清風 2014年4月

テーマ:清風 【住職】

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<  日本の地軸 ゆれ来しこの後の行方を問わん いかなる国へ (朝日歌壇) >

どんな苦しいことも、受ける決心ができたら
愚痴など いう暇もなくなる。
苦しいのは 受けたくないからだ。
               宮城智定…京都・本福寺元住職。宮城顗先生の尊父。

何故、苦しいかといえば、受ける決心がないからだといわれる。
成程と思う。
誰かがやればいいものを、何故自分がやらねばならないかと考えると、仕事をしていても疲れが倍加するものだ。
やっぱりこれも引き受けていないからだろう。
仕事に対し、お客さんになっているからだ。
お客さん。それは夫婦の間でもいえそうだ。
共同責任といえば聞こえはいいが、結局責任を自分で引き受けられないことなのだから。
愚痴=自分のことを棚にあげて他人に向って不平不満をいうこと=が始まったら、私は人生のお客さんにすぎないのだということ。
お客さんは結局どんなに丁重にもてなされても、我家のように落ち着くことはできない。
そういえば、随所に主(あるじ)となると、禅家でもいっている。
主となるとは、引き受けるということである。

-結局のところ、何を支えとして立つのか-

※ 私の「初心忘れるべからず」の戒めとして、今月は、清風第50号(1976年9月発行)の1面を再掲させてもらいました。

『正信偈』のはなし 2014年4月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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どうかお前は
敵、味方、ともに救われる道をあきらかにしてくれ
                     -漆 時国-

漆 時国は、法然上人(幼名 勢至丸)の父親で、現在の岡山県・美作の国の押領使(代官)だったのですが、
隣領の押領使に殺されてしまいました。
その臨終の枕辺で、敵討ちをしようという勢至丸に、父親の遺言したのがこの言葉だったといわれています。
敵討ちをすれば、結局、殺しあいを断ち切れません。
しかし敵討ちが当たり前とされ美談にすらなった当時とすれば、これは今では考えられない程、
勇気のある発言だったというべきでしょう。
この遺言をうけて、法然上人は出家し、比叡山で勉強することになるのです。
敵とは、自分を殺すものということでしょう。
そうすると、敵・味方ともに救われる道とは、自分の中にも敵の質を持っていることを見出すということであります。
自分にとって都合の悪いものは殺す(排除したい)という、自分中心の心を持っているということです。
さて、現代はどうでしょうか。今世紀、人類は二度迄も殺しあい(世界大戦)をしてしまいました。
人類という視点に立つならば、これは内ゲバ(殺しあい)です。
この犠牲者に報いる道は、もう二度と戦死者をつくらないということに尽きるでしょう。
つまり、我々は今、敵・味方ともに救われる道を見出すことこそ、本当に求められていることだといえるのです。
敵・味方ともに救われる道を見出すという課題は、日本が(核兵器を含む)武器でもって自分の国をまもろうという、
いわゆる国防論が声高くさけばれている今日、日本国を本当に愛するが故に、
武器をもっては国をまもれないという次元を私共に開いてくれている気がします。
何故なら、私の生きているということの実相は、私以外の他なるものによって生きているというのが、本当の相だと思うからです。

数年前迄、中国を敵視していた日本は、中国がそんなに政策を変えたとは思われないのに、
1972年の日本政府の方向転換により、今や友好国となりました。これは大変結構なことです。
私は今、日本の政府がソヴィエトに対する政策を改めることなく緊張政策をとっていることにある種の疑惑を感じます。
つまり、アメリカの軍事産業と現ソ連当事者の対外恐怖をあおりたてて国内をおさめていくという両国の黒い野望に、
日本政府は、その上、日本の軍事産業までもまんまとのせられている気がします。
(続く)
(今回の文章は『清風』107号(S56(1981)年6月号)より再掲しています。)

お庫裡から 2014年4月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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おばあちゃんになって、私の役割は、孫をお風呂に入れることでした。
長男の開くんは、最初のうちこそベビーバスを使いましたが、寒い頃のことなので、早くから抱いて一緒にお風呂に入りました。
次男の誓くん、3番目の在ちゃん、みんな寒い季節の誕生なので、退院するとすぐから、抱いてお風呂に入りました。
3人の孫と入るお風呂は、本当に楽しく、面白く、嬉しい時間でした。
こんな無上の喜びを与えてくれたお風呂の時間。
11年も経つと孫の成長で、風呂桶はギュウギュウ詰め。身動きがとれません。
3人は仲の良い兄弟ですが、11才になった開くんが、下の2人と微妙に距離を取り始めました。
お風呂も下2人が出る頃合いを見計らって入ってきます。
「遅くなりました。お願いします。」
湯あたりしそうですが、下2人と違い、少年期に入った開くんとは、
中身の濃い話もでき、これはこれで、また私の楽しみでもあります。
ところが最近は、「宿題が片づいていないので、僕、後から入ります」と開くんが一緒にお風呂に入らない日がでてきました。
するとお風呂の中の誓くんが「僕も明日から開くんと後で入ろうかなー」
それを聞いた在ちゃんも「わたしも」と大きな声をあげます。ふっと淋しさが過ぎります。
そんな私の心を見抜いてか、「なんでー、僕は宿題があるから入れないんだよ。
誓くんも在ちゃんも宿題はないじゃん。宿題のない人は、おばあちゃんと入ればいいんだよー」開くんが叫んでいます。
諸行無常の世の中、いつまで孫達が私と一緒にお風呂に入ってくれるのか、と思っていたけれど、
ああ、いよいよこの楽しみを手放す時が来たのかーと感慨無量です。
4月から開くん6年生、誓くん4年生、在ちゃん1年生になります。

今月の掲示板 2014年4月

テーマ:今月の掲示板

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真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その真理を知った人は、争うことがない。
(釈尊 スッタニパータ(法句経)『ブッダのことば』岩波文庫P162より)

負けを知り
分を知り
無理を知り
虚を知れば
人生すべて 明らめの道

自覚とは
私が悪かったと
思えるようになること

包むという用(ハタラキ)は
常に、無限的豊かさを
ふくむものである

有限から無限を見れば
無限ははるかかなた
無限から見れば
有限は無限の内にある

柔軟心
負けてゆく道を知らない人は
丸く人生を送れない
自然の道理
月はどうして丸くなる
そうなっているからです

横に超えれば
すべて丸くなり
闇 美しく
この世 安らか

本堂に座って 2014年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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今月も「病む」というテーマでお話された文章から引用をさせていただきます。
小児科医であり真宗大谷派の僧侶でもある梶原敬一先生のお話です。
今回は、子どもと親の間にはたらく「心」を通して、私たちの心の深い部分に目を向けて下さっています。

人間の限界というのは何かといえば、自分が助かりたいということを頭で考えたら他人を傷つける。
一つのものがあったら、一つのものをどちらが獲るかですね。
たった一つしかないものを、どちらが獲るかというときに自分が獲ったら相手は無くなる。
相手が獲ったら自分が無くなる。そういうときに、どう選択したらいいのか分かりませんよ。
二人とも獲らないという手があるかもしれません。
どうしたらいいのか分かりませんけれども、そういう究極の選択になった時に、そういう人間の選択でないものをするのが仏です。
まあ相手にあげたらいいんです、本当は。相手にあげたことで自分が貰ったということになればいい。
自分が獲って、食べたら「おいしかったよ。
あなたも食べた気になりなさい」というのは難しいでしょ。
子どもと親だったら、美味しいものが一つしか無かったら、
子どもが食べて「美味しかった」というなら自分(親)が食べたことになるでしょ。
そういう意味では人間の心を超えたような働きを知ったときに、
この心は私たちの人間の心の感覚では分からないことです。
どれだけ親子だと言っても、母親がお腹をすかしていたら子どもがおいしかったと言っても、自分もお腹がいっぱいになりはしない。
けれどもそれが、お腹がいっぱいになるということが成り立つというのが大菩提心なのです。
私たちの心は、人の心というより人間の心です。人間は人と人の間と書くでしょ。
人間の心というのは他人の痛みが分かる心だと。
相手が悲しんでいたら相手の悲しむのを見て、ああ、辛いやろな、と思うことができる。
でも相手が痛がっているときに自分が痛くなければ人間の心ではない。
子どもを見ていて面白いのは、子どもは不思議なことに母親と感覚が一緒なんです。
自分が怪我をしなくても母親が怪我したら一緒に痛くなるんです。
お母さんが「痛い!」と言うと、子どもも一緒に痛がる。そのときにあるのが人間の心です。
感覚というのは決して自分の身体とか心の問題ではなくて、相手の感覚を受け止めることです。
これは人間の不思議な感覚です。
願うというのは思うのではない、願うんだ。願うというのは、ずっと続くものが願い。思うのはその時に思う。
深く心の底に思うのは欲。欲というのは徹底していくと深いところにあるんですよ。
自分が何か思っているのは親が思っていることになる。親が思っていることは大抵は、もっと昔から受け継いできたものです。
これを宿業というのです。自分の欲求なんてものは個人にあるものではない。
お金が欲しいと思うけれども、自分がお金を欲しいというのではないんですよ。
お金が大事だという意識の中で育ってくると、お金が大事になってくる。愛情に飢えた人は愛情を求める。
(「病むということ」真宗大谷派岡崎教区第17組教化委員会発行 より   
抜粋して掲載しました。)

私たちは、自分を中心に、自分さえよければいい、という思いを(自分でも気づかないほど)心の奥深くに持っているものです。
ところが子どもを通すことで、そんなふだんの思いを超える働きに出遇わせていただく瞬間があることを、
子どもとの何げないやりとりの中に見出してくださっています。
親が子どもに対して何を願うのか…目先のことにとらわれず、深く願いを持つことが、
ふだんのやりとりを通じて伝わっていくのだと思います。

今日も快晴!?2014年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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子ども3人を連れて、近くの公園に芝生滑りに出掛けたときのことです。
最初は3人仲良く遊んでいたのですが、たまたま上二人が隣り合わせで滑っていたところ、途中でお互いの手綱代わりのロープが絡まってしまい、次男が派手にひっくり返り、その上に長男が乗り上げるという状態になりました。
次男はしばらくうつぶせになってじたばたしていましたが、相当痛かったようで、起き上がると、半泣きになって長男目がけてものすごい形相で殴りかかっていきました。
最初は次男を上手くかわしたりしていた長男ですが、
そのうちに次男のパンチと蹴りを数発まともに浴びてしまいました。
(あ!さすがに開も反撃するかな?まあ、今日の場合は仕方ないなぁ・・・)と様子を見ていましたが、
長男は黙って次男の蹴りを受け、パンチを浴び、うっすら涙を浮かべながら、されるままになっていました。
恐らく、長男は自分なりに(次男に悪いことしちゃったな)という気持ちがあったのだと思います。
でも、客観的に見て明らかに遊びの中での「事故」であって、長男にそれほど非があるとは思えません。
八つ当たりのような暴力を振るわれて黙っている必要は無いし、
お返しに長男が手を上げても、私は黙って見逃すつもりでした。
しかし、長男は黙って耐え、静かに次男の怒りを受け止めてくれました。
長男が涙を流しながら我慢している様子を見て、私も涙が止まらず、
彼が顔をくしゃくしゃにしながらこちらにやって来た時は、
「よく耐えてやってくれたね。偉かったね!あんたは本当にすごい子だ。立派なお兄ちゃんだ!」と、長男を抱きしめて泣きました。
長男は、照れくさそうに「誓くんのパンチ、あまり痛くないんだよね~」と言いながら、涙を拭い、鼻をかんでいます。
長男は穏やかで自分の世界があり、自分から人に手を上げることはありません。
ここまでやり合う兄弟喧嘩は、正直初めて見ました。
次男は、学校や友達の間では大人しいようですが、家では普段からかっとなりやすく、特に妹に対してすぐに手を出して泣かせたりしています。
(もう少し大きくなるまで、この家でストレスを発散する性格は直らないかなぁ・・・)と彼の内面の成長が待たれる日々です。
気持ちが収まった様子の次男を前に、
「ねえ。怒りに任せて相手を殴っても、全然気持ち良くなかったでしょう?開君がお兄ちゃんだったから黙って我慢してくれたんだよ。分かってるね?ちゃんと謝まっていらっしゃい」と言うと、
次男は頷いて長男の方へ行き、「ごめんね」と謝っていたようでした。
その後は、またいつものように戻った二人ですが、
よく考えたら私は自分が三姉妹で育ったので、殴る蹴るの喧嘩というものをしたことがありません。子ども達にも、
「絶対手を出すな!手を出した方が負けだ!人間なんだから、言葉で解決しなさい!」と言い聞かせて育ててきたので、
いわゆる喧嘩を目の当たりにすると、どうしたら良いのかさっぱり分かりません。
兄弟喧嘩のうちは、黙って状況だけ把握しておけば良いか・・・と思っているのですが・・・。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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