清風 2011年8月

テーマ:清風 【住職】

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 石も土も、木も草も、鹿も鳥も虫も、人間も神も、
すべて森の客としての振るまいをしなければならぬのであって、
何者といえども森の主になることはできない。
 
森は、はじめからあったのである。一切にさきだって森はあった。
木も草も鹿も虫も、そして人間もあとから森にやってきた。
神といえどもあとから森にやってくるのである。
〔ピグミー(アフリカの森に住む原住少数民族)の世界観「瓢鰻亭通信」1978.11.10号より〕


 森という言葉を地球と置き換えれば、いっそう事柄ははっきりすると思うが、どうだろう。
もし神が地球を作ったとしても、一向構わない。
その神を人間はどう扱ってきたか。
近くはブッシュのように
「文明につくか、野蛮につくか。神よ、われらに勝利を」と
大量破壊兵器保持を言いがかりにしてイラクへ攻め入って、
結局大量破壊兵器は見つからなかったが、泥沼に足を踏み入れてしまった。
その程度に神を利用しただけのことである。
 
母なる大地と呼ばれてきた地球を、人間は資源としてしか考えなくなった。
つまり、自分がこの地球から産み出されてきたのに、
物・利用の対象としてのみ考えるようになった。

客が主人面をし、その結果、母も資源としてしか見られなくなったのである。
関係は全て利用関係になってしまった。
強者は競争原理でいよいよ強く、弱者は自己責任論でいよいよ追いつめていくこと
(自死者と若者のホームレス化の増大など)になってしまった。
そして、原発の絶対安全神話の創作である。
客が神に上り詰めた結果が、今回の原発の暴発を想定外としてしか受け取れなくさせてしまった。
 
さて本題に戻ろう。客は客として振る舞わねばならない。
今、地球に最後に登場した生物としての人間に、少しの謙虚さが求められていると思う。

『正信偈』のはなし 2011年8月

テーマ:清風 【住職】

 

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

 源信僧都について、主著『往生要集』の巻頭の言葉を紹介します。
私ども現代人の人生観を確かめる上でも大切な、
一つのモノサシが提起されていると思います。

 夫れ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。
道俗貴賤、誰か帰せざらん者あらん。(以下意訳です)
沢山の教えがあり、行も数多く説かれている。
知恵優れ精進することの出来る人は、その道を進んで証りを開くことができるであろう。
予が如き(かたくなでにぶい)頑魯の者は、
どうしてそうした道を歩むことが出来ようか。

 教えは目、行は足、人生における目的の確立とその目的を実現する歩み、
これが<目足>と言われています。
何を目的とし、どこに向かって生きるかということと、
その目的に向かってどうして歩いて行ったらいいのか、
どうしたらその目的を実現することができるかということ―
これは人が生きる限り、誰もが問題にせずにはおれないことだと思われます。
冒頭の文章は、言葉古く、しかも仏教の述語が多く、
なじみのない文章だと思いますが、
現代の状況を踏まえて3・11以降の大震災(特に原発)の現状から言うならば、
この実人生の目標を何に置くのかということが、
少なくともきちんと立てられなければイデオロギー論争となり、
またもや利害を絡めて○○神話
(今までの原発絶対安全神話のような)が主張されていく雰囲気作りが、
もうすでに始められています。

 その議論の前提を言うならば、私どもは残念ながら、
母なる大地を資源とのみ見る目線しか、今は持っていません。
その論戦の共通基盤はまったく同じ発想の上に立っているのだということを、
この『往生要集』の巻頭に教えられている気がします。
この末法(濁世)という仏教の時代認識は、
決して時代を抽象的に述べているのではないのではないでしょうか。
人間の知の有り様を根こそぎ問いかけている様に思われます。 (つづく)

 

お庫裡から 2011年8月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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1年生の誓くんは、学校のプールが面白くって仕方のない様子。
お風呂で「おばあちゃん、もぐるところ見せてあげる」とブクブクブク。
それを「ワーすごい」と私が言ったばっかりに、お風呂の度に、ブクブクブク。
「今日はだるま浮き(膝を抱いてもぐること)ができたよ」ブクブクブク。
「今日は、プールのはしをけって前へ泳げたよ。
あーあ、お風呂がもう少し大きいとやって見せてあげるんだけどなー」ブクブクブク。
「もういい。わかった、わかった」何度言ってもブクブクブク。

誓くんの他にまだ2人(私も入れて3人)入っているので、
お風呂は毎日、大混乱。
「お風呂はお風呂、プールとは違うから、夏休みになったら、
スタジアム(寺部の集落の隣)のプールに行こうね」
となだめてなだめて、夏休みに突入しました。

しかし孫達は、なんだかんだと忙しそうです。
ある日、「お母さん、子どもたちがね、今日予定していたコンサートに行くより、
おばあちゃんとスタジアムのプールへ行きたいって言うんだけれど、連れて行ってもらえる?」
突然に、プール行きが飛びこんできました。
私の草取り予定は、即座に変更可能。
2時間たっぷり、開くん、誓くんに遊んでもらって、あー、面白かった
(でも、疲れたー!)

今月の掲示板 2011年8月

テーマ:今月の掲示板

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   どんないのちにも 使命がある。

  一本の草さえ 生きねばならぬ使命を持っている

  ものさしではかれないような いのちを生きる

  私たちは、
  明日が目的になって
  今日が明日の手段・方法になってしまっている。

  便利で快適を求める私は
  まわりのもの、人、みんな自分にひざまづかせる
  道具としてしか見られない

  人間には
  意識が与えられているので
  道具にはなれない
  
  評価は他人にまかせよ

  いい所も 悪い所も
  まるごとあなたじゃないですか。
  それを引き受けて生きていけるかどうか、
  それはあなたの問題です。

  私を軽蔑し、酷使した人でさえ、
  今になって思えば
  今の私を育てるために
  力を貸してくださった方々だと、そう感じている。 中村久子

  手足なき身にしあれども生かさるる
  いまのいのちが尊かり              中村久子

本堂に座って 2011年8月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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 先月に引き続き、『親が1ミリ変われば子どもは1メートル変わる』
という本から引用させていただきます。
親を選んで生まれてきた子どもたちは、
親に何を問いかけてくれているのでしょうか…。

 親が自分に気づくことが、子どもを育てるうえで
とても大切なことなのですが、私はそれを、
「親が1ミリ変わると子どもは1メートル変わる」と表現しています。
お母さんのちょっとした心の変化が、子どもにとっては、
ものすごく大きな変化として感じられるのです。
 親と子、とくにお母さんと子どもは、
目に見えない絆で結ばれているのではないでしょうか。
ですから、それは、当然と言えば当然のことです。
ところが、親はそれに気づいていません。
親は、子どもには、親の思っていることや感じていることは
わからないだろうと思っているのです。

ところが、実は子どもは、親が無意識に思っていることでも、
敏感に感じ取っているのです。
もちろん、子どもは感じ取っていることを、
ことばで表現することはできませんが…。
 お母さんが少し成長するだけで、子どもはその何十倍も大きく成長する。
だから、親が少しでも成長することが、子どもにとってはとても大切なことなのです。

 子どもは親が成長していくために、実にたくさんのしかけと働きかけを、
休まず親にやっていることが、外から見ているとよくわかるのですが、
親には気づけません。
そして、自分の親が自分にしたように、「親としてのふるまい」をするのです。
 子どもにエネルギーがある間は、子どもは親に反乱を起こすでしょう。
しかし、エネルギーがなくなってくると、
絶望していき、動けなくなっていくのです。
ですから、自分のふるまいのうそを見抜く人の存在が必要なのです。
 教師は子どもの様子を通して、親に話すことができます。
また、子どもの様子を見ている(他の子の)親たちも、その親に話すことができます。
そうした話の中で、親は自分のうそを自分で見抜いていく機会を得ることができます。 
 夫婦関係のうそ。親としてのうそ…。
たくさんのうその上塗りで、自分でも、
うそをついていたと気づかないほどのうそに、
やっと気づいていくチャンスがやってくるのです。
 そして、驚くのです。
ちょっとした親の気づきが、子どもたちの大きな変化になっていくことに。
そして、子どもたちが、どれほど日々たくさんの
「親としてしっかりやってくれよ」というメッセージを送りつづけているのかということにも。
 
こういうとりくみを日々やってくると、
「人間は1人では生きられない。
どれだけたくさんの人のおかげの中に、自分はいることか!」
ということに気づいていくのです。
そして、わが子がどんなに大切な存在であったかということに、
改めて気づき、感動するのです。
そして、さまざまな共同体の中で、人とともに力を合わせて生きることの大切さに気づき、生きる姿勢を変えていくのです。 (中略)

 「人間は、心とからだの全てをもって、
人間になろうとして、人間として生まれてきた」
と考えてみてはどうでしょうか。
どう生きることによって、人間は人間になっていけるのでしょう―
こんなことを考えてみる時代にまで、人間は、たくさんの犠牲を出しながら、
命をかけ合って実験もし、進んできたのではないでしょうか。
(『親が1ミリ変わると子どもは1メートル変わる』鳥山敏子 著より抜粋して掲載しました。)

 自分のことは棚に上げてしまって、子どもたちばかりを責めてしまう…
子どもたちは、そんな親の姿をしっかり見ているのでしょう。
自分が注意されたことを注意した親がやっていれば、
子どもは「?」と感じるはずです。
子どもたちや周りの人に育てられながら、私自身はどんな人間になっていくのか…
親が「人間になっていく」姿を見せることで、
子どもたちも1歩ずつ成長していけるのだと思います。

今日も快晴!?2011年8月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

 

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 夏休みが近づいたある日の夜、
布団に入った誓が急にしくしく泣き出したと思うと、
「お母さん。○○くんってひどいんだよ。
僕が捕まえて学校に持って行ったカミキリムシの足を
3本もちぎっちゃったんだよ!」と泣きながら訴えるのです。
虫が大好きで、何でも素手で捕まえてしまう誓くんですが、
最近捕まえたご自慢のカミキリムシを学校に持って行ったところ、
クラスのお友だちに思いも掛けない乱暴な扱いをされてしまったようです。
 (まあ学校に持って行った時点で、こうなることは覚悟の上だよね~)
と思いながら、
「そう。それは悲しかったねぇ。
○○くんはどうしてそんなひどいことするんだろうねぇ?
先生には相談したの?」と言いながら、
(うん?ちょっと待てよ?)と思い、状況を確認してみると、
誓は○○くんがカミキリの足をちぎった現場は見ておらず、
周りで見ていた別の友達から
「○○くんがやった」と教えてもらっているようです。
学校で何かトラブルが起きた場合、
とりあえず先生にきちんと相談するようにと
子どもたちには言い聞かせているのですが、
今回の場合、誓が○○くんときちんと対決していないことが気になりました。

 そこで、「誓くん。明日学校に行ったら、まず○○くんに
『僕が持ってきたカミキリムシの足をちぎったのは君か?』
と聞いてみなさい。
○○くんが『そうだ』と言ったら、
『君はどうしてそんなひどいことをするんだい?
ぼくは、足のちぎれたカミキリムシを見て、本当に悲しかった。
夜に涙が出てきて仕方がなかったんだ』と、
自分の気持を言葉で○○くんにきちんと伝えて来なさい」と送り出しました。

 「キレる子ども」が問題になっていますが、
食生活や生活習慣や家庭環境や色々な原因があるのだとは思います。
何より、「自分の気持をきちんと言葉で説明することが出来ない」ことが大きく関係している気がしています。
辛いとき、悲しいとき、胸が張り裂けそうなとき、
「うざい」の一言や暴力でしか自分の感情を説明できないとしたら、
どれだけ自分と周りとの間に壁を作ってしまうことでしょう。
自分と周囲をつなぐ言葉を持たないことが、
どれだけその子を孤独に追いやることか。
些細なことで他者を傷つけてしまったり、
取り返しの付かない事をしてしまう前に、
「僕は辛くて仕方がない」「私は、本当はこんなことはしたくはない」
と言葉に出して訴えることが出来ていたなら・・・と、
報道される様々の事件を見て、本当に胸が痛みます。

誓は入学してからまだ数ヶ月。別の園から来た知らないお友だちも多く、
特に仲良くなった子もいない状態でしたが、
言葉で他者と繋がって欲しいと願い、誓の背中を押しました。
さて、その日誓くんは、にこにこ顔で
「お母さん!○○くんが『ごめんね』って言ってくれたよ!」と帰ってきました。
すぐに先生に言いに行かせなくて良かったなぁ。
○○くんの事を「悪い子」だと決めつけてしまわなくて良かったなぁ。
誓と、言葉の力を信じて送り出して良かったなぁ・・・
と、こちらも本当にほっとしました。

 その後、カミキリは毎日ものすごい数のお友だちに触りまくられて、
あっけなく死んでしまったようです。
カミキリさんは貴重な命を使って、誓に大切な勉強をさせてくれました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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