清風 2014年7月

テーマ:清風 【住職】

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仏の遊履(ゆうり)したもうところ、(中略)国豊かに民安し。
兵戈(ひょうが)用いることなし。
(『仏説無量寿経』巻下 『真宗聖典』P78)

すべての者は、暴力におびえる。すべての生きものにとって、生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
(『ダンマパタ』法句経 第10章 暴力130項(『ブッダの真理の言葉・感興のことば』岩波文庫))


「危機は無くならない。それが、海外だろうと、国内だろうと、
危機に直面する度に、まるであらゆる問題にたいする奇跡の解決であるかのように、
派手な巨額を要する行動が誘惑となって現われるだろう。
(中略)巨大な軍事組織と大規模な兵器産業の結合は、
(中略)その総合的な影響力が経済、政治そして精神面に至るまで、
どの地方自治体でも、政府のあらゆる省庁でも、政府の諸審議会においても、
軍産複合体による不当な影響力獲得が(中略)生じぬよう監視せねばならない。
あやまって選ばれた権力の破滅的な台頭の恐れは今も潜在し、これから折りがあれば頭をもたげるだろう。
この結合(軍産複合体)の影響力が、我々の自由や民主主義のプロセスを脅かすのを絶対に許してはならない。
何事も起こるに任せてはならない。警戒心を怠らない思慮深い市民のみが、
巨大な防衛産業・軍事の機構を平和的な手段と目的に合致するよう強制できる。」
(アイゼンハワー・アメリカ第34代大統領退任演説 1961年より)
この演説で、大統領は1961年当時のアメリカの軍産複合体の影響力を危惧し、
「我々の自由や民主主義プロセスを脅かすのを絶対に許してはならぬ」と米国民に呼びかけている。
そして、その後のアメリカの動向は、この大統領の危惧が現実のものとなり、
今も現に(イラク・アフガンなど)その仕掛けた戦争の後始末に追われ、またその後遺症に悩んでいる。
先に、安倍首相は昨年12月に「特定秘密保護法」を十分な国会での審議もせず、
強行採決される前日の特別委員会で、自身の口から「保全監視委員会」「情報保全諮問会議」などの第三者機関、
有識者会議の設置が語られた。安全保障・外交案件など、国には必要最小限の秘密を扱うことはやむをえないであろう。
しかしそれは、秘密指定が公正かつ厳正に行われ、情報を握る権力に決して恣意的な操作をさせない制度設計が不可欠である。
その制度設計は、透明性・公開性といった民主主義の原則に則らなければならないといえよう。
ところが実際は、どこまで透明性・公開性が確保されるかわからない組織の名が、
審議も経ないままに首相から採決の前日に出される始末であった。
そして今回の「集団的自衛権」の行使を巡って、政府の「朝鮮半島での有事(戦争)で、
避難する日本人を乗せた米韓を自衛隊が守る」との想定が、過去の交渉では、最終的に米側に断られていたという。
この秘密保護法案、さらに今回の集団的自衛権の問題にしても、
審議をすればぼろぼろと未熟な素人の考えた制度設計でしかないような、
大変問題としか言いようのないような杜撰な案であることが判明している。
これは考えようによっては、戦後60年(ほぼ2世代)に渡って、
そういう事態を考える経験を、政府も国会議員もしてこなかったからだとも言えよう。
右肩上がりの経済成長が、2014年の現在でも我が国では、
いろいろな課題を語るときには当たり前の前提として語られるのであるが、
1972(昭和47)年の「ローマ会議」では、すでに、70年代に入って急速に深刻な問題となった天然資源の枯渇化、
公害による環境汚染の進行、開発途上国における爆発的な人口の増加、
軍事技術の進歩による大規模な破壊力の脅威などによる人類の危機に対し、
人類として可能な回避の道を『成長の限界』として刊行している。
しかし、安倍首相も我々国民一般も、今までのように経済成長が全ての問題を解決してくれると考える
思考の枠から離陸できないでいるのではなかろうか。
アベノミクスと言われるものは、その経済成長こそが全ての問題を解決できるという、まさにその発想そのものと言えよう。
今の日本は、戦後から1990年代までのパターン(要するに経済成長のみが国の目標とされてきた)が維持できなくなり、
例えば少子高齢化という事態で経済成長に代わる価値や将来の設計図を描ききれず途方に暮れているというのが、
政治家とその政治を支持している我々国民の置かれている意識の現状ではないだろうか。

お庫裡から 2014年7月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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私は、鳥の鳴き声を聞くことが好きです。
境内の大木は、たくさんの鳥達を憩わせてきました。
美しく鳴く鳥達の名前が知りたくて、鳥の図鑑を買い、
双眼鏡を買い、鳴き声のCDを買いして、観察を試みてきましたが、
境内の木はみな高く、よく茂っているので、なかなか姿をとらえることができません。
たまに見かけぬ鳥を見つけると、頭に焼きつけるようにして見つめ、
走って家に駆け込み、図鑑を開いてみても、これのようでもあり、違うようでもあり。
なかなか、これだ、と言い切れないのが悲しいところです。
毎年のように、2月の終わり頃になると、鶯が薮でささ鳴きを始め、
朝の目覚めをうながしてくれ、ホーホケキョと鳴くと、自分の手柄のように喜んで、
家族に「聞いた?」「聞いた?」と自慢してまわり、
5月に入ると、イカルが群れをなして飛来し、その美しい声の下で草を取る。
これ等は最高の贅沢だと思ってきたのに、今年は鶯もイカルもやってきません。
そして、この度の大掛かりな伐採。
境内も、本堂の中も、すっかり明るくなり、守綱寺のイメージが変わるほどです。
(お手伝いくださった皆さま、ありがとうございました。)
木があれば落葉を憂い、倒木を心配する。
木が無ければ、鳥が来ないと悲しむ。
いずれにしても、自分の都合が前面に出てしまう人間の性を、
大悲されて(仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば『歎異抄』第9章)、
お念仏申しなさいと申される。
伐採の日から毎朝、老鶯が力強く鳴いて、境内を一回り。
本当に、そのままにでした。南無阿弥陀仏。

今月の掲示板 2014年7月

テーマ:今月の掲示板

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私の思いは 末通らぬ

世の中は、理屈で動いているわけではない。
人間も、世の中も、もっと深いもので動いている。

理性より深いものの1つに
感情があります。
理屈はわかるけれど
感情がね、とよく言うでしょ。
理性は、人間の一番浅い部分なのです。
心には、もっと深いものがある。

「私の人生、これで行き詰まった」と言う。
それは、人生に対する考えが行き詰まったのです。

我々は、
計らいを超えた世界を
計らいでつかんでいるだけ。
だから、暗いし、安心できず、満足もない。

悪人という、そんな鋳型にはまった悪人はいない。
ところが、縁がくると悪人に急変するから恐ろしい。
そういう自分が恐ろしい。
              夏目漱石「こころ」より

悪い日だと困る、などと
日のよしあしを考えなければならないのは
そもそも不安なのです。

本当の大安は
日のよしあしなど考えないのが、大安。
どうなってもよろしいというのが、
本当の大安。

本堂に座って 2014年7月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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このところ続けて真城義麿先生の文章を紹介させていただいています。
どのお話も、子どもたちとの関わりを通して、
子どもだけでなく親・大人=自分の姿を見つめ直すきっかけをくださっている様に思うのです。
今月は「自由・個性」についてのお話です。

今、私たちは束縛されるのはイヤ。自由でありたい。
好きなものを食べ、着たいものを身につけ、都合よく時間を使い、
好きな娯楽を楽しむなど、あらゆる場面で自由を求めます。
それは本当に「個性」とか「自由」なのでしょうか。
不思議なことに、生徒たちは自分の個性を自由に表現するために、ファッション雑誌を見ます。
その雑誌は、自分とほぼ同年代のいわゆるイケてる男女の写真でいっぱいですが、
そこには、ほとんど同じ口・目・眉・頬・メイクの顔と、同じ髪色・髪形、また表情も雰囲気も同じような人が並んでいます。
おそらく話し方も話題も同じなのでしょう。
そういうものに倣って表現するのが「個性」なのでしょうか。
個性とは、本来その人に具わっている人格や、それが表れ出たものでしょう。
結果としての「個性」が発揮されるためには、その前提となる人格・発想・価値観などが問われねばなりません。
個人がしっかりと確立しているでしょうか。
また、わがままが通ることが自由であるように思われがちですが、
「自由」とは欧米の近代への歴史の中で、それこそ命と引換えに獲得した、いわば厳粛で尊い権利です。
私は、この自由ということを考える時、思い出すことがあります。
1つは子どもの頃、庭の落葉の掃除をしていて、熊手という便利な道具を使えば、
砂は残して落ち葉だけをかき集めることができます。
その熊手で何回もいろんな方向から角度を変えてやっても、岩と岩の間の落葉がうまく取れません。
祖父から「お前はいっぺん熊手を持ったら、それを使ってせにゃならんと思い込んでいる。
熊手をはなして、手でつまんだらわけはないのに」と言われました。
熊手という便利な道具にしばられた私がいました。
便利だからこそ、手を離すことができませんでした。
また中学生の時テレビを見ていて、先ほどの祖父から「そんな番組のテレビは切りなさい」と言われたのに対して、
「テレビを見るのは僕の自由じゃないか」と答えたら、
「お前は今、自由と言うたけれど、お前はテレビにしばられていて、ちっとも自由ではないじゃないか」と叱られました。
そして大谷高校で、当時の廣小路亨校長先生から
「自由とは、人間が本来どうしてもしなければならないことが、妨げられずにできる権利である」と教わりました。
何を実現するための自由であるのか、またどういう私が発露された個性であるのか。
個性だと思って、実は流行や他人の目に縛られていて、ちっとも自由でない私ではないのか。
考えてみてほしいものです。
(「十、何を実現するための自由か~人間が本来なすべきことを~」
真宗大谷派難波別院発行『今、教育の現場では…』真城義麿著 より掲載しました。)

「個性」・「自由」どちらの言葉も意味を都合よく捉えて、
言葉が本来持っている意味を取り違えてしまっている様に思います。
個性を大事にすると言いながら「自分でないもの」を身につけることを強いていないでしょうか。
自由を「思い通り・自分勝手にしてもいい」とはき違えてしまっていないでしょうか。
「個人=私」をしっかり持っていてこその「個性」であり、
「気づかないうちに縛られている」ことに気づいてこそ本当の「自由」を知ることができると思います。
清沢満之師の「もし自由が制限・束縛されることがあるならば、それは自限・自縛しているのである。
自由に自分の主張を変更して他人の自由に調和すれば、
彼の自由と我の自由が衝突することは無い」という言葉を思い出しました。

今日も快晴!?2014年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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我が家は、基本的に見たい番組があるとき以外はテレビは消えているのですが、旦那さんは実はかなりのテレビっ子です。
私が「子どもが起きている時間帯はテレビは控えて」と言うので、
見たい番組は録画して子どもが寝てから見てくれています
(これは非常にありがたいのですが、そのため、どうしても夜更かし朝寝坊になるのが困ったところです・・・)。
先日、子どもを寝かしつけて2階に上がると、旦那さんが録画したバラエティ番組を見ていました。
有名なお笑いタレントが司会を務める番組で、若手の芸人さん達に「どっきり」を仕掛ける内容でした。
しばらくぼんやり眺めていたのですが、そのうちどうも気分が悪くなって、番組を見ていられなくなりました。
バラエティの内容がひどすぎたからです。
何も知らされていない若手芸人さん達は、椅子に座った途端後ろにひっくり返って冷水(または熱いお湯)のプールに放り込まれたり、
番組スタッフのような顔で登場した女性の仕掛け人(実はプロレスラー?)にいきなりびんたされたり、
打ち合わせのテーブルに置かれているお弁当が爆発して、ものすごく熱い思いをしたりしています。
日常生活でこうした出来事に遭遇したら、間違いなく「何するんだ!」と怒りを感じるところですが、
テレビでは、仕掛けられてる側は怒ってはいけません。
なぜなら、怒ればさらにその「怒り」をおちょくられて笑いものにされるからです。
私があまりバラエティ番組を見ないので知らないだけかもしれませんが、
昔はもっと単純に人を「ビックリ」させて、その様子を見ておもしろがる程度だったような気がしますが、
だんだん仕掛ける内容がエスカレートして、相手の様子を複数の人間がどこか別の場所でモニター画面で見て大笑いをする。
しかも、腹を立てると余計笑いものにされる・・・という、質の悪いものに変化してきているように見えます。
やった側が笑い(=勝利)を得て、やられた側が一方的にひどい目に遭わされて我慢を強いられる(=敗亡)図式が、まかり通っているのです。
怖いのは、そうした番組が決して大人だけのものではないことです。
こうした番組を見た子どもは、(ああ、気に入らない相手はこうやって扱えばいいんだ)と、「いじめのやり方」を学ぶでしょう。
テレビのタレントは、その様子をさらすことによってギャラがもらえたり、名前を売るチャンスになるわけですから、
必死になって笑われたりからかわれたりします。
しかし、学校や会社の中ではそうはいきません。
相手をどんなに傷つけようとお構いなしで、「やったもん勝ち」、
「やられ損」という風潮が蔓延するのは、とても恐ろしいことだと思います。
 何より一番嫌なのは、相手の「怒り」などの真剣な感情を、まともに受け止めずに笑って済ませてしまうことです。
常識的な人間の礼儀としては、相手を怒らせたら「ごめんなさい」と謝り、
「分かったからもう良いよ」と許す、というやりとりをすると思うのですが、そうではなく、
「やる側」と「やられる側」には、人間同士のコミュニケーションが全く成立していません。
(こういうことをされたら、相手はどう思うだろう?)と、
相手の気持ちを思いやるという人間関係の大前提が、見事なまでに無視されています。
本来「笑い」とはそんな低俗なものではなく、「ユーモア」であり、
そこには「悲しみ」が内在している文化であると思うのですが、
こうした番組が高い視聴率を稼ぐのは本当に残念です。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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