清風 2011年9月

テーマ:清風 【住職】

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「いかにして欲しいものを手にいれるか」ということに関わり果てて、
「何を欲することがただしいか」という問いをたてられなくなった。      
ボールディング

よくコストという言葉が使われる。
代価、それをする(した)ためにかかった対価費用とでも言ったらいいのか。
原発問題。

まさに「欲しいものを手に入れた」時に引き起こされている、
思いもしなかった事態に驚いているという次第である。
豊かさを手に入れるために絶対安全神話までまき散らして、
「原子力村」の利益を護るために、
要するに騙されてきたのである-と言われる。
騙すためには、騙される者がいなければならない。

ここまで書いてきて思うことは、
あの昭和の戦争(1930~1945)が終わった時、
軍部に騙されていたという発言が聞かれたものだが、
なんとその構造が似ていることか。
あの時、スローガンは「満州は日本の生命線」というものであった
(資源の宝庫である満州を捨てるわけにはいかないというわけで、
多くの中国の民間人を犠牲にして戦争をしてきた)。

今回はどうか。安いエネルギー。原発は、
今後10万年の子孫に悪い影響を及ぼそうと、
「今、必要なのだ」という。昭和の戦争も今回の原発も、
そのコストに後になって気づくという点でも、
悲しいけれども犠牲者を出してもまだ気づかないという点でも、
よく似ていると言える。

資源の獲得を巡って、我々は議論をしてこなかったのであろう。
問いには、「いかにして欲しいものを手に入れるか」と
「何を欲することが正しいか」という二種類あったのである。

人間は進化した動物と言われる。少しく進化した証しが、今、示されうるか。

今回の福島原発事故は、再度問いかけている。
どれだけエネルギーを消費したら満足できるのか、と。
ことは東北3県の復興だけではない。日本のマスタープランが試されている。
人類の将来と人類の知恵の質について、進化の内容が問われ始めた。
その元年、それが3・11であったという出発点になるかどうか。

『正信偈』のはなし 2011年9月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

今回は「極重悪人」の語に注目しつつ、学びを進めることにします。
現代では、「悪人」という言葉について、
誰も自分のことだという理解はされていないのではないでしょうか。
しかし、源信僧都には、さらに
「妄念はもとより凡夫の地体なり」(横川法語)という言葉があります。
「地体」と言うからには「地金」という言葉もあるように、本来性として、
私どもは考えていることの全部が妄念でしかないということなのでしょう。

しかし、我が事、例えば自分の子について…ということになればどうでしょう。
その場合でもやはり、親の愛情といえども妄念だというわけです。
親の愛情といっても、受け入れられない子・受け入れられる子を
妄念が作っているのです。
「可愛さ余って憎さ百倍」とか、「はえば立て 立てば歩めの 親心」
という俳句もありますが、はえば次は立つことを、立てば次は歩むことを、
当たり前のように要求している私がいるのです。
はえない子・はえても立てない子・立てても歩めない子はどうなるでしょう。
私はこの子と同じ一つのいのちを生きているという実感が
持てなくなってしまっているのです。
妄念を地体としているとは、そういうことです。

妄念とは、計らい・私の都合・私の思いを何よりも
確かなものと固執していることです。
この、私の計らいを何よりも確かなものさしだとしていると気づいた言葉が、
「極重悪人」という自覚の内容なのです。
悪人がどこかにいるのではない、と源信僧都は言われているのです。
誰もがみな、私の都合を誤りのない「ものさし」であるとしている-
そうした姿勢が、
支え合って生きているとは実感できなくさせてしまったわけです。
つまり、無縁社会・バラバラで孤立した社会を作り出しているのは
この私だという気づき、その気づきの内容が「極重悪人」という自覚だと、
源信僧都が教えてくださっているのです。
私の都合をものさしとしているにも関わらず、それに気づいていない人、
その人を善人根性の人というのです。

お庫裡から 2011年9月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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長い夏休みが終わりました。
孫達のお陰でこの夏も楽しく面白い時間を色々頂きました。
その中で、何といっても一番は、毎朝の廊下ふき。
去年迄は、まともに雑巾がけが出来るのは開くんだけだったので、
玄関と渡り廊下をふけばいい方でした。
それが今年は違います。
朝食を終えると、3人の孫が雑巾を持ってスタンバイ。
書院・渡り廊下・玄関・庫裡とふいていきます。

誓くんは、最初、雑巾を構えても、両足をぴょんぴょん、
兎のような格好でしかふけませんでした。
それがいつの間にか両足を交互に運べるようになり、
ついに私を軽々と抜き去るまでになりました。
孫達と賑やかに雑巾がけをしていたら、
「どらどら、おじいちゃんも昔とった杵柄で」と、
夫も途中から仲間に加わるようになり、
「さあ、おじいちゃん、ぼくと競走」「おばあちゃん、競走」
「ぼく達何秒でふけるか、数えて」等々、
廊下ふきが一層楽しい時間となりました。

全部ふき終えると、汗びっしょりになりますが、
最後に孫達と「ありがとうございました」「ご苦労様でした。ありがとう」と
言い交わすのも、体育会系のノリで、爽やかで、
一仕事終えたという充実感に満たされます。
「おばあちゃん、廊下がなんだかピカピカしてきたね」
孫達も自分達の仕事の成果に満足そう。
ご褒美をはずんだのは言うまでもありません。

今月の掲示板 2011年9月

テーマ:今月の掲示板

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  学校に通っている間、
  私達は、客観的に見るという訓練を
  ずっとしてきますから、
  私自身が問われるという事が
  おろそかになっています。

  対象化することに慣れてしまうと
  いつの間にか「傍観者」になってしまう

  傍観者とは
  いつも向こう側を眺めて
  自分が問われたり責められたりすることから
  できるだけ逃げている人のこと

  自分の外側ばかり眺めながら
  「あれがよい」「これが悪い」と
  評論家のような生き方

  いつも、物事を眺めるだけの人生
  そこには、生きても生きたことにならない
  「空過」という危険がある

  見えるいのちは
  多くの見えない命によって
  支えられている

  生まれてからの願いは知っているけれど
  生まれながらの願いを知らない

  南無阿弥陀仏のこころは
  「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」
  という呼びかけです

  人間に生まれてよかった
  生きていてよかった
  死んでいくことに何の心配もない
  南無阿弥陀仏

本堂に座って 2011年9月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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東日本大震災による原発事故の後、原発に関しての
様々な情報や意見が聞かれるようになりました。
私たちは、原発そのものの是非・原発に頼らざるを得ない生活を送っていること・そうした社会を作り上げてしまったこと…など、
必ずしも答えが1つではない問題に直面しています。

そんな中、原発の問題について10年ほども前に出版された本をあらためて読みました。
そこには事故による放射性物質の被害以前に、
原発(を稼働すること)が持っている問題点が挙げられています。

労災が認定されたことはうれしいですが、
原発で働いたがために病気になり死んだことが証明された今、
この犠牲を無駄に終わらせたくないですし、
第二、第三の伸之が出ないためにも、
被曝労働者の実態を明らかにし、皆さまも快適な生活を送る裏には、
毎日、原発で被曝しながら命を縮めて働いている下請け労働者がたくさんいるんだということを忘れないでほしいと思います。
原発があるかぎり、後に続く犠牲者が出ることは火を見るよりも明らかです。
平和な日本で未来のある若者が、原発の犠牲にならないようにと、
心から願っております。
(原発で働いていた息子さんを白血病で亡くしたお母さんのインタビューより)

最初入った時に、一緒に働いている人からまず言われたのは、
早く結婚しろって言われたの。二十八か二十九歳の時だった。
「早く結婚して子どもを作れ、でないと恐ろしいぞ、後が」って。
発電所を造ってきた現場の人たちがまず最初にそう言うんですから。
いちばんよく現実を知っているから、そう言うんです。でも一方でまた、
「地元の者にあんまり手を出すなよ」と。
「飲みに行って遊ぶのはいいけれど、女の子とつきあってもよく考えろよ」と。
もし例えば県外から来たのなら、なるべくなら同郷の女の子を連れてきて
結婚して子どもを作った方が、少しでもいいんじゃないかって。
原発ができて、その周辺の人たちは、
もう少なからずある程度の被曝をしているんだから。
だから両方が被爆者同士だったら、もっと悲惨だよって。
(元被曝労働者の方のインタビューより)

それから「いのちの問題」という時に、被曝労働者の問題は、
そのとおりなんや。
だけどもう、被曝労働者に止まらない。すでに住民被曝ということがあるんや。
そこまで広げていかないとあかん。最近、原発は事故さえ起こさなければ
放射能は漏れないと思われているんよ。
万が一、事故を起こせば原発は大変なことになるって言うけど、
そんなのとんでもない話や。
毎日、垂れ流しとる。
そういうね、目に見えんからなんでもないと思っていることも問題や。
(石川県珠洲市(原発誘致の賛否が議論された地域)のご住職のインタビューより)

現代は欲望をあおりたて、その限りない欲望を果てしなく充足させることを是認する時代である。
便利で快適な生活を維持することが自己目的化され、
そのためには下層労働者がどれだけ死のうが、
大気や土壌や水系がどれだけ汚染されようが、
見向きもせずに快楽に酔いしれる。
地球が有限である限り、無限の欲望を充足させることはできない。
その先に待ち構えているのは資源と環境の破綻である。
それはあまりにも自明でありながら、人々は目先の何物かを失うことを恐れて思考を停止させてしまう。
(大学の物理学の先生の文章より)
(『いのちを奪う原発』真宗ブックレット9 東本願寺出版部発行 より抜粋して掲載しました)

原発は(想定外の事故が起こらなければ)安全だという声は今も聞こえてきます。
しかし実際には、ここに挙げたような現実があるのです。
これらのことを知らないままに原発のことは議論できないと思います。
安全性だけでなく、病気・差別・環境など、
私たちの「いのち」に深く関わっている問題だと知って考えることで、
自分がどう考え、何をするべきかが見えてくる様に思います。

今日も快晴!?2011年9月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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夏の草取りは、暑さとかゆさと日焼けとの戦いです。
長袖長ズボン、首タオルに蚊取り線香。帽子に虫除けスプレーと、
あれこれ対策を練っても、結局蚊には刺されるし、もちろん汗はかくし、
美白マダム(えっ?)に日焼けはNGだし、この3つの敵と戦うためには、
「雨の日の草取り」が一押しです。
週間天気予報で雨予報が出ると、ウキウキその日を待ちます。

読み聞かせも近づいたし、そろそろ庭掃除をしたいと思った頃、
上手い具合に雨が降ってくれました。
子どもたちには宿題と読書を言い渡し、傘を手に本堂の前に向かいます。
地面も丁度柔らかくて草もスポスポ抜けるし、涼しいし、蚊もいないし、
人目に付かないし(草取りルックは、大抵人には見せられない感じです・・・)、
ああ、幸せ~♪楽しい~♪と思っていたところ、何だか嫌な羽音が聞こえました。
(まさか!?気のせい・・・、気のせい・・・。)と思ったけれど、気のせいではなく、
気がついたら傘の中に何匹も蚊がいるではありませんか!
(な、何~!?うちの蚊は、雨の日にも飛ぶの!?)これは予定外です・・・。
蚊は、首タオルとシャツのわずかな隙間や、むき出しの顔を狙ってくるし、
左手に傘を持っているので、蚊の位置によっては叩こうにも叩けなかったり、
蚊取り線香は炊けないし、せっかく雨降りを狙って草取りしているのに、
これじゃ台無しじゃないの・・・!!と、メラメラ怒りがこみ上げます。

そうして1時間も経ったでしょうか。
雨の日は蝉の声も聞こえないし、お墓参りの方もないので、
しばらく自分の周りに人影はなく、雨と蚊の羽音しか聞こえませんでした。
すると、何だか世界に自分と蚊しかいないような、
まるで蚊と自分が一体化したような、
そんな不思議な気分になってくるのです。
(蚊よ。おまえも血を吸わないと生きていけないからね。
生きるためには私の血を吸うのも仕方ないか・・・。)と、
蚊と自分が古くからの同士のような心境です。

また、今回の草取りで問題だったのは、野生のユリです。
境内のあちこち無秩序に生えているので、元々草まるけの境内が、
益々ジャングルみたいになってしまいます。
花が咲き終わったものから
(えい!これも邪魔くさい!こんなとこに生えてちゃいかん!!)と、
刈っていたところ、私の背よりも高いユリの花のてっぺんに、
蝉の抜け殻があるのに気づきました。
小さな蝉の幼虫が必死で登り、見事成虫になっていった証です。
そうすると、今まで私の都合には合わなかった邪魔なユリが、
蝉を育む大切な花であったことに気がつくのです。

草取りは、本当に面白いです。スポスポ抜ける時は楽しいし、
綺麗になった所を見ると気持が良いし、何より、この大地が、
元々は虫や植物のためにあるものだと、何となく感じるからです。
人間が、自分の都合に合わせてコンクリートで大地を埋め、
木を切り倒して建物を造ったとしても、
ここはもともとおまえたちのものだったんだよね。
もうちょっと人間も遠慮して、草や虫たちと仲良く暮らせるようにしないといけないよね。
ごめんね虫さん、草さん・・・。
雨のせいでしょうか、いつになくそんな神妙な心持ちになります。

今、自然と最も遠いものは原発でしょうか。
自然界にはない人工の放射性物質を、人間が発見してしまいました。
原子力を使うことによって、放射能に汚染された廃棄物が出続け、
処理できる技術はなく、捨て方も分かりません。
心の底からその存在が恐ろしいと思います。

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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