清風 2012年11月

テーマ:清風 【住職】

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彼に在るものに対しては、唯 他力を信ずべきのみ。
我に在るものに対しては、専ら自力を用うべきなり。
しかも この自力もまた、他力の賦与に出ずるものなり。
「臘扇記」より(『清沢満之集』岩波書店p35)

ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念の心の起滅も、
また自在なるものにあらず。
吾人(我等)は絶対的に他力の掌中に在るものなり。       
「臘扇記」より(同p47)         

<清沢満之(1863~1903)>
僧侶となり、東京大学に学ぶ。
明治の廃仏毀釈という仏教の危機的状況に立ち向かって、
仏教の近代化に努め、明治の思想・精神界に大きな影響を与えた。
『清沢満之全集』(全9巻)が、没後100年に岩波書店より刊行された。
清沢満之を知るためには、『清沢満之集』(岩波文庫 2012年刊)は、
ルビを入れるなど入門書として、また入手しやすい点でもお薦め。


人はみんな違っています。
しかし、競争社会はその違いをあたかも無いかの如く、
激烈な競争社会に巻き込んでいきます。
そこで、この競争社会にあって、少しでも有利なようにと、
現代に生きている我々は、とにかく
(「資格」に代表されるような)能力を身に付けて、
スーパーマンにならなければなりません。
何しろ、資格を身に付けたとしても、健康でなければならず、
それだけでいいかとなれば、
やはりマスク(顔立ち)もそこそこでなければならず…
と次々に要求が出てきて、結局は先に挙げたように、
スーパーマン(あるいはスーパーウーマン)にならなければならないのです。
能力は、いい評価を得なければ、能力を発揮できたとは言えません。
しかし、当然のことながら評価は他人がします。
評価は私の自由にはなりません。
また、評価されればそれで良いかと言えば、必ずライバルがいます。
いつ追い越されるかわからないので、安穏とはしていられません。
つまり、私が「評価を気にする私」から解放されるまでは、
資格・能力がいくらあっても、安心・安穏はおとずれません。
これが上に掲げた文章に込められたメッセージの内容でしょう。

『正信偈』のはなし 2012年11月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

<選択本願弘悪世>
註)選択本願の主は如来(ここでは阿弥陀仏のこと)で我々ではない。
如来とは「従如来生」のことで、如より来たり生ぜしものの意。
如とは「真如(真実)」のこと。   
念仏は如来によって選択された、如来の本願を現す名である。
釈尊ももちろん如来であるが、親鸞聖人は、
法然上人も「如来の化身」として仰いでおられる。

人間(私)とは、「救い」を求めている存在。
「救い」というと、特別なことと思われるかもしれませんので言い換えると
「幸せを求めているもの」と言ったらどうでしょうか。
ということは、今は幸せではない、あるいは自身が病気であるとか、
入試を控えた子がいる親とか、という状況に置き換えて考えたら、ということです。
ここに、貴重な経験を紹介します。
妻が2年前に癌になりました。
手術を受け元気になって帰ってきました。
死をくぐっていのちをいただく経験をすると、
同じものを食べても味が変わるのだそうで、
「お父さん、これ、こんなにおいしかったのね」と
うれしそうにご飯を食べておりました。
ところが1年経つと
「お父さん、私、去年あんなに死にそうな目にあったけれど、
何もかももう忘れてしまったわ」と言うんです。
(中略)
私が「そうやろな。(中略)あれは助かったのではなく、
病気が治っただけと違うか」と言ったら、
「そうですね」と言っていました。
(延塚知道 著『同朋』東本願寺発行 2012年2月号より)
どんな場所も問題は山積みである、というわけです。
病気の最中も、病気が治った後も。
私には、他の場所はそうは見えないだけのことだと。
清沢満之の「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉がありますが、
ここに仏教が目覚めの教えとして、その「救い・助かる」とはどういうことか、
実に的確に表現されていると言えるでしょう。
完全なる受け身の世界においてのみ、「救い」は開かれてくると。

お庫裡から 2012年11月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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ふり返ってみれば、私が生まれたということの中に、
もうすでに深い深い仏縁がいただかれてあったということなのですが、
意識して浄土真宗の教えを知りたい
(それは、寺を捨てる言い訳が欲しいという気持ちから)
と思った高校1年生の夏に、
「そういうお前はどうや」という言葉をいただきました。
私の聴聞の歩みはそこから始まったと言えます。
その言葉を聞いて以来、私の全関心が「私はなぜ私に生まれてきたのか」
「なぜ、私なのか」という問いに集中し、問う程に、
底無しの淵に引きずり込まれていくようで、
出口を探してのたうちまわっておりました。
やがて結婚し、子どもを授かり、育てていく中で、ようやく本願のことば
(あなたはあなたに成ればいい、あなたはあなたで在ればいい)
が聞こえてきて、「南無阿弥陀仏」と手が合わさり、
頭が下がったのです。
そして下記の和讃を知りました。

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
 (愚禿悲歎述懐和讃)

(尚子訳)
浄土真宗に帰依すると言い、そう思っているのだけれど
私の中に真実の心というものは、あなた、
有るというものではありませんでした。
すぐ私の思いで作る世界に入り込んで、何よりも何よりも私、
私1人を大事に守っていた私だったなんて、
仏さまの清らかな心、そのような心が私にあろうなんてとんでもないこと。
どこを探しても有りっこのない私でしたワ。

私は、少々教えにうなずくことがあったり、
知識として仏教の言葉を憶えたりすると、
自分が少し増しな人間に成ったような、
清らになったような、と錯覚します。
(これも煩悩のために起きる心なのですが)
浄土真宗の開祖、親鸞聖人が86歳でこの和讃を作られ、
こう述懐しておられるところに、私は仏の真を見るのです。
本当に信頼すべきは
「南無阿弥陀仏」「そういうお前はどうや」と呼びかけ続け、
私の目覚めを待ってくださっている仏の眼を感じる安心。
この和讃がいつも身近にあるようにと、
平田聖子さんに曲を依頼し、出来上がりました。
11月10日、報恩講午前の帰敬式で初演いたします。
聴聞50年記念の曲となりました。
皆さま、どうぞご参詣くださり、この和讃の新曲を聴いてください。
みのりコーラスが歌います。

今月の掲示板 2012年11月

テーマ:今月の掲示板

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感情にだけ訴える戦争肯定の殺伐とした発言で洗脳されていけば、
その未来は?
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」 
(憲法前文)
この文は、今もっとも思い起こさねばならないメッセージではなかろうか。

間に合うか(役立つか)合わないかだけではかることが
進化なのだろうか

この人生に欲しいものは色々あるけれど
色々の物より一番大事なのは、安心と満足ではないか。

福を知っているか
福を求める心は、廃除する心と同一。

煩悩というものは
人間をつかう
起こした人間をつかう

金庫にお金はいっぱい入っとるかしらんけど、
安心だけは入っとらん。
他は色々そろっておっても
安心と満足だけは見事に、ない。

失ってみないと
今の暮らしのありがたさが
分からないと思います。  (飯館村長泥区長 鴨原良友)

六字の名号というのは
仏さまが我々に呼びかけておられる言葉(本願の招喚の勅命)
「南無せよ」
「お前、違っておるぞ」
「自分の間違うた姿に目覚めよ、我が間違いの罪の深いことに頭を下げよ」

本堂に座って 2012年11月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先日、子どもたちと一緒に朗読する詩を探していたところ、
「うそ」について書かれた谷川俊太郎さんの詩に出会いました。
近ごろ子どもたちの言葉(うそ?)が気になっていたので、
これらの詩がとても印象に残りました。
2編を紹介させていただきます。

うそ

ぼくはきっとうそをつくだろう
おかあさんはうそをつくなというけど
おかあさんもうそをついたことがあって
うそはくるしいとしっているから
そういうんだとおもう
いっていることはうそでも
うそをつくきもちはほんとうなんだ
うそでしかいえないほんとうのことがある
いぬだってもしくちがきけたら
うそをつくんじゃないかしら
うそをついてもうそがばれても
ぼくはあやまらない
あやまってすむようなうそはつかない
だれもしらなくてもじぶんはしっているから
ぼくはうそといっしょにいきていく
どうしてもうそがつけなくなるまで
いつもほんとうにあこがれながら
ぼくはなんどもうそをつくだろう


うそとほんと

うそとほんとはよく似てる
ほんとはうそとよく似てる
うそとほんとは
双生児

うそとほんとはよくまざる
ほんとはうそとよくまざる
うそとほんとは
化合物

うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ

宿題や準備を「やった?」と聞いたら「うん」と言ったのに、
実はやってない…ということが度々あり、
「なんでそんなうそをつくの?」と聞いてしまいました。
その前に“なぜそう返事したくなってしまったか”を考えてみることで、
「ほんと」の気持ちが見えてくるのかも、
という視点に気づかせてもらえました。

今日も快晴!?2012年11月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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我が家の子どもたちは、
「自分の小さかった頃のお話」を聞くのが大好きです。
夜、布団に入って絵本を読んで、「さあ、寝るよ~」と電気を消したあと
(きっとまだ眠くない時だと思うのですが。笑)、
「お母さん、わたしの小さい頃のお話しして」とせがんできます。
「ありちゃんが1才の頃はね~。パンツの重ね履きがブームで、
おむつの上にズボンをはいて、
その上にお兄ちゃんのパンツをはいて、またはいて、またはいて・・・と
最高9枚重ね履きしていたことがあったんだよ~。」
「え~!」「あ~!写真見たことある!」「おかしいよね~」 「ほかには~?」
「そうだねえ。ありちゃんはね~、
8ヶ月くらいまで離乳食あげなかったんだけど、
8ヶ月の時お友だちが『ねえ、欲しそうだからあげても良い?』と
お握りを持たせてくれた瞬間、ガツガツガツ!」って
ものすごい勢いで食べ始めたの。
だから、(あ、この子食べたかったんだ!)って、
それから慌ててご飯あげることにしたんだ~」
「あははははっ!」  「僕は~?僕の1歳半の時は?」
「1歳半?ちょっと細かいね(笑)。じゃあ2歳くらいの時。
誓くんは、朝ご飯を食べ終わってお母さんがお茶碗を洗っていると、
いつも...ふっと姿を消すの。
それで、(あれっ?)と思って隣の子ども部屋を見に行くと、
四つん這いになった誓くんとパッと目があって、
(はっ!見つかった!!)て顔をするの。
で、お尻を見ると、ズボンのお尻がもこっ!て膨らんでいて、
こっそりう○ちしてたんだよね~」「きゃはははっ!」
「(本人は聞いてこないけど、敢えて言う)開くんはね~。
一番う○ちエピソードが多いんだよね~。
生まれて半年の頃、初めて友達の結婚式に連れて出席したら、
式場に一歩足を踏み入れた途端「ばふっ!」って音がして、
背中まで飛び出す大う○ち!
おかげでお母さん、そのままUターンして控え室に駆け込み、
ずっとう○ちの後始末。結局友だちの結婚式見られなかったよ~」
「(全然聞いていないふりをしていた開も、実はちゃんと聞いていて)
もういいって~!」
「ぎゃははっ!」「かいくん、ひど~い!」
話すネタはそんなに目新しい物はなく、毎回同じ事の繰り返しなのですが、
子どもたちは何回でも同じ話が聞きたい様です。
話す度に、こちらも子どもたちの小さかった頃のことを思い出し、
(ああ、こんなことがあった。あんなこともあった)と懐かしく思うと共に、
小学生や子ども園に通う子どもたちの現在の姿は
「当たり前」に思えていたけれど、
立派に成長した姿なんだなぁと思えます。
子どもが小さい時は、「おむつが取れたら・・・」、
「トイレでう○ちをしてくれたら・・・」、「一人でご飯を食べてくれたら・・・」、
「おっぱいを止めてくれたら・・・」と、
出来ないことを挙げては出来る日を夢に見ていましたが、
慌てなくても絶対にその時はやってきます。
困ったことや、大変だったことは、「自分を苦しめる困難や失敗」ではなく、
「将来子どもに聞かせるためのネタ」だと思って、
どこかに貯めておくと良いかもしれません。
自分のお話に耳を傾ける子どもの姿は何とも言えず可愛らしく、
(あ~、うちの子たちって、なんて可愛いんだろう)と思える瞬間が、
また一つ増えます。
親としてこんな幸せなことはありません。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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