清風 2015年3月

テーマ:清風 【住職】

syukoji_09090901.jpg

日本は、一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくてもいい。
「別品」の国でありたいと思うのです。(『成長から成熟へ』天野祐吉著 集英社新書)


中国では、昔は、審査のモノサシでは測れないが個性的で優れていると思われるものは「逸品」とか「別品」として認めたのだそうです。
私はこのエピソードを読ませてもらい、こんなことを思っていました。それは、現行の日本国憲法について、そして近代の国家観についてです。
近代の「主権的国民国家」への共通の理解は「国民」「領土」そして「軍隊を持つ」ということだそうです。
ところがご存知のごとく、日本国憲法の「第9条」は「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」と提示され、本文には、これも有名ですが、
第1項 
日本国民は(余分事ながら、国ではなく国民は、です)正義と秩序を
基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による
威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権はこれを認めない。
と定めています。(どこぞの国の首相は、この憲法を「品のない、見苦しい憲法だ」と言ったとか、言わんとか…。)
この憲法の規定はどうでしょう。品から言うなら、一品とか二品ではなく、まさに別品なのでしょう。
20世紀とか21世紀の品ではなく22世紀からの贈り物、つまり別品なのだと思うのですが、これは戯言なのでしょうか。
孫や曾孫がわざわざ外国まで出かけて人殺しをしに行く。
それなら別品ではない、一品二品の先進国ではないかと思うのですが。
「軍事を国家有事の時、つまり戦争のための保険であるかのような説を唱えるものがいるが、とんでもない詭弁である。
軍備が戦争を生むことを忘れてはいけない。」
(『平和への戦略-実験国家への道』佐橋 滋著 元通産相事務次官)
日本の軍備は沖縄で、アメリカの軍備はヴェトナムで、戦争を阻止し得たでしょうか。
沖縄では、日露戦争の時、沖縄には軍備がなかったから攻撃もされなかった、また第二次世界大戦の時、伊江島には日本軍がいなかったために進駐してきたアメリカ軍から砲撃は受けていないという事実が伝えられているそうです。

「和讃」に聞く

テーマ:[和讃」に聞く

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり
盲…道理がわからないこと  冥…闇黒の世界、希望が持てないこと

今月から、親鸞聖人の作製された和讃に入っていこうと思います。
しんらん塾も1月から和讃に入っています。
ここでは和讃を読みながら、主題として掲げたことに関して思い浮かんだ片々について記すことになると思います。

まず初めに、「弥陀成仏」ということを巡って、七高僧の1人である曇鸞大師の著書『浄土論註』の言葉を紹介しながら、法蔵菩薩が師・世自在王仏に出会われ、阿弥陀如来と成られた(成仏)ことを考えたいと思います。

蟪蛄(けいこ)春秋を識らず。伊虫あに朱陽の節を知らんや。

(蟪蛄以下は『荘子』逍遥遊篇より。伊虫以下は曇鸞大師の蟪蛄についての解釈。
 蟪蛄とは蝉を指す言葉。伊虫とは「この虫」の意。ここでは蝉のこと。)

訳 蝉は春や秋を知らない。してみれば、どうしてこの虫(蝉)が、今は夏の季節だと知ることができようか、できないであろう。

春夏秋冬を知っているものだけが、今は夏だと言えるのです。
この文のメッセージは、私ども人間の根本のところに、人生全体を見渡せる智慧(知恵ではない)に欠けているということを、曇鸞大師が言おうとされているのだと思います。
蟪蛄(蝉)は、夏だけで生命が終わるから春秋を知りません。更に言うなら、夏だけで終わるとすれば、実は夏も知らないと言わねばならないのです。
ちょうどその様に、私は思い通りになる人生のみが、生きるに値する人生だと思っているから、今この実人生全体が私の人生だとは、とてもわからないものなのです。

「人間はその知恵故に、深い闇を生きている」(高 史明)
聖徳太子が「世間虚仮 唯仏是真」と言われているとおりです。
「蟪蛄春秋を知らず。伊虫あに朱陽を識らんや。」、これは人間(私)の知の有り様を現しているのです。

お庫裡から 2015年3月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
syukoji_09090902.jpg

三月は卒業シーズン。我家の孫、長男の開くんが寺部小学校を卒業します。
孫の誕生以来、どれだけの喜び、楽しみ、嬉しさ、張り合いをもらってきたか、言い尽くせぬほどです。
まだまだ子どもだと思っていた開くんが、最近、側に来ると肩を寄せて背比べをしたがります。
なんと、もう目線が同じになっています。追い抜かされるのは時間の問題。
なのに、「僕、今152センチだよ」と聞くと、この愚かしい私は、たった3センチの優位が確認したくて、下2人の孫に聞きます。
「見て、見て、どちらが高い?」
「うーん、同じくらい」
2人とも、下から見上げているのですから、正確に分かりっこありません。
「うーん、そうかー。あっ、椅子に立てばよくわかるかもしれん」
どこまでも愚かな私は、椅子を運び、孫2人をそこに立たせて背比べ。
「うーん、おばあちゃんの方が、ちょっとだけ高いかな」
それを聞いて「よしよし」と安堵している私。
日頃、私は自分のことを勝ち気だと思っていません。
むしろ逆の評価を自分に与えている節があります。
それなのに、自分評価にお構いなく、孫を相手にしても、私の勝ちたい根性が、ひょいひょいと顔を出してきます。
愚かしい私だ、情けない私だと悲しんでみても、縁にもよおされ起こしてしまってからでないと、そのことに気づけない。
浅田正作さんの今月の掲示板、「凡夫が仏になる、この生涯学習」。
人生の卒業式まで、私はまだまだ仏に成る生涯学習の真っ只中であります。

今月の掲示板 2015年3月

テーマ:今月の掲示板

syukoji_09090903.jpg

問題が一つ解決すれば
あなたにはもう問題はないか
これさえ片づけば
本当に心の底から喜べるか?

私たちのものの見方の特徴
自分の見た見方を正しいと信じて疑わない

仏法は
人の苦しみ悩みを越えさせていく
大事な教え

問題を取り除いて幸せになるという道では
本当の満足はこない

どうなっても
また文句を言う私がいる
誰かを敵にしてしまう私がいる
もっともっとと言う私がいる

いろんな問題がおこってきても
その中で居場所を見つけて生きていく
私になりたい

葬式 浅田正作
凡夫が仏になる
この生涯学習は
人生から
さよならしたとき
卒業式がしてもらえる
世間では
それを
お葬式というけれど

他力の掌中 浅田正作
仏法に掴まえられて
はじめて 分った
それは
人間は三界に
逃げ場なしということ
そのことを
われらの先達は
「われらは絶対他力の掌中にあり」と
喝破せられた

本堂に座って 2015年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

syukoji_09090904.jpg

先月、【僕らがやめるべき7つのこと】という書き込みについて紹介しました。
今月は6.依存をやめる、7.便利をやめる、について書いてみます。

6.依存をやめる
漠然とした項目になってしまいますが、依存からの離脱は、"貧困"という枠組みなしにしても、僕ら現代人に必要な課題だと思っています。
ここにいなければ生きられない。これがなければ生きられない。もちろん様々な事情で、それを余儀なくされている人も多いです。
ただ、マインドブロックがあることも多いです。
ここにいなければ生きられない(気がする)。これがなければ生きられない(気がする)。"気がする" のです。
それは、経験がないから。自信がないだけなのです。または、習慣化・常習化しているだけなのです。
特別な場合を除いて、これがなくても、ここにいなくても、生きていけるようになります。
旅をする中で、実感する日々があります。疑似体験からでもいいです。
まずは、違う視点を持つこと、考え直してみることをしてほしいです。
不安や依存は、不安定な社会やストレス環境の中では、その威力をいかんなく発揮します。
給料が下がる生活なんて絶対不幸になる!!今の職を手放すなんて、自殺行為だ!!もう一度、その本質を見直してみませんか?
手放すことで、得ることが出来ます。
僕自身も、うつ病を経験し、職も彼女も友達も(一時的に)、その時日常にあった全てを奪われました。
ただ、だからこそ他の様々な体験や視点を得ることが出来ました。
怖かったけど、不安だったけど、その日々を乗り越えて今があります。

7.便利をやめる
便利に対するデメリットを考えてみる。便利になってなくなったものは?便利になって出来なくなったものは?便利になって起こった悪い変化は?便利は全てを良くする魔法の術ではないです。
便利(時間・手間)をお金で買っている感覚はありますか?お金で買うだけの価値がある投資ですか?全てにおいて便利を否定するつもりはありません。
ただ、立ち止まり考え直す必要があるのではないでしょうか。
便利になって節約できた、空いた時間で何をしていますか?その時間で、今以上にメディアからたくさんの情報を浴びせられ続けたり、その時間でより多くの仕事をさせられるのが関の山だったりしませんか?再点検の機会を是非設けてほしいです。
幸せとはなにか?生活水準を下げること。幸福水準を下げること。
これは、「=不幸になる」ということでは決してないと思う。他人と比較してどうこう…幸福は自分の内側にのみあるものなので、外と比較したり、外に求めたりすること自体が本来おかしいことだと思います。
小さな幸せをたくさん感じられる考え方や思想、感度を上げていく暮らしを目指せば、人はもっと幸せになれます。
幸福水準を下げることは幸福感度を上げること。物欲主義・拝金主義の中で、この感覚・感度を見つめ直すことは難しいかもしれませんが、今一度、固定概念や今の常識を取っ払って考え直してほしい。
今の生活が本当にベストか?収入と支出のバランスは?プライベートと仕事のバランスは?人との関わり方のバランスは?豊かさって?幸せって?「若者を必要としている地方がたくさんあるのに…」旅をする中で、日々そんな体験をする。必要とされるんです。
若いというだけで。それなのに、それなのに、都市の片隅で、"居場所がない"と顔を俯けて、肩を揺らして涙を浮かべている若者が、今日も"死"を考えているんです…。
どうか、この旅を通じて感じたこと、観て聴いた生の情報が、ココロに届いてほしいです。
(「日本にいながら、月3万円で暮らす方法。【やめるべき7つのこと】
佐藤翔平さんのブログより引用させていただきました。)

今の状況の真っ只中にいると「視点を変える」のは難しいですが、こうした文章をきっかけに「考え直してみる」ことで見えてくるものがあると思います。

今日も快晴!?2015年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
syukoji_09090905.jpg

2月のとある土曜日に、私と主人の共通の友人の結婚披露パーティーが行われました。
この年になると、結婚式に出席する機会など滅多にないので、(これは是が非でも二人で出席しなければいけない!)と、周到に準備を進めました。
夜ご飯のカレーを仕込み、ご飯を炊き、子どもたちには「今日はビデオを見ても良し」と解禁にし、父&母に「あとはよろしく~」とお願いして夕方パーティー会場に向かいました。
友人の多い彼女たちなので、会場は入りきれないほどの人たちであふれかえり、仮装あり、歌あり、クイズあり、踊りありと大盛り上がりでした。
会場に集まった人たちの「おめでとう!」の気持ちが満ちあふれた素敵なパーティーでした。
そして10時近くになって帰宅し、奇跡的に自分たちで寝ていた子どもたちを見て驚きました。
普段は、必ず娘が「お母さ~ん、寝かし付けして~。一人じゃ怖くて寝られな~い」と甘えてくるので、娘の隣で絵本を読みつつ30分。
娘が寝たかと思えば、隣の布団から「在ちゃん寝た?じゃあ僕のところに来て」とにこにこしながら待っている次男の声が聞こえ、仕方ないのでそちらに移動してさらに30分・・・という感じになります。
あとから聞けば、普段は「子どもは早く寝なさい」と9時に電気を消されてしまうのが、その日はうるさい鬼母がいなかったので、子どもたちは思う存分夜更かしを堪能し、私たちの帰宅する車の音が聞こえてから(やばい!帰ってきた!)と急いで電気を消して寝たふりをしたら、うっかりそのまま寝てしまった・・・ということだったようです。
ちゃんとお留守番出来て、子どもたちも大きくなったなぁと思っていましたが、翌日さらに、父からこんな話を聞きました。
「いやぁ!昨日の開くんには感動したぞ!実はな、夜自分たちが食事を済ませて寝る段になって、開くんが『ねえ、今日お父さんとお母さんのご飯はどうするの?』と聞いてきたんだ。
『あちらは結婚式でごちそうを食べているから大丈夫だよ』、と言ったら安心したみたいだが、さすがだなぁ。大したもんだ。」と父は感心しきりでした。
私は親として、常に子どものことを最優先にして、(子どものために、子どものために)と、こちらから一方的に子どもに愛情を注いで与えることばかりをしていたつもりでしたが、実は、私たち親の方が、子どもから思われ、気遣われ、心配をしてもらっていたことに改めて気づきました。
「どうして命を粗末にしてはいけないのか」という子どもからの質問に、大人が応えられない・・・という文章を以前にどこかで読んだことがありますが、「いのち」は、自分でも気づかないうちに気づかないところで心配されたり、気遣われたり、愛されたりしているものなのだと思います。
「自分」を主体にしていては見えない多くのものたちに囲まれ、育まれ、愛されて私たちは今ここに存在しているのだと、何かのきっかけで気づくことが出来たら、その大切な命を粗末に扱う事は出来ないと思います。
春から中学生になる長男ですが、私の子にはもったいないほど優しく、気配りの出来る子に育ってくれています。そっと背中を押し、新生活に送り出してやりたいと思います。

アーカイブ

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

ホームページ

このブログの読者

読者になる
読者数:2人