清風 2015年8月

テーマ:清風 【住職】

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日本国民は、(略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、(略)この憲法を確定する。(日本国憲法前文より)

日本の国会において集団的自衛権に関する法案の審議が始まる以前―4月30日に安倍首相は、アメリカ議会での演説で(アメリカの議事堂で演説した日本の首相は、祖父岸信介氏を含め4名ほどだという)、よほど嬉しかったのだろう、集団的自衛権を巡る安保関連法案の夏までの成立を約束し、これによって「日米同盟はより一層堅固になるなる」と宣言した。
安倍さんはどこの国の国会で首相に選ばれたのであろうか。
これに対して我が国の国会は、立法府を侮辱するこの発言を問題視しなかった。
本来ならば、内閣不信任の動議が出され、場合によっては解散・総選挙という内容の発言だったのに、である。
国会では全然問題にもならず、行政追認の大政翼賛会となってしまった。
今や日本は、このままなら三権分立で運営される民主主義国家から行政独立への道を粛々と歩み始めているといえよう。
憲法学者3名がそろって安倍内閣の(憲法第9条は「集団的自衛権を否定していない」という)閣議決定を「違憲である」と暴走にブレーキをかけた。
ところが与党・自民党、公明党はこうした「違憲である」という憲法学者の指摘にも沈黙したままである。
憲法は国会議員の存在根拠であるといえよう。
それに反する行為を内閣は反省もせず、それどころか「違憲ではない」という憲法学者もたくさんおられると強弁し、それもわずか10人も満たないとわかると、「憲法の責任者は内閣、いや首相である」と言い出す始末である。
果たして、我が国・日本は立憲国家なのか、三権分立の民主主義国家なのだろうか。
今回の問題は、第9条の解釈を巡って顕わになった我が国の未来構想、つまり進路を巡っての議論が十分にされないまま先送りされてきた、長年のツケが吹き出ているといえる。
今こそ、われら国民は、憲法ことに第9条から問われているのである。国を守るのはハード(軍隊・軍備)だけではなく、実はソフト―我が国の平和外交の中身、すなわち国の立ち位置―が非常に大切であることを、明瞭にしていくべき時ではないだろうか。

「和讃」に聞く 2015年8月

テーマ:[和讃」に聞く



弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり
盲…道理がわからないこと  冥…闇黒の世界、希望が持てないこと

「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず。伊虫あに朱陽の節を知らんや。」について、今月も学んでいきたいと思う。

(蟪蛄 … 蝉を指す。伊虫 … 「この虫」の意。ここでは蝉のこと。)
<意味> 蝉は夏に地中からこの世に出て夏の間に死んでしまう。
     だから春や秋を知らないばかりか、実は夏も知らないのだ。
     蝉は、春秋も夏も知りはしない。

ところで、この句はどういうことを言おうとしているのだろうか。
わかりやすい例が、この7月の出来事にあった様に思う。
それは、安倍首相の対応である。
新国立競技場の計画見直しにあたって、首相は「主役は国民1人ひとり、アスリートの皆さんです」と、計画見直しの理由を挙げていた。
ところが安保法制の国会審議では「国民の理解を得られない」と言いながら、「決めるときには決めねばならない」と、委員会審議を強行採決で打ち切り、本会議でも採決を行った。
この時首相は一言も「国民が主役です」とは言わないままだった。
しかし考えてみれば、我々もこういう「ダブルスタンダード」で日常的に自分の姿勢を使い分けている。
「意見が一致したのではない、利害が一致したのだ」と言われるように。
党派は考え方の違いから出来ると言われるのだが、それは表面上のことであって、本当は利害関係によるのであろう。
だから、多数は決して真理を表しているのではなく、そういう見方をする人が多いということに過ぎない。
異なった意見を聞いて、そのこと自体(例えば日本の安全保障)についての理解を、それぞれが深めていくことが期待されていると言えよう。
そこに、人間が言葉を持った大切な意味があると言える。
私たち1人ひとりが人生における出来事を通じて、その出来事には多様な見方があると知ることによって、(他ならぬ自分の人生を深くも浅くも生きうる)きっかけに転じていけるというわけである。

お庫裡から 2015年8月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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人生は初事の連続。
そのことは、何べんも聞かされ、また、自分でもその通りだなぁと時々はうなずくこともありましたが、この度、本当に初事だと、大きくうなずくことに遭遇しました。
夏休みが始まり、毎年恒例の孫達との廊下ふきが始まりました。
その朝も、バケツに掛けた雑巾をバケツの中に放り込み、水を入れて、廊下まで運んで、雑巾を絞り始めたとき(孫と話しながらやっていたので、バケツの中は見ていなかった)、「痛っ!」びっくりして手を払うと、10cm位の百足が飛んで逃げていくではありませんか。
雑巾の中に百足が隠れていたのです。
夏休みに入ったのに、台風の影響か、梅雨に戻ったような空模様。
家の中も湿気でいっぱい。
百足にしてみれば、雑巾の濡れ具合に、シメシメ、いい寝床が見つかったと喜んでいたのに、水が入ってくるは、ふとんはかき回されるわで、何するんじゃと腹を立てての一撃だったのでしょう。
左手首に2ヶ所、はっきり刺されたあとも残っています。
子どもの頃、お勝手場には百足に刺されたときにつけるためにと、大きな百足の入った油の瓶がぶら下がっていました。
今は、百足に刺されたのにどうするという知恵も無いまま、虫刺されの薬を申し訳に塗って、熱を持って広がる腫れを、百足って痛いもんだなぁとながめているだけの能無しの私。
百足の出入りする自然いっぱいの家に住まわせていただいていることを喜び、災難が私であったことを喜び、雑巾も点検してから使うという学習も出来。
初事の人生、この先も何に出会っていくのでしょう。

今月の掲示板 2015年8月

テーマ:今月の掲示板

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  現代に生きる者は、
  効率よくものを利用することしか頭にない
  利用ということが
  私たちの現在の考え方の根っこになっている。

  
  受用というのは
  決して受け身ということではない
  本当に受け取ったとき
  私が受け取ったものが
  私を通して用(はたら)いているのです。


  仏教では
  利用することではない
  受用することだ
  この身に受けているものを
  ほんとうに活用させていただく


  生活とは
  身に受けている生を
  活かすということです。


  念仏者というのは
  念仏申せという呼びかけを聞き取り
  それを我が身に受け取る
  その時、念仏が私の心を満たし
  私を通して用(はたら)いてくる
  その歩みです


  私たちは
  この身にいろんな支えをいただいて生きている
  受け難いいのちをこの身に受け
  力をいただいて生きていく
  (そういう意味を受用という言葉で示されている)


  作曲というのは
  何もないところから頭を絞り出して作るのではない
  すでにこの世の中に満ち満ちている音を
  聞き取ることなのだ
               (武満 徹)


  人の世に いのちの温もり あれ
  人間に いのちの輝き あれ


  (今月のことばは『念仏が開く世界』宮城顗 著よりいただきました。)

本堂に座って 2015年8月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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7月24日の夕刻、豊田市駅周辺で行われた「ストップ戦争法案in豊田」に参加してきました。
この場で主張されていたのは「日本を戦争できる国にしたくない」「誰も殺されたくない・誰にも殺させたくない」というものでした。
一方、集団的自衛権・安保法制に賛成の人からは「これは戦争をする為のものではなく国を守るためのものだ」「日本人だけが血を流さなくていいのか」「中国や北朝鮮の脅威にどう対抗するのか」といった声が聞こえている様に感じます。
自衛隊を派遣することばかりが国を守ることではないと思います。血を流さない平和貢献もたくさんあるでしょう。
中国や北朝鮮は本当に日本を脅かす様な存在なのでしょうか?
人それぞれに思いや主張があり、それらの様々な情報・意見があふれるほどに流れていますが、ここ最近で気になったものをいくつか紹介します。

<ぼくは、戦争は大きらい>
嫌な相手ともなんとかして一緒に生きていくことを考えなければならないのだと思います。
ぼくが言いたいのは、戦争にならないように、日頃からがんばって、みんなが戦争なんてしなくてすむ世の中にしよう、ということです。
戦争をしなくていいんだから、軍隊なんていらなくなります。     (やなせたかし)

<日本は愛せない国になっていく>
私たちは、平成の時代に生まれた。生まれた時、すでにバブルははじけていた。
小学校の時、突然、「ゆとり世代」にさせられ、イラク戦争が起きた。中学生の時、リーマンショックがやってきた。
高校生の時、東日本大震災に遭った。大学生の時、2度目の安倍内閣ができた。
そして、大学院生の今、自分の国が70年前の教訓と民主主義に別れを告げようとしている。
私たちは「捨て駒」としてこの世に生まれたのか。
少子高齢化の今、私たちは増え続ける高齢者と傾き続ける経済を「ゆとり世代は駄目だ」と言われながら支えなければならない。
若者たちの生活は保障されていないのに、たくさん子どもを産み育てろ、という。
権力者は、庶民の生活も、戦場の実情も知らないのではないか。
そのような人たちに支配された国を、なぜ私たちは愛さなければならないのか。
そもそも何から日本を守るのか。日本は何に狙われているのか。
狙われているのなら、権力者は武力ではなく外交で国民を守るべきであろう。
愛することもはばかられるこの国を守るために、命を差し出せというのだろうか。
(埼玉県 22歳 大学院生)

<安保法案の阻止が私の民主主義>
私は安全保障関連法案の成立を止めるため、国会前の抗議行動に参加する。デモにも行く。友達にも呼びかける。
こうやって投書も書く。できることはすべてやる。「デモに行っても無駄」と多くの人は言うだろう。
でも、私は法案成立を止められるからデモに行くのではない。止めなければならないからデモに行く。
無駄かどうかは結果論だ。私は間もなく選挙権を手にする。
この国の主権者の1人として、また「不断の努力」によって自由と権利を保持していく誇り高き責務を負った立憲主義国家の一員として、この法案に反対し、この法案を止める。
声を挙げるのは簡単だ。むしろ声を挙げないことの方が私にとって難しい。
なぜなら、私はこの国の自由と民主主義の当事者だからだ。
戦争が起きてこの国が自由を失ったとき、やはり私はその当事者だからだ。何度でも言う。
私は当事者の責任において、この法案を止める。それが私の民主主義だ。
この投書を読んだあなたが、もしも声を上げてくれたならば、それは「私たちの」民主主義になる。
(東京都 19歳 アルバイト)

このところ、若い世代の方々が声を上げる姿を目にするようになりました。
きちんと自分の考えを持つこと(自分のため、子どものため…と考えると見えてくるはずです)から、本当の意味での民主主義や平和が見えてくるのだと思います。

今日も快晴!?2015年8月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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先月、岡崎教務所に安冨歩先生(東京大学東洋文化研究所教授)の講演会を聞きに行きました。
「私の『役割』ってなんだろう?~日々、生きづらさを感じていませんか?~」というタイトルで、非常に面白いお話でした。
忘れないうちに、講演中のメモを書きとどめておきたいと思います。
○「日本人は、歯を食いしばって頑張り続けてしまう。
先の戦争も、ポツダム宣言が出されたとき、沖縄戦、東京大空襲、日中戦争、満州事変等々、『ここで止めておけば』というタイミングがあったのに、その度に歯を食いしばって頑張ってしまった結果、最悪の結末になってしまった。
○ヨーロッパの思想は、「選択」が根幹にある。法律や経済も全て「契約」と「選択」という考え方に基づいている。現代社会で直面する苦悩は、選択した結果がどのような結果になるか分からないということである。
○清沢満之(浄土真宗の有名な先生。哲学者)は、「私たちは、そうした選択について責任は取れない。ある行為がどういう結果を生み出すか分からない(例:タクシーを止めようと手を挙げたらタクシーが停まり、そこに自転車がぶつかって乗っていた人が亡くなった・・・等)。そうであれば、選択したことについて全責任を取るか、もしくは全責任を阿弥陀如来に丸投げするしか無い」、「例えば地震などが起きた場合、家から逃げれば良いのか、逃げない方が良いのか分からない、そういう場合は、逃げたければ逃げれば良い。逃げたくなければ逃げなくても良い。最適なものを選べ。選べないときは、そこで迷っておれば良い。全て阿弥陀仏の導き=方便なのである。人間1人1人に宇宙が一つ一つ与えられている」。
○日本が先の戦争で反省していない、ということについて。戦争を引き起こしたことについては、自分たちは生まれてはいないが、「立場のために命を投げ出す」という行動様式(=歯を食いしばって頑張る)を引き継いでしまっているということについては反省しないといけない。清沢満之の「無責任主義」とは、そのような「歯を食いしばって限界まで頑張る」という行動様式を乗り越える道である。
○高度経済成長の時代は、「立場」や「役割」を守っていれば良かった。そのことが高度経済成長をもたらした。しかし、80年代になると一部のエリートと低賃金労働者のみが必要な2極化の時代になる。90年代以降は、立場を守っていても儲からない。賃金は上がらない。2000年代になると、もはや社会が機能していない。「立場主義」から離れないといけない。現代は、新しいイデオロギーが必要。それは、方便、仏性と出逢うこと。人間は、1人1人の中に仏さまがいる。その種を開いてゆくこと。
○国家の行く末は止められないが、私たち1人1人の生き方は変えられる。1人1人が立ち止まることは出来る。立ち止まることによって、歯車が停まる。すると、システムが作動しなくなる。1%の歯車が動かなくなると、システムは変わる。反対運動をしても変わらないが、人間が気づいて立ち止まればシステムは変わる。
集団的自衛権、戦争法案、原発etc・・・様々な課題にヒントをもらえたようなお話でした。

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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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