『正信偈』のはなし 2014年3月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
(「日本国憲法」前文より)

ここで述べられている「人間相互の関係を支配する崇高な理想」について考えてみよう。
この言葉は、理想という言い方で(その奥にある「実は本音はそんなもん現実を無視した観念論や」と言って)
これまでも、今もほとんど議論にならなかったという経緯があるのではなかろうか。
そして、こうした「前文」が産み出されてきた当時の状況も、ほとんど話題にされてこなかったと思われる。
1つの演説を紹介しよう。
『私はここまで話をすすめてきて、聖書にある「ひとを侍するに己を侍するがごとくす」
および「汝の敵を愛せよ」という2つの言葉を想起し、実に無限の感慨を覚えるのである。
(略)いまや敵軍(日本軍)はわれわれの盟邦によって打倒された。
(略)しかし、われわれはけっして報復を企図してはならない。
ことに敵軍の無辜(むこ…罪の無いこと)の人民に侮辱を加えてはならない。
(略)もしも、暴行をもって敵の従来の暴行に答え、侮辱をもって彼等の従来の誤った優越感に答えるならば、
恨みに報いるに恨みをもってすることとなり、永久に終止することはなく、
(略)このことは、われわれ一人一人の軍民同胞が今日特別に注意しなければならないことである。』
「抗戦勝利に際しての蒋介石主席の演説」1945年8月15日 ラジオ放送より
    (『史料 日本近現代史Ⅱ 大日本帝国の軌跡』三省堂1965年4月刊)

『明治以来、日本人は特別なのだ、という意識で隣国と付き合ってきたのではあるまいか。
結果として互いに「同じ人間である」という親しさの内に生きる秩序を作り出せなかった。
戦後68年たった今も、隣国への過誤に対して謝罪する必要があるのは、こうした秩序を生み出すためである。』
「今こそ、政治哲学を 平和な共生の秩序作れ」より抜粋
   (加藤信朗 首都大学東京 名誉教授 朝日新聞朝刊 2014年2月5日)

 「崇高な理想」、それは隣国にも同じ人間が住んでいるということである。
たったそれだけのこと。アジア蔑視、わが国は特別な国だという尊大性、それに気づけない。
そうではなく、自己を相対化できる視座を持つこと。その相対化させる視座を「同じ人間」というのであろう。
(今回も「日本国憲法から仏教に学び、仏教の学びを憲法の上に確かめる」という関心から記しています。)

清風 2014年3月

テーマ:清風 【住職】

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真理は一つであって、第2のものは存在しない。
その真理を知った人は、争うことがない。

27年前(※)の8月15日、“神国”日本は敗戦国となりました。
戦いに破れはしましたが、日本は、国家間の紛争の解決に戦争はしない、軍隊は持たない
(第9条)という内容の憲法をつくりあげました。
日本はこの第9条を制定した時、地球を自己とする国に生れ変わっていたのです。
つまり、武力で世界を制覇しようとした日本は、憲法をつくりかえることにより、
戦争によることなく、世界を日本とすることができたのです。
全く歴史上、国家というものが成立して以来、軍隊を持たないと決めた国があったでしょうか。否!
国家そのものは、“暴力装置”とレーニンが言うように、軍隊を持つもの、それが国家と考えられていたのです。
日本が、軍隊を持たないと決めたことは、この地球上に存在する権利があるという考えを放棄しない限りできないことです。
ですから、ここには国家観、人間観の革命―国家ないし人間は、
真理を知るために存在するのであり、欲望を満足させるために存在するのではない、
という考え方の変化―が要請されているのだとみるべきでしょう。
人間は文字通り、人の間に存在するものです。私は子どもに対しては親であり、
妻に対しては夫であるなど、関係存在というべきでしょう。
つまり、関係存在としての人間は、無視されることが存在を抹殺されることであり、
人の間にあっては和やかなる関係を開いて行けるあり方と成る時、初めてその本来の意味を回復すると言えるからです。
では、その“和”をつくりだす真理とは。
我、必ず聖に非ず。彼必ず愚に非ず。共にこれ凡夫(ただひと)ならくのみ
と、太子は言われる(聖徳太子『17条憲法』第10条より)。

※『清風』は今月号で500号を迎えました。
その記念に、第1号(1972年8月発行)の1面を再掲させてもらい、
私の「初心忘れるべからず」の戒めとさせていただきます。

お庫裡から 2014年3月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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「僕がいのち救われた仏法が、本当に伝わるのかどうか、仏法を伝えるお寺が作りたい」という夫の言葉に従い、
生まれたばかりの長女を抱いて歩み始めたS47.8に「清風」第1号が生まれました。
S54.3月の末に、無住であったこの守綱寺に入寺し「清風」を寺報として発行し続け、
今月号に500という字を書き記しました。
41年と8ヶ月、一月も欠けることなく出してこられましたのも、
偏にお読みくださる皆様に引っぱってきていただいたからだと、
ふかく御礼申し上げます。ありがとうございます。
また、今月は入寺35年という節目の月でもあります。
うっそうと茂った森の中、むささびが飛び、小綬鶏が鳴き、
のら犬の巣窟となっていた「あんなにおそがい所によう居るね」と言われた当時の守綱寺は、
現在では想像もつかないことです。
創建370年(現在)荒れ果てた本堂の阿弥陀様は崩れ果てもせず、
私達が来るのを待っていてくださったという喜びが阿弥陀様のお力になりたいという元気を生み、
ご門徒・地元の皆様の暖かく迎えてくださる気持ちが励みとなって、やはりここまで引っぱって来ていただきました。
現在は、貴之という立派な後継もでき、南無阿弥陀仏の教えを聞き開き、
若い人たちに門戸を開く活動を夫婦でやってくれております。
「仏教は人間奪還の運動である」このことの為に寺はあるのです。
受け難い人の身をいただき、聞き難い仏法に耳を傾けて、
また、守綱寺という場をいただき、本当にありがたい人生であったと思います。
ご縁を結んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
まだ、もう少し歩めそうです。よろしく、お付き合いくださいませ

今月の掲示板 2014年3月

テーマ:今月の掲示板

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我というものは
自分の思い込みを
何より確かなものとしています。

私たちは
自分の判断する
その評価の基準を疑ったことがない

比較している限りは
安心がない

私は道具なんかじゃない
無上なる(比べる必要のない)
私に手を合わす

自分が思ったことは
自分が思ったということだけで
本当と思い込む
それを我(ego)という

煩悩の心とは
自分のまわりの人・こと・もの全てを
利用の対象・利用の道具としか見ない
心のことです

南無とは
煩悩の心の私だったと
うなずいた時に起こる心です。

私が生きている限り
煩悩の心はなくなりません
けれど
煩悩の心と気づくことはできます。
気づいてください、という呼びかけが
南無阿弥陀仏という言葉です

本堂に座って 2014年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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今月は「病む」というテーマでお話された文章から引用をさせていただきます。
小児科医であり真宗大谷派の僧侶でもある梶原敬一先生のお話です。
先生は特に「精神」が病むことを宗教の視点で捉えてくださっています。

うつ病がこのごろ流行しているでしょう。
うつ病は心の病気かといえば違いますよ。
精神の病気です。身体と心と、もうひとつ心の底に精神ということがあるのではないかと思う。
うつ病は精神科で治すでしょ。
心療内科に行くのが心の病気です。
そういう意味では、そこでちょっと違う。
何が違うのかと言えば、うつ病と言うのは別に心の病気ではない。
心を支えているものの病気。何というか、生きる力みたいなものがあるでしょう。
何か悲しいことがいっぱいあっても、楽しめたり悲しめたりするのは、
心が辛いかもしれないけれども、精神が元気だからです。
精神が元気がなくなると、悲しいことがあってもぼーっとしてしまう。
楽しいことがあっても嬉しくなくなる。そういうことがあるでしょう。
うつ病はまさに楽しいことが楽しくなくなって、悲しいことも悲しむことが無くなって全部沈んでしまう。
精神の病気は何かということを考えたとき、精神を支えているのは、これがやっと宗教心やと言えるようになった。
精神とは何か。私は宗教心というふうに押さえたい。宗教心とは何か。
何か神様を拝んだり仏様をおがんだりするのは宗教心ではない。
仏教では宗教心のことを菩提心というんです。菩提心というのは、悟りを求める心です。
悟りを求めるといっても「はい、分かりました」みたいなことではない。
自分が迷っていることが分からないと悟りも何もないからね。
人生に迷っている人が、初めて迷うことから迷いを超えたいということが見えるのが菩提心です。
そういう意味では、宗教心と言っても人生に迷ったことがないと分からないですよ。
今、日本で一番精神を病んでいるのは、ある意味では子どもたちですよ。
子どもたちは明日が無くなっている。
夢や希望などと言うけれども、自分の未来は予定だと思っている。
何よりも今日の自分から明日の自分に一歩踏み出すということを忘れてしまっている。
小学生が中学生に、中学生が高校生になって、という風に思っているけれども、
その中で小学生が中学生になることは、子どもが大人へと、ある意味では自分を脱ぎ捨てていかなければならないでしょ。
そういう意識がなかったら生れたことにならない。
そこを意識したときに精神というものが生まれてくる。
だから精神というのは、自分の人生と自分の関係であるし、
そのことを以て人生と人生が向き合ったときに生まれてくるひとつの関係です。
この人生ということを失っている。人生とは道として歩いて行くのが人生です。
その人生が無くなることによって精神が非常に貧しくなってしまっている。
精神が貧しくなることによって、身体と心と精神のつながりがここで切れてしまっている。
私たちの時代は身体と心は健康になっているかもしれないが精神の健康が失われている時代です。
ある意味では、病んでいるのは精神そのものが病んでいるのであって、そのことを宗教心と言ったのです。
本当に人間がきちんと生きたいという欲求の根元にあるもの。これがすぐ萎える。
(「病むということ」真宗大谷派岡崎教区第17組教化委員会発行 より   
抜粋して掲載しました。)

梶原先生は心と精神を分け、心のつらさと精神の病気は違うものと捉えられています。
また「精神が病む」ことを「人生を失う」ことだと押さえてくださっています。
知らず知らずのうちに大人が子どもたちの人生を奪ってしまって、
結果として精神を病ませてしまっているのかもしれません。

今日も快晴!?2014年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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月曜日の夕方、娘が急に「今日ピアノのお稽古に行きたくない」と言い始めました。
年長になり、音楽の好きな母が「是非!」というので習い始めたピアノですが、案外娘に向いていたようで、毎週楽しそうに通っていました。
ところが、この日は「行きたくない。お休みしたい」の一点張りです。
「行きたくない」のには、何か理由があるはずです。
まず「体調が悪いの?お熱でもあるの?」から始まって、
「先生がありちゃんの来るのを待っていて下さるよ」、
「せっかくおばあちゃんが習わせてくれているんだから・・・」等々、
色々な可能性を色々な言葉で探っていくと、
しばらくして「だって、難しくて弾けないんだもん!行きたくない!!」と娘が号泣。
(ははぁ!分かった!これか!)と謎が解けました。
とにかく、時間になったし、先生にお休みならお休みだと伝えないといけないから・・・と娘をピアノ教室に連れて行き、先生に状況を説明すると、
「確かに、ありちゃんは習い始めてから今まですごいスピードで次々進んでいったから、
ちょっと今レベルが上がって一回では合格できなくなりましたけど、それが普通なんですけどね~。」
「・・・そうですよね~」。
思えば他にも、金曜日に熱を出したり、
次の土日は雪が降って二日間雪遊び三昧で練習も全くしていないしと、
思い当たる理由がいくつもありました。
娘本人も「自分は、今日はとても先生の前でレッスンを受ける資格はない」という気持ちがあったようでした。
「練習全然していなくても、平気でレッスンに来る子もいますけどね」と先生は笑顔で仰って下さいましたが、
娘は案外生真面目なようで、かたくなにその日のレッスンを拒否しました。
そういえば、長男がこども園に通っていた頃、月曜の朝に子ども園に行くのをいやがり、
玄関の柱に取りすがって泣いたこともありました。
その時は、「子ども園に行かせる」ことが親としてのつとめであり、
理由もなく休ませるなんて、(親としての対面も保てないし、休み癖がついたら困る!)と思い込み、
引きずってでも園に連れて行こうとました。
様子を見ていた母が見かねて「そんなに嫌なら休ませたら?」と言ってくれたので、
はっと我に返り、冷静になって考えたら、
(ああ!そういえば昨日一日プレーパークで遊ばせたから疲れていたんだ!)と気づき、
納得して休ませることが出来ました。
今になれば、(どうしてあんなに躍起になって子ども園に行かせようと思ったんだろう?)と笑い話のような過去ですが、
子どもの「行きたくない」とか「やりたくない」という言葉をあっさり聞いてしまっては、
親の面目が丸つぶれになるような気持ちになってしまっていたのです。
自分のやろうとしていることが、「子どものため」ではなく、
「親の体面のため」なんて、本当にばかばかしい話です。
あれから5年。
今では、「子どもが『行きたくない』と言う時には、絶対何か理由がある」と、
確信出来るようになりました。
たぶん、母親が「私は、自分の子を嘘をついてずる休みする子どもに育てました」というのでなければ、
子どもはきちんと自分の状態を判断して的確な言葉を発しています。
子どもの言葉は、信頼に値します。
もし、(簡単に休ませたら、休み癖が・・・)と気になっている方がいるのであれば、
「大丈夫。絶対何かしらの理由があるから、子どもの言葉を信頼して、
子どもが伝えたいことを聞いてあげて」と話しをしたいと思います。
お休みが決まった瞬間から娘はにこにこ顔で、
帰りの車ではすっかりいつもの様子に戻っていました。
来週はレッスンに行くそうです。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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