清風 2012年2月

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真の贅沢というものは、ただ1つしかない。
それは、人間関係の贅沢だ。
「人間の土地」サン=テグジュペリ
堀口大学訳 新潮文庫(H24.5.20)P42

贅沢や豊かさは何で決まるのか。持っている(使える)お金の額?
こういう問いを、私どもは持てなくなってしまったのではなかろうか。
つまり、自明のこととしてしまって、問えなくなってしまった。
そうなのだ。
問いを持たない、問えない、そうなれば、
深海にいる魚がついに視力を失ってしまったように、
再び視力を回復するには、
想像を超える努力・時間がいるのかもしれない。

かつて日本政府・軍は、満州は日本の生命線と言って、
満州から撤退しないことに固辞して、結局、
政府・軍の見通しの甘さからの“餓死者”を“英霊”と讃えることで
失政を誤魔化したように、
今度は原発でも同じ過ちを犯そうとしている。
今も、日本はアジア各国との真実の友人関係を結べないでいる。
満州は生命線と言いながら、戦後、日本は満州を手放し、
貿易立国として何とかやってこられた。
この教訓から何を学ぶべきか。
真実の贅沢は人間関係だという。
冒頭のサン・テグジュペリの指摘に謙虚に学ばなければならない。
韓国を戦前、日本は植民地として、
中国へは“満州事変”からだけでも15年間、
中国内へ侵略し(決して中国軍が日本に攻めてきたわけではない)
戦争をしてきた。

そして、領土問題を今も引きずっている。
国家間の問題を武力ではなく、
どこまでも対話(外交)によって解決を目指そうと決めた
「憲法」(第9条)の精神(願い)は、日本人に、
アジア諸国の真の友人関係を開き、国に真の贅沢をもたらすものなのだ。
そういう点では、日本の今の不況・閉塞感は、
希望が持てないという視点から言えば、
生きる意味の不況・閉塞感と言えよう。

 

『正信偈』のはなし 2013年2月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入

「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

今回は「生死輪転の家に還来ることは、
決するに疑情をもって所止とす」に入ります
(先月号で触れた「愚」の告白が持つ普遍性については、次号以降で触れます)

註)生死(しょうじ)輪転(りんでん)の家
… 車輪の転ずるように、きわまりなく迷いの世界に生死を繰り返す我々(凡
夫と言われる)の生き様のこと。
危険きわまりない原発(最終の処理方法が見つからない危険なエネルギー
発生装置)であっても、経済の成長のためには、絶対安全と言われるとそれ
を信じてしまい、やむを得ないと許してきた我々の人生観に、疑いすら持て
なかったこと。
 
疑情 … 仏の選択本願を疑うこと。自力(どこまでも私の都合)を人生の唯一の判
断基準としていることに何の疑いも持てないこと。結果、真の友がない、人
間の根本的孤独である状態。私の都合に立つ限り、人間関係は利害関係のみ
でしかない。故に最後は敵対関係。殺るか殺られるかしかない。
 
所止 … よりどころ

この文は、法然上人の主著である
『選択本願念仏集』(略称『選択集』)の第8章「三心章」の文章から、
親鸞聖人が 引用されたものです。
「三心章」の本文には、ことに「深く信ずる心」を明かす所で
「まさに知るべし。生死の家には、疑いを以て所止と為し、
涅槃の城には、信を以て能入と為す」とあります。
仏教の課題としていることは、いろいろあるのではなく、
宗派によってさまざまな言葉で説かれていますが、決するところ
「生死を離れて涅槃を得る」ということにあると、
ここ「三心章」で法然上人が決釈してくださっています。
なお、『選択集』は角川文庫に収録(本文と口語訳付)
価格700円
この引用箇所は、同文庫では、口語訳…P101、本文…P218

お庫裡から 2013年2月

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最近の在ちゃん(5歳)の言動は、目に余るものがあります。
小学2年の誓くんを相手に、丁々発止とやり合い、
誓くんが口ではかわせず、つい手が出て、在ちゃんが泣く
(もしかしたら泣きおどししているのかも)。
そうしてレベルを上げてまたやり合う。

「在ちゃん、誓くんはお兄ちゃんでしょ。
お兄ちゃんに向かって、そんなもの言いをするものではありません」と叱り、
「誓くん、在ちゃんといくつ年が違うの。
自分より小さい人に、そんな手を出すものではありません」と叱られても、
2人はよくくっついている。結局は仲がいいということで、
兄妹で育っていく姿を見せてくれているのだ。

ある日のお風呂でのこと、誓くんが出て行き、在ちゃんが出かけに、
「寺部園のみく先生が発表会の時、
「静かにしてね」って言ったから、
私、静かでいい子にしていたんだよ。家ではやらないけどね。
私、寺部園ではいつもいい子にしているんだよ」
としゃべって出て行く後ろ姿に、
最後に残った開くんが、
「いい子にしているのは、つらいんだけどなー」
とつぶやくように言ったのです。
「ああ、開くんはいつも“いい子”というレッテルを貼られているのがつらいんだねー」
「うん、そうなんだよ」「ひとつ聞くけど、開くんは、今の在ちゃんみたいな言動がやれるかしら」
「あれはひどいね…。僕はあそこまではやれん」
「そうだねー。いい子を演ずるのはつらいけど、悪い子をやれと言われて、ハイとやれるもんではないよね。
もし在ちゃんが3人姉弟の一番上だったら、今の姿でなく、開くんに近い相かもしれないよ。
結局は開くんも誓くんも在ちゃんも、各々が置かれた場から、その人に成っていく。
開くんは今、開くん自身になっていく、その道の途上にいるんだよ」
「そうかー、そうなんだねー」
「おばあちゃんは、色々なことを感じ考えている開くんを、本当にいい子だと思うわ。
あ、いい子に成れという意味のいい子じゃなくてね」
「ややこしいけど、わかった」「そう、ありがとう。開くんと話せて本当によかった。嬉しいなー」
思わぬ長湯となって、身も心もホコホコ温もった夜でした。

今月の掲示板 2013年2月

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帰命無量寿如来 あるがままの世界から来られる方にいのちをゆだねます
南無不可思議光 あるがままの世界から来られる方の光におまかせいたします

大根の味  榎本栄一
大根はいいなぁ
味がないようで 味があり
私はこの年になって
まだ大根の味がだせないようだ

罪悪深重  榎本栄一
私は こんにちまで
海の大地の
無数の生きものを食べて
私のつみの深さは 底しれず

開眼  榎本栄一
なんともなしに
買うて 食べているもの
眼がひらけば これみな
天地(あめつち)からのいただきもの

大悲の風  榎本栄一
わかりにくいが
私のあさましさに合掌したら
どこからともなく
吹いてくる

あいつもくだらん奴だ
こいつもくだらん奴だ と、よく言っているけれど、
だからと言って、その人が立派な人間だという
証明にはならない
人のいい所が見えないのだから、
それはかえってくだらん人ではなかろうか

意見が一致したのではない
利害が一致しただけだ

自分が絶対正しいと思い込むのは
狂気の始まりか、精神の老化の第一歩である。 ある精神科医

相手が間違っているということは
何も、自分が正しいという証明にはならない。

箒も使いようで掃ける
みんないい所があるのだ

本堂に座って 2013年2月

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年末から春先にかけて、子どもたちの誕生日が続きます
(在ちゃん12月、開くん1月、誓くん3月)。
そんな中、開くんの宿題に
「生まれた頃のこと、(これまでに)うれしかったこと・心配したことを話してもらう」
というものがあって、あらためて「誕生」について振り返らせてもらえる本を読み返してみました。

私たち1人ひとりに、例外なく与えられた誕生の瞬間を考えてみましょう。
この「私」は、家族、親族はもちろん、
ご縁あるさまざまな人から願われ望まれて生まれてきました。
生まれたその瞬間、本当に多くの人に喜びや安心、つまり幸福感を、
この「私」が与えたということを、きちんと認識すべきです。
「私」に関わるすべての人が、「私」を心配し応援してくれています。
粗末にできない「私」です。
今も、この「私」は守られ認められているという、
大きな安心感に立ちたいものです。
誕生といっても、そのことがどんなに素晴らしいことで、
どんなに尊いことであるのかが、私たちにはなかなかわかりません。
しかし、私たち1人ひとりが人間に生まれ、
この「私」に生まれたということには、尊い意味があるのです。

どの人も目的があって生まれてきているということを、
お釈迦さまは、ご自分の一生涯の間に見つけてくださったのです。
私たちは、ただ何となく生まれて、ただ何となく生きてきて、
寿命が尽きたら死ぬ、そんな人生ではありません。
どんな状態のなかで生活することになっても、
「あなたたちにむなしい人生なんてないのだ」
「どの瞬間もみな、とても大事な尊い素晴らしい一瞬一瞬を生きているんだ。そのことに気づいてください」
ということを、
お釈迦さまは35歳の時に覚られて、そしてそれから45年間、
一生涯が終わるその時まで、人びとにずっと説いてまわられたのです。
世の中に尊くない人は1人もいないのです。
世の中にどうなってもいい人は1人もいない。
すてられていい人は1人もいない。
世界中に、殺されて当然だという人は1人もいないのです。
殺す権利を持つ人もいません。
殺してしまった人も尊い人生を生きているのです。
殺された人も尊い人生を生きていたのです。尊い人同士なのです。
いじめられていい人は世の中に1人もいません。
誰かをいじめていい人も1人もいません。
差別されるべき人もいなければ、差別して当然だという人もいない。
どの人の、どの人生もみな尊い。
他の人と比べて尊いということではなく、
あなたのそのままで尊いということです。

さてしかし、尊いはずの私たちですが、そのことに気づかず、
せっかくの人生を「私の都合」中心に、
適当な言葉をやりとりしながら過ごしてしまいがちなのも私たちです。
そういうことを示しているのでしょうか、
人間が生まれたときだけ「誕生」という言葉を使うそうです。
あらためて「誕生」という言葉を考えてみますと、
まず、「誕」の字は「言」偏(ごんべん)に「延(ひきのばす)」ですから、
「言葉巧みに引き延ばす」、つまり「いつわる」「嘘をつく」という意味になります。
うがって言えば「誕生」とは「嘘つきが生まれた」ということでしょう。
小さいことやものを大きく語る。言いくるめて(期限を)引き延ばす。
いかにも人間が生まれたことを言い当てていますね。
(『お誕生おめでとう 生まれてくれてありがとう』
真城義麿 著 東本願寺発行-より引用させていただきました。)

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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