清風 2014年10月

テーマ:清風 【住職】

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阿弥陀如来の本願には、私ども人間の日常の暮らしの中での心の有り様についてこのように説かれている。

身というのは、身贔屓(みびいき)という言葉もあるように、自分が一番かわいいのである、と。
だから私どもは、いろいろと心に想念(おもい)を起こして、その起こした想念に自分が縛られている(貪計)のだと。
このことは、同じくこの本願の説かれている『無量寿経』(下巻、三毒段)に「こころのために走使されて、安き時あることなし」と説かれている。
なんのことはない、私が思ったことに、私が引きずり回されているのだと。
そして次のようにも説かれている。
「若きも老いたるも、男も女もみな、金と物ばかり心配している。持てるもの、持たざるものを問わない。ともに心配することに変わりはない。営々と勤めて心配したり苦しんだりして、いろいろと考えあぐんで、その心にこき使われ、ほっと心安らぐ時もない」と。ひとたび「自我」に立つ時、すなわち「起想念、貪計身」する時、自己以外の一切は、自己の欲望を満たすための手段としてしか関われなくなる、ということであろう。
いわゆる今回の東日本大震災の原発の問題も、自我に立った人間の心の荒野を象徴するものではないだろうか。
心の荒野とは、現代に生きる私どもは生きて商品を享受できる間が華なのであり、さらにはそれを享受できるだけの若さを保持している間が華なのであると、建前はともかく本音のところではそうとしか思えない、ということであろう。

 

「教え」に聞く 2014年10月

テーマ:「教え」に聞く



私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか。
(ゴーギャン)

この言葉は、ゴーギャンの絵(ボストン美術館所蔵)に付けられているタイトルです。
今、私たち日本人にとって、安倍首相から憲法第9条の解釈について(主権者である国民に諮ることなく)「現在の憲法にも“集団的自衛権”は認められている」として閣議決定によって「売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこう」としてます。
「他人の喧嘩に飛び込んでいこう」というのは「縁もゆかりもない国に行って、怨みもない人たちを殺してこい」ということです。そうすれば逆恨みされるに決まっています。
軍隊は最終的に国民は守れませんでした。それは先の戦争において、我が国の場合、満州・沖縄で経験したことです。
満州では、上陸する米軍と戦うという名目で軍は内地に送られ、何十万という邦人が無防備のまま取り残されました。
沖縄の方たちは、日露戦争の折にはバルチック艦隊が沖縄のすぐ近くを北上したにも関わらず攻撃はされませんでした。軍隊がいなかったからです。
先の戦争では日本軍がいたために壊滅的攻撃をされ、防空壕では現地住民は足手まといになるからと、他ならぬ軍隊に自決されられるか追い出されたのです。
一体、私どもの国・日本はどこへ行こうとしているのでしょうか。
東日本大震災における原発事故、特に放射能漏れは今も解決していないのに、安倍首相による「アンダー・コントロール」の宣言、そしてその安倍内閣による上記のような内容を持つ憲法第9条の解釈変更という暴挙を見せられて、この国の未来を子どもや孫にどう残していくか、今それこそ、このゴーギャンの言葉どおりに「私たちは何者か」問われているのだと思います。
私たちは経済成長を続けるために、全くそのことのためのみに生きているのでしょうか。
未来の子孫から、今まさしく問われているのでしょう。
経済は大事です。しかしそれは一体何のためでしょうか。
今のような、自然を破壊し、人間という字が表わしているような(関係存在として家族と隣人との)関わりを開いていける余裕を無くし、追い立てられて「健康・幸福・無事・安全・生存」を犠牲にしていく経済成長(金、金、金と、まるで金さえあればと生きること)のみが、生活者の生きてゆく目標なのでしょうか。
一度ここで考えてみようと、安倍さんから問いを投げかけられているのでしょう。
                             (この項つづく)

お庫裡から 2014年10月

テーマ:清風 【住職】

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先日、初対面の方から「ご趣味は?」と聞かれました。日頃そんなことは考えたことはありませんが、大好きでやっていること、やって嬉しいことはたくさんあります。

1.聴聞すること、本を読むこと、語ること。
  聴聞に外へ出るより、講話集を読むことの方が多いです。読書会は読んだことをうなずき合える場。(小説も読みますが、止まらなくなって月10冊を越えることも、まま)

2.歌を歌うこと、ピアノを弾くこと。
  月2回のお寺のみのりコーラス、月1回の坊守コーラス。最近紹介くださる方があり、近くで月1回声楽を。ソプラノの声が維持できればと思って始めたのですが、先生の要求はもっと本格的。自分の声に驚きつつ(この年齢で伸びしろがあるなんて)指導についていきたいと。
  ピアノはコーラスで歌う和讃曲の伴奏があまりにきれいなので、作曲の平田先生に無理強い。60歳の手習いながら、少しずつ曲が仕上がり、和讃曲を弾き歌いできるのが、とても嬉しい(とても披露できるレベルではありません)。

3.俳句を吟ずること。
  毎月の句会に五句出さねばならぬということで、生活の中で目にする細々としたことにまで関心が向く。面白い気づきがあります。半年ほど前、俳句界の重鎮の先生に面識を得て、添削をしていただけることに。思いもかけず何と幸せなご縁をいただけたのかと喜んでいるのに、肩に力が入って入って。今後、どんな句が私の中から生まれてくるのか、とても楽しみです。

4.詰将棋をすること。
  誓くんに教えてもらった将棋。せっかく覚えたのに、もう上2人の孫は遊んでくれません。在ちゃんじゃ張り合いない。そんな私の心を知ってか、将棋アマ5段の友人のご主人は、三手詰から始まり、五手・七手の手書きの問題を送ってくださいます。(数学の問題を解いているようで、異世界に触れる時間です。正解率は言わぬが花。)

5.花を立てること、茶室のしつらえをすること、草を取ること。
  季節の移りを味わえる、とても楽しい時間です。(と言っても、いつも家中に花を飾ってある訳でなく、草が生えていない訳でもありません)

6.洋裁をすること(学校の頃、一番嫌いだった洋裁を、今喜んでしている自分にびっくり)
  1枚の布をどう生かすか、考えるのが楽しみ。仕上がっていくのが喜び。

 こう書き連れてみると、毎月こんな楽しみと喜びを与えてくださる先生方、お仲間が私の周りにいてくださるその幸せに頭が下がり、嬉しくって、ここに書かせていただきました。

今月の掲示板 2014年10月

テーマ:今月の掲示板

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娑婆は思い通りにならんやろ
それがいいのや
もし、思う通りになってみ、
どんな気になるやら、わからんで
思い通りになったら
何様になるか、わからんぞ
フーッとのぼせて、そして落ちて
えらい目にあう

当ても外れるけれど
心配も外れる
そしてちゃんと
なるようになっていく
不思議なものです

弥陀たのむ、とは
都合でコロコロ変わる
信用ができるようなものでない
我が心は
たのまない、ということです

「あの人のようになったら」
と言っているのは
一番大事な自分のことを
見捨てているということです

当てというのは
未来に対して希望を持つ心
心配ということは
未来に対して問題を持つような心
当ても心配も心でしょう
心というのは本当に信用できない

人間は、自分を誤解していますからねー
私に対する誤解から出発しているのですから

私が私を生きていく
それには、まず大事なことは
私はとんでもない者だと気づくことです

決める心が
決まらないことに苦しむ

教えを聞くということは
私を聞くということです

本堂に座って 2014年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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ふだんの生活の中で、1つのことの「ついで」に別のことも…
と考えて行動することが(個人的に)よくあります。
そんな「ついで」は自分に限らず、子どもたちの行動にも
「どうせ部屋に行ったなら、ついでに○○を持ってくればいいのに…」と、ついイライラと口をはさんでしまいます。
そんな「ついで」の根っこには「効率よく」という思いが染みついているんだと思います。
そんな「効率よく」ということについて書いてくださっているお話がありました。

今、私たちは「効率よく」ということを常に考えながら生きるようになっています。
少ない労力・経費・時間で大きな成果をということです。
望む結果に直接結びつかないことは、無駄として顧みられません。
それどころか、削減が求められます。
そのために、「目標管理」「PDCサイクル」「数値目標」「優先順位」「費用対効果」等々、今や教育現場でも経済用語が飛び交っています。学校選びや就職先を決めるにも、知らず知らずそういう発想で選択肢を見ています。
希望する収入やポジション等を、いかに短期間に努力少なく手に入れるか、そのための就活・婚活の情報を集めます。
移動は直行・直帰、最短の時間になるように計画して。
途中下車も道草も、時間がもったいないと。
与えられた問題の答えに必要な参考書を読んで、何の役に立つか分からないようなものを読む暇はないと。本当に途中はなければない方がよいのでしょうか。
生活とは、生きるとは、人生とは、その途中のことではないのでしょうか。
1921年にノーベル文学賞を受賞したアナトール・フランスという作家の『エピクロスの園』に、こんな話があります。
「…ある精が一人の子どもに一つの糸毬(まり)を与えていう。
『この糸はお前の一生の日々の糸だ。これを取るがよい。
時間がお前のために流れて欲しいと思う時には、糸を引っぱるのだ。
糸毬を早く繰るか永くかかって繰るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。
糸に手を触れない限りは、お前は生涯の同じ時刻にとどまっているだろう』子どもはその糸を取った。
そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子どもたちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手に入れたり、心配事から早く解放されたり、悲しみや、年齢とともにやって来た病気を避けたりするために、そして最後に、かなしいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っぱった。
その結果は、子どもは精の訪れを受けて以来、四ヶ月と六日しか生きていなかったという」(大塚幸男訳 岩波文庫)
現代なら、早送りボタンのついた人生のリモコンでしょうか。
もし、そんなものを手にすることになったら、辛いこと、苦しい時間、イヤな関係、黙々とする準備、単純な作業を早送りボタンを押さずにいられますでしょうか。
私たちが、大切だと思っている「効率よく」のために、大事なこととして取り組めばはかりしれないことを学ぶ契機を得損ねてしまいます。
人生全体の大目的地へは、効率主義で本当に到達できるのでしょうか。
親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」とおっしゃっています。
「碍」とは私の請求の実現を妨げる不都合です。
「無碍」とは「碍」がなくなるということではなく、出遇ったことを都合がよい悪いで判断することから解放される、すなわちすべての出遇いに意味があるという、「碍」とともに生きる生き方です。
早送りのリモコンが必要ない世界が開かれてくるということでしょう。
(「十七、効率主義で学ぶ契機を得損ねる~すべての出遇いに意味がある~」
真宗大谷派難波別院発行『今、教育の現場では…』真城義麿著 より掲載しました。)
「ついで」の行動を忘れると「しまった、もったいないことをした」と思ってしまいますが、「効率」ばかりを追い求めていると、かえってもったいない(得損ねる)ことになってしまうのかもしれません。
少しくらいのやり直し・遠回り(碍)には大事なことが隠れている、と思うとイライラも減る…のでしょう。

今日も快晴!?2014年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先日、たまたま美輪明宏さんのラジオ番組を聞いていたら、
こんな面白いことを仰っていました。
「だいたい、今流行っている『ありのままで』って歌。
あれ、私大っ嫌いです。
ありのままでって、例えばあなた、畑で抜いてきた大根を土が付いたまま食卓に出しますか?きちんと洗って土を落として、桂剥きとかきちんと料理をして、美しい器に盛って、『さあ、召し上がれ』って出すでしょう?『ありのままで』って生まれたままってことですよ。礼儀作法もマナーもあったもんじゃない。ケダモノと一緒ですよ。それを全部そのまま受け入れてくれって、図々しいにも程があります。私はあの歌は大っ嫌いです。」
今のように女装家やおねえキャラ等が一定の市民権を得ているような時代でないときに、「化け物」と世間から蔑まれながらあのスタイルを貫き通し、「ありのままの自分」を世間に受け入れさせるまで努力を続けてきただろう美輪さんの言葉だけに、(なるほど)と思いました。その後、テレビ番組で「アナと雪の女王」を英語で歌うのに直訳の歌詞が付いているのを見たら、驚くほど日本で歌われているものと違いました。美輪さんは、恐らくこの英語の歌詞をきちんと見ていたのだと思います。
 
「Let It Go」歌詞  対訳:沼崎敦子  ※日本語で「ありのままの」の部分から
かまわない それでいいのよ これ以上隠しておけない
かまわない それでいいのよ 背を向けてドアをバタンと閉めてしまうの
みんながなんと言おうと気にしない 嵐をもっと暴れ回らせてやる
どうせ私は寒さなんてまったく平気なんだから
面白いわよね ちょっと距離を置くと すべてがちっぽけに思えるなんて
かつて私を思いのままにした恐怖は 今やまったく手を出せずにいるのよ
今こそ自分に何ができるのか確かめてみなくちゃ 限界を調べて打ち破ってやるのよ
私には善悪なんて関係ないし 規則もいらない 私は自由なのよ!

善悪も規則もない自由は、本当に自由なのでしょうか?
自由は制約を伴うものであるはずです。
「かまわない。それでいいの。気にしない。どうせ…」と、
各々が開き直って自分勝手に自分のやりたいことをやる世界は、
無秩序で悪意や恐怖に満ちたものになってしまうような気がします。
善悪やルールもない自由では、野を駆け回る獣と一緒です。
子育てについて考えても、「子どもの自由を尊重する」、
「見守る」と言う都合の良い言葉で、子どものやりたい放題を
「ありのままの姿だから、これでいいの」と放任していては、
社会的規範もマナーも礼儀作法も身についていない
獣(ケダモノ)を育てることになってしまうのでないのでしょうか

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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