清風 2015年12月

テーマ:清風 【住職】

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<君たちに、憎しみという贈り物はあげない(アントワーヌ・レリスさん(34歳))>

註)11月13日のパリ同時多発テロで奥さんを亡くし、男の子(1歳半)と共に残されたジャーナリストのレリスさんがテロリストに向けて書いたフェイスブック上のことば。
さらにレリスさんは「君たちの望み通りに怒りで応じることは君たちと同じ無知に属したことになる」と続けている。
またラジオでは「文章は幼い息子を思って書いた。
息子には憎しみを抱かず、世界に目を開いて生きていってほしいから」と語っている。

長生きは、めでたいことなのか。
(男性83歳 朝日新聞8月30日付投稿欄より)


新聞の読者投稿欄に上記のようなテーマの投稿が掲載されたところ、98通の反響が寄せられ、9月16日・23日の2回に分けて投書に対する応答が掲載されました。
その投書の内容は、健康不安・介護を担う家族への配慮・高齢化医療を賄う財政の悪化などを挙げて、自己の尊厳を保って死んでいける尊厳死を認める法的措置をとって欲しい…というものでした。
投書欄のを担当者からは、「老いに対する切実な思いに、胸を突かれました。
世界には飢えや医療不足で長生き出来ない人がたくさんいます。
有数の長寿国日本は、世界に経験したことのない悩みに直面しているのかもしれません。
どうすればいいのか、考える時だと思います。」というコメントが付けられていました。
担当者が記しているように、世界有数の長寿国になったその時に「長寿はめでたいことなのか」と、その長寿の当事者が思わず告白しなければならない、これが私ども人間の現実なのですね。
少し前ですが、我が国で高齢化とともに年金保険の施策が改正され、75歳から「後期高齢者」として扱う制度が制定されました。
その制度改革での「後期高齢者」という名称を巡って、賛否両論がマスコミで賑やかに取り上げられたことがありました。
その時、「論の沸く 後期高齢 めでたけれ 52歳の亡夫は老い得ず」という短歌が紹介されていたことを思い起こします。
75歳になってみればそれは「当たり前」で、そこには何の感動もないというわけです。
仏教でいう私ども人間の犯している罪と言われるのは、この「当たり前」という一句につきているのです。
知恵を持つ人間の悲劇は、その知が愚痴とも書かれるように、どうも病に冒されているということのようです。52歳の夫を亡くした妻からすれば、75歳を迎えられたあなた方は奇跡と映るのに…というわけでしょう。「当たり前」としていくことが罪だとは、思ってもいなかったということ…いったい、人生において本当に「めでたい」こととは、どういう自分に成ることなのでしょうか?

「和讃」に聞く 2015年12月

テーマ:[和讃」に聞く



弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

<意訳>
弥陀が成仏されてから、すでに十劫という長い長い時を経て現在したもう。
清浄な仏身の光明は遍く智慧のない愚かな者(この私)を照らされる。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)を参考にした。)

仏事(法事)は、今私どもが思っていること・感じていることをお互いが出し合って、あらためて生きることの事実を確かめる集いです。
それが法事・仏事が仏式で行われる所以と言われています。
生まれ、育てられ、生きていく、その人生全体が私の人生であると納得していく…世間体という言葉もあるように、世間体を気にするのが私どもの生き様ですが、さらに言えば、私は私の人生の主体者として納得して生きていきたいのでしょう。
つまり、私どもが悩んでいることには、すでに悩んできた先輩がおったという発見というか、そういう出遇いが欲しいということであり、悩むということは、未だ私にそういう出遇いがないというサインかもしれない、という意味を含んでいるのだと。
ソクラテスは「自己自身をあきらかにせよ」と言い、釈尊は「あなたはあなたに成れ、あなたはあなたで在れ」と遺教を残しておられます。
「如何に生きるか」という問いは誰でも持ちます。
しかし「何故生きるのか」という問いがなかなか自覚的問いにならないのは、実は「如何に生きるか」という問いの背景に隠されているからとも言われます。
「目は目を見ることはできない」という諺もあるように。
実は、私どもには自分の顔を見るのに鏡がいるのと同じように、自分というものを見る(知る)のにも「鏡」がいるということ、さらにはその「鏡」を見つけようとしてきた歩みが人類の、そして私の人生の課題でもあるのです。
もし、人間の持つ悩むという能力が「自己でないものを自己としている」というサインなのだとすれば、人生から苦悩を無くそうとする努力は、非 人間化への壮大な試みかもしれないのです。
「自己自身をあきらかにせよ」と言い、「あなたはあなたに成れ、あなたはあなたで在れ」と言っている(あるいは命じている)のはいったい誰かという問いを私どもに開いたのが、仏教だったのです。
「世の盲冥」と言われているのは、私どもは本当の自己に出会っていないのだという、私が思ってもみなかった事実に気づかされた先輩方(釈尊、そして親鸞にまで仏教を伝えてきた求道者と言われる方々)の驚き・目覚めであるとともに、讃歎であり、懺悔の告白であったのです。(続く)

お庫裡から 2015年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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11月~1月は、報恩講の季節です(親鸞聖人のご命日は11月28日、報恩講は聖人のご法事です)。
当寺は11月7・8日の両日勤めさせていただきました。
報恩講のご満座(最後のお勤め)は登高座もあり、『正信偈』は一番重い真(真・行・草とある)で勤まり、続き念仏に導かれ、和讃が三首上がります。
初重・二重・三重と段々声が張り上がって、最後の和讃『如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし』と声を限りに歌い上げ、『回向』で終ります。
今年も本堂に座らせていただき、この儀式のドラマチック性に感心し、750年余の年月、絶えることなく『如来大悲の恩徳は』と歌い継がれてきた、その心を思い、深い感動をおぼえました。
西田幾多郎氏の「実地上、真の善とは、ただ一つあるのみ。即ち、真の自己を知るということに尽きる」のことばのように、聖人が、真の自己に遇い得た喜びを『身を粉にしても報ずべし。
骨を砕きても謝すべし』と和讃にしておられる。
聖人のみ教えに触れた者が、「私は完全燃焼していける道が見つかりました。
どうぞ人と生まれた以上、そんな生き方を見つけてください」という願いが、先を訪い、後を導く集いとして、報恩講という儀式に結実したのだと思います。
真実の自己とは私そのものなので、実体的にこれだとつかめるものではありません。
しかし、真実の自己は、本当でないものを本当と握りしめ、そのことで苦しむ私に、真実でないものを握っているからだと教えます。
自分が贋物だったとうなづくことでしか、真実の自己に触れることができないという、やっかいなものです。
それでもなお、そうやって真実の自己に触れた感動が数多の人々の身体を通って、この私にまで伝えられてきた。
何とすごいことでしょう。
私は、後の世の人に『恩徳讃』を伝える数多の人の1人になりたい。そのために、聴聞して(私のことを聞いて)、私に成っていきたい。

今月の掲示板 2015年12月

テーマ:今月の掲示板

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  後になって過去を変えたり
  起こらなかったことにするわけにはまいりません。
  しかし、過去に目を閉ざす者は
  結局のところ、現在にも盲目となります。
  非 人間的な行為を心に刻もうとしない者は
  また、そうした危険に陥りやすいのです。
  こういう哲学を持った政治家を自国に持たないのは
  われわれの不幸だ。
  (ドイツ元大統領 ヴァイツゼッカー)

  南無阿弥陀仏を真実の自己として発見し
  如来の本願を和がいのちとして
  生き、かつ死する。
  (児玉暁洋)

  人はずっと
  幸せになるための準備をして
  幸せを生きたことがない
  (パスカル)

  人間の不安は科学の発達から来る。
  進んで止まることを知らない科学は
  かって我々に止まることを許してくれたことがない。
  徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車
  それから航空機、それから飛行機と。
  どこまで行っても休ませてくれない、
  どこまで伴れて行かれるか分からない。
  実に、恐ろしい。
  (夏目漱石『行人』より)

  信心を深めるということは
  仏の声をあらゆるものの底に聞き取る
  心の耳の訓練をすることになる

  南無阿弥陀仏の声は
  自分が発するのではない
  あくまでも
  頂いたもの
  さずかりもの

  自ら唱えることによって
  自己の存在の底に
  南無阿弥陀仏の声を聞くのである

  自分が自分の声を聞くのは
  自分の奥にいます
  仏の声を聞くことであります
  (暁烏 敏)

本堂に座って 2015年12月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先月紹介した三谷宏治さんの本のうち、『お手伝い至上主義でいこう!』から、子どもたちに「与えすぎている」モノとその影響について書かれている部分を引用させていただきます。

○ 与えすぎる日本の親たち
過保護というのは、過剰に服従的な保護(なんでも子どもの言うことを聞いてあげることで子どもを守りたい)であり、過干渉とは過剰に支配的な保護(なんでも親の言うことを聞かせることで子どもを守りたい)。
親の過保護・過干渉によって、子どもたちから奪ってしまっている能力や姿勢は膨大です。

○ 「指示」を与えすぎない ― ほしいのは自己判断力、主体性
時間(と気持ち)の余裕をなくした親たちは、子どもに「指示」を出しまくります。
そのとき、子どもたちは放棄してしまうのでしょう。自ら考え、決めることを。
「指示」を与えすぎてはいけません。判断力がなくなります。

○ 「予定」を与えすぎない ― ほしいのは自己管理力
最近の子どもたちには、母親という(最近は一部父親も)マネージャーがついていたりします。
子どもたちは失ってしまいます、自分で自分のことはなんでもやる、すなわち自分自身の管理能力と姿勢を鍛える、貴重な機会を。
子どもに「予定」を与えすぎてはいけません。自己管理力がなくなります。

○ 「モノ」を与えすぎない ― ほしいのは発想力
「子どもたちは発想力の宝庫だ」と言われます。
創造性に満ちていると。現実は「創造する潜在力はあるが、それを鍛える機会を奪われている」、が正しい状況認識でしょう。
(砂場・ジャングルジムといった)自由度の高い遊びの場が、どんどんなくなっているのです。
親や祖父母、親戚たちが買い与えるのは、できあがったおもちゃばかり。
それでは子どもたちの創造性や想像力は高まりません。
できあがった「モノ」を与えすぎてはいけません。子どもたちの発想力がなくなります。

○ 「答え」を与えすぎない ― ほしいのは問題発見力
学校で出される問題は答えが明確なものだけですし、それも1つだけのものがほとんど。
まったくもってばかげたことです。
この世の中に、答えが明確で1つしかない問題などないというのに。
意図するとしないとにかかわらず、この世はあいまいで、正解は複数あります。
それを見抜いて、独自の新しい答えを創り出す力こそが、これからの日本の子どもたちには必要なのです。
「答え」を与えすぎてはいけないのです。
子どもたちの考える力を奪ってコピペ盗作に追い込みます。

○ 「勉強」を与えすぎない ― ほしいのは学習能力
子どもたちに「勉強」を与えることは、強い社会学習(=模倣)にほかなりません。
学習塾に行かせることは(ほぼ)イコール、既存の知識や問題の解き方、さらには勉強の仕方を教え込むことなのです。
そこには、本人たちの試行錯誤や創意工夫の余地はありません。
真に育むべきは新しい知識を生み出す力であり、そのための方法やアプローチを編み出す力なのです。
「勉強」を与えすぎてはいけません。試行錯誤をする力がなくなります。
(『お手伝い至上主義でいこう!』三谷宏治 著より抜粋して引用しました。)

与えすぎ…気をつけていることもありますが、あらためて指摘されてしまうと耳の痛いところです。
「言ってもなかなかやらない→時間がもったいないから親がやる→親がやってくれるからと、子どもはやらなくなる」…これも与えすぎの結果です。
三谷さんは「子どもから見て面倒な親にならなくては、子育ては成り立たない」と言われます。
子どもたちは親の油断を常に狙ってくるそうなので、まずは親が面倒を覚悟するところから始めなければならないのだそうです。

今日も快晴!?2015年12月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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先日、フルタイムで仕事をしている友人と話をする機会がありました。
地元の一流企業に勤める彼女からは、仕事で上司から大変な宿題をもらった話とか、忙しいときは毎日10時過ぎまで残業をする話とか、折りに触れハードな様子は聞いていました。
久しぶりに会うことが出来たので、「最近仕事はどう?」と尋ねたところ、「うん。最近は『出来ません』って言うことにしたんだ。」と明るい顔で答えました。
「今までは、『出来ません』と言うのが嫌で、要求されることに応えようと必死で仕事をしていたけど、やればやるだけ要求されることも増えるし、もうきりが無いから、無理なことは『出来ません』と答えることにしたんだ。
上司に何か聞かれたときも、『そこまで考えていませんでした』と、はっきり言うことにしたの。
そうしたら、怒られるかと思ったけど、「そうか」と、そのまま次のことに話が進むだけで、別に叱られたりしなかった。無理にやろうと頑張らなくて良かった…」と。
有能な彼女のことなので、家庭と仕事と頑張って両立させて、ばりばりこなしていたのだろうと思いますが、とてもスッキリした顔をしていました。
彼女と話しているうちに、20年ほど前に、大手の建設会社に就職した友人とこんな話をしたことを思い出しました。
その日、彼は月曜日に開かれる会議に向けての資料づくりのために休日出勤し、がらんとしたオフィスで一人で仕事をしていたのだそうです。
しかし、やってもやっても仕事は終わらず、このまま24時間眠らずに作業をしても、100%終わらない…と気づいたそうです。
「そこでや。俺はどうしたかというと、後輩に電話したんや。『おう。暇か?晩飯おごるから、ちょっと手伝ってくれへんか?』ってな。
それで後輩に来てもらって必死にやって、ようやく片付けることが出来たんやけど、あのまま一人でやってたら、鬱になっていたかもしれへんな~」。
幸い彼は鬱にはならず、今では独立して建築事務所を立ち上げ、こつこつ自分のペースで仕事をしています。
「依存先が多いほど人は自立している」と、以前安冨先生の講演会で聞きましたが、「出来ません」と言えるママ友達と、「助けて」と言える学生時代の友人と、二人とも本当にすごい。
自立しているなぁと思えました。
冗談で無いほど身近にも、仕事を抱え込んでパンクしてしまう人、心を病んでしまう人、自宅で引きこもっている人がいます。
もちろん、その人達の周りで「出来ません」、「助けて」が言える環境は整っていて欲しいと思いますが、お寺という場所でも、出来ない自分を受け入れることや、職場以外に人間関係を持つお手伝いはしていけるのではないかと思えます。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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