清風 2012年4月

テーマ:清風 【住職】

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― 仏教ブームといわれる現状をどう見ますか。
「仏教への入り口が広がるのはいいが、その先が肝心。癒やし
にからめて語られがちだが、親鸞の思想などは癒やしからも
っとも遠い。目指すのは自分の存在を解体した先の安堵感で
すから、自己否定が伴います。信仰を持つ人は心が弱いとい
う偏見もまだある。」
「僧侶には、葬式をもっと真剣にしようと提案したい。」

<中島岳志さん>
北海道大学准教授、1975年生まれ。
専門は南アジア地域研究、政治思想家。宗教とナショナリズムを考察。
(この言葉は、「自分探し仏教が解放」と題して、
2012年1月16日付朝日新聞夕刊に掲載された文章からの転載です。)

葬儀において袈裟を付ける者として
最近の「葬式仏教」という批判を聞くにつけ、
内面忸怩たる思いを抱く者としては、
ことに「葬式を真剣にしようと提案したい」という言葉は
たいへん大事な問題提起であると受け止めさせていただいた。
サービスは金で買うものという時代の流れから、
「無縁社会」という声とともに、儀式(ことに葬儀など)は
仏事であるということが見過ごされ、
わずかに地縁・血縁を繋ぐものとしてのみ見られ、
大切な「死から学ぶ場」という意味合いが遠ざけられてしまっている。
しかし依然として、私ども僧侶は、
単に習俗としての儀式執行という位置づけしかできないでいる。
こうした僧侶の不勉強の実情の中で、現代人には一層、
仏事(葬儀・法事など)についての位置づけを
きちんとできなくさせてしまっている。
この中島さんのコメントは、3・11以後の日本の将来において、
「死」という出来事が生きる上で
避けて通れない事態であるにもかかわらず、
あたかも起こらない事であるかのごとく
遠ざけられてきたこれまでとは異なり、
葬儀が、むしろ生きる意味をあらためて問い直すための
大事な場として回復されなければならない-というメッセージである。
このメッセージを、私自身の立ち位置を確かめる提言として、
大切にしていきたいと思う。

『正信偈』のはなし 2012年4月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

先回、法然上人は
「なぜ阿弥陀如来は、ただ(唯)念仏をもって
往生(すくい)の行(正定業)とされたのか」という問いを立て、
勝劣の義と難易の義の二義を立てて、
念仏一つが救いの行であることを決判されたと書きました。

この問いに対し「答へて曰く、聖意(仏の御心)測り難し、
たやすく解することあたはず。
今試みに二の義をもってこれを解せば」と断った上で、
次のように答えておられます。
まず「勝劣の義」について。例えば、「家」という名の中には、
その材料となる「柱」や「棟」といったものも含まれているが、
「柱」や「棟」といった名では
「家」そのものを表すことはできない-というように、
念仏・南無阿弥陀仏は名(仏の名号)であって、
(「名は体を表す」と言われるように)
名(念仏)には仏のすべての徳が表現されているからであると
言われています。

そして「難易の義」について。
「造像起塔をもって本願とせば、
貧窮困乏の類は定んで往生の望みを絶たむ。
しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。
もし智慧高才をもって本願とせば、
愚 鈍下智の者は定んで往生の望みを絶たむ。
しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し(略)」等の例を挙げて、
「弥陀如来は、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、
普く一切を摂せむがために、
造像起塔等の諸行をもって往生の本願としたまはず。
ただ称名念仏の一行をもって、その本願としたまへり」と言われています。
この法然上人の主張は、後善導と言われた法照禅師によって
次のように言われていることをふまえることが前提といえます。
「名を聞きて我を念ぜば惣(すべ)て迎へに来たらむ。
貧窮と富貴とを簡(えら)ばず、下智と高才を簡ばず(略)」
なぜ仏の名(念仏)を称えれば救われるのか…
それには上記『正信偈』2句目の「善悪の凡夫人」という語に
注目しなければならないでしょう。
(続く)

お庫裡から 2012年4月

テーマ:今月の掲示板
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「おばあちゃんに叱られるかもしれないけれど」と前置きして、
「僕、疑問に思うことがあるの」と開くん。
「どうして、木や金で作った仏像に手を合わせて、
おまいりするのかなーって」
「それは、いい所に気がついたね。人間は、言葉を話す生き物だから、
何でも何でも言葉にして、言葉で理解するし、
言葉と物が一致すると、より理解が深まるでしょ。
でも世の中には、言葉は有っても、それをつかみ出して見ることのできない、
ハタラキとして有るということがある。
例えば、いのちという言葉、誰でも知っているのに、
「いのちはこれです」と取り出して見ることは出来ないね。
いのちの説明は、生きていることですとしか言えない。
開くんは9年前に、突然オギャーと生まれた訳ではないんだよ。
開くんのいのちは、お父さん、お母さんから頂き、
その2人は、各々の両親と繋がり、
10代前に遡ると、開くんが誕生するまでに
1024人の親がいてくれたんだよ。
もっと遡れば、38億年前、地球上に初めて
単細胞のアメーバーといういのちの誕生に由来している。
開くんは、38億年の準備がようやく整って、
やっと人間に生まれさせてもらえたという事だね。
身体は、大人と子どもでは多少違うけれど、
約60兆の細胞が、各々の部位ごとに、
そこでの役割を果してくれていることによって生きている(他力)。
この細胞の結合体がハタライているのは、
「開と名前がついた君よ、君は無上尊(比べる必要のない、
それ自体で尊いこと)なり。
あなたは、あなたに成ればいい、あなたは、あなたで在ればいい」
と願われているのだ(本願)と。

無上尊のいのちを見出し、その名を
『南無阿弥陀仏』と言い立てられたのがお釈迦さま。
でも悲しいことに、生まれてみると、
そのことは当たり前と思い、人と比べて右往左往。
いばりん坊になったり、身を守ろうとずるをしたり、
無上尊と尊ばれ願われている自分を見失っていくんだよ。
『南無阿弥陀仏』とお念仏を申すのは、
無上尊を忘れている自分への呼びかけを聞く為であり、
無上尊のいのちと願いをいただいている私への御礼の意味もある。
念仏は、どこで申してもいいけれど、
そのことがより解りやすく、後の者に伝わるよう、
先人が木や金で『阿弥陀如来像』を作り、その前に人を招き寄せ、
あらゆる人々に「無上尊の自分を見つけてください」
と願っているのが、仏像の役目。
だから仏像と念仏を介して、
自分自身に手を合わせるのが仏教という教えなんだよ。

今月の掲示板 2012年4月

テーマ:今月の掲示板

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  自力というのは
  自分をあてにし、自分は正しい
  というものがある。

  自力というのは
  どれほどやっても成就することは難しい。
  あり得ない。

  自分とは
  何でも決めつける。
  どこまでも決めつけることで
  自分に頭が下がらない。

  自分が正しいという心を持っている限りは
  相手が間違っているという心だ。
  必ずそこに壁が作られる。
  
  私の思いは間に合わない。
  「私の判断で、間に合っている
   それで、私の存在が成立する」
  ということは、一切ない。

  教えに遇うということは
  自分が破られ、自分が今、生きている。
  閉じた世界と
  違う世界に開かれるということです。

  アミダさんというのは
  構えなくてもいい世界に触れるということです。

本堂に座って 2012年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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毎年、3月末の永代経法要では初まいり式を行っています。
この1年間に、新しく守綱寺のご門徒になられた方・結婚された方・
誕生された赤ちゃん…のお祝いをさせていただくとともに、
仏さま・お寺とご縁を結んでいただく場とさせていただいています。
そんな「仏さまとご縁を結ぶ」意義について、
とてもわかりやすく表現していただいている文章を紹介したいと思います。

《思い通りにならないことが、ありがたい》
 (ある結婚式でのスピーチです。)
「ご結婚おめでとうございます。結婚というものは、良いもんですよ。
人として生まれて、やっぱり結婚しなけりゃいかん。結婚は良いもんである。
どうして良いかというと、自分の思い通りにならない人が
いつもそばにいてくれて、そして人間になっていくからです。」
そうしたら、年配の方々はクスクス笑いました。
みんな身に覚えがあるのでしょう。
若い人たちは「なんというスピーチをするのか」と
怪訝な顔して私を見ていましたから、少し説明を付け加えました。
結婚というのは、一番愛し合っている人とする。
また、一番お互いに理解しあっている人とするわけです。
そして、お互いにこの人と人生最後まで
共に暮らそうと決意して結婚するわけです。
ところが、その相手がなかなか思い通りにならない。
赤の他人が自分の思い通りにならなくても、それはたいしたことではない。
しかし、一番自分を理解してくれていると思っている人が
なかなか思い通りにならない。
それだからこそ人間は人間として成長していくわけです。
(中略)
結婚というのは、生まれも育ちも違う二人が一緒になるのですから、
ときには喜びの中で抱き合って涙にむせぶこともある。
ときには「こんな人とは思わなかった」と腹を立ててみたりするのが、
結婚生活でしょう。
それを繰り返しながら、お互いに人間として成長するのではないでしょうか。
「こんな分からず屋だったとは」「こんな頑固な人だったとは」と、
お互いに腹を立てています。
しかし、しばらくすると、
「まてよ、私のほうにも問題があったんではないか」と、
相手のことも考えずに、自分の思い通りにしようとした
自分のエゴイズムが強かったんじゃないだろうかと考えるのが人間でしょう。
そういうことを考えながら人間として成長していくのでしょう。
じつは仏教は「他に対しても自分に対しても、
自分の思い通りにならないもの、
自分に不都合のものを抱えて生きていくのが人間である」
ということを教えているのです。
ですから、自分に都合の悪いもの、
自分の思い通りにならないものを切り捨てるような人生は、
人間の人生ではないのです。
(中略)
「自分の都合の悪いもの、自分の思い通りにならないものを
抱えて生きているのが人間であって、そういうものがなくなったら、
それはもう人間じゃないのだ」と(仏教は)教えてくれるのです。
(『いま人間を考える』小川一乗 著 
法蔵館発行より抜粋して掲載しました)

私たちのまわりは、思い通りにならない人・ことばかりです。
それを思い通りにしようとするために、
返って苦痛に感じてしまっています。
思い通りにならないことがあることを自覚し受け止めるところから、
新たな視点を見出したり、次の一歩が踏み出せるのでしょう。
仏さまの教えを聞くことで、
あらためてそのことに気づかせていただけるのです。

今日も快晴!?2012年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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この4月に、我が家の末っ子の在ちゃんが
ついに地元の子ども園に入園します。
去年の今頃は、周りが次々3年保育で入園させる中、
(最後の姫をそう簡単には手放さないわ!
手元に置いて、愛情たっぷりで育てるのよ!)
と意気込んでいたものです。
しかし、1年経った今では、
(全くこのクソ生意気な小娘は誰の子だ!?早く園に行けば良いのに・・・!)
と思う瞬間が多々多々多々多々あります。
例えば、トイレに行ってもまだ自分で拭くことが出来ないので私がお世話をしていると
「お母さん!今間違っておちょんちょんの横の所拭いたでしょう!」
と言うので、
(・・ったく。忙しい時間にご飯の支度を中断して付いて来たのに。
文句あるなら自分でやってくれ~)と思っていると、
「全くもう!」と更に追い打ちを掛けられます。(それは、私が言いたい・・・。)

また、先日も交流館で大型の絵本を借りて、
「手提げ袋に自分で入れる!」と言い出して大騒ぎです。
絶対入らない縦向きに入れようとするので、
「こうしないと持てないよ」と横向きに入れようとすると、
「違う!そうじゃなかった~!」とかんしゃくを起こし、
交流館の中で大泣きです。
「今日はこの後、まだ行くところがあるから」「ギャォ~!」
「借りた絵本は持ってあげるから」「ウギャ~!」「早くして!」「ホゲェ~!」
「いい加減にしなさい!!」「ビエェェ~ン!!」等々、
何を言っても一度入った泣きスイッチはオフにならず、
回りからは気の毒そうな目で見られるし、
上2人は「お母さん、ぼくたち先に隣の子ども図書室に行ってるね。」
とさっさと見放して行ってしまうし、
こちらも一度噴出した怒りはなかなか収まらず、泣き叫ぶ我が子を前に、
今借りたばかりの15冊の本達が、より一層ずっしりと両肩に感じられたものです・・・。

これが隣の家の子どもなら、泣いている姿を見ながら
「自己主張が出来るようになったね。成長した証拠だね。」
なんて余裕のコメントも出来ますが、
自分のこととなると、もう笑ってなどいられません。
相手が勝つか、自分が勝つかの真剣勝負です。
しかし、後から(はて?一体私は何を戦っていたんだろう??)と思い返すと、
大抵自分の見栄だったり、体裁だったり、余裕の無さだったり、
敵は在ちゃんではなく、こちら側にあることがほとんどのような気がします。
我が家は男の子2人に続いて女の子が産まれたので、色々な方から、
「やっぱり女の子は可愛いでしょう?」と聞かれますが、
最近では「ええ、まぁ・・・」と言葉を濁して苦笑いです。
(男でも女でも、どっちでも良いからその時親の言うことを素直に
聞いてくれている子が一番カワイイよ・・・)と言うのが本音です。
しかし、子育ての最終目標が「それぞれが自分の進むべき道を見つけて、
生き生きとした人生を送って欲しい。
自分の命が輝く場所を見つけて欲しい」と言うところになるので、
3人それぞれの「自分の人生」は、
決して「親の望む人生」では無いはずです。
反抗も抵抗もきちんとこなす我が子達は、なんと正しく成長していることか。
いつまでも親の言いなりのロボットでは困ってしまいます。
・・・と、夜中に落ち着いてパソコンに向かう時は思えるのですが・・・。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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