清風 2014年1月

テーマ:清風 【住職】

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<  頌 春  >

積極的平和主義とは、敵・味方ともにたすかる道を模索していくこと。
絶対に、戦争に訴えないで!
人間は、考える動物であることに信頼して、歩もう。

本年も、どうぞよろしくお願いします。

『正信偈』のはなし 2014年1月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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人間は間違うもの ―再度、法然上人の出家の動機に学ぶ―
法然上人の出家されるにあたっての最大の動機は、領地を巡る争いで夜襲に遭い、
「敵・味方共に救われる道を求めよ」との父の遺言でありました
('12年6月号参照)。
しかし現実は力の論理であり、そんなことは言ってみても結局は絵に描いた餅でしかないと、
こうして戦争(いくさ)はされてきました。
ここからが、歴史の教訓から学んでいけるかという、
動物にはない人の「知恵」に関わる領域に入ると思うのです。
それは「敵・味方共に助かる道」という場合、では敵とは、味方とは、
そんなに自明なものなのかと、まず考えるという点です。 
最近、「特定秘密保護法」が丁寧な国会の議論も踏まえずに、
与党の多数のごり押しで可決されました。
この法案に反対した人、あるいは異議申し立てをした人は、敵でしょうか。
人間の知恵は未来を見通すことはできません。敵は作り出すものです。
たとえば、かつてアメリカは鬼畜米英と言われた様に、日本の政治家にとっては敵でした。
また日本人はそう思うように教育されました。
たかだか70年ほど前のことです。
考えてみましょう。国民を敵・味方に分断するような法案は、
国の権力者の不安感のもたらすものであるということです。
権力者にとって、敵は政権を掌握し続けるために絶えず作り出さねばおけないシロモノなのです。
過ぐる戦争で時の政治家は権力を握り続けるために、
まず国民を治安維持法で政府の行動を批判すらさせず、
黙らせ、中国を敵とし戦いを始め、次にはアメリカが敵だと言い換え、
そして国民を途端の苦しみに陥らせました。
政治家は自己の判断ミスを、今度は若人の純な心を利用し、
特攻隊なるものを作って国を破滅に導いたものです。
人間は間違うもの。
しかし少しずつ反省をしてこそ前進したと言えるのでしょう。
政治家は反省を拒否します。
敵を絶えず作らねばならないのは、反省したくない人だからでしょうか。
今も過ぐる戦争について、中国・朝鮮半島などで日本(軍部)がしてきなことなどを書くと、
それは自虐史観だというレッテル貼りが行われます。
「レッテル貼り」、それは人を黙らせ、対話を拒否することです。
考える、これが動物と違う人間の人間たるゆえんなのに、です。
道徳教育が必要と言うのも国家権力者です。
対話のできない者は、他人には臆面もなく道徳を強要します。
「共に凡夫(ただひと)」(十七条憲法)という地平を忘れないで歩みを進めたいものです。

お庫裡から 2014年1月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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君 死にたまふことなかれ  与謝野晶子(1878-1942)

 あゝをとうとよ 君を泣く
 君 死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君 死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの
 家のおきてに無かりけり

 君 死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみずから出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ

 あゝをとうとよ戦ひに
 君 死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召され、家を守り
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髪はまさりぬる

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき
 君 死にたまふことなかれ

こんな悲しい詩を、再びうたわせないで、と新年にあたり、強く祈念します。

今月の掲示板 2014年1月

テーマ:今月の掲示板

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「これでよろしい」と言えるのは、
これに甘んじる
これにあきらめる
そんなものではない。
これでよろしいと言える世界なんです。

こんなことになったら困るなぁと
しばしば思うことであるが
それは思いであって
本当に困ったことではない。
困るときには困るがいい
困っても困っても
必ず通っていけるんだ。

人は会うと必ず年齢を言い合って
その人の判断をする。
なんだろうなぁ。
その人 その人を
お互いいただきたいものです。

腹が立ったら腹が立ち
悲しいときには悲しいと言い
嬉しいときには嬉しいと言い
そのときそのときを言える
そんな人間になりたい
なりたいなんてとんでもない
そのとおりになっているではないかと
誰かが教えてくださった

困ったなぁ
嫌だなぁ、と思って苦しんでいる。
そのことはどう考えてみても
自分勝手なことだった。
世の中の苦しみは
一切、自分勝手です。

私は人間が好きです。
いろいろの人に会わせてもらっています。
人それぞれ言われることみんな違います。
気に入ることあり、気に入らんことあり
みんなわたしの心のかがみ
わたしの心をうつして下さるように思われてなりません。
人間が、好きです。

ヨチヨチ歩きの1歳児を見ていて
可愛いなぁと涙が出てくる。
すぐそのあとから
老人のヨチヨチ歩きが杖にすがっている。
これも涙がこぼれた。
ヨチヨチ歩きの力みちたる子ども、力衰えた老人
おなじ道を歩いている。

あなたとわたし

本堂に座って 2014年1月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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このところの世の中の状況は、原発を再び重要電源とする、
特定秘密保護法案が成立する…など、多くの人の反論や批判にかかわらず、思いがけない方向に進んでしまっている様に感じます。
なぜこうなってしまうのかを紐解くヒントになる文章に出会いました。以下に紹介させていただきます。

残念ながら政治は、議会制民主主義のこの国にあって、多数派の声にはなびかない。
それが、官僚依存体質の本質なのだ。
そうした構図は、原発に関して顕著だが、もちろん、原発だけの事情ではない。
年金や教育、生活保護や公共投資、治安や成長戦略ですら、
あらゆる場面でこの構図は成り立っている。
政治に、多数の声、あるいは中小企業や個人事業主、社会的弱者の声が届かない。
一部の特権階級、企業で言えば一部の銀行や巨大企業、
労働者でいえば大企業の労働組合などの巨大組織の声だけが聞こえてくる。
当然、巨大組織は社会の少数派であり、そうした少数派の声が、
日本という国の制度、法律を作っている。
そしてここには、もう一つの大きな問題が潜んでいる。
多数派VS少数の特権階級という構図は、これまで何度となく繰り返されてきた構図であり、
歴史的には何度も革命を起こしてきた。
しかし、今の日本に革命は望めないし、たぶん馴染みもしない。
なぜならば、日本の多数派は、もの言わぬ多数派であり、
その多くは、本来の自分の意見を否定し、あえて少数派の意見に消極的に賛成する人々
(以下、ネガティブ・サイレント・マジョリティ)であるからだ。
少数派の流す心理的な誘導情報があまりにも多い。
それがネガティブ・サイレント・マジョリティという、見せかけの多数派を形成してしまっている。
これを何とか崩していくのが、本当の意味での政治主導の実現だと私は思っている。
たとえば私は、禁原発と言っている。
原発を禁じることが、成長戦略になるのだと説明している。
そうした対案を提示して、国民のみなさんに吟味していただく。
さて、どちらがいいと思うのか、それを考えていただく、そこから政治改革は始まる。
ここで立ち止まって、抜本的な議論をすべきだと私は思う。
少数派にも正直、それほどの深慮遠謀や緻密な計算はないように思える。
どちらかと言えば、無自覚・無反省に、同じ言動を繰り返しているだけのように見える。
ただ彼らは富を集めるために、わざと非効率な社会を望む。
なぜか。
そのほうが儲かるからだ。効率的な社会だと富は再分配されてしまう。
再分配せずに、少数派で分け前を貰いたいから、非効率なままがよい。
しかし、ネガティブ・サイレント・マジョリティという無自覚な多数派が目覚めれば、事態はすぐにも変わる。
多数派が声を上げ、本気で止めに入れば、止められる。そうなることを祈って、
昔からこの国で何が起こっているのか、それを止めるためにはどうすればいいのかを考えたい。
(『なぜ少数派に政治が動かされるのか?多数決民主主義の幻想』     
平 智之著 ディスカバー携書106 より抜粋して掲載しました。)

よくわからない、仕方ない、と言って済ませてしまって、
本当に大事なことを見過ごしてしまい、少数派の思い通りになってしまう…。
ものごとの本質をきちんと見つめ直し、これからどうすればいいかを考えていく。
こうした世の中の大事なことに目を向ける視点は、自分を見つめ直す視点
(仏さまの視点)にも通じるものがあるな、と読んでいて感じました。

今日も快晴!?2014年1月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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この12月は、娘の6歳の誕生日でした。
6年前、陣痛からわずか20分というスピード出産で、救急車を呼んだものの間に合わず、タンカの上で自宅出産してしまったという強烈なエピソードを持って生まれてきた娘ですが、早いものでもう4月から小学生になります。
男の子二人の子育ての後でしたので、なかなか「女子モード」に切り替えられず、「蝶よ、花よ」と姫のように育てるはずが、気がついたらすっかりたくましく育ってしまいました。
最近では、どこで覚えるのか、相手を小ばかにしたようなものの言い方とか、生意気な口のきき方が目立つようになり、正直、娘を「かわいい」と思えないことも度々でした。
男の子は「こら~!」と雷を落とせば「ごめんなさ~い!」で済んだのに、娘の場合は「だってお母さんが○○って言ったじゃん!」と口答えをしたり、間違ったところを注意すると「ちがう!そうじゃない!」と言い張ったり、
(いやぁ、女子って、男の子の3割増し腹が立つわぁ~)と、
毎日娘と真剣に喧嘩の日々でした。
そんな時に、こども園で12月生まれの子どもたちのお誕生日会がありました。
その日、娘は園からお祝いの絵本のプレゼントをもらって帰ってきました。
絵本には先生からの手書きのメッセージでこんなことが書いてありました。
「なんでもがんばりやで、やるとなったらさいごまでがんばるありちゃん!たけうまもボールつきもなわとびもたくさんチャレンジして、できるようになったことがいっぱいふえていったね。
なんにでもやるきいっぱいのありちゃんが、とってもかっこよくみえたよ!これからもたくさんのことにチャレンジしていこうね!」
そこでふと思い出してみると、娘が「頑張って出来るようになった」ことが、次々思い出されるのです。
秋の運動会では、お兄ちゃん達が乗りこなせなかった高い竹馬を見事に乗れるようになっていました。
毎日毎日練習し、足の指の皮が何度も何度もむけていました。
12月のはじめにはこども園の生活発表会があり、娘は劇の最初に登場し、家来役のお友達に囲まれて「踊りの王様」を堂々と演じ、踊ってみせてくれました。
先日は、小学校の読み語りボランティアに娘を連れて行きました。
母と子との言葉のやりとりのある絵本を選び、娘と一緒に読んだところ、1年生20数人の子どもたちが見つめる前で、娘は臆することなく、
『かあさん、わたしのことすき?どれくらいすき?・・・』と続くエスキモーの少女の台詞を、すらすらと読んでくれました。
3人目ということで、こちらも「この年齢ならこれくらいは出来るだろう」という見通しが立ちすぎてしまい、出来てしまえば全てが「当たり前」。娘の頑張りも、達成したことも、特別な感動もなく過ごしてしまっていたような気がします。
この新聞を配る12月の「お楽しみ会」では、娘は「3びきのやぎのがらがらどん」の劇で、小さいヤギの役を演じる予定です。
練習で一番最初に台詞を覚え、動きを考え、熱心に頑張っていたのは娘でした。
無事演じ終わったら、思い切り娘を抱きしめて、「よく頑張ったね!すごく上手だったよ」と、いっぱいいっぱい褒めてあげたいと思います。

 

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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