清風 2012年5月

テーマ:清風 【住職】

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君は今、君の親戚なぞの中に、これと言って、悪い人間はいないようだと云いましたね。
しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。
それがいざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。
夏目漱石(1867~1916)筑摩文庫版『こころ』


「平生はみんな善人なんです。それがいざという間際に、
急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」

漱石の小説が今も読まれるのは、こうした視点、
つまり人間を見る視点の確かさといったものがあるからだろう。
人間、あるいは人という言葉が、人間として生きることの、
ある種厄介さを現しているといえよう。
なぜなら人間は、人-間であり、
人という文字が斜めの棒とその棒を支えるかの如く
-もう1本はやや小さめではあるけれども-棒が添えられている。
この2種の仕方で表現されていることからもわかるように、
人は、人と人の間で生きなければ、人には成れないということであろう。
人間が生きる上において、人(私)は人に迷惑をかけつつでなければ
生きてはいけないという厄介性を孕んでいる。

漱石はその厄介性を、
「悪い人間という1種の人間が世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。」と、ここに書いたのではなかろうか。
「それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」
ここに書かれた「いざという間際」とは、誰にとってのことであろうか。
言うまでもなく「他ならぬ私」にとってのことである。
他人にとってなら、気の毒だと言っておれば済むことに違いないのだから。
そしてさらに、私にとっての「いざという間際」には、
私もまたその悪人になってしまうということである。
要するに、「平生はみんな善人」であり、
「少なくともみんな普通の人」なのである。

『正信偈』のはなし 2012年5月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入

「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

浄土教の祖師たちの人間(あるいは自己=私)理解に共通する点は、
「善悪の凡夫人」ということです。
私どもは、善人・悪人ということに関心を持つのですが、
そのいずれも「凡夫」であることには変わりないという点を見落としがちです。
聖徳太子は「凡夫」を「ただひと」と訓んでおられます。
「ただひと」これが人の一般的有り様だと言われるのです。
中国に出られた善導大師は「善」について、私どもの場合、
その善は「雑毒の善」だと確かめておられます。
善は善でも、人からお礼を言ってもらわなければ
満足できない善だと喝破された師もおられます。
「雑毒の善」とは、何が雑じっているのかといえば、
私(自我)が雑じっているということです。
一時、「自己中」という言葉が評論家的に使われていましたが、
この言葉はその中に自己を含まない、
他人に向かって使われていたようです。
「雑毒の善」というのは、私が善というときは
必ず雑毒の善にしか過ぎない-
私の善は、それこそ人に
「お礼」を言ってもらわねばならない善でしかない、
私もその「雑毒の善」から例外ではない
(虚栄心でしかない)という懺悔を抜きにして
「ただ念仏」という「救い」が語られるならば、
それは「私は凡夫です(真実から遠く外れた存在です)」
とは全く正反対の人間理解でしかないことになってしまうと言えるのでしょう。
悪はもちろん、善ですら雑毒(悪そのもの)でしかない、と。
この善ですら雑毒の善でしかないということについては、
(昨年12月号と今月号の)1面も参照して欲しいのですが、
倫理(道徳)の立場からは、なかなかわかりにくいことなのでしょう。

お庫裡から 2012年5月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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孫達と遊ぶのは、とても楽しい時間です。
その日は、寝るまでにまだ時間があったので、
誰かから「トランプしよう」と声がかかりました。
「ありちゃんも1人」と張り切った在ちゃんの声。

4才で年中さんになったばかりの在ちゃんも
「ババ抜き」なら1人でカードの始末ができます。
が、その日は「大富豪」というゲームをやろうということになりました。
在ちゃんのカードを見てやりつつ、ゲームを進めます。
配られた在ちゃんのカードは、たまたま悪過ぎました。
上の2人も「カードを見た」とか「ズル、ズル」と口げんかしながらも、
開くんが上がり、誓くんが上がり、続いて私が上がって、
在は自分がビリになったと知った途端、スッと立ち上がり
「おばあちゃんが馬鹿だから負けちゃったんだ」と啖呵を切り、
手の中のカードをパッと投げたのです。
「なに!」瞬間、私は腰を上げ、
在のほっぺを平手打ちすべく、右手を構えておりました。

その自分の姿。
「ゲームだから、勝つときもあれば、負けるときもある。
それを楽しむのに、ケンカしたり、カードを投げるような子とは、
もう遊んであげない」

どこまでも大人気のない自分の姿に動揺しながら、
さっと自分の部屋に引きあげました。
母親にたしなめられたのでしょう。
廊下で在ちゃんの「おばあちゃん、馬鹿と言ってごめんね」
「馬鹿と言ってごめんね」という声が聞こえます。
しかし私は、知らんぷりを決め込みました。
本当にこれが私の本性なのです。
3人の孫は、何事もなかったように
次の日からも私と遊んでくれています。

今月の掲示板 2012年5月

テーマ:今月の掲示板

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  老い、衰えの苦労から自由になるには
  「できる私」を少しずつ手放すこと

  現代の最大の病気は、自意識過剰だという気がします。
  自分で、自分の自意識にとらわれて
  病気になったり追いつめられたり…   三好春樹

  できる=善 の物指しがある限り、
  人は過去の姿に引きずられて、できなくなった姿を否定し続ける。
  夫婦や家族、施設介護でも同じです。  クロワッサンより

  自分の人生は、自分の意志通りになるわけでなく
  向こうからやってくる。
  やってきたら、やってきた時に考えたらいいよ。
  そして、それにどう立ち向かって
  逆に、ちょっと楽しみながらやっていける方法があるよ。 三好春樹

  先入観が
  いかに自分を不自由にしているか。

  苦しいのは
  自分を中心にしているからだ。

  何をするにしても、心に思って行為している。
  ところが、
  自分のやっていることなのに引き受けられない、という問題が起こる。
  思う心自体が、私の思う通りにはならない。  高柳正裕

本堂に座って 2012年5月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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少し前から、とても斬新な視点で文章を書かれている、
安冨歩さんという方の本をいくつか読ませてもらっています。
新聞に、原発問題に関連した『原発危機と「東大話法」』という
書籍が紹介されたのを見た方もおられるかもしれません。
今回は、冒頭の「自立」について書かれている文章を紹介したいと思います。

【命題1】自立とは依存することだ

【命題1-1】自立とは、多くの人に依存することである
多くの人は「自立するということは、誰にも頼らないことだ」と誤解しています。
私自身、長らくそう思い込んでいました。(中略)
この原理の発見は、人間と社会とについての近代的な見方を、
根本から転換してしまう、決定的な革命をもたらします。
この原理の発見により、
それ以前の社会科学はあらかた無意味になりました。

【命題1-2】依存する相手が増えるとき、人はより自立する
往々にして人は、「自立しなきゃ」と思うと、
「もっと人に依存しないようにしなければ」と考えてしまいます。
これは、【×自立とは、他者への依存からの脱却である】という
誤った信念の反映です。
こんな誤った命題を信じると、何が起きるでしょうか。
これまで依存していた人に、なるべく依存しないようにしようと思うと、
依存する先を減らすことになります。
しかし、そうやってどんどん減らしていったとしても、
誰にも全く依存しない状態に至るのは、不可能です。(中略)
ということは、依存する先をどんどん減らしていっても、
全てを切ることはできないわけです。
それゆえ最後に、どうしても切れない依存先が残ります。
もしその依存先から
「そんなことをすると、お前をもう助けてやらないぞ」と言われると、
絶対に言うことを聞かざるを得ません。
たとえ露骨には言われないにしても、
「この人に見捨てられたら、私はおしまいだな」と思ってしまいます。
これはつまり、従属している、ということです。
依存先をどんどん減らしていって、
少数の他者に依存するという状態こそは、
他者に従属している状態です。

【命題1-3】依存する相手が減るとき、人はより従属する

【命題1-4】従属とは依存できないことだ
もしあなたが、人に助けてもらうことはいけないことであり、
自分でなんとかしなきゃ、と思って抱え込んでしまう人であるなら、
その考えこそが、あなたを人に従属させている原因だとご理解ください。
もちろん、何でもかんでも人に頼ろうとして、人が助けてくれないと、
当たり散らすような人は、未熟なだけです。
しかし、自分が困っているときに、
助けを求めることができないこともまた、未熟さの反映なのです。

【命題1-5】助けてください、と言えたとき、あなたは自立している
自立した人というのは、自分で何でもする人ではなく、
自分が困ったらいつでも誰かに助けてもらえる人であり、
そういった関係性のマネジメントに長けている人のことだ、
ということに気づきました。
(中略)
かくして私は、誰かに依存することに躊躇しないようにしよう、
と決意したのです。
(『生きる技法』安冨 歩 著 青灯社発行より抜粋して掲載しました)

一般に「自立」の対義語が「依存」だそうですが、
決してそうではない、もっと違った視点があることを
示してくださっている文章だと思います。
こうした結論にいたるまでの具体的なお話は、ここでは書ききれませんが
(ぜひ読んでみてください)、
読み進めるほどに新たな視点を与えていただけました。

今日も快晴!?2012年5月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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もしかしたら、私(第1子)には永遠に分からないもの・・・
それは、「第2子の心理」かもしれません。
我が家の次男坊、誓は、
①被害妄想が激しい、
②「自分だけ損をしている」というひがみ根性が大きい、
③根拠のない尊大な自尊心を持ち、自分の負けを認められない、
④自分の話は聞いて欲しいけど、人の話は全然聞いていない、
⑤自意識過剰の割にへっぴりごしで、いざというとき
「やっぱりやらない・・・」となりがち
・・・等の特徴があります。
これらがすべて「2番目だから・・・」という理由でくくれないとは思いますが、
先日もこんなことがありました。

その日はたまたま長男、開の宿題がプリント一枚で、
誓の宿題が2枚出ていました。
開は先に宿題を済ませてさっさと外に遊びに出ましたが、
しばらくすると、誓の問題を解く手が止まり、
しばらくじっとプリントを見つめていたかと思うと、
握っていた鉛筆をガンガン机に打ち付け、
足で床をどんどんと踏みならし、涙をポロポロこぼし始めたのです。

彼にとっては、自分の宿題の枚数が一枚多いことが
どうしても納得いかないらしく、
(どうして開くんの宿題は一枚だけなのに、僕の宿題は2枚もあるんだ!
僕は不当な扱いを受けている!僕だけ損をしている!
僕はひどい目に逢っている!!)と悔しくてならないらしく、
こちらがいくら「そりゃ開くんと誓くんは学年もクラスも違うんだから、
枚数が違っても仕方がないよ」となだめても、
気持ちが収まらないようでした。
こちらも、彼の頑なな態度を見ている内に無性に腹が立ってきて、
「あのねぇ。今、誓くんが泣いている理由を100人の人に話したら、
100人が100人とも『そりゃ誓くんがおかしいよ。
そんなの泣く事じゃないよ』って笑うよ!?
泣いている時間が勿体ないから、さっさと宿題やりなさい!」と、
ついつい語気が荒くなります。

そんな事があってから、
「ねえ、うちの誓くんこんな風なんだけど、大丈夫なんだろうか?」と
仲良しのママ友達に相談したところ、
「う~ん。誓くんが『僕だけ損をしている』と思う気持ちをまず
受け止めてあげたらどうかな。
『誓くんだけ宿題がたくさんあって悲しかったね』って。
それで、褒めなくても良いから、
出来たことを認めてあげたらどうかなぁ?
『○○がちゃんと出来たね』って・・・。」と言う言葉をもらえました。
お互い、「自分の子どもじゃなきゃ、言ってあげられるんだけどね~」
と笑いながら、心が清々しくなっていくのを感じました。

そう言われてみると、私は
(誓がこんな性格のまま大人になったら大変なことになる。
今の内に矯正しておかないと・・・!)
と、彼の欠点(に見えてしまうところ)を
何とかしようとそればかり必死になっていたような気がします。
自分が子どもの時、
(どうしてうちの親は理由も聞かずに頭ごなしに怒ったりするんだろう。
私が親になったら、絶対あんなことはしない!)と思っていたのに
(もちろん、自分が親になってみると、そりゃ怒られて当然だわ・・・と
理解できるところはあるのですが)、
やはり同じように悔し涙に暮れる誓のやりきれなさを受け止めずに、
頭ごなしに叱るような親になっていたなぁ・・・と、深く深く反省したのでした。
とにかく第2子は、上と下に挟まれてなかなか難しいポジションのようです。
理解しづらい所も多いのですが、一緒に迷い、悩み、
一生懸命その時出来る最良の答えを共に考えてくれる
多くの友人達に囲まれて子育てが出来ることが、
本当にありがたいと思えました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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