清風 2012年4月

テーマ:清風 【住職】

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人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らない
                     金子 大栄


「先生、そりゃ、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。
でも見えたらあれも見たい、これも見たいいうことになって、
気が散ってあかんようになるかもわからん。
見えんかて別にどうということもあらへん。
先生、不自由と不幸は違うんやね。(盲学校6年生)」

この子は、光のない世界を生きているのです。
でも、何という明るさでしょうか。
光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、
もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています。          ― 東井義雄 ―


心身の不自由は進み、病苦は耐え難し。
去る6月5日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。
自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
平成11年7月21日 江藤 淳(66歳 評論家)

江藤氏の遺書は、脳梗塞以後の自分を形骸、役に立たない者は生きている価値がないと断じておられる。
しかし、江藤氏の死は、現代人の知性の限界を示して、あまりあるものがある。
知性はある意味、深い闇をたたえているものであることを知らねばならないようだ。


冒頭に掲げた金子先生の言葉から、人生は担いきれない悲しみをたたえているものであるが、
しかし、その悲しみは、また、その底に、深い喜びをたたえてもいるのだと教えられているように思う。
どんな人生も、それぞれに貴重な意味があるのだと、受け止めていけるあなたになっていって欲しいと思う。

『正信偈』のはなし 2013年4月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心をもって能入す、といえり。」

「生死輪転家」(苦)は「疑い」が作り出すものであり、
「無為楽」(さとり・涅槃)に入るのは信心(ただ念仏)に依るのだと説かれています。
しかし、どうでしょう。
私どもは「疑い」が苦を作り出すとは考えてもいないのではないでしょうか。
思い通りにならないから苦と思うのであって、疑いなどということは、
まったく別の次元のことであると考えています。
信心(ただ念仏)に至っては、そういうこととは、これまた話の次元が違うことだと。
親鸞聖人は、信心(ただ念仏)という言葉に、
現代人が抱いている先入観とは全く異なるメッセージを込めていたのです。
なにしろ、親鸞という方は「ただ念仏」とのみ、生涯発信していった人です。
「ただ念仏」。
これは答えが与えられたことなのです。
「ただ念仏」が「答え」であると聞いても、その「問い」が明らかにならない人は、
それこそ「不思議な答えだ」としか受け取れないのではないかと思います。
ここまで考えてきて、この30年ほど、自分探し・癒し・ペットブームなど、
こころを巡っていろいろなブームが仕掛けられてきたことに気付きませんか。
オウムの事件の頃から、こころがブームの中で翻弄されている感じがします。
私どもが、主体とか自己探しというのは、ペットブームなどと深い関係があるのでしょう。
背景にあるのは、生活が豊かになったことだといわれています。
豊かさは、自分で選べる選択肢が多くなったということです。
自分探しは、その選択肢が多くなったことと関係があるのです。
戦後の貧しかった頃には、とにかく今、腹いっぱいご飯が食べられたら、それで幸せでした。
先月号の巻頭に「何を欲することが正しいか」(ボールディング)という言葉を紹介しました。
こうした問いに真向かいにならなければならなくなった、それが豊かさの代償であったのです。
そして、実は「自分探し」こそが仏教史なのです。
ブッダは目覚めた人の意味です。
何に目覚めたのか。
それは真実主体、本当の自己が分かった人の誕生ということであったのです。

お庫裡から 2013年4月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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我が家の猫、ルルは、4月に入ると満19歳を迎えます。
人懐っこくて気性穏やか、子どもがおもちゃにしても爪を立てたことは一度もありません。
そんなルルが、最近妙に怒りっぽいのです。
しっぽに触ったといってはフー、行く手を遮ったといってはフー。
その上、トイレが用意してあっても粗相が多く、
また匂いのするところどこへでも上って何でも味見、
ゴミ箱もひっくり返す、まったく節操が無くなり、油断がなりません。
すっかり家族の嫌われ者となり、夜は外へ出されるハメに。
そして、家族の起き出すのを台所の窓の下で毎朝待っているのです。
ある日、猫のトイレの始末をしようとしたら、食卓の椅子で寝ていたルルが、
すごい勢いで走り下りてきて、私の横でピタリと止まり、用足しスタイルをしたのです。
「あっやられる」私はあわててルルを外へ抱え出しました。
するとルルはそこでドタッと横になり、突然ケイレンを起こし苦しみだしたのです。
「エ!エ!何事!!」ビックリしていると、発作は数秒で治り、何事も無かったかのようにすましているのです。
「あんなに急に走るから心臓がビックリしたんだね」ひと安心してトイレの始末を始めました。
午後から雨になったその日、ルルはあれから何処へ行ったのか、夜になっても帰ってきません。
車庫を探しても見当たりません。昼間の発作が頭をよぎります。
だんだん心配になってきました。
次の朝、台所の窓下にルルの姿はありません。
夫も境内を一周して探してくれましたが見つかりません。
ああ、ルルは死んでしまったのか。
家中の者があきらめかけたお昼頃、
「これお宅の猫かね。家へ来てちっとも帰って行かないので」と、
近所のおばあちゃんに連れられて、ルルが帰宅。
ああ、ルルは生きていた。ホッとした空気が流れ、
その日はみんなやさしくルルに接している様でした。
ルルは猫の身ながら、ボケて判断力が落ち、病み、やつれ、身を汚して、
私の老いていく姿を如実に見せてくれているように感じます。

今月の掲示板 2013年4月

テーマ:今月の掲示板

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あなたにとって幸福とは何ですか?
呼吸ができることです。(水木しげる)

幸せが私たちの思っている通りなら
それが手に入れば幸せになれるはずです。
手に入った途端、それは当たり前になって、また飢える。
私たちの考えている幸せ、そのものに
大きな誤解があるからです。

本当の幸せがわからない。
わからないくせに、わかったつもりでおる。
わからんということさえ、わかっとらん。
だから、いよいよ遠くへ離れていく。

人間として一番大事なことは?
その問いを持つこと。
日常生活の意味は、
その一番大事なことに気付かしてもらう縁である
ということです。

私が、本当の幸せを見逃しているのは、
幸せというものはこういうもんやと決めておる。
それが大きな間違いです。
だから、はずれる。

「満足しなくてはならん」という心には
満足はない

人間というものは
存外、人間のことを知らない。
自分のことが一番わからない。

人の花は赤く見える。
「あの人のようになったら」
ということは、
この人(自分)が気に入らない。
バチ当たりということになる。

本堂に座って 2013年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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震災から2年が過ぎましたが、いまだに事故の起こった福島原発では、電源不調による冷却停止・作業が困難な程の高線量部の存在…など、先の見えない状況が続いている様です。

そんな中、あらためて震災後間もない頃の文章を読ませていただいて、時間の経過とともに、せっかく見えかけていた大事なことを忘れかけているんじゃないか…という思いを新たにしました。

原発の地元では、放射能汚染で住むところや仕事を失った人がたくさんいます。
子を持つ親は、子どもが被曝するのではないかとおびえながら暮らしていることでしょう。
逃げられるものなら、安全なところへ避難したい人もたくさんいると思います。
何でこんな目に遭わなければいかんのかという、
やるせなさや怒りはどこへ向ければよいのでしょうか。
それでもなお、原子力発電は必要だ、原発を止めたら電気が足りなくなると言う人がいます。
電気が足りなくなれば、今より生活が不便になるだろうし、経済が縮小すれば収入が減るかもしれません。
今の生活水準が保てなくなって、快適さや豊かさを損なう可能性があります。
だから原発は止めてはいけないということであれば、本当かそれは?と言いたくなります。
原発事故で放射能がまき散らされて、家を追われ、
命の危険を感じながら生きている人がたくさんいるのに、原子力発電のコスト計算をして、
「経済活動や暮らし向きを悪化させないために原発は必要だ」と、
政治家や学者や経済界のえらい人たちが言っています。
彼らは「現実を見ろ」とわかったようなことを言います。
しかしこの人たちは、損得の都合を「現実」と言っているに過ぎません。
原発が止まると電力パニックが起こるみたいなことを脅しのように言われれば、誰だって不安になります。
電力が足りないのなら、消費を減らす工夫をすべきでしょう。
電力の大量生産と大量消費を前提にした経済や暮らししか考えられないからそういうことになるのだと思います。
人間の欲望は底なしです。
一度楽することを覚えたら、なかなか元へは戻れません。
私たちは、欲望を満足させること、気ままに暮らすことに心を引かれてきました。
効率を追求し、不便や不快を排除する生活は、節度や慎みや辛抱といった人間としての基本的なモラルを欠落させます。畏敬(おそれうやまい)の心をはぐくむことができなくなれば、人と助け合ったり、分け合いながら生きる能力は育たず、人間は不安です。心が安まらないことを、気晴らしや快楽でまぎらわしたり、所有欲を満たすことで自分をとりつくろっていないでしょうか。
私たちは夢から醒めることができるでしょうか。
人間にとって真に大切なこと、たよりになることとは何なのでしょうか。
それが見つけられなければ、私たちは、快適さや便利さを追いかける生き方に必ず流されます。
回り道のようですが、自分が生きることの精神的な拠り所をはっきりさせることで、
誘惑や脅しに振り回されない、弱みにつけ込まれない生活を送ることができるのだと思います。
(『円超寺報 海』2011年7月号「くらしと宗教」より引用させていただきました。)

震災直後は、原発を必要としてしまう生活を見直そう…という声がよく聞かれたと思うのですが、
このところは「やっぱり原発は必要だ」という声が大きくなっている様です。
誰かの都合に立った「現実」でなく、実際に起こっている「現実」に目を向けることで、
初めて本当に大切なことが見えてくるのでしょう。

今日も快晴!?2013年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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我が家の3人の子どもたちの夢。
それは、開「一人っ子になりたい」、
誓「ありちゃんをぼこぼこにしたい」、
在「お姉ちゃんか妹が欲しい。開くんは良いけど、誓くんはいらない」だそうです。
全く、なんて仲の悪い兄妹なんでしょう・・・。
特に激しいのは、下二人の兄妹喧嘩です。
たいがいどっちもどっちなので、
片方だけひどく叱ることのないように気をつけていますが、
娘も心得たものでアピール泣きの激しいのにも困ったものです。
例えば、テーブルの上に在が子ども園で工作してきたちょっとした物が乗っているのを、誓が見つけて(これ何だろう?)と手に取る→
すかさず、「それ私のだから取らないで!」と在が大声で叫ぶ→かちんときた誓が、わざと違う方向にそれを放り投げる→「誓くんが私の○○投げた~!」と在が大泣きする、
などなど・・・。
開と在はさすがに5才も離れているだけあって、
開が適当にあしらうのでそこまでの喧嘩にはなりませんが、
下二人のライバル意識の強さには本当に閉口します。
在の口が達者なのと、誓の負けん気の強いのが
丁度良い感じに正面衝突し合っている感じでしょうか?
(もう少し誓がお兄ちゃんらしくなってくれたらなぁ。
『妹は3つも下だから仕方がない』と適当なところで引いてくれたら良いのに・・・)と思っていたのですが、
どうやらそれだけでもなさそうです。

ある日、公園でお友だちと遊んだ誓が帰宅した時のことです。
やけに沈んだ表情をしているので、「どうしたの?」と聞いたところ、
「一緒に遊んでた子が、かくれんぼしていて、
ぼくがなかなか見つけられなかったら
『おい!出てこい!出て来ねぇとおまえの自転車のヘルメット、ぼこぼこにすっぞ!』って言った・・・」と、暗い表情です。
きっと、そう言われた時の怖い気持や嫌な気持をその場では言えず、心にしまって帰宅したのでしょう。
どうやら誓は、単に「妹が生意気だから腹が立つ」といじめているだけではなさそうです。
自分が外で言われて嫌な気分になったことを、同じように家で妹にぶつけて憂さ晴らしをしているようです。
そういえば、在もよく相手を小馬鹿にしたような「誓くん、○○も知らないんだ。へぇ~」という言い方をしますが、
きっとどこかで同じ事を言われているのでしょう。
「在ちゃんが同じ事を言われたらどう思うの?言われた相手が嫌な気持になることは言ってはいけないんだよ」と話すのですが、
まだ子ども園の娘には「相手の気持を配慮して物を言う」ということは出来ないようです。
今は出来なくても、「そうするべきだ」と言うことは伝え続けたいと思います。
子どもを取り巻く言葉の貧しさや汚さは以前から気になっていたのですが、
言葉が「自分と相手とを繋ぐもの」ではなく、「相手との関係を切るためのもの」になってしまうのは本当に残念に思います。
誓がかくれんぼで上手に隠れたとき、相手の子が「誓くん、上手に隠れたなぁ!ぼく降参だよ。出てきておくれよ」と言ってくれていたら、
誓はどんなに晴れ晴れとした表情で帰宅したことでしょう。
外で聞く言葉は止められませんが、子どもたちが家庭内で聞く言葉は、
穏やかで愛情に満ちて豊かなものにしてやりたいと改めて思いました。
さて、3月。
子ども園年中さん最後の日を終えた娘が、
園で描いた絵などを入れた「思い出バック」を持って帰宅しましたがそこには二つの似顔絵が描かれていました。
「これ誰?」と聞くと、「誓くんと私!」と言うのです。
あ、あれ?この二人は結局仲が良い・・・のかな??

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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