手足を元通りに治してください」と祈ることが
  決して宗教ではございません。  中村久子

本堂に座って 2011年6月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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最近、かいくんが学校から手塚治虫さんの
『ブッダ』を借りてきて読んでいます。
僕も読んだことがなかったので、一緒になって読み進めているのですが、
今までに読んだお釈迦さまの伝記とはちょっと違った切り口で描かれていて、
とても面白く読んでいます。
悟りを開かれるきっかけになる場面の台詞を以下に引用してみます。

 (シ:シッダルタ 後のお釈迦さま  ヤ:ヤタラ 奴隷階級の巨人)
シ「お前は誰だ? 悪魔か神か? 神なら返事をして欲しい、悪魔ならいくがいい。」

ヤ「おれ、神でも悪魔でもない…人間だ。
   この世で一番不幸せな人間だ! お前坊主だな!? 
  坊主、さあ答えろ。なぜ世の中、不幸せな人間と幸せな人間がいる
   のか。さあ答えろ!!」

シ「訳を話すがいい」

ヤ「俺、おっかさん2人いた。1人疫病で死んだ。
  1人ゾウにふみつぶされた!」

シ「お前は自分が一番不幸な人間だと言ったが、 
  その2人のお母さんの方がもっと不幸な人ではないか?」

ヤ「じゃあ、おっかさん殺した王子は、罰を受けない、誰もとがめない。
   なぜだ!」

シ「お前の話では、その王子は、本当は実の息子なのだな、
  その女奴隷の? それが本当なら、その王子は奴隷階級の
  母親から生まれて、今まで育つ間にどんなに苦しんだろう。
  そして奴隷として母親をわざと追放し焼き殺す命令を出した時、
  心の中はどんなに苦しかったろう。それを顔にも態度にも出さずに、
   王子として我慢しなければならない立場だったのだろう。
    その母親を憎む気持ちと慕う心がぶつかり合ったとき、
    その王子はどんなにもだえ苦しんだろう。
    その王子こそ不幸な人間だ…そう思わないか。
    そして苦しんでいる王子を見るにつけ、間違って女奴隷と結婚して
    王子を生んだ父親の王はもっと苦しんだろう。
    もっと不幸な人間ではないのか? 
    お前に見守られて死んだお母さんはまだしも、
    何も知らずに焼き殺された女奴隷たちはもっと不幸ではないのか? 
    ずっとたどっていくがよい。誰も彼も1人残らず皆不幸なのだ。
    この世に幸福な人間などありはしない!」

ヤ「みんな不幸、そんならなんで人間はこの世にあるんだ…。」

シ「木や草や山や川がそこにある様に、
    人間もこの自然の中にあるからには、
    ちゃんと意味があって生きているのだ。
    あらゆるものとつながりを持って…。
    そのつながりの中で、お前は大事な役目をしているのだよ。」

ヤ「この、俺がか…。この俺に役目があるって? この役にも立たん俺が?」

シ「そうだ、もしお前がこの世にいないならば、何かが狂ってしまうだろう。」

ヤ「お前、不思議なことを言う…。俺、そんなふうに思ってもみなかった…。
    じゃあ俺、これからどうやって生きていけばいい?」

シ「その川を見なさい。川は偉大だ。
    自然の流れのままにまかせて何万年もずっと流れている。
    流れを速めようという欲もなければ、流れを変える力も出さない。
  すべて自然のままなのだ! 
    しかも大きく美しい。喜ばれ、そして恵みを与えている。お前も巨人だ。
    お前の生き方次第で、川のように偉大にもなれるだろうよ。」
(『ブッダ』手塚治虫 著 -第3部 第11章 
ヤタラの物語-より抜粋して掲載しました。)

 幸せを求める私たちは、なかなか不幸な自分を受け容れられませんが、
私たちには幸・不幸のモノサシでは計れない
大事な役目(尊さ)があることを説かれたこの場面が、
条件によらない「本当の幸せ」を教えてくださっている様に感じました。

今日も快晴!?2011年6月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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 子どもが就学前後の時期の頭の痛い問題として、
「ゲーム」との付き合い方があります。
最近読み聞かせ会やサークルで交流のあるお母さん達が子どもさんの就園・就学時期を迎え、
ゲームとの関わり方で悩む方が沢山いらっしゃいます。
少し前まで私はゲームは「絶対No!」で、
「あんな物をやらせたら脳みそが腐る!」
くらいの勢いで毛嫌いしていました。 
発端は、長男の開が生まれて数ヶ月後の事です。
新緑のまぶしい公園を爽やかな気分で散歩をしていると、
小学生の男の子が3人ほど集まって何かしているなぁと思ったら、
みんなそれぞれが携帯ゲーム機を持ち、話もせずに黙々と
ゲームをしている姿に衝撃を受けたからです。
(こんな天気の良い日に外にいるのに、一体何をしているんだこの子達は!?)と、
当時は全く意味が分からず、無言でひたすらボタンを押す姿は不気味さを感じるほどでした。

その後も、病院の待合室でだらしなくソファで寝そべってゲームをする子を見たり
(そういう子の親は、大抵携帯に夢中でまるで注意しない)、
交流館では、公共スペースで無造作に荷物を広げてゲームに没頭する男の子たち見たり、
外で見かけるゲームをしている子どもの姿は、どれも眉をひそめたくなるものばかりでした。
(自分の子どもは、こうはならないように育てなければ・・・!)と、
母親として固く固く決意したのでした。
 けれど、子育てをする中で、ゲームを持っているけれど、
上手く折り合いを付けている方にも出逢いました。

そういったお家の子どもさんは、ゲームについての家庭内のルールをきちんと守り、
普通の外遊びや学校のお勉強や習い事や色々な遊びや活動の一つがゲーム、
という感じで非常にバランスが良く、
(うちの子もこんな風になると良いなぁ)と思えるような、
賢く礼儀正しい素敵な子どもさんでした。
(諸悪の根源は、ゲームではなかったのか!!)と、
本当に眼からウロコでした。

 個人的には、まだゲームを解禁する気はありませんが、
以前ほど「何が何でもNo!」ではなくなってきたように思います。
様々の葛藤を経て、「排除」から「共存」への道を探る途中にある・・・
という感じでしょうか。
今は、「お母さんは、ゲームが好きでないから買いません!」と子どもに宣言していますが、
理由や理屈を並べて「○○だからダメ」で無くても、
「お母さんが嫌いだから」と、理屈抜きでダメなものがあっても良いと思います。
何より、子どもが小さければ小さいほど、四季折々の自然を肌で感じたり、
土や木や石ころや草花に触れたり、絵本を読んだり、
ゲームよりも大切な事は山ほどあると思います。
ゲームを与えた方が親は楽かもしれませんが、ゲームに限らず手間暇を惜しんで、
親が楽をして子育てした結果が、新聞などで連日報道されている様々な事件に繋がっている気がします。

 我が家もいずれ、恐らく誓あたりが「買ってくれ」攻撃を仕掛けてくると思いますが、
望むところで、真剣勝負で受けて立とうと思います。
「みんなが持っているから」という理由では話になりません。
子どもがどんな手で戦いを挑んでくるか楽しみです。
そして、いよいよ子どもたちにゲームを与えるべき時期が来たら、
また我が家でどんな葛藤があったのかをネタにしたいと思います。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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