清風 2012年10月

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信仰を、人生の悉ゆる問題を解決する万能膏(薬)のように思っている人がある。
人生の問題に解決なしと決着することが信仰なのに。
(毎田周一 1906~1967年 
1946年、金沢から長野に移る。
1952年、私塾・海雲洞を長野市に開く。
以後、拠点にする。
1955年、機関誌「大雪山」発刊。以降、亡くなるまで刊行。
『毎田周一全集』12巻に編集された。)

さて、この「信仰」という語について国語辞書(新明解 三省堂刊)によると、
「神や仏などをあがめたっとび、絶対に従うこと」とある。
しかし、上の毎田さんの了解は、これとは違う。
「人生の問題に解決なしと決着すること」それが信仰だと。
「あがめたっとび、絶対に従うこと」とあるが、
このように自己を喪失するような行為や、
自己の行為について責任放棄することが信仰であると言われたり、
目の前の事態が自分の都合に合うように成ることを願いあがめるが如くして、神や仏を小間使いのように扱うことが信仰の名で語られていることもある。
釈尊がブッダ(インドの言葉で目覚めた人の意)と言われている様に、目覚めた人は、自分が生まれてきたのが無条件で始まったこととわかった人のことである。
無条件、条件をつけないで生まれてきたのに、条件をつけてしか生きられない者、これが今の私の事実である。
では何故、そうまでして生きるのだろうか、
生きなければならないのだろうか。
人間は、自分が生きる意味について ―知恵を持った結果―
一人ひとり見つけていかねばならない。
自分の人生を他人に代わって生きてもらっても、私が生きることにはならないからである。
どうやら苦悩というのは、第二の陣痛らしいのである。
まず、その苦悩の意味について知ること、これが実はたいへん困難なことである。
人生全体を引き受けていく、責任主体としての自己が誕生しよう(陣痛)としているのが、苦悩なのであると。
問題とは、まず「1.自己が条件を何もつけないで生まれてきたことに気づく」、
そこから始めて「2.生きることそのことに真向かいになってみる貴重な機会(チャンス)」なのである。
私に問題が起こってくるのは、成人(せいじん・人に成る・私が私に成る)という課題があることに気づかされる機会(縁)なのだ。
くどいようだが、その時人生に起こってくる諸問題は、
私が私に成るための縁(貴重な機会・条件)という意味を持ったこととして、質が転換されてくるに違いない。

『正信偈』のはなし 2013年10月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

輪転の人生とは、すべてが
「成ってみればあたりまえ」であり、人生が結局は、
絶対に迎えたくない死で終わるという
「疑いの情・こころ」を唯一の拠り処として、
それを疑いの心であるとも気づかない人の生涯である。
寂静無為の楽(みやこ)に入るのは、信心によるのである、
とここに書かれている。
さて、では信心とはこういう心なのか。

蓮如上人は信心を「まことのこころ」真実の心だと手紙に書いてくださっている。
(『御文』1帖目15通)
真と言えば、仏教では如来のハタラキと決まっている。
だから、人間からは出てこない質のハタラキと言われている。
人間(私)からは
「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、
ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」
が出てくるのみと親鸞聖人は文書(『一念多念文意』)に述べておられる。
だから、親鸞自身が「愚禿」としるされ、
あるいは「悲しきかな」としるされているように、
師・法然上人との出遇いは、吾がこころというものの隠しようのない
実態に気づかされるという、目覚めを伴うものであった。
法然上人(という人格)に如来のハタラキを見られたのである。
晩年に作製された法然上人を讃歎される詩(「和讃」)に、
「阿弥陀如来化してこそ 本師・源空としめしけれ 
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまいにき」
と感動を詠っておられる。寂静無為の楽(みやこ)とは、実体的に存在する所ではなく、
「欲もおおく、そねみ、ねたむこころ」が自分の愚かさ
(虚仮性)のなすところであったとの気づきによって与えられる境地
(心境)と言うべきであろう。
この境地(心境)について漱石は、
「親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、
一方では著しき自己の代表者である」
(「模倣と独立」『漱石文明論集』P161 岩波文庫)という内容をもった心境であると記している。
 私は私の代表である。何故なら、私は私なのであるから。
そして一個の人間として、人類の代表でもある。
何だか気宇壮大になってきた。

お庫裡から 2013年10月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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台風18号は、日本の各地に甚大な被害を与えていきました。
皆様の所は如何でしたか。
被害に遭われた皆様には、心からお見舞いを申し上げます。
我家は、雨の上がった後、境内を見回ると、
大きな枝が2本も折れているのがわかりました。
1本は鐘堂と蔵の間の樫の大木の、1つの大きな枝が折れ、
並んで立っている大紅葉の枝の間をうまくすり抜けて、
門の横の棕櫚にぶつかるような格好で止まっていました。
棕櫚にぶつかったから被害が少なかったと言えば言えるのですが、
樫の枝先が、ほんの20センチ修理した門の瓦に当たり、瓦が数枚割れました。
もう1本は、共同墓の横の大きな薮椿。
(折れてみて初めてわかった事ですが)
根元から1メートル程で二股に分かれていた、
その一方に虫が入っていたようで、付け根からバッサリと倒れ、
共同墓の上にのし掛かっておりました。
こちらは、椿の葉がクッションの役目を果したようで、
何も被害がなく、ホッとしました。
家族全員で、枝を払い、幹を少しずつ切り分けながら、
後片付けをしました。孫達がよく働いてくれて、大助かりでした。
夜のテレビで、被害に遭われた方が、
「こんな事は、よそのことだと思っていたのに、
まさか自分がこんな目に遇うなんて、本当にびっくりしました」と、
戸惑い顔で話しておられました。
誰もが、何時、何に遭遇するかわからぬこの世のなかで、
日々を平穏無事に送らせていただけるという事は、
何と有り難い事なんだろう、当たり前でないのだ、
只事ではないんだと強く思わされました。
そして「人間は、本当に無力な者なんだ」という所にいっぺん立たねばならぬぞと、日本中を暴れ回った18号は、我々に教えてくれたように感じました。

今月の掲示板 2013年10月

テーマ:今月の掲示板

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仏教は、
自分のことを聞いて
自分になっていく教えなのです。

仏教は、
手を合わせて生きる事を、私達に伝えてきました。
人間は、
手を自由自在に使って幸福をつかもうとします。
それよりも、
手は、合わせるためにあるのだと
教えてきたのが仏教でしょう。  (「海」より)

亡き人は、
自らの死をもって人間に大事な事を教え導こうとしている仏様だと
受け止めるのが仏教です。
葬儀は、仏事です。
遺族を含め、参列した人たちが
近しい人の死を通して、仏様に手を合わせる。
私達が手を合わせているのは、遺体ではなく仏様です。

本堂に座って 2013年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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少し前からタイトルを見て気になっている本がありました。
『反省させると犯罪者になります』
…読んでみて、「なるほど!」と思うことがたくさんありましたが、
その中から一部分を取り上げてみたいと思います。

「頑張る」子育ては、「しっかりとした子どもに育てよう」という意識と容易に結びつきます。
そして、「しっかりとした子ども」とは、
「我慢できること」「1人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」
「人に迷惑をかけないこと」のできる子どもを育てるパターンになりがちです。
なぜなら、今の若者たちの多くがそのように言われて育てられてきたからです。
確かに、こういった価値観は、社会生活を送るうえでは必要なことです。

ほとんどの者は、これらの価値観を何の疑いもなく
「正しいもの」と受け入れているのではないでしょうか。
しかしこれらの価値観は、子どもに(大人にとっても)
生き辛さを与える側面があることに気づいている人は少ないでしょう。
「我慢できること」は、見方を変えれば、
「自分の気持ちを出さ(せ)ないこと」になります。
そうするとストレスがたまっていき、
爆発(犯罪か心の病気)を引き起こすことになります。
子どもの頃に子どもは、子どもらしく育つことで
健康的に過ごすことができ、いい大人になれるのです。

私たち大人が今健康的に生きていられるとしたら、
それは子ども時代に子どもらしく育っているからです。
「子どもっぽさ」は自分の素直な感情を十分引き出せていることです。
一方、子どもの時から「大人らしさ」を無理して引き出すことは、
素直な感情を抑制させることになります。
子ども時代に「子どもっぽさ」を出せた人は、
大人になっても素直な感情を出せる人になれます。
素直な感情を出せることは「ありのままの自分」を出せることなので、他者との間で良い人間関係を築くことができます。
「大人らしさ」を無理して出してきた人は、
大人になっても素直な感情を出せる人にはなれません。
そういう人は常に自分の気持ちを抑圧しているので、
健康的になれないばかりか、「ありのままの自分」を出せないので、人と良い関係が結べません。
また、親が子どもの前では常に「親として、しっかりしないといけない」と思っていることも、
後に子どもが問題を起こす原因になります。
たとえば、「親なんだから、子どもの前では弱音を吐いてはいけない」と思い込んでいると、
子どもは弱音を吐けない人間になるかもしれません。
人間は皆、弱い生き物です。自分の弱さもダメな部分も欠点も、
すべてありのままの自然な姿を見せられる親は、
親自身が「ありのままの自分」を受け入れていることです。
そして、「ありのままの自分」を受け入れている親の子どもは「ありのままの自分」を受け入れられます。
人は、自分がされたことを人にして返すのです。
「ありのままの自分」でいいと思える子どもになってもらいたいと思うのなら、
親が「ありのままの自分」でいればいいのです。
「しっかりした親」は、「ありのままの自分」ではいけないというメッセージをたくさん持っている親なのです。
(『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹 著より抜粋して掲載しました)
「子どもとの関わり」という点で、とても考えさせらる文章でした。
体裁を気にしてばかりの自分には、「ありのままの自分」でいることは、なかなか難しい課題です…。

今日も快晴!?2013年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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懐かしいママ友達と久しぶりに再会したときのことです。
彼女の息子Tくんは、とにかくよく動く子どもでした。
ちょっとでも高いところがあればすぐよじ登り、
走り回り、少しの間もじっとしていません。
友人と話をしていても、はっと気がつくとTくんは
とんでもないところでとんでもないことをしていることが多々多々あり、「Tく~ん!!」と子どもを追いかけ回す彼女の声が、一番印象に残っている思い出でした。

ひたすら動き回るTくんを追いかけ続け、友人はへとへとでした。
私も、「きっとTくんは運動神経が良いんだね~」と言いながら、
正直(この子は大丈夫かしら?)と思ってしまっていたし、
ひたすらじっとしていることが得意なうちの子どもと
Tくんとはもちろん全然絡まず、数年後彼女が仕事に復帰すると、
自然と疎遠になっていきました。

そして数年ぶりに会った彼女に、「Tくん、最近どう?」と聞くと、
「それがねぇ・・・」とこんな話をしてくれました。
体操教室に通い始めたTくんは、めきめきと頭角を現し、
5歳でバック転、8歳でバック宙をマスター。
体操クラブの全国大会で2位に入賞し、
今は元オリンピック選手の個人レッスンを受けながら将来のオリンピックを目指しているそうです。
友人は、「学校の勉強は全然しないんだけどね~」と笑いながら、
「それでも、Tくんは自分が試合に出たときのビデオとか、
内村航平選手の試合のビデオをひたすら見て、
『このときの自分はここが悪かった』とか、すごい分析しているの。
学校はイマイチみたいで、朝から午後までずっと授業中寝ていて
『前代未聞です』って先生には言われちゃったけど(笑)。
でも、苦手なものを底上げするより、得意なものを伸ばした方が全体も上がるみたいだし、ずっと寝ているわりには、Tくん、勉強は遅れてないんだよね」。
友人の明るい表情と、Tくんが「これが自分の進む道だ!」
と思えるものに出合って活躍する話を聞きながら、本当に本当に嬉しく思いました。

そうか。やっぱりそうだったんだ。
Tくんのあの旺盛な運動量は、有り余る運動神経を持て余していたんだ。
それを発揮できるものと出会えて本当に良かった・・・。
今の学校は、バランスの取れた人材を良しとするところがあるように感じます。
勉強も運動もバランス良くこなせる子どもが優秀だと。
もし友人が、「体操も良いけど、勉強もやりなさい!」とTくんのお尻を叩いたら、Tくんの体操への情熱が不完全燃焼してしまうかもしれません。
まして、ADHD(注意欠如・多動性障害)などを疑い、
投薬治療など考えていたらと思うと、ぞっとしました。
打ち込めるものに出会って、自分なりの目標を見つけ、努力を続けるTくんと、そのTくんをそのまま全部しっかり受け止めている友人。
本当に久しぶりに会えて、話が出来て嬉しかったです。
その日は一日、心がほんわりあたたかく感じられたような気がしました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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