清風 2012年3月

テーマ:清風 【住職】

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いのち あることを よろこぼう (避難先の中学校の板書から)

いかにして欲しいものを手に入れるかということに関わり果てて
「何を欲することが正しいか」という問いを立てられなくなった。 
(ボールディング)

うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる   (相田みつを)

失ってみないと 今の暮らしのありがたさは わからないと思います
                     (福島飯館村の村民)

この世に天国を作ろうとする試みは、何時でも地獄を産み出した。
                     (K・ポパー)

経済成長が高い国や、医療が高度な国、
所得や消費が多い国の人々は、本当に健康で幸せだろうか。
「先進国」でうつ病に悩む人が多いのは何故か。
他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは、
人間が安心して豊かな気持ちで生きる上で、欠かせない要素だ。
GDP(国内総生産)の巨大な幻想に気付く時がきている。
              (カルマ・ウラ ブータン国立研究所・所長)

いにしえは 心のままにしたがいぬ 心よいまは 我にしたがえ
                                                 (一遍上人)

敗戦など ある筈なかりし神国が 又もつまずく 原発神話
                                      合掌 南無阿弥陀仏


今年も3・11がやってきます。
東北の方から「どうか私たちのことを忘れないでください」
という声が伝えられてきます。
そして、今一つ声が聞こえてきます。
「私どもは、震災と原発事故で亡くなった方や避難している方から
どういうメッセージを受け止めたのか」という声が。
そして今も、原子力発電所のいつ終わるかわからない事故の終息のため、被曝線量を計りながら業務をしている、原発事故現場の作業員の人たちの声が…。

これまでの生活の有り様を見直そうという声が起こってきているにもかかわらず、再び「コスト」と「経済成長」という価値観のみに「生きる指標」が置こうとされています。
震災以来、清風の1面で紹介してきたいくつかの言葉を再掲して、「フクシマ」以後に生きるとはどういうことか、考えたいと思います。

『正信偈』のはなし 2013年3月

テーマ:清風 【住職】

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本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

私どもの生活は、結局、我がこころの思いにこき使われ、
そして皮肉なことにこころの安らかな時がなかなか得られない(生死輪転)のは、要するに我がこころが「疑い」にとらわれてしまっているからだと、師・法然上人は教えてくださったのでした。
今回は「疑いのこころ」と言われることに注目したいと思います。
上の短い文章の中に、「こころの思いにこき使われ」
「こころの安らかな時が得られない」「疑いのこころ」と、
「こころ」という単語が3回も使われています。
仏教は、「我がこころ」の有り様に注目したと言えるでしょう。
私どもは当然のように「私は」と申します。
その「私」が生きる基準をどこに置いているかと言えば「私の思い」に置いています。
簡単に言えば、私は幸せを求めて日頃の生活を送っているわけです。
その幸せとは、「我が思い」が適うことでしょう。
しかし「我が思い」に適った幸せは、いつまでも続くでしょうか。
幸せは成ってしまえば当たり前で、日常性となり、そんなに長く続くわけではありません。
幸せになったところから、また新しい問題が生まれてきます。
親鸞聖人が自分を見つめられて
「悲しいかな」「愚者(おろかもの)」と告白されているのは、
「私は、「私のこころ」が決して頼りにできない
不確かなものだという事実に気付くこともなく、ただ妄信しているのだ」
ということを法然上人から教えられたということなのです。
「我がこころ」は、実は虚仮なるものであったと。私のこころ」と言うように、
私のこころは「他(仮の主体)」であって、決して「私自身(真の主体)」
とは言えないと見出したのが仏教であったのです。
(「真の主体」については、次号へ続く)

お庫裡から 2013年3月

テーマ:清風 【住職】
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孫と一緒の時間は面白い。
夕食後、「おばあちゃん、かくれんぼしよう」と在ちゃん。
「私が10数えるから、その間にかくれてね」「エ!10?」
「そう、私が数えるからね。1、2、3…」
サー困った。リビングにかくれる所など無い。
流し台の横の移動カウンターのかげに身をかくす。
食卓の下だったり、椅子の後ろだったり、
次は見つからないかと電話の置かれた机の下に。
狭い所に身をかがめているのに、すぐ見つかってしまう。
「どうして机の下ってわかったの」
「だって椅子を動かす音がしたもん」
「在ちゃん、耳ざとい」
よし、こうなれば、ソファーの横に置き、
積まれた本やおもちゃのかげしかない。
顔を床に押しあて、身を平にして床になりきる。
「あ、まだ見つからない」「まだだ」と思うと嬉しくって
「クックックッ」と笑いがこみ上げてくる。
それを押し殺そうとすればする程、笑いがこみ上げてくる。
「あ、おばあちゃん、見つけ」見つかった途端、
こらえていた笑いが大爆発。
「あはは、あはは、あはははは」

「おばあちゃん、僕と将棋をしよう」
将棋クラブ寺部杯第3位の賞状を持ち帰った開くんからの申し出、
「ありがとう、相手してくれるの、嬉しいな」久しぶりの対局。
あれ、あれ、あれ。なんと開くんの穴熊を破ってしまった。
「チェ、ミスったか。おばあちゃん、最後の詰めがうまくなったね」
誉められるのは、誰からだって嬉しい。
ばんざい。明日、大雪にならねばいいが。

「お風呂から出たら、おばあちゃんの部屋に行っていい」と誓くん。
『大迷路』という本を持ってやって来た。
沢山の人物図の中から特定の人物を見つける類、
彼はもうとっくに見つけてあるので、
「一緒に見よう」と言ってくれても、豆つぶより小さい絵を見分ける力は私には無い。
ページをめくる毎に、「あ、見つけた」
「ほら、ここにいるよ」「ほら、これだよ」 
「誓くんはいい目をしているね。
よくこんな細かい人物の見分けができるねー」
「こんなの簡単だよ」と誓くんの鼻がピクピク動いた所で、
「もう寝る時間だよ-」と声がかかった。

三人三様で、あー楽しかった。
孫と一緒というのは、こんな特典が与えられる。
ありがとう、ありがとう。

今月の掲示板 2013年3月

テーマ:今月の掲示板

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人間の一番欲しいもの、それは満足と安心です。
自分を失っているところから起こるのが不安、
我が身にかえれば、そこに安心がある。
我が身にかえれば、そこに本当の意味の満足がある。

大体、人間は安心しようという心によって
不安を呼び起こしているのです。
安心できる条件を探す心は
安心できないものを見つける心でもあるのです。

結局、人間というものは
自分の心に自分が引き回されていく。

人間というものは
自分のやっていることが一番よい事だと思う。
だから人にも
自分のやっているようにやらせたいという根性がある。
自分のやり方の通りに人がやらないと気に入らない。
そこに問題がある。

タヌキやキツネは人をだますけれど
自分をだましたりしません。
人間というのは大変なものです。
自分をだます。
たちが悪いのです。

人間はみな、満足というものを外に求めている。
満足するという心がなければ
何を手に入れても、次から次へ不足が起こる。
本当の満足は、内に満足するしかない。
私が私で、これでよかった。
これが満足です。

如来をたのむという事は
我が身はたのまない
我が心をたのまない
ということです。

我が身を知れ、というのが本願の心であり
我が身を知れ、という呼びかけが南無阿弥陀仏です。

一生の間に何があるかわかりません。
そういう目にあった時に、
そういう目に遇わなくてはわからないようなことが
自分に思い知らされる。
それが仏法というものです。

本堂に座って 2013年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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震災から2年が経ちます。
震災以降、復興・原発・放射能・保養…など、
いろいろな場でお話を聞き、また、話し合いに参加させていただき、
新たにたくさんの方と出会うことができました。
一方で、これらのことを共通の話題にできる人、できない人…
ということが見えてくる様にもなりました。
そんな中、以前に「間」について書かれているお話があったことを思い出しました。

先日、ある人から
「この頃、子どもたちの三間喪失が言われますが、
貴校ではいかがですか」と聞かれました。
私はその「三間喪失」という言葉は初耳でしたのでお尋ねすると、
「三間」とは「時間・空間・仲間」ということでした。
なるほどと思いました。
さて、その「三間」は実は一体のもので、
「間」とは、つながりや関係性を表すと思います。
つまり「時と場と人」をともにするということが、
「三間」が成立していることになります。
ところが振り返ってみますと、私たちは自分だけの時間を
自分だけの部屋や場所で自分一人で過ごそうとばかりしていないでしょうか。
限りなく個別化の方向に進みがちです。
また、せっかく他の人と時と場をともにしているのに、
自分の世界に没入し、他者が視野に入らない。
あるいは視野から排除したいようです。
ところが、個別化して自分の都合通りになっているつもりが、
何かしら満たされない。
私たちの成長は、特定期間だけのものでなく生涯続きます。
また他者は競争相手ではなく共存相手です。
いつどこで誰と生きればいいのかを、もし悩んでいるとすれば、
「今ここに与えられている事実」からスタートして、
あらゆるつながりに支えられて、
現に今、私が生きてあることを見つめるところから始めましょう。
たとえ不満足・不本意な現実に思えても、
「今ここ」以外に私が生きる時もところもあり得ないし、
求めても得られようはずがありません。
大事なのは、課題が解決することではなく、
その課題から目を背けずに問い続け、担い続けることです。
人生は思い通りになればなるほど価値があるという考え方は誤りです。
私たちはいつも人生の岐路にいますが、
どの道へ行っても大事な人と出会い、大事なことを学びます。
どの人のどんな人生にも意味や価値があります。
さらにその、失敗ばかりの私が、多くの人から支えられていることを知った時の喜びがあります。
今ここで私が、他のさまざまないのちあるものとともに、
安心して学び、遊び、楽しみ、悲しみながら、互いに深まり合い高め合っていく。
「今ここで私が」意欲をもって生き始める時、私を支え、
私の独立と連帯を成り立たせるものとして三間が回復するのでしょう。
(『あなたがあなたになる48章』真城義麿 著 東本願寺発行
-「31 三間喪失とその回復」より引用させていただきました。)

自分が関心を持っている事柄や様々な情報に対して、
話していても結論が見えてこなかったり、伝えたい・知って欲しいことが思うように伝わらなかったりと、
自分がしていること・立っているところに不安を感じてしまうことが多々あります。
そんな時には、あらためて「今、この時・この場所」を大切にすることで、
つながりや支え合う関係が生まれてくる…と実感しています。

今日も快晴!?2013年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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最近は10才の年に「2分の1成人式」というイベントをするのが流行っているようですが、長男の小学校でも先日そうしたセレモニーが行われました。
画用紙で作った「誓いの紙」を持ち帰ってきて、
「お母さんの感想を聞くのが宿題だから、聞かせて」と言うのです。
長男の「10才の誓い」は、
「科学者になって、その科学の知識を人のため社会のために使える大人になります」でした。
続く「お父さん、お母さんへ」という文章は、
「これまで10年間、くぎで親指をさしたり、
がびょうを4回ふんだり、犬にかまれたりホッチキスで指をとめたり
発明クラブに出す作品を手伝ってもらったりとたくさん迷惑をかけました。
この先もたくさん迷惑をかけてしまうだろうけど、
これからの人生で、これまで迷惑をかけてしまった分は人の役に立つ存在になりたいです。
だから、ぼくは科学者になって人の役に立つ道具や機械をたくさん作り、その作った機械を真っ先にお父さんやお母さんに使ってもらって感想を聞いてその感想を元にしてより良い作品を作り、その作品を世に役立てます。
多分ぼくの頑固なところやインドアなところは一生直らないと思いますが、これからもよろしくお願いします。開より」。 

さて、この手紙を読んで、どんな感想を書きましょうか・・・。
「開くんへ。素敵なお手紙をありがとう。
レゴやガンダムや工作が大好きな開くんが、自分の興味のあることと将来の自分を結びつけて一生懸命考えた夢なので、
出来る限り応援したいと思っています。
道具や機械は、それを使用する「人」の事を考えないとだめだよね。
どんなに優れた道具でも、使う人に合っていなかったり、
機能は素晴しいけれど使いづらかったら、結局使ってもらえないからです。
そのために、沢山の人と出会って、豊かな人間関係を持てると良いね。
人は支え合って存在しているので、人に迷惑をかけない人はいないから、
安心して迷惑を掛け合えるお友だちがいっぱい出来ると良いね。
また、道具や機械は様々なシチェーション(状況)で使われるので、
インドア派の開くんとはいえ、研究室(機械や道具を作る場所)や部屋にこもってばかりいないで、
外に出て色んな経験をして下さい。
自然の中でお友だちといっぱ遊んだり、スポーツをしたり、
美術館で素敵な絵を見たり、お芝居を観て感動したり、本を沢山読んだり、
音楽を聴いたり、旅行に行ったり、心に栄養をいっぱい入れていくうちに、
開くんの頭と体と心の中でそれらが豊かな経験の土壌となり、
そこから新しい発見やひらめきが生まれるんじゃないかと思います。
頑固の良い面もありますが、やる前から「出来ない」と決めつけず、
失敗を恐れずに色々な事に挑戦して下さい。失敗しても、
そこからまた立ち上がればいいだけのことだからね。
そして、『人の役に立ちたい』と言うのは大変立派な気持ですが、
しかし、『役に立つとはどういう事だろうか?』という視点も同時に持ってもらいたいと思います。
もし開くんが「自分は能力が足りない。世の中の役に立てない」と悩むことがあれば、
「開くんが、他の誰でもない開くんとして今ここに存在している。
そのことが一番素晴しくて尊い事なんだよ。」と伝えたいと思っています。
それは、仏さまが仰って下さっていることで、
お父さんとお母さんはそうした仏さまの教えを伝えるお寺という場所がとても大切だし、
素敵なお仕事だと思っています。
頑固もインドアも直らなくても大丈夫。

お父さんもお母さんも、そのままの開くんが大好きです。
こちらこそこれからもよろしくね。お母さんより 」

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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