清風 2012年6月

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運動場  (小学三年生)
「せまいなあ」「せまいなあ」といって みんな遊んでいる
朝会の時 石をひろわされると
「ひろいな」「ひろいな」といって ひろっている

何とも素朴な子どものこころに映った情景です。
朝登校して、朝会まで友達と遊んだのでしょう。
そして朝会の時間になり、運動会でもあるのでしょうか、
教頭先生から注意があって、1年生、2年生、3年生、4年生、5年生、6年生と、
それぞれの学年の先生から掃除をする範囲が示されていきます。
4年生より上級生は、僕達より少し掃除の範囲が広いようです。
「さあ、始めて」の合図があって、始めてみるとずいぶん運動場が広く感じられるではありませんか。
あれ?てなもんでしょう。
やがて、周りの子たちのぼそぼそ言っているのが聞こえてきます。
先ほど鬼ごっこをしていた時はすぐ鬼に捕まってしまい、
それこそうちの学校の運動場は「せまいな、もっと広い運動場だったらいいのにな」と思ったのに、
石を拾わされるとなったら今度は「ひろいな、ひろいな」と言っているのです。
ゴムまりみたいに運動場が伸びたり縮んだりしないことくらいはわかっているはずです。
ところが、遊ぶ時になると「せまいなあ、せまいなあ」と、
掃除をさせられると今度は「ひろいな、ひろいな」と…。
素朴な子どもの詩から、私たち大人も同じだなと教えられるではありませんか。
自分の都合をぎゅーっと握りしめて、自分の都合(エゴ)でしかないその物差しが、
当てにならないのに、いざとなったらもうそんなことを全く忘れてしまっている自分だなぁと

『正信偈』のはなし 2013年6月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心をもって能入す、といえり。」

先月のこの欄で、(真実)主体の確立について述べてきました。
実はそれこそが、仏教が釈尊以来訴えてきたオリジナルな課題であったのです。
私どもは、誰もが人生の始めから終わりまで、
他人との比べっこしかしない相対有限な世界に生きています。
仏教はそのことを「諸行無常」と教えてきました。
先月号で、私どもは人間の尊重とか基本的人権と言っているけれども、
よく考えてみると「我々の所有する一切の富―物質的なもの、
精神的なもの、我々の誇りとする一切の富―が、我々の手からすべり落ちてゆくとき、
いったい誰が人としてあることを祝うでしょうか(滝沢克巳)という問いを紹介しました。
このことを考えるヒントとして、ここで詩を紹介しましょう。

「いれもの」 浅田正作
やどかりが 自分の殻を 自分だと言ったら おかしいだろう
私は 自分の殻を 自分だと思っている

相対有限の世界しか知らない私どもは、当然、比較の世界に生きなければなりません。
比較の世界は競争の世界です。我が国では、経済の成長が至上命題としてあります。
原発も経済成長からの要請でしょう。
比較の世界ですから、どこまで成長したらもういいと言えるのか、
それが誰にもわからない…ハーメルンの笛吹の童話は、
今の私どもが置かれている状況の寓話なのです。
真実主体(比較の世界だけが、生きる世界ではないと知る「知」)の獲得こそが、
緊急の課題なのです。
殻を自分としている事実、それこそおかしいと、
比較できるもの(殻)の確保に右往左往している、
その事実にまず気づけ、と指摘されているのです。

お庫裡から 2013年6月

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夏に向かうこの季節、我が家では困った事が起ります。
先日、お風呂で身体を洗おうと風呂場に掛けたウォッシャータオルを洗面器に入れたら、
ムカデが飛び出してきてびっくり。
排水口から入り込むのか、大きいものから小さいものまで、
風呂場・洗面所はムカデ出没の要注意場所です。
また、梅雨時は、家の中を蟻が行進していることも度々。
自然がいっぱいと言っても、部屋の中を蟻に歩かれるのも、困ったものです。
要注意はもう一つ。
洗濯物といっしょに蜂を取り込むことです。
蜂もびっくりかもしれませんが、こちらは大騒ぎです。
蜂と言えば、ここ何年も本堂と玄関の廊下と接続する壁と柱の間に蜜蜂が巣を作ります。
ブンブンというものすごいうなり声に気づいた時には、もう手の打ちようがありません。
ものすごい数の蜜蜂で寄りつくこともできません。
ヘボ取り名人の清水令司さんに天井裏に上って見ていただいたことがありましたが、
建物の構造上、巣に行き着けないと言われるのです。
仕方なく、目張りをしたり、ガムテープを貼ったり。
しかしそれらは何の効果もなく、蜜蜂は毎年やって来るのです。
本当にうまい場所を見つけたものだと感心しますが、手の届かぬところにある蜜が、
壁土の中に染み出してくるし、炭化したものが天井の方へせり出してくるしで、本当に困ります。
また、あの蜜蜂の大群は、見た者に恐怖心を与えます。
その蜜蜂が、今年もやってきました。
どうしたら巣作りを止めてくれるのでしょう。
観察していたら、蜂は夜、活動を停止することが判明。
翌日、夕方になるのを待って、夫と2人ではしごを掛け、
蜂の出入りする壁のすき間に殺虫剤を噴射。
中で蜂がブンブン騒いでいるのがわかります。
すっかり退治したつもりで「あー、これで私たち地獄行きだね」と言って家の中に入りました。
ところが翌日、蜜蜂は何事もなかったかのように、巣穴を出入りしているではありませんか。
「よーし、それなら。」「地獄行き」と言った私が、より強力な噴霧式殺虫剤を買い込んで、
張り切って、尚かつうれしそうに夕方になるのを待っているのです。
「地獄一定」って本当に私のことだと思います。

今月の掲示板 2013年6月

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人間は、三度の飯が食べられるだけで生きていけるか?
人間はもう一つ、意味を食べて生きている。
無意味な人生は、生きられないのです。

寺は、私が私に生まれた意味を開いていく場所です。

身の上に起こっている1つひとつの事実を
どのようにいただくか、
その訓練をするのが聞法です。

私たちの拠り所は
人間の知恵(自我)です。
私の知恵(都合)です。
だから悩むのです。

自我とは、思い通りにしたいということです。
それは、私の目の前の人・物を道具にするという根性なのです。

人は、様々な枷(かせ)、状況を生きている。
形骸であることも
弱い存在であることも、人間です。
弱い自分を見つめ
与えられたいのちを全うしていただきたい。

私たちは、「わが思い」=「先入観」を絶対化している。
それによって、どれだけ人と人が諍(いさか)いを起こし
人を傷つけているか。

念仏(南無阿弥陀仏)とは、
「仏さんの智慧を拠り所にします」という宣言です。

本堂に座って 2013年6月

テーマ:清風 【住職】

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先日、清沢満之師にご縁の深い碧南市の西方寺さん・清沢満之記念館へうかがう機会がありました。
清沢満之師の書かれた文章からは、読むたびに新たな視点に気づかされています。
その中から特にハッとした部分を引用してみたいと思います。
(本来であれば原文を引用すべきですが、スペースの都合により現代語訳のみを掲載させていただきます。)

(現代語訳)
精神主義は完全な自由主義である。
もし制限されたり束縛されたりすることがあれば、
これはまったく自分で制限し自分でしばることであって、
外物や他人によって制限され束縛されるものではない。
自己も完全な自由を持ち、他人も完全な自由をもち、
そして彼の自由と我の自由が衝突しないもの、
これがつまり精神主義の交際というべきである。
ところで通常の場合には、彼の自由と我の自由が衝突しないわけにはいかないのはなぜなのか。
ほかでもない、このような自由は完全な自由でないがゆえに、
完全な服従と両立しないからである。
いま精神主義の立場からいう自由は、完全な自由であるのだから、
どのような場合にも、つねに絶対的服従と両立することをみれば、
自由に自分の主張を変更して他人の自由と調和させることができるし、
彼の自由と衝突することはありえない。
しかるにこのような服従の場合に、もっとも注意すべき大切なことがある。
すなわち、煩悶憂苦があるかないかである。
この点について精神主義にはひとつの大切な意義がある。
ほかでもない、精神主義はすべての煩悶憂苦を各人の自己の妄念から生じる幻影だとみなすことにある。
すなわち精神主義の立場からこのことを説明するならば、
我は外物や他人を苦しめることはできないのと同様に、
外物や他人は我を苦しめることはできないのである。
だからひょっとして外物や他人の動作によって我が苦悩するようなことがあっても、
精神主義の立場からこれを説明するなら、
このようなことは自己の妄念によって苦悩することであり、
けっして他人や外物によって苦悩させられるものではないと考えるのである。
(『精神主義』清沢満之 著(現代語訳は『現代語訳 清沢満之語録』今村仁司〔編訳〕)より引用させていただきました。)

「今から○○をしよう」という時に、
相手から「△△をしておいて」と言われたら、
「こっちにも都合・予定があるのに…」と思ってしまいます。
ところがこの文章には、「自由に自分の主張を変更すれば相手の自由と衝突しない」と書かれています。
「相手が自分の予定を邪魔した」のではなく、
「自分が自分の都合・予定に縛られて、相手の都合に合わせることができない」から、
「(実際には不自由な)自分の自由」と「相手の自由」が衝突してしまう…と言われるのです。
また、「自分が制限・束縛された場合は、
外物や他人が私を制限・束縛するのではなく、自分で制限し自分で縛っている…」、
「外物や他人の動作によって私が苦悩することがあっても、
自分自身の(迷いの)心によって苦悩しているのであって、
外物や他人に苦悩させられているのではない…」とも書かれています。
ふだん、自分の思い通りにならない・悩んだり苦しんだりしているのは、
目の前の相手に原因があるんだと、当たり前のように思い込んでいましたが、
これらの文章は、そんな「当たり前」をみごとに打ち破ってくれる衝撃的なものでした。

今日も快晴!?2013年6月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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5年生になった長男が、10才という年齢を迎え、
少しずつ今までとは違った様子が見られるようになりました。
それまではお風呂に入ったあと、素っ裸で台所まで走ってきて、
そこでパジャマに着替えていたのですが、
「恥ずかしいから、ぼくはお風呂場で着替える」と、
パジャマを狭い脱衣所に持ち込んだり、
「自分一人の部屋が欲しい」と言い出したり、
「一人でお風呂に入っちゃダメ?」、
「9時よりもう少し起きていたらダメ?」と、親の決めたルールや、
家族の暗黙の了解事項に異義を唱えるようになってきました。
同時に、急速に「友だちとの約束」が多くなり、
毎日のように「今日は東公園」、「今日は西公園」
と友だちと約束をしては出かけていきます。
「何をしているの?」と聞くと、「サッカー」だそうで、
「ぼくはずっとキーパーをしている」と言います。
これは所謂「思春期」の始まりということで、
それまでは「自分の家族」が基本単位で、
そこで起こっていることは「当たり前」で「そうするものだ」と頭から信じ込んでいたものが、
「どうやら、これはぼくの家だけで起こっていることで、余所のうちでは違うらしい」と周囲との「比較」という視点が出てきたり、
(ぼくはあまり運動は得意ではないけれど、キーパーのポジションだったらみんなと一緒に遊べる)と、
自分の得意な領域を認識して、集団での役割分担を考えられるようになってきたのだと思います。
そんな時に、自分の頭の中で(こうなんじゃないかな)とぼんやり考えていたことが、
見事にまとまった本に出会えました。
「読む力は生きる力」 脇明子 岩波書店
「自分が直面している問題の全体像を把握し、
様々な可能性を考慮に入れて解決策を練るとか、
状況に応じて様々に計画を変更していくとか、
自分とは違う立場から物事を見直してみるといった能力は、
10歳前後で急速に発達すると言われています。
これを『メタ認知能力』と呼びます。
このメタ認知能力が育ってくると、子どもは急速に大人び、
自分というものを強く意識し始めます。それが思春期の始まりです。
私たちが感情の爆発を押さえたり、
衝動に駆られて動こうとするのをなだめたりできるのも、
この力があってのことです。」
 長男の変化は、この「メタ認知能力」が急速に発達してきていることの表れだと考えると、
すっきり腑に落ちました。
続いて脇さんは「・・・電子メディア(テレビ、ゲーム等)
とばかり接してきた子どもたちの中に、この年齢になってもメタ認知能力が育ってこず、
衝動的で計画性がない、持続力がない、最初に見つかった答えに飛びつく、
同じ間違いを何度でも繰り返す、抽象概念が上手く扱えないなどの傾向を示すものが少なくない」
というアメリカの研究から、
「青少年による銃の乱射などが頻発しているアメリカの現状があるわけですが、
残念ながら日本でも、それを対岸の火事だとたかをくくっていられなくなっています。
・・・この『メタ認知能力』を育てる上で、読書は大きな助けになっているのではないでしょうか。」と書かれています。
読書を大切にすること、テレビは付けっぱなしにせず、
見たい番組だけ決めて見せること、ゲームは買わないこと。
こうした我が家の方針は、とりあえず可能な限り続けることにしようと思います。
もし「自分は子どもにゲームを与えたくないけれど、周りが皆持っているから買った方が良いのだろうか?」
と悩んでいる方がいらっしゃったら、是非お話しましょう。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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