清風 2012年2月

テーマ:清風 【住職】

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「横」はよこさまという、如来の願力也。他力をもうすなり。
「超」はこえてという。
生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。
信心を浄土真宗の正意としるべしとなり。
「横超の釋」(『尊号真像銘文』より)

親鸞聖人は、念仏の立場を「横超(おうちょう)」と位置づけておられます。
「横超」とは「堅超(しゅちょう)」に対する言葉です。(堅…縦の意)
「堅超」とは、例えば、竹の中の虫が外へ出ようとして、
竹の節を下から上へ上へと一つずつ食い破っていく、ということです。
「横超」は、「堅超」の例に拠るならば、竹の中の虫が、
上へ登らず竹の側面を食い破って
外へ出るという方法をとることと言えます。

しかし親鸞聖人は、「横超」とは、
人生に方向が決まれば無駄なことは一つもない、
生きることそのことに意味がある、
いわば人生には深さがあるという発見のことだと受け取られました。

親鸞聖人は、本当の解放された相を、
法然上人からの「ただ念仏して」の一句に感得していかれました。
それが深さの発見として実った(成就した)のです。
解放とは、束縛から解き放たれることです。
そこで課題となるのは、その束縛の正体は何かということでしょう。
私の思うようになるのが幸せだという先入観があるために、
思うようにならない事実は引き受けられません。
そこに生まれるのが被害者意識です。
その時必ず加害者探しが始まります。
束縛しているのは「私の思い」(竹の側面のこと)だったのです。
束縛が無くなるということは、束縛の構造がはっきりしたことです。
決着はつかない、と決着した…
何故なら、他に束縛の原因があるのではないからです。
改めて冒頭の言葉に注意させられます。
私は「他力」のど真ん中で育てられて生きてきたし、
今も生きているという事実に気づけない―その結果として、
他ならぬ私が私自身を見失ってしまったのです。
私の「思い」私とすることに何の疑問も持てなくなってしまいました。
では私とは何か…ここで初めて、
私は人生のスタートに立ったと言えるのでしょう。
「出家」とは、この事実を指すことであったのです。

『正信偈』のはなし 2012年2月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入

「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

法然上人(源空)(1133~1212)の在世せられた時代は、
(今年の大河ドラマ)「平清盛」が
生きた時代(1118~1181)と重なっており、
古代の終焉、中世社会の始まる時代で、変革期と言われています。
こういう変革期の時代を背景に、鎌倉仏教の祖師たちは生きられました。
法然上人は、殊に、旧仏教からは
「仏法の怨敵」「近代法滅の主」などのレッテルが貼られました。
これは、身分の上下を超えた帰依者が
続々と生まれてきた事実を物語ると言えるでしょう。
法然上人の回心(専修念仏への帰依)は、上人43歳(1175年)の時です。
これまでに、上人は比叡山の黒谷(比叡山にあって、当時の比叡のあり方に
疑問を持った人たちが修行していた地域)の報恩蔵で、
当時手にすることのできた全ての経典(一切経)を
読まれたという勉学の背景があって、
43歳の時に、中国の浄土教の先覚、善導大師の
『仏説観無量寿経』の注釈書、『観経疏』の
一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、
念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、
かの仏願に順ずるがゆえに。
という一節を読まれて、初めて仏教を自己の立脚地
(いわゆる、浄土教でいう、救いにあずかること)として
安んずることができた、と自身が告白されています。
では何故、専修念仏こそが釈尊の説こうとされた教えだと、
法然上人は決着されたのでしょうか。
それは、なぜ人間のみが宗教
(広くとれば生きる意味とか世間体)を問題とするのかということと、
深く関わっているといえます。
人は誰もが、自分の人生について先入観を持っているということと
関係があるのです。
その先入観を点検してみなければならないと気付かれたのが、
法然上人の出現の意味であったということです。

お庫裡から 2012年2月

テーマ:清風 【住職】
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厳しい寒さが続いております。
皆様、元気にお暮らしでしょうか。

凍みるような寒い日には、ヒートテック下着とかフリースとか
出まわっている寒さ対策の衣類を上下に何枚も着重ね、
コロコロになっています。
暖房をつけた部屋の中にいても、出ている指先は血の巡りが悪く、
すぐに感覚がなくなってきます。(100円手袋必需品)

それでも、そんな日ばかりではなく、
よく晴れた日には、春の陽ざしがキラキラ輝いて、
外へ出ておいでよと誘い出してくれます。
たっぷりの陽ざしを浴びて、ふと下を見ると、
かすかに青い色をつけた草達を見つけます。
「ああ、あんた達、寒いのによく頑張っとるねー」とエールを送りつつも、
「私に見つかっちゃ駄目よ。ご免ね」と抜き取ります。

三寒四温の今、こんな時節を、私は後何度過ごさせて頂けるのかと思うと、
寒い日は寒い日で、温かければその中で、文句を言ったり喜んだりする、
その全ての事が、素晴らし事に思えるのです。
素晴らしいと思っている生活の中味は、些細なことに腹が立ちます。
文句も言います。愚痴もこぼれます。
しかし、それらはみんな、私が生きているから、
すでに与えられているからやれる事。
そこがはっきり見えると、
生きているって何と愛しい事なのかと思わずにはおれません。
生まれてきたのは、そんな自分に遇うためだったのですね。

今月の掲示板 2012年2月

テーマ:今月の掲示板

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ありがとう(有ること難い)の反対語は 当たり前。
何でも、当たり前としか受け取れない。
それが、人間知の闇だ。

地上に天国を作ろうとする企ては、
不可避的に地獄を生み出す。   K.R.ボロー

経済がある程度以上に大きくなると
隙間というものを許容できなくなるのでしょう。
金銭的な利益につながらないものは存在してはいけない
という考え方が出てきます。    片岡義男

神仏を拝んで願いがかなうなら
この世には、病人や死人はなくなるだろう。

進化、進歩というが、
そのかげで退化しているものがあることを知らない。

不偏の人類愛    吉野源三郎
だれもかれもが
力いっぱいに
のびのびと生きてゆける世の中
だれもかれも
「生きてきてよかった」と思える世の中
自分を大切にすることが
同時にひとを大切にすることになる世の中
そういう世の中を来させる仕事が
君たちの行く手にまっている
大きな大きな仕事
生きがいのある仕事

念仏申したら救われるという話を聞くのではない
念仏でなければ救われない自分を知らせて頂くのだ

仏さまの智慧
虚飾を演じなくていいんだよ
ありのままの自分に還りなさい
肩に力を入れる必要もないのです

「ようこそ」という絶対肯定は
引き受けるということ
そのままの今を自分として生きる

本堂に座って 2012年2月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先月の文章の中で、「子どもの権利」を大切にするためには
日常の接し方が重要…と書きましたが、
以前から読ませていただいている真城先生の本に、
より具体的に書いてくださってありましたので、
あらためて引用させていただきます。

私たちはやはり、存在を肯定してもらわないと生きていけないのです。
誰からも見えていない、誰からも肯定されない、誰からも認められない、
誰からも必要とされているように感じないというのはつらい。
何よりもつらい。
だから、認めていこう、存在を肯定し合おうということです。
学校でも親子関係でもそうですが、
子どもたちは大人から無視されることが続くと、
わざと悪いことをしたりしますね。
それは、否定的でもいいからとにかく
ストロークメッセージが欲しいということです。
叱られるというかたちでもいいから、
自分がここに存在しているということを
認めているものがほしいということです。
「ノーメッセージ」が一番辛いということです。

存在を肯定したうえで、次に大切なことが可能性を広げるということです。
親や学校の先生の仕事は、子どものやる気に火をつけるということです。
どんな人でも自分の成長過程で、
誰かから何かの火を灯してもらった経験があるのではないかと思います。
子どもたちはいわば火種の束みたいなものですから、
火がついて燃え始めると、ちゃんと頑張るのです。
野球に燃えている子に「野球の練習をしろ」なんていう必要はないのです。

その反対に、子どもの火が消えそうになっていたら、
どんなことをしてでもその種火を守ってあげなければなりません。
「あなたは何のために今生きているの、何に向かって生きていくの」
と問うことがとても大事なのです。
ここに火がつくと、実はものすごく勉強していきます。
また、ほめる技術も大切です。ほめる技術というのは、
とにかく今、世の中では「ほめなさい、ほめなさい」といわれますが、
嫌いな人からほめられても嬉しくないのです。
つまり、「ほめる」が有効になるためには信頼関係が必要なのです。
(中略)そして、結果をほめるよりも、取り組んだ過程を認めていく方が、
いわれた側はうれしいですね。
それは、「この人は成果ではなく、この私に関心をもってくれているのだ」
ということになるからです。
「ほめる」よりまずは「認める」ですね。

(中略)それからほめるのとは逆ですが、注意しなければいけないのは、
「ダブル・バインド」ということです。
これは、どう答えても叱られるという責め方です。
両方の出口をふさいだまま叱るというやり方です。
「こんなこともわからなかったのか」と聞かれて、
「わかりません」と答えると、
「お前いくつや。その歳でこんなことも知らんのか」
といって怒られるわけです。
「わかっていました」と答えると、
「わかっていたのなら何でやったんだ」といって叱られるわけですから、
出口がないのです。
これを親や教師にやり続けられると、
子どもたちはコミュニケーション不全といいますか、
「コミュニケーションというものは有効ではないのだ」と思うようになります。
これは気を付けないといけません。
(『安心してがんばれる世界を』真城義麿著 東本願寺出版部発行より抜粋して掲載しました)

存在を肯定することも、やる気を出させることも、ほめることも、
単に「技術」でするのではなく、
きちんと向き合い関係を築くことが大切になるということです。
このようなお話から「方法」を学ぶ(習得する)のではなく、
「私の内面」を学ぶ(見つめ直し、教えられる)必要があるのだと思います。

今日も快晴!?2012年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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子育て中はなかなか講演会など出かけるチャンスは少ないのですが、
先日(これは!)と思うものが豊田で開催されたので、
友人宅にありちゃんを押しつけて出かけてきました。
生命科学の研究に長く携わって来られた
中村桂子さんをお招きしての
『「いのち」をめぐって ~本の中の子どもを手がかりに~』
と言うタイトルのものでしたが、
その内容は本当に素晴しくあっという間の2時間でした。

 「自分は長く生命科学の研究を続けてきたが、
生命科学はある意味生き物を機械のように扱う。
しかし、自分が結婚して子どもを授かり、
日々子育てをする中で、毎日の食事作りやら子どもとのやりとりやら、
自分がしていることは、研究室とは別世界だった。」
と言う言葉から始まった講演会は、
「この地球上に存在するあらゆる生き物は、
38億年前に誕生した生命体が進化を重ね、
今のような生態系が出来上がった。
自分は蝶の研究をしているが、蝶をよく観察すると、
人間と全く同じ働きをする器官を持つことが分かった。

つまり、蝶と人間は仲間である。あらゆる生き物は、
自分と仲間なのである。
人間はヒトという生き物で、自然の中にいる。
しかし、人間だけはその生命誌
(=人間を含む生き物の長い長い歴史物語の意)の
ピラミッドから外れた気でいたのではないか?
外れた世界は金融市場主義と科学技術の世界。
しかしそうではなく、人間も自然の一部なのだから、
外の自然を壊すと人間の中身も壊れてしまう。
全ての生命とのつながりの中に自分がいるのである。」
「生き物には時間が必要。育っていかないといけない。
機械は飛ばすことが出来る。
人間は、2歳や3歳を飛ばしてはいけない。
生き物は時間を紡ぐのである」

・・・「現代は、『便利』と言う価値観が求められるが、
『便利』の中身は『早くできる(手が抜ける)』と言うことと、
『思い通りになる』と言うこと。
しかし、生き物にこれは出来ない。
時間を紡がなければいけない。」 
「現代は『待つ』と言うことが出来ない。
心には「時間」と「関係」が必要。自動車を作るなら、
設計図と部品があればよい。
しかし、子どもは「作る」のではなく、
『恵まれる』『授かる』もの。
早いだけではなく、生命を育てるという価値観に転換しなければ。
もし、早いことが一番良いことなら、
生まれてすぐに死ねば良いのであって、
「手を掛ける」ことは「喜び」でもある。」
「昔は、『学ぶ』と『遊ぶ』と『働く』が一体化していたが、
今は別々になってしまっている。
そのことが、生きるという実感を損なってしまっている。
人間は、全体を見なくてはいけない。
生き物には『予測不可能性』がある。
『思いがけないこと』が起こる。機械にはそれがない」
「だって、人間が他の生き物と繋がっているのは事実ですから」と
にっこり微笑む中村先生の言葉は、
長年の研究に裏付けられた科学的根拠を持った真実で、
それは自分がお寺で、浄土真宗の教えとして聞いてきた事と全く同じでした。

(何だ。仏法と最新科学って繋がるんだ!)と嬉しくなってしまいました。
同時に、子育て真っ最中のものとしては
「子どもは2歳、3歳を飛ばしてはいけない」と言う言葉に、
深く深く肯けました。
私も『待つ』ことは苦手ですが、必要以上に焦らず、無理な要求はせず、
3人の子どもたちのそれぞれの姿をありのままに受け止めてゆきたいと思いました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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