清風 2012年11月

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エネルギー獲得に、近代日本は焦燥感を常に抱いてきたと言ってよい。
戦前も戦後も。原発もその線上のことに違いない。
知恵といえば、欲望と裏腹の一体化したもの、それが人知というものらしい。
しかし人間は、欲望むき出しでは行動はしない。
必ず、建前が前面に立てられる。原発もそうだ。
安全神話・低コスト資源神話という建前が。
さらに欲望に訴えて、原発が止まったらエネルギーは不足すると、
それをどうするかと追い打ちをかけてくる。
しかし、1度ここで立ち止まって考えてみてはどうだろう。
たとえば、一体どれだけ消費したら満足できるのか。
もう少し言うなら、もうこれで満足ですと決められる量はあるのだろうか、と。
ここが動物と違って、人間の持つ知恵が問題とされるところだろう。
欲望(煩悩)と一体化している人間の知恵と言われる所以である。
欲望(煩悩)にとっては、満たされれば当たり前で、もっともっとであり、
満たされねば不安と不平という、どちらにしても満たされないという点であろう。
進化と進歩、便利と快適、それを保証するGNP・経済成長率というわけで、
とにかく決められないのだから、数字にマインド・コントロールされてしまったということではないか。
再び、〇〇神話にゆだねていくのだろうか。
何故なら、満足できる根拠がわからないままに、
私は欲望(私)に突き動かされているというのが、
進歩の名において人類(私)がしてきたことであったのだ。
いったい、私はどうなりたいのだろうか。
比較の世界に安心はない。
「あなたはあなたに成ればよい、あなたはあなたで在ればよい」とは、釈尊の遺教であった。

『正信偈』のはなし 2013年11月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

今月号では、源空章のまとめということで、
前段でふれられている「悪世」について、もう一度考えてみることにする。
悪世と言えば、いつの時代も悪世でない時代はなかったかもしれない。
しかし、時代を展望できないという意味から言えばどうであろうか。
世間虚仮・三界無安・無明長夜・業苦甚深。
今、この仏教語の意味を詳しく述べるよりは、今の世界、
特に我が国の状況を考えていただけばと思う。
福島原発の大惨事、このこと1つをとっても、この世が悪世というならば、
現代こそ悪世と言わねばならないであろう。
原発の安全神話1つとっても、戦前の不敗神話と対比して、
やはり国民は騙されてきたのだと、やや自虐的に言われる向きもある。
しかし、戦前は治安維持法等の法の下、
国民は時の政府の行おうとしていることを知る権利さえ剥奪されていたのだから、
まだ弁解を許されるかもしれない。
しかし、今、原発推進はそうした法の体制の下で行われていることではない。
原発の問題を知ろうと思えば、少なくとも知ることができたのである。
よく言われてきたのは、日本は資源の少ない国ということである。
この定義が、マイナスに働いたのが、戦前の日本の、
アジアを日本の資源と見る姿勢と言えよう。
そして戦後である。
原発は安全で、しかも安いエネルギー確保ができるという説明(神話)に再び乗ったのである。
意識を持った人類(私)は、原発にもやすやすと乗ってしまった。
何故か。
人類(私)は、エネルギーをどれだけ使ったら満足できるかわからないという生き物であることを、
人類(私)自身が自覚できない代物という点にあるのだ。
少なくとも、今できることは、再生可能な代替エネルギー(太陽光発電等)に
シフトを置くという方針の転換なのかもしれない
 すべての生き物が関係を持って生きているのであるから、
その事実(縁起の法)にかえり、人間のみが、
日本のみが栄華を独り占めしようとする企ては、不安感をもたらしこそすれ、
真の幸福感はもたらさないのである。
「奪い合えば足りぬ、分かち合えば足りる」と、すでに言われてもおることである。

お庫裡から 2013年11月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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開くんと、人類の歴史という話になりました。
「現在と大体同じ人類が歴史を刻むようになってきたのは、
およそ1万年前からだと聞いているよ」
「1万年前かー。ふーん。それって、どれくらい」
「開くん、今、何歳?」
「10歳だよ。」
「そりゃよかった。計算しやすい。開くんが生まれて、今、10年。
その時間を10倍するとちょうど100年。
開くんが100歳まで生きたとして、100歳を10回くり返すと1000年。
100歳まで生きることを100回くり返すと1万年。
100歳を100回くり返す、それが1万年という時間。」
「・・・・・・数が多すぎて・・・・・・」
「『人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
およそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
さればいまだ万才の人身を受けたりという事を聞かず。
一生すぎやすし。今に至りてたれか百年の形躰を保つべきや。
我やさき、人やさき、今日とも知らず明日とも知らず』(蓮如上人『御文』より)だものね。
まず、100歳という歳まで生きられるかどうか。
ちなみに、おじいちゃんは73歳、おばあちゃんは、今は66歳。100歳になっていないよ」
「エー、そうか。100年て、すごく長い時間なんだね。
僕は100歳まで生きられるかなー」
「そりゃ、わからん。『ひとの命は、出る息入る息を待たずして終わることなれば』
(『歎異抄』16章より)お互いに何時そうなるかはわからん。
それでもわかっていることはある。開くんが、この世に生まれてきたという事は
今言っている1万年の人類の歴史が、どこを欠かす事なく開くんの誕生に必要な準備の時間だったという事実。
10歳になるまで、そして今も、いのちをつなぐ全てのハタラキが請求書無しに用意され作動してくれている事実。
その事実に頭が下がり、自分にいただいた縁を使い切らせていただくという事を、
人が生きるという事だと、おばあちゃんは考えているよ。

今月の掲示板 2013年11月

テーマ:今月の掲示板

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傷つけし人に
傷つく言葉を返し
更に傷つく
我にもあるか

いきとしいけるもの  榎本栄一
他の生きものがほろびて
人類だけの繁栄がございましょうか
しだいに姿を消す
虫、魚、鳥、けもの

手ぶらのねんぶつ  榎本栄一
阿弥陀さまに遇うのに
手みやげはいらぬ
あるがままの
手ぶらの南無阿弥陀仏で
おのずから御摂取光(おひかり)のなか

人生の真実には
真実のことばによってふれるほか ない

念仏のりやく  榎本栄一
念仏をもうせば
この愚昧(おろか)な眼がひらき
自分のぼんのうが見えはじめる
ここからが かたじけない

不如意にひらく  榎本栄一
意の如く ならぬとき
ふしぎや こころの眼は
おのずからひらきかける

全体主義というものは
どうして起こってくるか
それは人々が
見捨てられているという事から起こってくる
だから見捨てられまいとして
それはヒットラーであってもスターリンであっても
そこで偉い人、強い人
力のある人の処へくっついていく  (ハンナ・アーレント)

死を賭して戦ふはありき
死を賭して戦を罷めよと
言うは あらざりき

徴兵
母、祖母、おみな
牢に満つるとも   石井百代

本堂に座って 2013年11月

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先月に続いて『反省させると犯罪者になります』からの引用です。
今回は「いじめ」を通して、大事な視点を教えてくださっている部分です。

いじめが起きる原因を一言で言い表すことはできませんが、
いじめが起きる背景には、私たちの心のなかに正しいと思って
刷り込まれている価値観があることを見逃してはいけません。
すなわち、先に述べた「我慢できること」「1人で頑張ること」
「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」といった価値観が
「いじめ」を引き起こす原因にもなっているのです。
相手に対して抱く不快感は、自分の心のなかに植え付けられた価値観が原因となっているのです。
自分のなかに、正しいと思って刷り込まれた価値観が多ければ多いほど、
他者に対して「許せない部分」が増えていきます。
そうすると他者との間で良い人間関係が築けないどころか、
いじめにまで発展していく場合があるのです。
なぜ、子どもや学生たちは、こんなにも深刻な(いじめの)問題を親に言えないのでしょうか。
他国に比べて、日本では親子間のコミュニケーションが不足していると指摘する人もいますが、
私はそうは思いません。
これまで述べてきた価値観が関係しているのではないでしょうか。
つまり「しっかりしたしつけ」を受けていると、いじめられたことが「恥ずかしい」
「親に迷惑をかけたくない」と思うことにつながるのです。
当たり前だと思っている価値観が刷り込まれていて、
子どもがいじめられていることを「弱い」と考えてしまっていることが一番の要因ではないでしょうか。
いじめられた子どもの気持ちを考えさせて、
いじめの酷さや残酷さを理解させようという考えは十分に理解できます。
しかし、この方法だと、「いじめは悪いことだ。
いじめは止めないといけない」と、マニュアル通りに授業が進んでいくだけで、
何か新しい気づきは得られません。
いじめられた子どもの気持ちを考えさせるパターンは、
最初から指導者側に「いじめは悪いこと。だからいじめた子に反省させよう」という意図があることを感じます。
これではまったく深まりがありません。 
いじめ教育も、私が受刑者に行っているのと同様、「加害者の視点」から始めるのです。
すなわち、いじめられた子どもの心理ではなく、「いじめた子どもの心理」を最初に考えさせるのです。
もちろん、いじめという行為は許されるものではありません。
しかし、いじめる場合にも、いじめる側の「理由」があります
(私はいじめられたこどもの方にも問題があると言っているのではありません)。
その理由を明らかにしないかぎり、本質的な問題には迫れません。
いじめられた子どもの気持ちを考えさせると、
なぜ「いじめてしまうのか」を考える機会を奪うのです。
したがって、被害者のことを先に考えるのではなく、
まず加害者のことを徹底的に話し合うことが必要です。
「なぜ、いじめたくなるのか」を皆で話し合うのです。
「いじめる心理」をじっくり考えることから始めて、
最後に「いじめられた子どもの心理」を考えさせれば、
いじめに対する理解はぐっと深まると思います。
(『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹 著より抜粋して掲載しました)
本のタイトルである「反省させると…」とは、反省を「させる」と本当の反省にはならない
(さらに悪いことをしてしまう)ことを表しています。
自ら「反省する」のに必要なのは、自分を見つめ直す視点なのだと思います。

今日も快晴!?2013年11月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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子どもの「習い事」について、私はあまり良い印象は持っていませんでした。
というのも、今でこそ様々なお稽古やお教室がありますが、
自分が子どもだった頃、身近にあった習い事といえばピアノ・習字・そろばんくらいでした。たまたま町内で歩いて行ける範囲にお教室があったので、ピアノと習字はやりましたが、体を動かすのが好きで、じっとしているのが大嫌いだった私にとって、ひたすらじっとしていることを要求されるこれらの習い事は苦痛でしかありません。「決められた時間、その場所に座って言われたことをさっさとやって終わらせる」ために通っていたようなもので、「字をきれいに書く」ことを身につける気持ちはさらさらなく、習字もピアノも全く身につかず、今考えると、(お月謝は無駄だった気がするなぁ…)という苦い思い出が残っています。
今、振り返ってみると、子ども時代に身につけたもので、
今でも役に立っているものといえば、たくさん外で遊んだ記憶です。
裏の広場にあった草刈の後の枯れ草で
「アルプスの少女ハイジ」を真似て干草のベッドを作ったり、
用水路で泥団子を作ったり、木に登ったり焚き火をしたり。
「そこにあるもので、どうやって楽しいことをしようか?」と考えながら、
一日過ごすのが何より楽しかったのです。
そうしたときの記憶が、今でも読み聞かせ会や寺っ子クラブで
「こんなことやったら楽しそう!」、「これをやったら面白い!」という発想につながり、
毎日わくわくして仕方がありません。
与えられた条件の中で、いかに楽しむか。
自分に出来る範囲の中で、面白いものを探したり、
楽しめる方法を考えたりするのは、自然の中でいっぱい遊んだ経験がベースになっているように思います。
「習い事」や「塾」では、
「決められた時間に決められた場所に行き、
大人の指示に従って言われたとおりのことをする」
ということでしかないので、いざ「指示」や「決まりごと」がなくなった場合に、
どう動けばよいのかわからない大人になってしまわないかと心配です。
幸い我が家の子供たちは、
「早くから習わせたおかげで、世界的な才能を開花した」
といえるほどの能力は持ち合わせていないようです。
それならば、小学校の間は平日の放課後は「自分の好きなことに使える時間」と思って、
たくさん本を読んだり、工作をしたり、外で遊んだり、
いざ「自分の進むべき道はこれだ!」と思えるものに出会ったときに、
全力でそれに向かっていくエネルギーを蓄えてもらえばいいかな・・・。
そんな風に思っていましたが、最近長女が驚異的なやる気を発揮しており、
お友達に誘われた新体操、おばあちゃんのリクエストのピアノ、
お兄ちゃんのついでにのぞいたハンドボール教室etc。
目にしたもの全て「やりたい!」と言い出し、こちらがあたふたしています。
送り迎えの手間を考えると、
〈夕方のただでさえ忙しい時間帯に、これ以上自分の時間を割かれるのは嫌)という思いが先にたち、
特に平日の習い事は最初から「お断り」だったのですが、そう考えると、
自分の方にも多少送迎に付き合うゆとりが出てきたということかもしれません。
なんにせよ、「子どもは親の思うとおりにはならない」ということでしょうか?

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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