清風 2015年10月

テーマ:清風 【住職】

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人間に生まるる事をよろこぶべし(「横川法語」源信僧都(942~1017))

新聞に「長生きはめでたいことなのか」という男性(83歳)の投書があり、それに対する新聞社からの「どう思いますか?」という問いかけを受けて、4通の投書が掲載されていました(朝日新聞2015年9月16日朝刊)。人間の「いのちは尊い」と言うけれども、現実に長寿社会となってみると「案外そうでもないよ」という率直な感想を多くの高齢者が感じておられるからでしょう。しかし、「長生きはめでたいことなのか」と言われて、私は源信僧都のこの言葉にあらためて真向かいにさせられました。

別の男性(85歳)の、これからの生き様を聞いてみましょう。
<記者> この先、日本は何を目指すべきでしょう。
<男性> 目指すも何も、単純に「不可能」でしょう。
こんなに自給自足ができない国、借金が1千兆円もある国が「大国」になれるわけがない。
<記者> 憲法9条を守ろうという運動を手掛けていますね。
<男性> はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と2人で、憲法を100年守ろうと言い合っています。
100年もてば、それが国の意思になるし、海外の人々の戦争観にも影響を与える。
今約70年ですから、あと30年ですね。 
(半藤一利 1930年生まれ。『文藝春秋』編集長を務める。)
(朝日新聞2015年9月19日より)

さて、戦争は殺し殺されることです。そういう事態に国民を引き込もうと、今回の安保法制の制定がされたということでしょう。
「長生きはめでたいことなのか」という投書からは、いのちを「敵・味方」に分け、「敵・味方ともに救われる道」への、我が国憲法の持つ一里塚としての役割を無としてしまうことへの(国の)住民の悲しみが聞こえてきます。
「長生きはめでたいことなのだ」と言える私は、(人生が、そして人のいのちが本当に尊いと言えるには)いのちの有り様の事実に目を向けることから始めなければならないのではないでしょうか。
私にまで伝えられたいのちは、私に何をねがっているのか、と。

「和讃」に聞く 2015年10月

テーマ:[和讃」に聞く



弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり
讃阿弥陀仏偈和讃 親鸞作
盲…道理がわからないこと  冥…闇黒の世界、希望が持てないこと

註)七高僧の三人目、曇鸞大師(476~542、中国の僧)作の「讃阿弥陀仏偈」による和讃。浄土和讃とも言う。
48首からなる。この和讃はその最初の一首目。
<意訳>
弥陀が成仏されてから、すでに十劫という長い長い時を経て現在したもう。
清浄な仏身の光明は遍く智慧のない愚かな者(この私)を照らされる。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)を参考にした。)

釈尊がお覚りを開かれた―とこう言うわけですが、さて、ではそのお覚りの内容はというと、これが案外、説明を聞いてもはっきりわからない。
それは、「宗教とは何か」という問いを立てた途端に、原理的に、そこに困難さがあるからであると言われます。
もしそういうこと、つまり原理的に難しいとに関心のある方は、そのものずばりのテーマの『宗教とは何か』(西谷啓治著 創文社刊)という本があるので、それを見てくださればと思います。
現代でも「いのちを大切に」とか「いのちは尊い」と言いますが、ではいのちとは何か、そしてそれが何故尊いのか、「長生きはめでたいことなのか」と、あらためて少しく真面目に問われると、答えに窮するのではないでしょうか。
日頃、分かっているつもりで何げなく使っている言葉ですが、当たり前として通り過ぎ、見過ごしていることが案外多いのです。
そのことを考えていただく参考に、釈尊の亡くなられる時の言葉を紹介します。
それは「自灯明・法灯明」という言葉で、自らを灯明とし他を灯明とせず、法を灯明として他を灯明とするな、という意味であると教えられています。
釈尊は、ここで法(ダルマ)に目覚め、その法(ダルマ)によって自身の「迷い」の正体を知ることができたと言われています。
この上の和讃で「世の盲冥をてらすなり」と言われている「盲冥」こそが、法(教え)が見出されたという事実と(私の迷いの正体ということとは)密接な関わりがあることであったのです

お庫裡から 2015年10月

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「老いて尚、成長するものはあるか。ある。精神の成熟だ」と先月号に書きました。
書いたばっかりに、「それは何だ」と問われ続けの一ヶ月でした。自縄自縛です。
日常生活では、「キレてしまったあの一言、言って後悔、言わねば不愉快、煩悩尽きず」「いくつになっても煩悩だけは盛んなのです」のことばにうなずくばかりの日々。
他人様の姿には「大人気ない」「大らかな心で」等々、大評論家顔負けの論評が下せるのです。
が、煩悩とは、この私に関わる物事によって、私の身に起こる心の作用なので、大人気ない振る舞いはやめておこう、腹は立てまい、欲は起こすまい、と心がけても、誓っても、間に合わない私です。
人生は初事の連続、出遇う縁によって、自分の中から何が飛び出すかわからない、想定外のことばかりです。
想定外の人生に、常に私は私心で向かい、瞬時に評価をして、言動行為を行うのですから、本当にどれだけ心掛けても間に合わない。
私、尚子において、生涯、精神の成熟など自分の手で行えない。
その上未熟のままに、終わっていくのだとはっきりわかりました。
しかし、起こした煩悩が(わが身から出たものであるのに)起こし主のこの私に「本当にそうか」と問い返してくる。
(問い主を擬人化すれば阿弥陀さん)そこが真宗のアミダさんの一番いやらしい所であるし、真骨頂でもある。
問いかけを中途半端で終わらせない。
「本当にそうか」、さらに「そうか」と。
そしてとうとう根負けして、「私の都合心に立っておりました」と頭が下がった時、私の感覚では、私の中におられるアミダさんが、初めてニッコリ微笑んで、「よーわかった」「よーわかった」と拍手してくださる。
アミダさんの喜びが私の喜びとなり、煩悩を起こす縁をそのまま頂戴させていただく。
(1つ解決しただけで、次から次へ、ですが)
「煩悩が起こることはだめなことじゃなくて、それだからこそ念仏者として生きていける」未熟のまま終わっていける、その安心を「念仏者として生きていける」という言葉が、与えてくれます。

今月の掲示板 2015年10月

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  言葉に迷う人間を目覚めさせるのは
  言葉以外にはない

  何か特別のことが
  私のやりたいことだと考えている

  私が欲望してきた
  願ってきた
  その願いに先だって
  いのちそのものから
  願われていた わたし

  自力は、努力したことを誇る生き方
  他力は、努力できることをよろこぶ生き方

  どうにかならないと
  しあわせになれないものは
  どうかなっても
  その幸せは 長く続かない

  当たり前だ
  これが人間の 根源的な罪

  仏教は、
  私達が当たり前としておったものを
  改めて問う
  だから、難しいのです

  キレてしまったあの一言
  言って後悔
  言わねば不愉快
  煩悩尽きず

  自分自身が、自分を縁として、自分になっていく

  積極的平和は平和を深めるものです
  軍事同盟を必要とせず
  専守防衛を旨とします

  積極的平和を実現するためには
  未解決問題を解決して
  紛争の種をなくしていく必要があります

  領有権を主張しあっている土地は共同管理とする
  尖閣諸島も竹島も北方領土もです
  それぞれに言い分はあるのですから
  そうしないと解決できません
  答えは、実にシンプルなのです
  (ノルウェーの平和学者 ヨハン・ガルトゥング)

本堂に座って 2015年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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9月17日~18日にかけての特別委員会・参議院本会議での採決で、前々から物議を醸していた「安保関連法」が成立しました。
法律の内容について審議の段階から問題点が多く指摘され、また委員会採決では手続きに問題があったのではないか、また成立したことで今後どういったことが起こってしまうのか…などなど、様々な意見が聞こえてきます。
法案自体が憲法違反という意見が多数を占め、法案の質疑においても答弁が二転三転する中で強引に成立させようとする政府の姿勢に対して、各地で反対の集会・デモが行われ、成立後には「まずは立憲主義を取り戻す」ことを目的とした声が挙がるなど、まだまだ様々な動きがある様です。
この法律に疑問を持っている1人として、自分に何ができるのか、何をしたらいいのか…と何となく考えていたところ、あるお話に出遇いました。

<ハチドリのひとしずく>
森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名の ハチドリだけは
いったりきたり くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」といって笑います
クリキンディは こう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」
(『ハチドリのひとしずく』南米のアンデス地方に伝わるお話)

<竹やぶの恩>
ヒマラヤの山のふもとのある竹やぶに、多くの鳥や獣と一緒に一羽のオウムが住んでいました。
あるとき、にわかに大風が起こり、竹と竹とが擦れ合って火が起こりました。
火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫びました。
慈悲と献身の心は天界の梵天を感動させました。
梵天は空から下って来てオウムに語りました。
「お前の心は健気であるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消すことができよう。」
オウムは答えて言いました。「恩を思う心と慈悲の心からしていることが、できないはずはない。私はどうしてもやる。
次の生に及んでもやりとおす。」と。
梵天はオウムの偉大な志にうたれ、力を合わせてこの竹やぶの火事を消し止めました。                    (「竹やぶの恩」仏教聖典より)

これらの物語には、現代の世界が抱えもつ深刻な問題へのヒントがある。
それは問題に取り組む以前にぶつかる壁をのりこえる知恵である。その壁とは「あきらめ・無力感・無関心」のことだ。
(『2015年版 教化冊子 真宗の生活』「10 ひとしずくの心」より抜粋して
(「竹やぶの恩」は別途引用して)掲載しました。)

問題が大きいほど「どうせやっても無駄…」と思ってしまいがちですが、だから何もしないのではなく、まずは「私にできることをする」、他人事ではなく自分のため・子どもたちのため…と思えば、壁を乗り越えられるんじゃないかと思います。

今日も快晴!?2015年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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長男の中学校のテスト期間中のことです。
たまたま同級生のママ友達と話していたら、「うちの子は今反抗期で、勉強も全然しなくて成績もひどいの。こちらが何か言おうものなら、『うるせえ!』って蹴ってくるんだよ。兄弟ゲンカもひどいし、もうスクールカウンセリングの予約もしようかと思っているくらい!」と、驚きの話が飛び出しました。
家族ぐるみで親しくしているそのおうちの子どもさんは、面倒見が良く、明るく元気な頑張り屋さんで、私は大好きです。
あんなに良い子が、まさかそんな状況だなんて…と信じられない気持ちでした。
ママもイライラが溜っているようで、「あの子は元々ああいうところがあるんだわ!もうどこまでも落ちたら良いんだわ!」と投げやりな言葉も飛び出します。
(反抗期だから仕方ないとはいえ、このままあの子が荒れて落ちていってしまったら悲しいなぁ。何とか力になれないかなぁ…)と思い、「ねぇ。良かったらうちに来て、開(長男)と一緒に勉強させてみない?」と誘ってみました。
最初は「私が言ってもうちの子は聞かないから…」と渋っていましたが、家に帰って子どもさんに話したところ、「開くんのとこなら行ってもいい」とすんなりOKが出たようで、早速我が家で寺子屋をすることになりました。
翌日の夕方、我が家にやってきたその子は、やっぱり今までと変わらず頑張り屋さんでした。
「いらっしゃい」と迎えて、「お疲れ様」とおうちに帰す以外、何もせずにほかっておいただけでしたが、本人の(やらなきゃ!)という気持ちの強さでしょうか?それからテストまでの一週間、毎日夕方の2時間程うちにやって来ては、ほとんど口も聴かず黙々と勉強していました。
自分のことを思い出してみても、やはり反抗期は親の言うことなど全く聞く気になれませんでした。
(このままじゃまずい。なんとかしなくちゃ)と自覚していても、親に言われると反発したくなるし、焦って空回りするばかりでした。
反抗期は誰でもあるし、ないとおかしいと思います。
もちろん勉強だけが全てではないし、偏差値や受験のためだけの勉強や、親の見栄や体裁や世間体を気にして子どもに勉強をさせるのはどこかゆがんでいると思います。
けれど、(知りたい、学びたい)というのは、子どもの自然な欲求だと思うのです。
子どもに「勉強を頑張りたい」という意欲があるならば、応援してあげたいと思います。
そして、親が子どもを持て余し、子どもも有り余るエネルギーをどこにぶつけて良いか分からずに互いにイライラすることは、誰にでもどこにでもあると思います。
そんな時は、家庭で子どもを抱え込んでしまわず、思い切って手放してよそに任せてしまった方が良いこともあるのではないかと思います。
「開くんのところなら…」と信頼して来てもらえたことも嬉しかったし、我が家が悩みを抱えた時は、きっとの向こうのおうちが力を貸してくれると思います。
「このおうちなら、安心してうちの子どもを託せる」。
そういう信頼関係が、学校区や地域、学年や性別を問わずあちこちにあれば、いじめも虐待も犯罪も減るのではないかなと思えました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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