清風 2012年9月

テーマ:清風 【住職】

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先生、そりゃ、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。
でも見えたらあれも見たい、これも見たいいうことになって、
気が散ってあかんようになるかもわからん。
見えんかて別にどうということもあらへん。
先生、不自由と不幸は違うんやね。
(盲目の小学校6年生の言葉 『よびごえ』東井義雄 著より)

 

この盲目の小学生の言葉について、東井先生はこんなコメントをしておられます。
「この子は、全く見えない世界、光のない世界を生きているのです。
でも、何という明るさでしょうか。
闇の世界にありながら、闇が闇のはたらきを失ってしまっています。
光の世界を生きさせてもらっている私なんかよりも、
もっと明るい光の世界を生きさせてもらっています。」

「あたりまえ」という言葉があります。
眼は見えるのがあたりまえ。
足や手は動くのがあたりまえ…というように。
この「あたりまえ」という言葉の前では、
せっかくの眼が見えるという奇跡のようなことも、
深みをもって受け止められません。
つまり、希望に満ちた事態ではなく、
全く光(希望)を失ってしまっている状況でしかないのです。
「あたりまえ」、これは人間(私)から、
語の本来の意味での「感動・驚き」を失わしめている元凶なのかもしれません。
「あたりまえ」という言葉は、いったい、人間は本当に進歩しているの?
 何をもって進歩していると言えるの? と私どもに問いかけているようです。

今の我が国の与党は、平和憲法を改正して戦争のできる国にしたい…
それが「美しい日本の国」の主張のようです。
軍備を持たない、戦争をしないと憲法で誓った国は醜い国だと言いたいのでしょう。
また、過ぐる戦争で迷惑をかけたアジアの国々(隣人)にお詫びの一言も言わない、
これが「美しい国」の倫理観の様です。
すべてを、成ってみれば「あたりまえ」としか受け止められない感性は、
限りなく人間の精神を腐食させていくようです。

『正信偈』のはなし 2013年9月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

「ただ念仏」、それが鎌倉仏教にひとり屹立(きつりつ)しておられる法然上人の立場です。
法然上人は仏教を「ただ念仏」と受け止められたのですが、
当時も今も、この「ただ念仏」という教えは、
「仏法は分かったようで分からん」と思われている様です。
これは現代人だけではなく、いつの時代もそうでした。
誤解と批判の最中に置かれてきたというのが念仏の歴史的事実と言っても過言ではありません。
念仏とは、如来の本願の名・南無阿弥陀仏と名を申す(称える)ことだということが、
とっても理解(人間の知)を超えているからでしょう。
「南無阿弥陀仏と申して(称えて)みても、ナーモ変わらん」というわけです。
現代人は、ことにせっかちになっていますから無理もないことかもしれません。
即効性が要求される時代に、待っていられないというわけです。
これは、自分は何も変える必要はない、
すべてが自分の要求通りになればそれで万事良しとしていて、
その前提を問うことには思いも及ばないからなのでしょう。
その前提とは、自分のその「万事、自分の思い通りになれば幸せに成れる」という思いが、
単に「思い込み」に過ぎず、それが間違っているとは
露・塵ほども思っていない…という事実を指します。
思い通りに成ったとしても、人間(私)には成ってしまえばすべて
「あたりまえ」に(経験的事実としては)過ぎなくなってしまうということでしょう。
「あたりまえ」、この言葉の前では、すべての経験は色褪せた過去の出来事に過ぎなくなります。
たとえば、私がここにこうして、今、
私としているという事実に何の驚きも起こらないとすれば、
「それだけなら、あなたの幸せは長くは続かない」と「ただ念仏」の教えは私に告げるに違いありません。
なぜなら、あなたがあなたとして生まれてきたことは、
そのこと自体が奇跡のような出来事であるにも関わらず、
あなたはまったく「あたりまえ」のこととしてしか受け止められていないからです。
次回は、この「あたりまえ」ということ、つまり受け止めが、
人間(私)の生き方を限りなく誤らせていくという事実を学びたいと思います。

お庫裡から 2013年9月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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「暑い!」「暑い!」と言い暮らし、
「こう暑くちゃ何もできん」「何もできん」と言い訳をして
暑い暑い8月も終わろうとしています。
昨日と変わらぬ暑い今日だと思っているのに、
日の暮れは確実に早くなっているし、夜半ともなれば、蝉に代わって虫の音が聞こえてくる。
ああ、時は移ろっているのだ。
それが証拠に、爪は伸びるし白髪も伸びる。
溶解しそうな頭に浮んだ今年の夏の17文字。 
日記俳句。
子や孫の居ない日 吾の夏休み
9手詰めの棋盤にらみて汗しとど
(3分で1級、10分で3級、私は3日かかりました)
和讃曲 弾き歌いする 夏の夕
帰省せぬ娘等の電話や事務的に
野良猫の子ら引き連れて夕涼み
(親猫とはぐれた1匹がニャーニャー)
孫と競い 物語読む夏の夜
夏休み 恒例作業や廊下拭き
ご褒美はラーメン 夏のお約束
かき氷 供の顔して連れ出す孫
ワンコイン 孫に握らせる夏祭り
阿弥陀経 孫と読み進む夏休み
プールでも勝他が泳がす25m
(おばあちゃん、25m泳げる? うーん、どうかな…成功!
平泳ぎで25m、鼻がピクピク上を向きました)
賑やかな夕食時や 扇風機
2度と来ぬ 今年の夏や健やかに
ああ美味し コップ合わせて飲む麦酒
9月も残暑が厳しいと天気予報が出ています。
皆さまもどうぞお大事にお過ごしください

今月の掲示板 2013年9月

テーマ:今月の掲示板

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人間は衰えている
得たもの、見えるものに惑わされて。
失っていくもの、失ってしまったものには
気づきもしない。

なってしまえば当たり前。
もっともっとは救いの途中。
いつまでたっても救われない私がいる。

我々は
頼りにならぬ危ないものを頼りにしている。

人間、どこまでいったら満足するのか。
救われていた自分がおることに気がつかない。

本来あるものは失わない。
しかし、私の持っておるもので失わないものは
一つもない。

私からは本当に尊いことなんて出てはこない。
私からは、世間体(仮)しか出てこない。

いのちを私有化している。
それを罪というのです。

そこを、動くな!

本堂に座って 2013年9月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先日、「夜回り先生」で知られる
水谷修先生の新聞コラムを目にしました。
子どもたちに呼びかけるように書かれているのですが、
読み進めるにつれて、深く考えさせられる内容でした。

子どもたち、先日私はとっても幸せな1日を過ごしました。
その日は、朝から東京の外国系通信社で取材を受けていました。
朝、会社の受付に行くと、2人の受付の方、
2人とも外国人の方でしたが、
満面の笑みで「いらっしゃいませ」。
とても幸せな気持ちになりました。
5階の会議室に行くまで、エレベーターホールでも、
廊下でも出会う外国人の人たちは目が合うたびに会釈し、
ほほ笑んでくれます。
とても幸せな気持ちで取材を受けることができました。
昼前に、私はその取材を終えて、駅へと歩いたのですが、
その日は、暑い日でした。
道行く人たちは、その暑さの中でみんな厳しい顔。
目と目が合っても、ただうつろに視線を外し、体がぶつかって、
私が「すみません」と謝っても、何の返事もありません。
何か、午前中に温まったこころが、外の暑さにもかかわらず、
どんどん冷えていきました。
子どもたち、君たちに聞きたいことがあります。
君たちの家は、学校は、どうですか。
私が午前中に訪問した会社のように、笑顔があふれていますか。
優しい丁寧な言葉が、満ちていますか。
それとも、私がこの日の午後経験した街のように、
冷え冷えとした、無機質なものですか。
子どもたち、私は学生時代から、仏教を勉強しています。
仏教では、自らが幸せになるためには、布施をしよう、
だれかのために役立とうという教えがあります。
布施、お金を使い、困っている人のために募金や寄付をする。
施設を造ったり、食事を提供する。これが、人を幸せにし、
そして自分も幸せにしてくれるという教えです。
でも、お金が無い人は布施ができないのか。
そうではなく、その人たちにもできる布施、
それが「無財の七施」です。
「和顔施」、だれかと目が合ったら笑顔を返すこと。
「眼施」、いつも、優しい目で人と接すること。
「言施」、人に優しいことばをいつもかけること。
「身施」、ゴミを拾ったり、人が落としたものを拾ってあげたり、
からだを使って人のためになることをすること。
「心施」、人に、思いやりのこころで接すること。
「床座施」、人に席を譲ること。
「房舎施」、人を家に泊めてあげること。
子どもたち、どうですか。このうちのいくつかは、
今すぐに君たちでもできることではないですか。
それが君たちの家庭や街、学校を、とても優しさのあふれる、
そして笑顔に満ちた、幸せなところにしてくれます。
そして、それが、君たちのこころを優しさに満ちたものにしてくれます。
君たちを幸せにしてくれます。やってみませんか。
(「明日を求めて…こどもたちへ」中日新聞2013年8月6日付より)

「無財の七施」、読んでしまえばとても簡単(そう)なことばかりですが、
実際にやろうと思うと、これがなかなか難しい…
まずは夫婦・子どもとの間で「和願施」「眼施」「言施」を始めてみると、
見えてくるものがありそうです。

今日も快晴!?2013年9月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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友人がインターネットに投稿していた文章ですが、
(そうかぁ。
「ゲームが欲しい」の時期をようやく乗り越えたと思ったら、
次はこういう壁がくるんだなぁ・・・)と、
来る将来の我が家のバトルを思いました。
ゲームを買わずに長男は5年生を迎えましたが、次は中学校。
携帯やパソコンなどによって、ネットや他者と繋がるサービスの壁は、かなりハードなものになりそうです。
「思春期の頃は、ただでさえ大変だろ思う。
むしゃくしゃする気持ちをどう整理したらいいか分からん。
ただでさえ大変なのに、今の子は、
物欲とSNSの出現によりもっと大変になってる。
長女(中3)はもともと本の虫で、キレイ好きで、
時にはおやつを作ってくれたりもしてた。
でも、TwitterとFacebookをするようになってから、
パソコンにかじりつき、部屋はめちゃくちゃ、
読書も全然しなくなった。
受験生だけど、勉強も全くといっていいほどしていない。
「ごはんだよ」「もう寝たら?」と声をかけても
「友だちからメールの返事待ち」
「友だちが悩んでてそれに答えてるから」
「今、大変なんだってば!」と。
私も中学時代は、毎晩、家族が寝静まってから
恋人と長電話してたし、友だちの悩み相談所みたいになってたから、
気持ちが分からんでもない。
だから、ずいぶん大目にみてる。
だけど、ケイタイもiPod touchも持ってない長女(中3)は、
LINEでのやりとりができない。
クラスの半分は、みんなLINEで繋がってて、
そこで情報交換や連絡をし合ってるから取り残されているそうだ。
こうなったら「iPod touchを買ってくれない親は最低、最悪、うざい」となる。
「絶対に買わない」と言ってる私と長女は、毎日のようにケンカが絶えない。
愛情込めてご飯を作っても、楽しい時間を過ごしたとしても、
「iPod touch」「LINE」の存在を思い出した日にゃ
「iPod touchを買ってくれない親は最低、最悪、うざい」にスイッチが切り替る。
LINEをやってる子の親で「LINEをはじめたら、
ひっきりなしに誰かからメッセージ入るから、
深夜でもずっとやってる。
買ったら最後、子どもがおかしくなる。
毎日ケンカばかり」と嘆いてる人は少なくない。
持たせないことによるストレスも、持たせてからのストレスも、
悲惨なのだ。大人でも(私でも)難しいのに、
中学生がSNSの魅力に打ち勝てるとはとても思えない。
「あなたを信じてる」と任せたとしても、それはとうてい無理な話。
今はほんとに子育てしにくい時代だと思う。」
携帯電話やスマホや携帯ゲーム機etc・・・
今は色んなものを媒体として、
個人が個人とつながっているかのように見えますが、その実、
家族など一番大切な直接顔を見て関わる人たちとの関係性が
ずたずたにされてしまっているように思えます。
「LINE」は相当くせ者だと思います。
「みんながやってるから」と気軽に考えると、
とんでもないことになりそうです。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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