清風 2012年8月

テーマ:清風 【住職】

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 ほんとうにしたいことがあったらそれをやれ。それで死んでも悔いなかろう。
                          暁烏 敏(1877~1954)

これは暁烏先生が生涯かけて、
すべての人におっしゃったお言葉であると同時に、
仏教が私どもに語りかけている核心的な言葉なのです。
それは、「この人生におけるさまざまな悩みは、
ほんとうにしたいことをしていないことから生じている」
という考えによるものです。
いろいろと気晴らしをしなければならないということ自体が、
ほんとうに自分のしたいことが出来ていないからで、
ほんとうにしたいことをしていたら、
それ自体が喜びであり、勇みであり、そこから生きる力が出てくるのです。
そのように考えますと、人生の根本問題は自分がほんとうにしたいこと
―本願―が明らかになっていないということなんです。

『それで死んでも悔いなかろう』林 暁宇 著 2004年 北国新聞社刊
林 暁宇(1923~2007)暁烏 敏の弟子。


8月は敗戦の月。たくさんの若者が戦死していった。
アジアの若者も。その若者が残していってくれた贈り物が、我が国の憲法。
国は異なれど貧しい者が貧しい者と戦わせられてきた。
今も昔も、正義の名のもとに。
中国・韓国・朝鮮など、我が国が今もアジアの国々に
真の友人を持てないのは何故か。
外交力を放棄して武器に訴えることしか、
今もって出来ないからではないだろうか。
武器ではなく、言葉で。
人間は言葉を持った唯一の生き物なのだから。
もっと言葉に磨きをかけよう。
それには、ほんとうに言いたいことを持った人となることが、
今、私たちに求められている。
国会議員の諸氏には、先ず憲法第99条をよくよく読んで欲しい。
憲法は国民が犠牲を払って獲得したものであって、
国(議員)は国民のためにあるのであって、
国家権力(議員)のために国民が存在するのではないことを、
議員はよくよく肝に銘じて欲しい。
尚、余裕があれば、前文・第9条も。

『正信偈』のはなし 2012年8月

テーマ:清風 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入

「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。
選択本願、悪世に弘む。生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

「念仏も称える」から「ただ念仏」へ ― 先月号で、
「私が救われないのは、如来に手出しをしているからでしょう。」
と最後に書いたのですが、
今月号では、何故如来に手を出すのかについて考えてみたいと思います。
法然上人の頃にも、すでに念仏は称えられていました。
比叡山でも「朝題目・夕念仏」、
朝は題目を唱え、夕べには念仏を称える、というように。
法然上人は、中国の善導大師の文にゆくりなくも出遇い、
専修念仏(専ら念仏一行を修すること)に帰せられたのでした。
「念仏も」ではなく「念仏のみ」に立たれたのです。
この表現の意味するところは、
自分(法然上人)の立場が決まったということでしょう。
「あれもこれもではなく、この事一つ」とでも言ったらいいのでしょうか。
善導大師が「念仏一つ」と決められていった背景には、
「唯願無行」という批判があったのです。
「唯願無行」というのは、念仏は
「ただ助かりたいという願だけであって、
行が無いのではないか」という批判でした。
厳しい行に耐えられない者のための行であって、例えて言うなら、
本来の厳しい行を「家」とすれば、念仏は「庇(ひさし)」
みたいなものだというわけです。
善導大師はこうした疑問に対し、念仏の行の主体は私ども衆生ではなく、
如来が、如来(真実)を私どもに知らせるために、
言葉・南無阿弥陀仏として表現されたのだと受け取られたのです。
人間は「罪悪生死の凡夫(罪と悪を畏れているもの)」であるが、
言葉を持った生き物であり、
称名念仏はそのまま「南無阿弥陀仏」と名告っている如来の願いを聞く
「聞名」でもあることを見出されたのです。
どんな行も、罪悪生死の凡夫が行うかぎり、真実にはならないからです。
これが「如来に手出しをする」という指摘の意味なのです。
如来は「まず自分がどんなものか知れ」と言うておられるのです。
(「自分がどんなものか」については、昨年12月号「清風」2面を参照)

お庫裡から 2012年8月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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夏休みに入りました。孫達も大きくなって、各々にお友達が出来て、
そうそう「おばあちゃん」「おばあちゃん」と言わなくなってきましたが、
毎日のお内仏でのお夕事とお風呂は一緒です。
ある日のお風呂でのことです。
ありちゃんが、
「おばあちゃん、私、ここ(右足首)がちょっと痛いの。
しみるとイヤなので、こちらの足はお風呂に入れないからね。」
湯の中に入っても、右足は浴槽にかけて片足で立っています。
痛いという個所を見ても、特に傷がある訳でなし、
夏場のこととて冷えるということもなし、「ま、好きにして」という感じで
「いいよ」と言いました。
お風呂から出て行く時、孫達の歯を磨いてやるのも私の仕事です。
「ありちゃん、その姿勢だと歯が磨きにくいなー。
ちょっとこちらを向いてくれない」
そう言った途端、上げていた右足をさっと風呂に入れ、
回転してすかさず左足を浴槽に上げたのです。
その素早かったこと。
あれあれ、痛いという足はどちらだったのかな?
本人は、それも気づかずすまし顔。
もうおかしくっておかしくって、腹の底から笑いが込み上げてきました。
夏休み恒例の廊下拭きも、孫3人(とおじいちゃん)、頑張っています。
タタタと廊下を走る音にも迫力が出てきました。
時には雑巾のぶつけ合い、レーンの取りっこ、そんなこんなを含めても、
孫達と一緒の時間は本当に張り合いのいい時間です。
(孫と張り合うことは自重すべし、と自分に言い聞かせています)

今月の掲示板 2012年8月

テーマ:今月の掲示板

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大地から離れたコンクリートに囲まれた
そんな生活を続けるうちに
人間は、無条件に母親に抱かれているような
安心感を見失ってしまった

森ははじめからあったのである。
一切にさきだって森はあった。
木も草も鹿も虫もそして人間も
あとから森にやってきた。
神といえどもあとから森にやってきた。(ピグミーの言葉)

娑婆とは
片づかぬ問題がいつでもある世界

人間にまで進化した
その進化した人間はどこに向かっているのか シャルグン

「待たれている」という受動性が
人を辛うじて支えている     フランクル

楽と苦と2つあると思うておる。
一切は苦だ。
楽があると思うから苦しいのです。
楽なんかないのだと、
それをはっきりすることが、本当に楽を開いていく道だ。

われわれの鏡には、黒々と「われさえよければよい」書いてある。
これでは映りません。
仏はまず「われわえよければよい」の文字を消せと言われる。
己の心が曇っているのだと言われる。
それをしなければ、何を映してもはっきり映らない。

娑婆の問題を片づけて
楽になろうと思っているような根性、
これを片づける。
そうすれば、片づかぬままに片づく。
片づいて片づくのではない。
片づかぬままに片づく、
そういう世界を如という。

本堂に座って 2012年8月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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今年の春、ついに(?)ツイッター・フェイスブックを始めました。
なかなか自分から発信することはできていませんが、
いろんな方からさまざまな情報が飛び込んできます。
普通に新聞やテレビ、インターネットで
ニュースを見ているだけでは知ることのできないような
(でも、どちらかと言えばこちらの方が本質を捉えていると思われるような)
内容も、たくさんあります。
ふだんから考えていたり気になっている話題について書かれている
「これは!」と感じた情報は、他の方にも共有してもらいたい…と思い
シェア・拡散するのですが、ふと、こうした情報と自分が
どのように関わっているのかを考えさせられる様な文章に出会いました。

悩むというのはもっとも人間らしい尊い姿である。
しかし、現実はほとんど悩まされているのではないだろうか。
悩まされている時は、愚痴や悪口や人を責める世界しかない。
原因を外に見ているからである。
そうである限り、永劫に立ち上がっていくことはできない。
「新しい下駄をはくと、下駄の表面がすぐ黒く汚れてしまう。
それを布巾でふけば、すぐ汚れがとれてきれいになります。
でも、はいているうちにまたすぐ汚れてしまう。
なぜ下駄の表面が汚れるかというと、
自分の足の裏が黒く汚れているからです。
どれだけ下駄をふいても、まっ黒な足の裏をしていれば、
すぐ汚れてしまう。」
曽我量深先生のお言葉である。
こんなことは、理知では分かりきったことである。
しかし、人間というものは、
下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れているからだ、
ということに容易に気づかない存在である。
“愚か”とも“無明”とも言われるゆえんであろう。
それに気づかない間は結局、下駄をふきつづける生活でしかない。
私たちの日常は、下駄をふきつづけている生活ではないだろうか。
「自分の足の汚れに気がついた人を目覚めた人、
下駄の汚れの原因が自分の足にあると気づかない人を不平不満の人」と、
曽我先生は言葉を継がれる。
「ああ、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れていたからだなあ」と
気づかされたときに、いのちに体温が通う。
その時に、悩まされる世界から悩む世界に転ずるのであろう。
悩みがなくなるのでも、解決するのでもない。
真に主体的に悩んでいける自分が誕生する。
つまり、限りなく問うべき課題が生まれてくるということだ。
信仰とはそういう歩みをたまわることである。
だが、それは、人間の知恵や眼からは毛頭見つかってこない。
そこに教えを聞くということの一大事がある。
満ち足りた現実社会の中で、人間が忘れている一大事である。
(『生命(いのち)の見える時 一期一会』松本梶丸 著 
中日新聞本社発行
「聞くということの一大事」より引用させていただきました。)

世の中の出来事について考える…というと、
どうしても「自分の外の出来事」として受け止めてしまいがちです。
原発の安全性や消費税が上がることの影響も、
今のところは、直接自分に関わる問題というより、
まだ遠くで起きていることとして考えている部分が無いとは言い切れません。
知らず知らずのうちに印象(情報)操作されてしまっている中で、
目の前の問題について判断を下していると、
物事の本質や当事者の方々の気持ちに気づかないまま、
それでも「良かれ」と思って行動することになります。
世の中で起こっていることが、自分とは直接縁のない、
遠いところで起こっている出来事としか感じられなければ、
意見や行動は自分の外のものでしかありません。
原発の問題も消費税の問題も、自分が関わる社会の出来事として、
自分もその過程に深く関わっていると気づくことで、
正しい情報に耳を傾けることができるようになり、
「ただ不満を言うだけ」ではない、主体的な関わり方が見えてくるのだと思います。

今日も快晴!?2012年8月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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購入したけれどなかなか読めずにいた本
「朽ちていった命」を、先日少し時間の出来た夜に一気に読みました。
これは、1999年に起きた東海村の臨界事故で被爆して亡くなられた
大内さんの被爆治療83日間の記録です。
大内さんは、ウラン溶液をバケツで容器に移し替えている作業中に被爆されました。
至近距離で、一般の人が1年で浴びて良いと言われる量の
2万倍の放射能を浴びたそうです。
最初、大内さんが病院に運び込まれた時には、
バケツに一番近い右手が赤く腫れている程度で、
病院の関係者も(この人がそんなに重病人だろうか?)
と思うくらいお元気だったようです。
しかし、顕微鏡で骨髄細胞を拡大してみると、
大内さんの染色体は全てがばらばらに散らばって、
断ち切られ、ただの黒い物質になっていました。
染色体は、「生命の設計図」とも呼ばれ、
遺伝情報など全てがここに書き込まれています。
それがばらばらに破壊されると言うことは、
「新しい細胞が作られない」と言うことになります。
「新しい細胞が作られない」と、人間はどうなるのでしょうか?
通常の皮膚は、20日で新しい皮膚に生まれ変わります。
ところが、染色体が傷ついて細胞分裂しないために、
皮膚が新しく再生せず、タオルでこすっただけで皮膚がめくれて、
水ぶくれがやぶれ、しかも皮が剥けたところは剥けっぱなしになります。
体を覆う表皮がなくなり、大内さんの全身を絶え間なく
激痛が走るようになりました。
毎日全身から体液や血液が何リットルもしみ出るようになります。
また、腸の粘膜もなくなり、消化も吸収もできなくなりました。
亡くなられるまでの83日間、想像を絶する苦しみだったと思います。
改めて、放射線は「いのち」を根幹から破壊する恐ろしいものだと、
人間の手に負えない、コントロールしようなどと考えてはいけないものだと思えました。

私たちの世代は、たいてい「はだしのゲン」を読んだと思いますが、
原発は、どんなに「安全だ」と言ったところで、
一旦事故が起これば原爆となんら代わりはない恐ろしい代物です。
事故にならずとも、作業員や周辺の住民の方は
常に低レベルの放射能で被爆されています。
原発を動かす限り、処理方法の無い放射性廃棄物が
どんどんたまり続けています。
電気は足りているのに、どうしてこんな危険な原発を作り続け、
動かし続けるのでしょうか?
「動かせば儲かる」と言う仕組みが、一番問題だと思います。
「朽ちていった命」は、生活クラブで注文した書籍ですが、
昨年同じく注文した「いのちと放射能」柳澤桂子著、
「内部被爆の脅威」肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著も、非常に面白かったです。
丁度8月5日(日)午後に、豊田市の産業文化会館で
鎌仲ひとみ監督の「内部被爆を生き抜く」の
上映会&トークイベントがあります。
是非参加したいと思います。
また、毎週金曜日には原発に再稼働に反対するデモが、
東京や名古屋でも行われています。
この原稿を書いている時点で一番最近の代々木公園のデモでは、
17万人の人が集まったそうです。
大手メディアからは黙殺されていますが、声は上がり続けています。
声を上げているのは、子連れの夫婦など、ごく一般の人たちです。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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