清風 2011年11月

テーマ:清風 【住職】

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この度の地震と津波で被害を被った地方の復興に際して、
復興資金として国の税金が投入される審議が、
今国会で行われていますが、
これをビジネスチャンスとして商社マンたちが、
この復興資金に群がっていることが伝えられています。
なるほど、
第3次補正予算までしての莫大な予算が付けられるわけですから、
ビジネスチャンスといえばそうなんでしょう。
 
それぞれの被災した地域は、
長い歴史をかけて作られてきたのですから、
そこには先人の知恵といったものが生かされながら、
これまでのまちづくりが行われてきたに違いありません。

それらの知恵が積み上げられて作られてきた、
ふるさととしての町・村が、
ビジネスという視点からのみ作られてゆく場合、
人間不在という懸念が払拭できない…
というのが現地からの報告です。
便利にはなるかもしれないけれど、
住みにくい町になるのではないかと、
未来の子たちが心配しなくてもよいまちづくりができることを、
願わずにはいられません。
 
先回にも書きましたが、
近代の人間は自然を資源としてしか見えなくなってしまいました。
国境争いも、資源が見つかると大変緊張を増す傾向にあります。
しかし自然は、漢字では「おのずから、しからしむ」と読みます。
地球は、地球自ずからなる原理で動くのであって、当然のことながら、
人間の思惑によって動くのではありません。地球があって、
一番後からこの地球に登場したのが人間なのです。
やはり、謙虚に生きねばならないのだということではないでしょうか。
客人が主人公のような振るまいをしている、
その結果地球が限界にきているということを、
今回の災害から学ぶべきなのかもしれません。
 
私らの根性は、「わかっちゃいるけど やめられない」と、
植木等さんも歌っていたように、もう変わらないのですかね。

 

 

『正信偈』のはなし 2011年11月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切 
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

「源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。」

我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照らしたもう、といえり。

かつて、障がい児を預かっている学校で、
明らかに<存在>と書くべきところを<尊在>
と書いてある保護者の原稿に気づき、
確認したところ「いや、それでいいんです」という返事とともに、
「家の子を最近、やっと損在から尊在と
受け止められるようになりました」
という親御さんの言葉が返ってきて、
あらためて障がい児教育に携わってきた先生の、
次のような感想を紹介したことがありました。

「障がいを持った1人の子の存在は、
不条理な苦痛や苦悩を本人はもとより家族や周囲の者に負わせる。
その重い桎梏(しっこく=自由な行動を束縛するもの)の中で
「損在」から「尊在」へと変化させたものは、何なのであろうか。
改めて、障がい児教育の原初の意味を厳しく問われる思いがした。
(中略)もの言わぬ子の澄んだ瞳やあどけない笑顔-
重度や重複の障がい児は、自分の手で直接社会に関わることなく
無為に過ごすかのように見えるが、決してそうではない。
彼らは親を走らせ、その周辺の者を動かし、
一切の虚妄をはいだ人間のあるべき姿を、為すべき行為を、
うながしているのではなかろうか」と。
 
冒頭の「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」とは、
私どもの持つ眼(生きる姿勢)の持つ、
本質的闇(眼があっても見えない闇)の存在を告げる言葉といえよう。
「それは所詮、虚妄だ」と。その闇(虚妄)を、
障がいを持った子が知らせてくれたのであろう。
障がいはあの子にあるのではなく、こちら健常者にこそあるのだと。
「我を照らしたもう」の一句を獲得された、源信僧都。
僧都が苦悩の深さの中から摂取の光に遇われた、
その喜びは、いかばかりであったろう。

お庫裡から 2011年11月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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子ども(孫)の読む本の中には、大人でもわくわく胸を踊らせ、
引き込まれて読む物語があります。
孫の本棚に「獣の奏者」外伝 上橋菜穂子著 を見つけ、
早速読んでみると面白く、本編がどんな物語か知りたくなりました。
開くんが「ぼくの学校にあるよ」と言うので、
借りてきてくれるよう頼みました。

そうして一ヶ月が経った頃、
本を読んでいる開くんのそばを通ると、本の背表紙を見せて
「おばあちゃん、これ」「あっ!『獣の奏者』だ。借りてきてくれたの」
大喜びしたのに
「僕が読んでからね。それにもう明日返さなければならないから」
と冷たい返事。
「開くんが読んだ後で結構です。一晩で読みます」

ワクワクして手にした本は、
何故だか5、続けて借りてきてくれたのは6。
それはそれで面白いのですが、全体の姿が今ひとつつかめません。
「『獣の奏者』って何巻まであるの。おばあちゃん1から読みたいんだけれど。」
と言うと、
「エー、おばあちゃん、まだ読んでいなかったの。
この本は1~8まであるんだけど、
学校には何故か7・8が無いんだよ」の返事。

翌日、誓くんがニコニコ顔で学校から帰ってきました。
「おばあちゃん、ハイ。おばあちゃんの為に借りてきてあげたよ」と
『獣の奏者 1』を手渡してくれたのです。
「ありがとう、誓くーん」誓くんに借りを作った為か、
「ネー、おばあちゃん、遊ボー」と強気で誘われます。
チャンバラ・闘い・相撲・かけっこ・ボール投げetc.。
この頃、私の体力が落ちたのか、誓くんに体力がついたのか、
「遊んでもいいけど20分だけね」時間制限の確約をとって、
やっこらせと重い腰を上げます。
『獣の奏者』が完読できるのは、何日になることやら。

今月の掲示板 2011年11月

テーマ:今月の掲示板

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  自分を狂わせ 迷わせる敵は
  内にある          安田理深

  行きづまるのは
  自我の思いだけである    清沢満之

  煩悩(苦悩)を薪(たきぎ)として
  念仏の火が燃える      金子大栄

  自己だと思っていたのは
  自我 理性である。

  気がつくということは
  迷いであったと悟ることです。

  念仏するとは
  わがままな心のこわれゆくことである。

  そういうお前はどうや

本堂に座って 2011年11月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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東日本大震災以降、「生活を見直そう」とか
「世の中の仕組みを変えなければ」という声がよく聞かれます。
ところが、何をどう見直せばよいか…という点が、
いまいちはっきりしません。
そんな中、もっとも基本的な
「人(私)」について書いてくださっている文章に出会いました。

十六世紀から現代に至るまでの世界の進み方を
一言で表せば「人間中心」ということになります。
人間が他の生き物と一番違うところは何か、
人間が人間たる一番の所以は何かというと、
考えることができるということです。考えてそれを実行に移す。
たとえば、考えて(人間の知恵によって)便利な物が発明される。
それは多くの人から喜ばれます。
その結果、お金を払って買ってもらえます。

すると、そのような成果によって多くの収入が得られ、
発明した人は価値のある人と見られる。
成果に応じて報酬や地位が得られる。
ですから、私たちは所得とか地位を得るためには、
そこに数値とか、あるいは科学的なものの考え方が要求されるわけです。
違ういい方をすれば、結果としての成果しか見てもらえない。
期待される結果が出なければ、
どんなに一生懸命取り組んだとしても、
それはほとんど評価されません。

そして学校生活の中でも、偏差値の高い人、
よい成果を生み出す人は能力が高い、
つまり価値が高いと見られるわけです。
現代は、本当にそのことばかりで人間が見られていくわけです。
世間では、とりわけ経済への貢献度で人間が価値付けされていきます。

ところが、人間のための経済であったはずのことが、
経済の比重が高くなり、いつの間にか行き過ぎて逆転してしまう。
経済のための人間になってしまいました。
(中略)
人間のための経済だったはずなのに、いつの間にか私たち人間は、
経済のための材料になってしまったのです。
いわゆる「人材」として調整される。
そうすると、「人材」はよい材料でなければなりません。
競争させられ、競争に負けた「人材」は不要になる。
実は、このことが現在起こっている社会の閉塞感の
一つの大きな要因になっていると思います。
(中略)
さらに、資本主義経済というものは、
最終的には人間がどんどんバラバラになっていく
という傾向を持ちます。
(中略)
みんな一緒に住むのではなく、バラバラに住む。
親子一緒に住まないで、別々に住んだ方が経済は発展するのです。
そうやって人間がバラバラになっていく。バラバラになると、
助け合うということもなかなかできない。
そんな中で競争させられるのです。
特にここで大事なことは、学校とか家庭とか、
子どもが安心して育つ場では、そうであってはならないのですが、
ちょっと下手をすると成果ばかりが求められてしまうということです。
(中略)
成果のみが求められる世界で追いつめられていく
子どもたちの姿が見えてくるのです。
(『安心してがんばれる世界を』真城義麿 著
東本願寺出版部発行より抜粋して掲載しました)

 「人材」という価値観は、今では当たり前のことになっています。
また、この価値観によって世の中の仕組みも
出来上がっている様に思います。
私たちが何に価値を見出しているのか、私はどうなりたいのか…
まずこの点を見直さなければ、結局は何も変わらないと思います。

今日も快晴!?2011年11月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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子どもの小学校の授業で「お店探検」がありました。
子どもたちがそれぞれ300円のお小遣いを持ち、
少人数のグループに分かれて校区内の数件のお店を回り、
行ったお店で好きな物を購入して良い・・・という活動だったのですが、
付き添いで参加してみて(これは良いのかしら?)
と思うことがいくつもありました。
まず、子どもたちの行くお店がコンビニ、ミスド、ブック○○(古本屋)、
ドラッグストア等々、大手資本のチェーン店やファーストフード等、
私だったら、子どもを連れて行かないようなお店ばかりでした。
当然、子どもが購入するのはお菓子、マンガ等々になります。
それを学校に持ち帰り、
授業時間内に食べたり読んだりしたと言うので、
益々気になり、自分が疑問に感じたところをまとめてみました。

【1】子どもにお金を持たせて自由に買い物をさせるという行為は、
各家庭によっていつからさせるのか基準がばらばらなので、
低学年の内に学校で一括してさせないで欲しい。

【2】もし「買い物」をさせたいのであれば、行かせるお店を厳選して欲しい。
地元の方が地元で昔から経営している個人商店などが良いのではないか。
身近な大人が働く姿を見たり、物を作る様子を見るのは、
子どもたちにとって、とても良い勉強になると思う。

【3】ただ「何でも好きな物を買って良い」ではなく、
買う物に意味を持たせて欲しい。
例えば、おうちで今晩のおかずを聞いてそれに使うのものを購入し、
その日の夜は各家庭で買ってきた材料で一緒に夕食を作るとか、
調理実習や造形フェスティバルに使う材料を購入するとか、
購入した物がどのように利用されるのか、
結果が分かる買い物が良いのではないか。

【4】お菓子やマンガを学校に持ち込み、
授業中に食べたり読んだりは控えて欲しい。

【5】学校で得られる「喜び」は、「物を買う喜び」ではなく、
「友達と協力して、良い作品や経験が出来た」
「頑張って練習して、出来なかったことが出来るようになった」
「一生懸命考えて、難しい問題が解けた」等の『喜び』であって欲しい。

【6】「買う」という行為には、将来的に万引き、お金欲しさの売春、
カードローン、自己破産等、難しい問題が絡んでくる危険性がある。
早くから「買う楽しさ」ばかりを教えないで欲しい。

その他、子どもたちがお店に入った際のあいさつの仕方や、
「お店の方に質問をする」という活動についてなど、
あれこれ全部で10項目くらいの提案になったのですが、
自分が一番学校にお願いしたいことは、
「子どもたちを『消費者』として、早くから経済社会に巻き込まれないようにして欲しい」という事でした。

「現代は欲望を抑えることが難しく、
どんどんお金を使わせることに社会全体が向いていて、
子どもすら「消費者」として巻き込まれている感があります。
大人になれば、否応なしに「経済活動」に巻き込まれてゆきます。
だからこそ、親としては子どもがしっかりものを選ぶ基準を身につけ、
きちんとした買い物が出来るようになるまで、
自由にお金を持たせたり、
買い物をさせるのは待ちたいと思っています。」という言葉を、
一保護者として学校に伝えたいと思いました。

今回の他にも、(最近の学校は緩いなぁ・・・?)と感じることが多く、
恐らく、私たち親世代がそういう「緩さ」を求めていて、
学校がどんどんそれに合わせてしまっている気がします。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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