清風 2011年10月

テーマ:清風 【住職】
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最近、地球環境の未来を考えるポスターだったと思うのですが、
「地球はリサイクルできません」という標語を目にしました。
「原発は絶対安全だ」というのは幻想でした。
科学は日々進歩しているのだから
科学技術は万能だというのも一つの幻想なのでしょう。

自然にはまず起こることのない核分裂の連鎖反応を
人為的に出現させるようなことは、
本来人間のキャパシティー(能力)を超えることであり
許されるべきではないと言われています。
「使用済み核燃料の処理」と言われますが、
原発で使用済みの核燃料は人間及び多くの生き物には
無害化することができないと言われています。
「垂れ流し」という言葉がありますが、
使用済み核燃料は垂れ流ししか手がないというのが現状のようです。

原発も、原発での使用済み核燃料も、
まだ人間の知恵では処理しきれないものです。
それは、原発及び使用済み核燃料を処理する場所が、
例えば大都市内に建設されてこなかった理由でもあります。

科学技術は進歩・進化したかもしれませんが、
これだけのことを想像する能力、想像力は確実に退化してしまいました。
安い・高いという比較は、子孫たちの生存が保証されてのことではないでしょうか。

「いったい私はどう成りたいのか」子どもたちから
生きる希望を奪うような豊かさとはいったい何なのか…。
退一歩する時が来ているのだと思います。

『正信偈』のはなし 2011年10月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども
、煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

「極重悪人」、ずいぶん極端な厳しい言葉である。
「悪人」、自利のみしか考えられない自分である。
「利他」、他を利する。これが難しい。
自利と利他が併存している。
それは自利があって初めて成立している。
何故なら、私は徹底的に我利我利の亡者だからだ。
このように自分という者の有り様を了解するのは、とても難しい。
善人根性でしかないからである。

みんな一ついのちで繋がっているのに、私達人間は意識を持つ故に、
事実一ついのちを生きているとは思えない。
私は私、あなたはあなたとしか思えない。
二つのものを外から一つに繋いでいるのは、
利害関係が一致した場合だけである。
「意見が一致したのではない。利害が一致したのである」
とも言われるように。
金の切れ目が縁の切れ目とも言われる。

本来一ついのちを生きているのに、それが、
人間(私)は意識を持ったが故に、本来一ついのちを生きているということを、
あらためて学び直さねばならない。
その学びは、自己を学ぶという、
意識を持った人間の通常の学びとはまったく逆の学びであるが故に、
実に難しいのである。
自己は自己では学べない。それは原理的に不可能である。

何故だろう。盲点。
自分の顔も鏡に映さないとわからない。
自分は自我を自己と思っている。つまり錯覚しているのである。

私は自我に振り回されて、心安らかに生活ができないでいることに気づけない。
不安・不審・自己を錯覚しているのであるから、
隣人、家族とも心がなかなか通わせられない孤独感に陥ってしまい、
被害者意識に苛まれることになるのである。
それが仏教の人間観である。

お庫裡から 2011年10月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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久しぶりに母がやってきました。
少々痴呆が進んでいると弟から手紙が来たので、
孫達と交流してもらおうと連れてきたのです。
初めて母と布団を並べて寝、色々とお喋りを楽しんだ5日間でした。
「昔は、おばあさんが家の周りにいっぱいおいでたけど、
みーんな死んでしまいなして、この頃、
おばあさんがおいでんなーと思っとったら、私が一番の年寄りになってしもとったわ」
「87やて、えらい年やなー。自分でもびっくりするわ」
「身体がな、知らんとると、えらいこと曲がって、
まるで年寄りみたいになってきたわ」
「お母さん、87才って、十分年寄りの部類に入ると思いますが」
「ホントやな、ホホホ」
「お母さん、デイサービスとかそんなのは利用しないの」
「ああ、あそこは年寄りの行く所やろ」
「お母さんは、順調に年を重ねて、正真正銘のお年寄りかと思いますが…」
「本当に、87才やもんなー」
「87才の人を年寄りと言わなんだら、何才の人が年寄りなんでしょうかね」
まるで万才です。
「お母さん、87才まで生きてきて、何時が一番よかった」と質問してみました。
「そりゃー、お父さんが生きておいでる時やな」
「お父さんと一緒にいた、その何時の時?」
「そう、大将でおいでた時かな」母と結婚した時(S17)、
父は職業軍人で、毎日馬が送迎していたとか。
軍服に身を包む馬上の父の姿はきっと凛々しく、
母は胸をときめかせたのでしょう。
「それでも、今が一番いいかな。
有和さんはやさしくしてくれるし、
今が一番いい時やな」そんな母の言葉が聞けて、私は幸せな気持ちになりました。

今月の掲示板 2011年10月

テーマ:今月の掲示板

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  仏さまのい声
  そのままのあなたでいいよ
  あなたは、あなたのように生きなさい

  すべての縁が合致して今がある
  これが事実だ

  自分という存在は
  自分が思い理解しているより
  遙かに深く
  底知れぬ重さを秘めている

  事実を評価して
  評価の方を本当とする所に
  苦しみが生まれる

  比較できるものは
  比較できないものに支えられている
  その上に立って
  比較して
  一喜一憂している

  心のために
  馳せつかわれて
  安んずることがない

  どう生きるかは
  あなたの責任

本堂に座って 2011年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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東日本大震災から半年が過ぎましたが、
まだまだ被災地の復興・原発事故の収束は、
はっきりとした輪郭が見えてこないというのが正直なところです。
原発事故については、事故現場の状況そのものよりも、
原発の是非についての話題の方が耳に入る機会が多いようにも思います。

原発推進派・反対派それぞれに意見があり、
新聞・書籍・TV・インターネット等、
さまざまなメディアでそれらの意見を目にするのですが、
今のところ両者が「対話」するという形にはなっていない様です。
あまりに論点(視点)が違いすぎる…
というのがその理由の1つかもしれませんが、
もう1つ、忘れてしまっている大切な「姿勢」がある様に思います。

このたびの大震災に直面した私たちは、
重ねて大事な問題の提起を得ております。
「原子力に依存する現代生活」の問題であります。
これは、まさに地球規模で、全世界が直面している
「人間の方向」の問題であり、
表象するトレードオフの論議に象徴されますように、
デリケートでかつ緊要な課題であります。
日々、放射能飛散と被ばくの痛ましい現実から、
「原発」の誤謬性を思い知らされることであり、
したがって極力、丁寧な議論が必要な重大課題でありますが、
連日の報道等では、どうしても誰かを悪者にしなければおさまらない、
人間の悲しさが表出しております。

いま私たちは、真宗門徒として、「教えられる」ということを、
この問題への取り組みの基としなければなりません。
金子大榮先生の「やりなおすことのできない人生であるが、
見直すことはできる」とのご教示は、
教えに照らされてはじめて為せるという意味でありましょう。
みずからの生活は、みずからの都合で、
人間の考えの延長で見直すことはできません。
宗派といたしまして、まず「学ぶ」という姿勢、
「聞く」ということを堅持してまいりたいと思います。
決して自己関心に沈んだ正義を振りかざすことなく、
「目の前のひとりの人と語り合う・聞き続ける」。
それを、私たち自身が、ここに始められるかどうかにかかっているのであります。
「教えられる自分が明らかになるということだけが、
教える法(仏法)に応えることである」(安田理深)。

謙虚さをもって聞思し、積極的な学びを呼びかけ、
展いてまいる所存であります。
(「原子力に依存する現代生活」を問い直す姿勢を表明 -東本願寺HPより-)

原発について個人的に考えるためには、

(先月号に挙げたような)現実を知ることや、
この文章にある様に「原子力に依存する生活」を
見直すことから始めなければならないでしょう。
次に、考えた意見を人に伝える・共有する際には、
自分の意見を一方的に主張するばかりではなく、
相手の意見を「聞く」ことが大切になります。
意見の合わない相手を「間違っている」と切り捨ててしまうのではなく、
その話を「聞き」、立場を「知る」ことによって初めて
「語り合う」ことができるのではないでしょうか。

私たちが直面している「方向」の問題とは、
「生活のあり方(原発を必要としない生活、など)」についてだけでなく、
人と対話できること、物事に関心を持つこと、
物事から学ぶことができること、自分の間違いを認められること…
といったことをできるかどうかという
「自分自身のあり方」を問われているのだと思います。

今日も快晴!?2011年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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小学生の時から家庭科が大嫌いで、
(どうして男子は体育で女子は家庭科なんだ!
私も外でドッジボールしたい!!)と、
料理も裁縫も大の苦手だった私ですが、
結婚してから料理も何とかやるようになり、
娘の在が産まれてから更に奇跡的な変化が起こりました。

なんと、「手作りのお人形」にチャレンジすることになったのです。
同じように女の子を持つママ友から、
「こんなのがあるんだけど、一緒に作らない?」と誘われて、
ヴォルドルフ人形を一緒に作ることになりました。
ヴォルドルフ人形とは、シュタイナー教育で使われる
人形に付けられた名前で、羊毛などを用いて作られる
素朴で暖かみのあるお人形です。

2歳くらいまではお兄ちゃん達の恐竜とレゴとトミカで
何の問題もなく遊んでいた在ちゃんですが、
2歳のお誕生日に木製のままごとキッチンを購入して以来、
我が家に無かった女の子チックなアイテムの数々に(まあ、素敵♪)と、
こちらが開眼してしまいました。
かといって、お店で売っている人工的な質感の人形には
どうも違和感があり、どうせなら手作りで・・・と
探していたところ、渡りに船のお誘いです。

名古屋から先生を招き、お友だちと4人で1日講習を受け、
何とか完成したピンクの「ぽあぽあまりあちゃん」を、
在ちゃんは随分気に入ってくれて、どこに行くにも小脇に抱え、
昼も夜も一緒に寝てくれています。
この様子に気をよくした私は、ちょっと欲が出て、
更にお兄ちゃん達のお人形にもチャレンジすることにしました。
せっかく作るなら子どもたちの見ている前で・・・と思い、
夏休みを利用して帽子を被った男の子のお人形を作ることにしました。
誓のお人形(青)が先に完成し、「忍者くん」と名付けられました。
空中に放り投げたり激しく回転させられたりと
随分乱暴な遊び方ですが、とりあえず遊んでくれているようでした。

そして、最後に開のお人形(緑)を作った時です。
「いつ僕の人形を作ってくれるの?」と再三催促されたので、
さぞかし楽しみにしてくれているのだろうと思いきや、
いざ作る段になると、
「帽子は被せてくれるな」「顔は縫わなくても良い」
「髪の毛(=毛糸)は僕に切らせて欲しい」とあれこれ注文を付け、
言う通りにやらせたところ、前髪に2カ所もハゲを作り、
目と口を縫う場所には目印のまち針が刺さったまま「これで良い」と、
それ以上決して触らせてくれませんでした。

一応心を込めて作ったつもりだったので、
中途半端に未完成なその人形を見て随分残念な気持ちがし、
また(せっかく作ったのに・・・)と怒りの気持さえ沸いてきました。

けれど、よくよく考えてみると、開と誓は一言も
「僕たちの人形を作って欲しい」とは言っておらず、
小学生に上がった男の子達に「お人形を作る」という行為自体が、
私の(作って上げたい)という気持の押しつけで、
単なるエゴだったのではないかと思い当たりました。
開はもう3年生です。世間的にはそろそろ反抗期なり
思春期なりがスタートしてもおかしくない年齢です。
(恥ずかしいからお人形なんていらないよ)と言う気持ちと、
(でも、ちょっと嬉しいかも)という気持ちが微妙なバランスで
混じり合っているのだと思います。

近々始まりそうな子どもたちの反抗期を、
「大人への大切なステップ」と、喜んで迎える準備を
こちらもしておかないといけないなぁと思いました。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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