清風 2015年11月

テーマ:清風 【住職】

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われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(憲法前文より)
国の交戦権は、これを認めない。(憲法第9条2項)
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて、この崇高な理想と目的を達成することを誓う。(憲法前文より)
日本国憲法

 


人類は第1次世界大戦の経験を経て、1928年パリにおいて戦争放棄に関する「不戦条約」を結んだ。
いろいろ不備(第2次世界大戦が起こり、その後も戦争は無くなっていない)はあったが、この条約の締結は、1920年代のアメリカにおける戦争非合法化に向けての市民運動が大きく影響を与えたという。
このように、戦争を「人類に対する犯罪」と捉え、国家を超える国際司法裁判所などを設置し戦争を非合法化する方向を訴えた、この戦争非合法化運動の歴史的意義は、日本国憲法第9条の思想的源流として考えられるとも言われている。
日本に課せられているのは、こうした方向を実現するための方途を考えていくことであろう。
例えば、ヨーロッパにおける積極的平和主義とは、2015年になお、戦争をできる国にするという方向で主張されてはいない。
積極的平和主義とは、まさしく、戦争を「人類に対する犯罪」と捉え、「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」環境を作り出していく少しの想像力と方策をこそ、我らに課しているのである。
日本の憲法、ことに第9条および前文の願いこそは、未来を担う子どもたちの、そして歴史からの要請と言えるのではなかろうか。
マララさんの2014年ノーベル平和賞受賞演説の一部を紹介する。
「何故“強い”といわれている国々は、戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすことにかけては弱いのでしょうか。」

「和讃」に聞く 2015年11月

テーマ:[和讃」に聞く



弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

<意訳>
弥陀が成仏されてから、すでに十劫という長い長い時を経て現在したもう。
清浄な仏身の光明は遍く智慧のない愚かな者(この私)を照らされる。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)を参考にした。)

和讃は詩です。
文学の世界では、韻文(詩・短歌・俳句など)は散文(小説・随筆など)より格が上とされ、解釈などするものではないと言われているそうです。
そうは言っても、仏教の言葉(業界用語?)が多く、しかも親鸞聖人の独特の用語例もあり…ということで、少しずつ解説めいたことをしていきますが、お許しを願いたいことであります。
さて、その宗教詩ですが、親鸞聖人のこの和讃には「救われる」とか「助かる」という言葉は全くと言っていいほど使われていないことに気付かれると思います。
「世の盲冥をてらすなり」とか「帰命せよ」、「法身の光輪きわもなく」とかという言葉がほとんどです。
これは先回も書きましたが、釈尊の最後の遺経が「自灯明・法灯明」、つまり「自己を拠り所とせよ」と言われているように、灯明(闇夜の灯明、つまり拠り所ということですが)が見つかった、自己こそが拠り所であったというのが、仏教の教える根本・基本であるからです。
そして、さらに「帰命せよ」というのは帰依という意味ですが、帰依すべき道理が明確になったという告白であるからです。
我々の場合はどうでしょうか。
「救われる」あるいは「助かる」という言葉は、苦況にあって、自分にとって余分なモノが「除かれる」か、自分にとって必要な物・事が「手に入った」場合に使うのではないでしょうか。
こういう場合、自分というものはどんなものか―ということは、問いになっていないと言わなければなりません。
仏教はブッダの教えです。
ブッダとは目覚めた者・気付いた者という意味です。
釈尊(ブッダ)という方は「救いを求めて歩む者」が、「既に救われてしまっていたのに、それに気付けないでいた者」だと分かった、という凱歌と懺悔を表現してくださった方であります。
「問題は、自明として問うことをしてこなかった、その自己こそが究極の冥(暗さ)の因であった」というのが、釈尊のお覚りであったのです。

お庫裡から 2015年11月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

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3月のことです。
区長さんから「人権委員を受けてもらえないか」と依頼がありました。
聞き慣れぬ名前でしたので「一旦、考えさせてもらう」と返事しました。
一週間程して、再度来られ、「人選を急がねばならない」と大変お困りのご様子。
その直後、市役所から仕事の内容の説明にと、担当の課長さんがやって来ました。
私は毎月お寺でいっぱいいっぱいの用事を作ってしまっているので、お役を受けても穴をあけてしまうのではないか、ということが一番心配なことでした。
課長さんは「1人でする仕事ではないから、そう重大に責任を背負わなくていい」「お寺重視の立場で受けていただいて大丈夫」「無理をしなくていい」等々。
その上で、委員を受ける様強く説得されました。
寺部の住人になって36年、みなさんに助けられてここまでやって来られたのだという思いも強く、区長さんの苦渋のお顔も浮び、少しでも地区のお役に立てればという思いも働いて、とうとう委員を引き受けることにしたのです。
就任は10月1日からということで、引き受けたことも忘れて過ごしておりました。
いよいよ10月1日、召集がかかり法務局へ出掛けました。
何の予備知識も持たず出掛けたので、任命式で法務大臣からの委嘱状を手渡され、びっくり。
引き続きの会議も、話の内容が十分理解できず、渡された書類の山に身が引けるばかり。
私は、川東地区、川東の5つの中学校区から1人ずつ、5人でこの地区の活動をしていくのだそうです。
私は高橋中学校区。美里・益富は旧高橋村の区内、松平と大型合併した下山、合わせて5つ。
(下山の委員さんは、法務局まで車で40分)
人権の話を聞きながら、ああ、高橋も松平も下山も門徒さんの多い地区だなぁ、お寺が本来の仏さまの教えを伝えるという仕事をしておれば、こんなお役所仕事は要らないのになぁ、と考え、いやいやこうして委員にしてもらえ、仏さまの教えを語り合う場を頂戴したのだと思い直し、向こう3年、この委員を勤めさせていただこうと思っているところです。

今月の掲示板 2015年11月

テーマ:今月の掲示板

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  惑い、苦悩した時こそ
  立ち止まらねばならない。(『神様のカルテ』夏川草介著より)

  人間関係が疎かになって
  人間がいなくなった。
  今やロボットが人間に近づいて
  人間がロボット化していく

  誰もが自分自身を引き受けなくてはならない
  自分を引き受けることは
  世界を引き受けること (『夢見る水の王国』寮美千子著より)

  人間は苦悩するもの
  苦悩することを否定するのは自己放棄だ
  苦悩するのは
  あなたが人間である証拠です

  もっともっとで
  どこまでいったら
  あなたは満足できるのですか

  何もかも当たり前にしていく私の在り方
  そんな私を問い続け引き受けていける
  それが念仏の功徳です

  失ってみなければわからない悲しみ
  今の生活が奇跡のような出来事だと知らない悲しみ
  人間には、この2つの悲しみがあります

  本当の自分は
  人間からは見ることができない
  如来さんのはたらきというか
  いのちのはたらきによって
  初めて、本当の自分を見ることができる(金光寿郎)

  救いがわからんのに、救われたいと思っている。
  もう救われてしまっているところから出発するのが仏教だ。
  このいわれを聞いていく、これが聴聞するということです。

本堂に座って 2015年11月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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少し前になりますが、三谷宏治さんのお話を聞く機会がありました。
元々は経営コンサルタントをされている方なのですが、企業などでお話をされている中で、人を育てるには、子どもの頃からの親子の関わりが重要だと感じられて、特に子ども・親・教員を対象にした活動に力を入れておられるそうです。
そのお話の内容は、「実は薄々感じているけどできていなかった」「当たり前になりすぎていて意識していなかった」ことに目を向けさせてもらえるものでした。

○ 知っていると思うと考えることをやめてしまう。
考えたとしても、座って悩むだけで動かない。動いて考えよ!

○ 子どもも大人も、決める力・発想力が不足している。
小学校低学年の子は積極的に前に出てくるのに、9歳頃からできなくなってしまう。
これは親・先生・上司によって「決める必要がなくなる(先に決めてくれる)・アドバイスをくれる・相談しろと言われる」から。
また、決められない原因として「決めるのが怖い」「他人と同じがよい」「選ばなかった選択肢を捨てられない」「そもそも決め方を知らない・教わっていない」。

○ 子どもにとって、決める「必要性(親が決めない)」「楽しみ(違うことを褒める・イベント化する)」「練習(お手伝いする・過程を学ぶ)」が大切。

○ お手伝いは、難しいことを指示せずに「任せる」こと。
お手伝いに「アメとムチ」は効かない。親の側が、お手伝いさせることが面倒になっている
(失敗されたくない・自分でやる方が早いので、やらせることが面倒くさい)。
コミュニケーション力・課題解決力とお手伝いとは関連がある。

○ 自己決定感・有能感・重要な他者からの受容感は、「任せる」「褒める」ことから育つ。
上手に褒めるには、まず聴くこと。相手のこだわりを知り、正しく比較することが必要。
相手のニーズに合う褒め方(どこをどう褒められるとうれしいか)を知ること。

○ 非行の原因は、昔は放任、少し前は過保護、今は過干渉。

○ 親子のコミュニケーションでは、「文章で話す」こと。
一語文で話さない様に気をつける(脱ワンワード)。
「察しの悪い親」になる(「お茶」とだけ言われてもあえて動かない。
「お茶を入れてちょうだい」とキチンと伝える。)。子どもだけでなく大人も気をつける。

○ 発想力を身につけるには、人と違うことに慣れる・問いを与える・共に問うこと。
自分で考えさせる、決めさせる、失敗させる。親は我慢し、褒め、子離れを。
(『ヒマと貧乏とお手伝い~発想力と決める力の共育法』講演会より聞き書きのメモを書き出しました。)

ふだん、子どもたちの様子を見ていると「こんな事もできないのか…」「毎日同じことを言ってるのに…」と思うばかりですが、実はその原因はこちらの接し方にあったのか!?と、聞いていくほどに納得するような気恥ずかしいような…。
でも原因をハッキリさせてもらえたことは間違いありません。
一朝一夕で結果の出ることではないですが、まず自分にできることは「きちんと文章で伝える」「(あえて)察し悪く対応する」「やらせた仕事には責任を持たせる(途中で口出ししたり、見ている前で直したりしない)」といったところでしょうか?
そういえば以前に『親が1ミリ変わると子どもは1メートル変わる』という本を読んだことを思い出しました。
まずは親から、ですね…。
(「脱ワンワード」については『親と子の「伝える技術」』、お手伝いについては『お手伝い至上主義でいこう!』という本に詳しく書かれています。)

今日も快晴!?2015年11月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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(同じように育てているのに、どうしてこうも違うんだろう?)。
兄弟姉妹のいる子育て中のどこの家でも聞かれるセリフだと思いますが、我が家もつくづく感じます。
例えば、床にパジャマを脱ぎ散らかしてそのまま学校に行く子どもたち。
こちらが気づいて、「パジャマを洗濯機のかごに入れてから行きなさ~い!」と言った場合の3人のリアクションはこうです。
パターン①長男(中1)。発見されて注意されれば「あ!ごめんなさ~い」と答えて入れに行く。
しかし、最近は自分の個室(中学生になって個室をゲット)で着替えてそのまま登校するので、後から部屋を見に行くと、やっぱり部屋で脱ぎ散らかし。
パターン②次男(小5)。「は~い」と返事をするものの、返事だけしてそのまま学校に行ってしまう。
もちろんパジャマはそのまま。
パターン③長女(小2)。「え~!もうランドセルしょっちゃったし、無理~!」、「もう靴履いちゃった~」、「もう~、なんで~!?時間が無いのに!」等々、絶対文句を言う。
「無理じゃないでしょう!誰のパジャマなの?」と注意すると、ふくれっ面をして、ドスドス足を踏みならし、不機嫌を思い切り態度に表しながら「ふんっ!」と入れに行く。
つまり、結局3人とも言われたことが出来ていません。
しかし、一番腹が立つのはやはり娘です。
とりあえず「は~い」と言っておけばこちらもそれで収まるのに、必ず余計な一言を返して来ます。
(本当に、女の子は男の子の3割増し腹が立つなぁ…)と思います。
そこで思い出したのは、以前に小学校の講座で習った「リフレーミング」です。
「リフレーミング」とは、ある枠組み(フレーム)で捉えられている物事を枠組みを外して、違う枠組みで見ることを指すそうです。
よく挙げられるのが、「コップに半分の水を“もう半分しかない”と捉えるか“まだ半分ある”と捉えるか」の喩えです。
例えば、「優柔不断」という言葉も、別の見方をすれば、「色々な観点を考慮して深く考えられる」と言い換えられます。
「意志が弱い」という評価も、状況に応じて対応でき、「柔軟性が高い」とみることもできます。
ある日の食事の最中に、娘が「お代わり!」とお椀を差し出しましたが、もうお汁が残っていないことがありました。
「ごめん。もう無いわ」と言うと、「え~!なんで~!?食べたかったのにぃ~。もう!」と、またふくれっ面で文句を言うので、「在ちゃん。そういう場合は、『え~!なんで~!?』じゃなくて、『美味しかったからもっと食べたかったな、残念。今度はもっと沢山作ってね』って言って頂戴。
そうしたらお母さんも『文句を言うな!』と怒らずに、機嫌良く『は~い』って言うから」と言ってみました。
腹の立つ娘の「え~!無理~!なんで~!?」も、「意思がはっきりしている」と捉えることにして、それでもやはり気になる言葉は、こちらから「そうじゃなくて、こういう表現をして」と提案し、相互のリフレーミングを図ろうと思います。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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