清風 2011年7月

テーマ:清風 【住職】

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<原発の大事故千年に1度のみと。32年に3度起りし (朝日歌壇より)>

 

 

 苦しんでいることは、救いではないが、救いの縁となりうる
                               安田理深


 子に背かれることは救いではないが、救いの縁とは成り得る、
ということですか?いったい、救われるとはどういうことですか?

 うーん、どうなることだろうか。
 では、あなたにとって救われるとはどんなことですか?

 そりゃ、決まってますよ。
 子どもが、もう少し世間並みであればいいんですよ。

 ほぅー。じゃああなたは、子どもさんが世間並みならいいんですか?

 だって、世間並みでないと、
 子どもが困るでしょう、これからの人生において。

 ところで、子どもさん自身は困っていますか?
こういう話を聞いたことがありますがね。
ある親が、子に言った言葉だそうです。
「お前の人生は、これからいろいろあるだろう。失敗とか、成功とか。
成功した時は、我が家へ帰っても帰らなくてもいいよ。
しかし、失敗して失意の中、どこにも行き場のない時には、
いつでもここに戻っておいで。
失敗した時も成功した時も、ここはお前の我が家でもあるのだからね。」
 世間並みと言いますが、「おーい、世間!」って呼んだら返事をしますか?
「世間」とよく言いますがね、
あなたの子が世間並みではないと言うんですか?

 ??

 世間並みって、あなたの考えというか、
救われるということについて自明のこととしていたことが間に合わなくなった、
ということだけは確かなようですね。

 ???

 子どもさんの将来を気遣っての親の心配だとは思いますが、
その気遣いが、思い通りにならないことを排除していく様になってしまう…
そういうもんでもあるとは思いませんか?

 私の気遣いには、可愛がることと排除することが
 同居してるということですか?

『正信偈』のはなし 2011年7月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

註)報化二土 … 報土と化土のこと
   報土 … 浄土のこと。仏の願に報いて立てられた土。
   化土 … 自分の思い通りになることが浄土だとの思い込みの作る仮想世界。
       有頂天、迷いの世界のこと。

 天国が好きな、現代人。天国はそんなに素敵なところでしょうか。
便利で快適でさえあれば幸せになれると
錯覚した行く末に待っていることは…。
 先月号のこの欄で、所得が増せば選択する幅が増えるので、
幸福度が上がると考えられていたが、統計上、
実際はそうでもないことがわかってきた、と書きました。
現代ではサービスは金で買うものだと言われています。
昔はかわいい子には旅をさせろと言ったのですが、
現代では、旅がもてはやされる時代となりました。
旅に出れば、お客さんとして下へもおかぬ接待をしてくれるからでしょう。
 仏教には、他化自在天という天-理想のパラダイスが描かれています。
現代で言えば天国と言ったらいいのでしょう。
ただ違う点は、他化自在天はどこまでも迷いの人間の
境涯とされているところであるということです。
他化自在天とは、何でも思い通りになるところとでも言ったらいいでしょうか。
現代では、極楽というのもそんなニュアンス(意味合い)で
使われているようですが。
 しかし、それは浄土とは言わず化土であると、
源信僧都は指摘されています。
何故なら、そんなところはすぐに飽きてしまうと言うのです。
与えられて満足ができるのは、時間的にも限界があります。
これは、現代の子どもがおかれている状況を見れば一目瞭然でしょう。
今の子どもは持ちきれないほどのおもちゃを持っていても、
自分が幸福だとは思ってもいないのです。
反対に、欲求不満のかたまりです。それは、大人もいっしょです。
 豊かさを豊かに生きることは本当に難しいのです。
何故なら、豊かさは幸福の条件ではあっても、
幸福そのものではないからです。
豊かさは比較の世界の出来事でしかありません。
たとえば、絶対の豊かさ(絶対の幸せ)ということを考えたことがありますか。
 今、報土という言葉で示そうとされているのは、そんな世界なのです。

お庫裡から 2011年7月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

 

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孫に囲まれて絵本を読むことが好きな私は、
小学校で読み聞かせのボランティアがあると聞き、早速応募しました。
日程が決まり、担当は5年生、制限は15分以内に終わること。
何もわからないので、係の人に本を選んでもらうことにしました。
私が初めてということと、孫がいる点を考慮くださり、
誓くんのいる1年1組に担当を変えていただき、
「にじいろのたね」という絵本を読むことになりました。
家では、私がひざの前に本を開け、
孫がのぞき込むような形で読んでいます。
学校では、前に並んだ子どもたちに絵本を見せて
読み手はその本を上から横から見ながら読むのだそうです。
「にじいろのたね」の本を手にして、はたと困ってしまいました。
まず、ことばがひらがなばかり(当然といえば当然ながら)
で書いてあるのです。それを上から横から見て読む。
家では一字読み間違えても「違うよ」とチェックが入ります。
ことばもページ毎に書いてあるところが違います。
見落としてしまうかもしれません。
考えた末、絵本のことばを別紙に意味がわかる様漢字を交えて、
15ページ分の台本を作りました。
さて、当日が来て、1年1組の教室に入りました。
子どもたちはすでに教室の後ろに座り、前に読み手のイスが置かれて、
待ってくれていました。
さぁ読もうと思うと、台本を置く場所がありません。
仕方なく台本をイスに置き、立って読み始めました。
台本は大きな字で書いたつもりだったのに、イスとの距離が、
老眼鏡をかけてもはずしても微妙にかすみ、はっきり読み取れません。
張り切って出かけたのに、初めての読み聞かせボランティアは、ドギマギの中で無事?終了しました。

本堂に座って 2011年7月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 先日、小学校の役員の出張で聞いたあいさつの中で、
『親が1ミリ変われば子どもは1メートル変わる』という本を紹介していただきました。
タイトルに興味があってさっそく読んでみたのですが、
ふだんの子どもたちとのやりとりについて、
いろいろ考えさせられる内容でした。

 子どもの成長段階に応じて、なにをすればいいのか、
なにをしてはいけないのか、ということがあるのですが、親にはそれがわかりにくいのです。

 小さいときは手がかかって大変だったけど、
小学校1、2年生になると手が空いて楽になったわ、
と言う親がよくいますね。とんでもない。
本当はどんどん大変になっているのに、気づいていないだけなのです。
人として成長していくということはどういうことか、具体的に表現してほしいと、
子どもは休みなく迫っているのです。
 親が人間的に成長していく努力をしつづけていかないと、
子どもは学ぶことができません。
ですから、親がどのように成長していくのかということと、子どもがそのあと、
どのように成長しながら学んでいくのかということは、同時進行なのです。 
(中略) 今、わが子にとってなにが大事なのかということから、
心がはなれてしまっているのです。
ですから、なにをアドバイスすればいいのか、
なにを今見なくてはいけないのかが、まったく思いつかないのです。 
つまり、親が子どもを見る目を持っていない―これが不幸なのです。

 子どもが問題を起こさないと、親は問題があることに気づかない、
ということは多々起きてきます。
そこまでしないと親は気づかないから、
問題を起こすのだと考えることもできますね。
子どもが問題を起こすしかなかったのだ、というふうに問題を捉えてとりくみ始めると、
親は少しずつ変わっていけるのでしょう。
 子どもにとっては、もちろん、そういう問題を起こすよりも、
ほかのことをやったほうがよかったかもしれません。
しかし、そこまでやらないと親は気づかないから、
それをやるしかなかった、
というふうに解釈して、自分が変わっていけるきっかけにしたほうが、
親にとってもいいのかもしれません。

 子どもがどれほどけなげに親の期待に応えようとしているか
―それはおそらく、親の想像をはるかに超えたものでしょうね。
 ですから、親の期待に応えることを捨てて、たとえば親に悪態をついたり、
親に嫌われることをわざとやるというのは、よっぽどのことなんです。
それも、そこまでやって、親に自分への接し方を考えてもらって、
ちゃんとした親になってもらいたい、
という願いがあるからこそやっていけることなのです。 (中略)
 そう考えるとき、「子どもは親を選んで生まれてくる」
というシュタイナーのことばが生きてくるのです。
それはものすごい謎を解いてくれます。それが真実なら、
子どもに起きていることのすべては、その親を選んでいることで起こしていること、
というふうに考えることができるわけです。 
子どもが起こしていることというのは、親のとりくむ問題であると同時に、
子どものとりくむ問題でもあるのです。
その子どもがなぜこの地上に生まれてきたのかという問題。
そして、なぜその親を親として選んだのかという問題。
 科学的に、客観的にものを見るようになってきた現代においては、
親を選ぶなどという考えはありえないとするのか、
それとも、「子どもは親を選んで生まれてくる」という考えにも立って問うてみるのか。
 幸いなことに、私たちはどちらを選択することもできるところにいます。
(『親が1ミリ変わると子どもは1メートル変わる』鳥山敏子 著より抜粋して掲載しました。)

 自分を選んだ子どもたちは、自分に何を問いかけてくれているのか
-親の方が子どもたちから学ばせてもらっていると受け取ると、
毎日の出来事の見え方が変わってくるのでしょう。
自分を抜きにして、子どもばかりを何とかしようとしても思い通りにならないのは、
当たり前なのかもしれません。(来月も引き続き引用します。)

今日も快晴!?2011年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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 子どもが生まれてからなかなか本を読む時間が取れないのですが、
村上春樹さんの作品は、いつも気になってチェックしてしまいます。
今回、村上氏のカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチが
素晴しかったので、ほんの一部を紹介させて頂きたいと思います。
2009年のエルサレム賞の時の「壁と卵」のスピーチにも感動しましたが、
そこでの高く大きな「壁」に立ち向かう「卵」の比喩は、
(どうせ地方の一主婦が何か言ったってたかがしれているし…)
という気持を奮い立たせてもらうものになりました。 
村上氏のスピーチと合わせて「さようなら原発1000万人アクション」を紹介させていただくことで、
ささやかながら自分なりに「壁」に立ち向かう行動を起こし、
「原発反対」の意思表示をしたいと思います。

『カタルーニャ国際賞』スピーチ (一部抜粋)
 理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。
つまり利益が上がるシステムであるわけです。
また日本政府は、とくにオイルショック以降、
原油供給の安定性に疑問を持ち、
原子力発電を国策として推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、
原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが
原子力発電によってまかなわれるようになっていました。・・・(略)・・・
そうなるともうあと戻りはできません。
既成事実がつくられてしまったわけです。

原子力発電に危惧を抱く人々に対しては
「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」
という脅しのような質問が向けられます。
国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。
高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。
原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、
今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。
それが現実です。
 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、
実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。
それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、
そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
我々は電力会社を非難し、政府を非難します。
それは当然のことであり、必要なことです。
しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。
我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。
そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。
そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。 ・・・(略)・・・
 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、
原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、
国家レベルで追求すべきだったのです。
たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。
それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、
我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、
妥協することなく持ち続けるべきだった。
核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、
中心命題に据えるべきだったのです。
 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、
我々の集合的責任の取り方となったはずです。
日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。
それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、
その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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