清風 2012年7月

テーマ:清風 【住職】

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南京 沖縄 広島 長崎 アウシュビッツ 福島(負苦島)

不敗神話 安全神話 声高く 叫ばれる所 戦争がある

父が願って止まないことは 如何なることがあっても 
戦争は絶対反対と生命ある限り そして子にも孫にも叫んでいただくと共に 
全人類が挙って願う 世界永遠の平和のために貢献して頂きたい事であります。
〔『世紀の遺書』講談社 元海軍一等兵曹29歳 巣鴨で刑死〕

帰って来たか 帰って来たかと 老母は 白木の箱を 抱きて呼ばるる
吾が覚悟 うべなふ妻が 手足もげても 生れむ子のために 帰り来よとぞ
両眼を 吾失へり 妻や子は 如何に生きむか 戦い終れど
死を賭して 戦ふはありき 死を賭して 戦を罷(や)めよと 言ふはあらざりき
〔『昭和万葉集秀歌』一 講談社現代新書〕

殺してはならぬ 殺さしめてはならぬ〔釈尊〕

 

人間にまで進化した命は、何処へ向かって歩みを進めていくのが
本当の意味での進化と言えるのだろうか。
それが、今日本の国民に問われていると言えよう。
進歩・進化とは便利で快適な生活を送るということだけなのかと。
それなら、いのちの歩みとはならないのではないか…
なぜなら、いのちは物ではなく、生まれたものは皆いのちを終えてゆくのだから。
本当の「人との関わり」を結んでいくこと、それが人間-人と人の間に生きるものとしての究極の願い。
人間(人-間)という漢字が、まさにその事実を表現している様に。
人間は、物でも道具でもない。
意識を持った、知恵を賦与されている動物。
奪い合えば足りない、分け合えば足りる。相手がいて、私がいる。
その単純な事実に気付けと、日本国憲法の前文・そして9条は呼びかけている。
日本国憲法の前文と第9条の精神は、人間が生きるうえでの真理の表現。
真理を無視して生きるとすれば、妄想に生きる以外にない。

『正信偈』のはなし 2013年7月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心をもって能入す、といえり。」

私どもが生きていく場合のことを考えると、していることは…
1できること 2しなければならないこと 3したいこと、とすると、
1ではあっても、23ではない。
2ではあっても、13ではない。
3ではあっても、12ではない。
…などと、なかなかうまくはいかないのが現実というもので、
就活などもそういう点から言うと大変である。
こちらも変わっていくし、相手(企業)も変わっていくという訳で、
なかなかその変化までは予測できないのだから。
しかし、「一言で言えば、ある芸術作品が芸術作品たり得るのは、
それが、おのれ自身しか表現していない場合である
(アラン『芸術に関する101章』より)」と言われている様に、
「ともかくも、人間として生きていく上での本当の喜びは、
私はどんな場合でも、他の誰でもない、私自身の表現であると、
私の人生全体を受け取れた時なのであろう」。
ただ、そう言えるには、たくさんの迷惑を掛けたことと
たくさんの配慮を頂いたことを加えさせてもらってのことだが。
それと必要なのは、「今ある自分は、かつて求めた自分である」という、
私の人生への少しの責任感かもしれない。
親鸞その人も『正信偈』において、師・法然上人の徳をわかりやすく、
人間の心の立ち位置について「疑」の一字をもってし、
「疑い」からは流転の人生に終わるしかなく、
人生全体を引き受けたという親鸞の誕生を物語っていると言える。
そして親鸞は、人生全体を引き受けたという心を「一心」と表現している。
一心、仏と一つの心、すなわち
「金剛の真心(『教行信証』信巻三心結釈)」であると。
この「金剛の真心」こそ、法然・親鸞両師によって唱道された他力の信心、
つまり真実主体、「人生全体が私でありました」と
引き受けることのできる私(真実主体)の誕生であり、
それはまた、伝統的には「信心獲得」と言われてきた事実を指しての事である。

お庫裡から 2013年7月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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「あ!おじいちゃんとおばあちゃんが返ってきた」
「おじいちゃん、お帰りー」「おばあちゃん、お帰り-」
「今日から、またおばあちゃんとお風呂だね」
「お土産は?」「おばあちゃん、将棋しよう」
「おじいちゃんとおばあちゃん、何だか変な臭い」

11日間のインド最北部、ラダック・スリナガール旅行から帰った私たちを迎えてくれたのは、
矢継ぎ早の元気な孫達の声。
出発前、「孫達にお土産は何もいらないからね」と娘に釘をさされていたので、お土産は何もない。
申し訳にデリーの空港で買ったチョコレートを渡すと、
「あ、よかったねー。夕食後のデザートにいただこうね」チョコレートは子どもの手から母親に、そして冷蔵庫の中へ。
豊かな時代に育っている孫達は、食べるものにあまり執着がない。
「ぼくね、6年生を相手に2回も勝ったんだよ」誓くんは早くも将棋の駒を並べている。
荷物もそこそこに、早速、誓くんの相手。あれあれ、10手目位で詰んでしまった。
「油断した。もう一度」「誓くんと終わったら、僕とね」と開くん。
留守をしていたからか、孫達がよくまつわりついてくれる。
トランクの中、ショルダーの中、しっかりインドの匂いが染みこんでいる。私の体もインド臭。
3人の孫達とお風呂に入り、ゴシゴシ、ジャブジャブ。
ああ、これを幸せと言わずして、何を幸せと言うべきや。合掌

今月の掲示板 2013年7月

テーマ:今月の掲示板

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己知らずの人間というものは
絶対に満足がない。
己知らずの人間は、
与えれば与えるほど不足に思う。

迷った心を抱えて生きていくような場所を穢土という。
これを言いかえて娑婆という。

自分に目がさめて、しっかり生きていく。
そういう場所を浄土という。

娑婆で「ありがたい」「ああ、結構や」というようなことには
その裏に必ず、あんまり結構でないものがくっついている。

わが身がわからない、うぬぼれている、自分に夢見ている。
だから、何か賢そうな理屈ばかり言うて、
何にもならん理屈をこねたおしておる。
そして、自分ほどえらいものはないと思い上がっている。

あいつも困った奴だ、こいつも困った奴だ
そういうことを言わんならんお前が
いちばん困った奴と違うか。      (仏言)

人生が行き詰まるはずはない。
計らいが生き詰まる。

計らいが計らいだとわかれば
なんぼ計らっておっても
計らいに引っかかったり、押し流されたりしない。
人間はいつでも、自分の心に縛られている。

今日、不足を言うている人が
明日になったら満足するというようなことはありません。
満足は、今しかない。

本当の世界は、
我々の計らいを超えた世界。
我々は、計らいを超えた世界を
計らいでつかんでいるだけなのですよ。
だから暗いし安心もできない。
満足もない。

本堂に座って 2013年7月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先日、たまたまいただいた新聞の宗教欄に、
お釈迦さまについてのお話が掲載されていました。
書かれた方は大学の仏教学の先生なのですが、元々は化学者を志されたのが、
自分より才能のある周りの人を見て挫折され、文学部に入り直した中でもうまくいかず、
一人前の「傷だらけの人間」になったところでお釈迦さまの教えに出逢われたのだそうです。
そんな先生の書かれた文章を紹介させていただきます。

たまたま選んだ仏教学の世界。
初めはカビ臭い、魅力のない分野に思えたのだが、
釈迦という偉人の、本物の思想に触れたとき、世界観が変わった。
釈迦はこう言ったのだ。
「人は誰もが心に苦しみを持って生きている。
どれほど社会的に恵まれた生活を送っていても、心の苦しみは皆同じだ。
なぜなら我々は皆、生き物だからである。
生まれて、生きて、年をとって、病気で苦しんで死ぬ。
執着して、憎んで、妬んで、ひがんで、年をとって死ぬ。
誰もが平等に、苦しみを持っている。
それは我々が人として生まれた以上、避けることのできない苦しみなのだ。
そして、その苦しみから逃れる道は一つしかない。
それは、自分自身を変えることである。
その、自分自身を変えるための道こそが、私の教えの本質なのである」
釈迦の伝記を注意して読むと、とても重要なメッセージが含まれていることに気がつく。
それは、仏教という宗教が決して
「最初から人を助けるために生まれてきた宗教ではない」という事実である。
釈迦はひたすら自分のため、自分で自分の苦しみを消すためにだけ努力したのであり、
その到達点が悟りであった。
釈迦はもともと「利己的」な人だったのである。
そしてそこにこそ、仏教の素晴しさがある。 
もしも釈迦が、出家の第一歩から「私は世の人々を救うために修行するぞ」などと考えていたのなら、
随分傲慢な話である。
一介の金持ちのボンボンが、「世の悩める人々を救ってあげよう」などとは滑稽な思い上がりでしかない。
そんな人物の言葉が、苦しみもがく人たちの心に響くはずもない。
本当に役立つのは、自分も同じように苦しんで、
なんとかそこから這い上がることのできた先達の貴重なアドバイスにきまっている。
釈迦の教えは「心の苦しみを消す」という自分自身の体験を基にして生み出された、本物の道である。
それは釈迦が「自分のために見いだした道」だからこそ信憑性がある。
釈迦が利己的だったのは素晴らしいことだ、と言った真意はそこにある。
人は誰でも、心の中に憂いや苦悩を抱えて生きている。
それが財産や肩書で解決できるのならそれでちっとも構わない。
しかし、そういった世間的な価値だけで、
人生の根本的な苦しみを消すことはできないと気付いた人にとって、仏教は救いの道となる。
それは、釈迦という人が実際に自分を治療するために見つけ出した、信頼できる心の治療薬だからである。
(中日新聞2013年5月25日・6月1日掲載『釈迦に魅せられて』佐々木閑 著より
抜粋して引用させていただきました。)

先生は、前半のまとめとして「自分がつらい思いをすれば、その分、人のつらさが理解できる。
生きるつらさは、生きてきた人にしか分からない。
大人はみんな傷だらけの心で生きているが、それが大人の素晴しさである。
釈迦もまた“傷を負った人”であった。
だからこそ、その教えは慈愛に満ち、信用できるのである。」とも書いてくださっています。
自分の苦しみをごまかさずに受け止め、向かい合うところから、
苦しみを越える「救いの道」が始まっていくのだと思います。

今日も快晴!?2013年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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子どもたちが5年生、3年生、年長になり、
少し成長してきたためでしょうか?
最近ちょっとした「大人時間」が楽しめるようになってきました。
新しく着物の着付けのお稽古を始めたり、
10年ほど足が遠のいていた茶道のお稽古を再開したり、
友人と一緒に名古屋の美術館に足を運んだり、
気になっていた本を読んだり、
子ども抜きで純粋に「自分がやりたいこと」のために時間を使うことが出来るのです。
この10年間、常に子ども中心の生活が当たり前になっていたので、
自分のやりたいことはいつも後回しか我慢するのが当たり前になっていましたが、もう一度こんな時間が持てるようになるなんて、本当に夢のようです。
まだまだ完全に「自由」とはいえませんが、
そもそも「自由」とは「全て自分の思い通りになること」ではなく、
「いつでも新しく始めることが出来ること」と以前何かの本で読んだので、
「私は◎◎だから××できない」とか、「△△のせいでこれがやれない」ではなく
「制約がある中で、いかに自分らしく過ごせるか」とか、
「今自分の置かれた状況や場面の中で、楽しみや喜びを見いだす工夫をすること」が
「自由」と言うことかなぁと、自分なりに考えたりしています。
さて、「子育て」が一段落したと言うことは、
次は「自分がどのように年を重ねていくのか、
どういうおばぁちゃんになってゆくのか」を考えなければなりません。
子どもや孫にどのような社会を残してゆくのか、
どのようなライフスタイルの手本を示せば良いのか・・・。
そんなことを考え出した時に、若杉友子さんという面白いおばぁちゃんの本に出会いました。
この方は、京都の山奥の古民家で自給自足の生活を営み、
野草を使った料理教室などを開催していらっしゃいます。
「年はとうに70を越えているけれど、
一汁一菜、米と味噌汁と漬け物中心のいたってシンプルな食生活だけど、
野草の命を頂いているからこんなに元気。
・・・今の人たちは、病気で大変だなぁとつくづく思います。
花粉症、冷え性、不妊症。さらに子どものアトピーで悩んでいる人。
でも、私の料理教室に通って来ているうちに、こういった病気は治っていくのです。
それでけではありません。
私の夫も、余命2カ月と言われていたのに、
私の言うとおりの食生活を続けたことで、ガンは消えていったのです」
(「これを食べれば医者はいらない」詳伝社 より)
「何を何グラムとか言い出したら料理じゃない・・・分量なんて単なる目安に過ぎません。
料理をする時は自分の五感を働かせることがなんと言っても一番」、
「調味料は良いものを使う・・・どういう材料でどんな作り方をしているかも考えずに、
値段が安いという理由で毎日食べる調味料を選ぶのは愚か者のすることです」、
「世の中に広く出回っていて、多くの人が口にしているからと言って、
必ずしも安心というわけではない」、
「安全と言われるものの安全性を疑う眼を持たなくてはならない」、
「電子レンジはものすごい曲者・・・ものすごく危険な調理器具。
IH調理器、アルミ鍋、テフロン加工も危険・・・、
何の心配もなく、安心して使えるのはやっぱり土鍋」等々、
シンプルだけど力強い生き方に、(すごいなぁ!)の一言です。
そうかといって、なかなか全部を真似できるわけではありませんが、
(こういう人もいるんだなぁ。こういう生き方も出来るんだなぁ)
と知ることが出来ただけでも良かったと思えました。
若杉ばぁちゃんは無理でも、渡辺ばぁちゃんを目指して、
とりあえず土鍋ライフを始めてみました。
電化製品から一つ解き放たれ、一つ「自由」を獲得したような気持になっています。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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